30話
「……ねぇ、どこに行くの?」
「ん? 別にどこも。ゆったり散歩しながらお話ししたいだけ」
マンションの前で鉢合わせた後、俺は赤根と並んで近くの街を意味もなく歩いていた。
二人並んで歩きながらも、交わす会話はほとんどない。
けれど、いつのまにか気まずさはなくなっていた。
俺は学校帰りだったため、リュックサックを背負った制服姿のままだ。しかしそれとは対照的に、赤根は私服である黒いカーディガンを着用していて手持ち無沙汰な状態。おかげで身軽な印象だ。
それはそうと、行くあてもなくお散歩だなんて、赤根は何を考えているんだろう。
いろいろ考えた末、ふと湧いた疑念を遠慮なく言ってみた。
「……俺、殺されないよね?」
マジで思ったわけではないが、からかいの意味を込めて言ってみた。
すると、赤根はこちらに顔を向けて眉を寄せる。
「はあ? どんな心配してんのよ。いったい私をなんだと思ってるの」
赤根は呆れたようなトーンでそう言った。心外だと言わんばかりの、怒りが垣間見える。
それを横目で見て、俺はぷっと吹き出してしまった。
「冗談だよ。そんな怒んないでって」
「冗談にしては失礼極まりないわね」
「ちょっとした小玉ジョークだよ」
「ぷふっ、何それ」
赤根も吹き出し、笑みを浮かべる。
ちょっとずつ雰囲気も落ち着いてきた。なんだか少しだけ、前までの空気が戻ってきたような気がした。
「ふふっ。まあ、冗談を言えるくらいには気が治ってきたってことかしら?」
赤根が俺の肩を肘でグイグイ押し付けながら言う。
「……まあ、そうかも」
図星をつかれたようだった。
たしかに赤根と話している中で、少しずつ気が緩んできたように思う。
赤根と会うのが気まずい思っていた自分がアホらしく感じて、なんだか恥ずかしくなってきた。
「ていうか、さっきは俺のマンションの前で何してたの?」
恥ずかしい気持ちを誤魔化すように、強引に話題を逸らした。すると赤根は、大したことないような顔で、あっけらかんと受け答え。
「小玉君が帰って来るのを待ってたのよ。インターフォン押しても誰も出なかったから、小玉君が戻るのを待ち伏せしようかと思って。あの時間帯なら、ちょうど学校から帰ってくる頃かなぁって思ってさ」
「ふーん……。いや、っていうかなんで俺の住所知ってたの? 教えてないよね?」
俺は赤根の家を知っているが、赤根は俺の家を知らないはずだ。
だって教えてないし、教える理由もなかったから。
疑念をぶつけると、これまた赤根はすっと答えてくれた。
「簡単よ。今日蔵前先生に会いに行ったのよ。忘れ物届けたいから住所教えてくれって言ったら、教えてくれたわ」
なんで教えてもらえるんだよ! あの担任……っていうか、うちの学校のプライバシーセキュリティどうなってんだ。
「先生から聞いたわよ? ここ一か月、小玉君学校休んでたんでしょ?」
ギクリとした。
……けれど、いまさら誤魔化す理由もないので、正直に頷く。
「……うん。まあ」
すると赤根は顔を暗くさせ、腫れ物に触るように訊ねる。
「もしかして……、やっぱりまだ気にしてるの? 漫画家を諦めたこと」
それを言われて、俺は言葉に詰まった。けれど、これも素直に頷く。
「……うん。少しね」
「……そっか」
凪いだような、静かな空気が流れた。
その沈黙を破ろうとして、俺は赤根に訊ねる。
「というか、どうして俺に会いに来たの?」
赤根はあっけらかんと応答する。
「別に? ただ小玉君に会いたかっただけだよ」
「そう……なんだ」
ただ会いたかっただけ……か。
赤根の穏やかな微笑みと、割れやすい卵をそっと手で包むような優しい声でわかる。赤根は嘘を言っていない。本心でそう言っているのだと。
だからこそわからないんだ。どうしてそんなことを思ってくれるのか。
俺は君に今まで、ひどいことをたくさんしてきたのに。
最後の時なんて、赤根が俺を必死に励まして、編集者の人の誘いを断るとまで言ってくれたのに。一緒に漫画家を目指し続けようと言ってくれたのに。それなのに俺は、自分の不甲斐なさと惨めさに打ちのめされて、一方的にそれを拒絶した。
そんなどうしようもない俺をどうして今もなお、理由もなく会いたいって思ってくれるんだよ。
「……あのさ、怒ってないの? 俺のこと」
彼女の顔色を窺いながら訊ねた。すると赤根は、一泊置いて口を開く。
「……どうして?」
「だって……一緒に漫画家を目指そうって約束したのに、俺が怖気付いて投げ出したから」
言葉が詰まって、上手く声が出せなかった。けれど、最低限赤根の耳に伝わるくらいの声量でそう言う。
すると赤根はそんな俺を見て、呆れたようにため息をついた。
「あのねぇ。一緒に目指そうとは言ったけど、絶対に目指し続けなきゃいけないなんて約束はしてないでしょう。契約書に書いたわけでもないんだしさ。やめたいって言ってる相手を無理に続けさせる権利なんて、私にはないわ」
「……まあ、たしかにそうだけど」
「だから安心して。私は別に怒ってないし、小玉君のことを嫌いにもなってないから。小玉君が解散したいって言い出したら、その時はしょうがないって、私もちゃんと割り切るべきだと思ってたから」
「……そっか」
またなんとも言えない沈黙が流れる。
そうやって二人並んで歩いていると、やがて近くの海浜までやってきた。
波の打ち音が一定のリズムで届けられ、不思議と心を震わせた。
気づけば空は、暖色に輝いていた。暖かな夕陽が海を照らし、白い光が海のキャンバスをキラキラと輝かせている。
俺たちの目に映る世界を、オレンジ色に彩っていた。
波打ち際まで行き、俺たちは砂浜に腰を下ろす。足のつま先が波に当たるスレスレの場所だ。
「あとさ、今日小玉君に会いにきたのは、どうしても報告したいことがあったからなんだ」
遠くにある地平線を見つめながら、赤根は呟いた。
「報告……?」
俺は、隣に座る赤根へと顔を向けた。夕陽の光に照らされた彼女の横顔は、どこか色気を感じる。
なんだか、恍惚的な雰囲気を醸し出していた。
「小玉君と別れたその日に、黒川さんに連絡したんだ。やっぱり漫画家を目指したいですって」
赤根は続ける。
「それから一か月話し合って、担当の人がついてくれてさ。だからこれから少しずつ頑張って、漫画家を目指そうと思ってるんだ」
前に調べたことがある。漫画家業界で担当がつくというのは、漫画家になる第一歩になるみたいだ。
「すごいじゃん。夢への道が見えてきたんだね」
とはいえ、担当がついたからといって将来漫画家への道が約束されるわけではない。
担当の人とのやりとりを通して、一緒に連載を目指すといった形になるらしい。
マネージャーとは少し違うかも知れないが、言わば学校でいうところの担任の先生みたいな感じだろうか。
「だから、それだけ伝えとこうと思って」
「そうか……」
しばらく沈黙が流れた。やっぱり赤根はすごいなぁ。着々と自分の夢に向かって歩み始めているんだから。
それに比べて俺はどうだ? 何一つ成し遂げていない。それに加え、怖気付いて夢を諦めた哀れなやつだ。
「小玉君はさ。本当にもう、漫画家は諦めちゃの?」
赤根が俺に顔を向けて訊ねる。その質問に俺はきっぱりと答えた。
「うん、諦めるよ。絵はそんなに上手くないしね」
「じゃあ……小説家は?」
その問いを受けて、俺は返答に困った。
「小説家は……わからない……」
正直今は、長年追求してきた小説家になるという夢を、俺はまだ諦めきれていないのだと悟りだしていた。
身近にいた橋本部長が夢を叶え、俺もなんだか、小説家になりたいという気持ちを思い出してきていた。
「もしかして、まだ小説家を目指したいって気持ちはあるってこと?」
「……うん」
俺が素直に頷くと、赤根は感慨深そうに微笑んだ。
「……良かった。また前を向く気になってくれて」
赤根はにこりと笑い、安心したような目で俺を見つめた。
……でも、俺はまだ不安なんだ。赤根はこう言ってくれたけれど、俺はやっぱり自分に自信が持てない。
「でも、怖いんだ。また夢に向かって頑張り続けて、いつか笑える日が来るのかなって。一度諦めたくせに、また同じ夢をまた追いかけ直していいのかなって」
俺は歯を食いしばりながらそう言った。気づけば目頭が熱くなって、小さな雫が僅かに溢れていた。
それに気づいて、慌てて袖で涙を拭う。
「そんなの、いいに決まってんじゃん!」
赤根は俺の手をぎゅっと握りしめた。
「一度諦めたから何? また目指したっていいじゃん!」
今までと変わらないどこまでもまっすぐな目で、赤根は言い切った。
「わかんないよ? 夢を追いかけ続けて、いつか笑える日が来るかなんて。そりゃあ、叶えられない可能性もあるよ。……でも!」
赤根は一呼吸おいて、喉を絞り出すように声を張った。
「傷だらけになって打ちのめされて、それでも必死にしがみついて、そうやってどこまでも頑張り続けられるやつはカッコいいんだよ! 漫画や小説の主人公だってそうじゃん! どれだけボロボロになっても、目の前の壁にぶつかっていく主人公とか激アツじゃん!」
赤根は熱が入ったように喋り続けた。しばらくして我にかえったのか、急に冷静さを取り戻す。
「……あっ、ごめん。ちょっと熱くなっちゃった」
赤根は気を取りなおすように立ち上がり、靴を脱いで海へと入っていく。
「うわっ、冷たー」
「そりゃそうだよ。まだ冬だよ?」
「ほれ!」
赤根はいたずらっ子のような笑顔で、海中を足で蹴る。その冷たい水のしぶきを俺に飛ばしてきた。
「うわっ、冷たっ! 風邪ひくわ!」
「ははははっ!」
ゲラゲラと意地悪く笑う赤根。それにつられて、俺もつい笑ってしまう。
二人の高らかな笑い声が、海浜を埋め尽くした。
やがて赤根は地平線の方を向き、俺に背を向けて夕陽を眺めだした。何かを思い馳せているかのように。




