25話
五章 ハイタッチ
《赤根美雨》
都内のビルの光が輝く寒い夜。冷たい小さな雪が、頭の上に降り注ぐ。
それを感じながら、私は硬いアスファルトの上に頭をつけ、伏せ落ちていた。
いつまでそうしていたのだろう。さっきまで聞こえていた遠ざかっていく彼の足音は、気づけばもう聞こえなくなっていた。
嗚咽と鼻水と同時に、止まらないほど溢れていた涙は、すでに止まっている。
その代わり今は、どうしようもない罪悪感と後悔で心身を覆い尽くされていた。どこまでも真っ黒に。
先ほど彼が去り際に見せた顔が思い返される。私の大切な相棒の、泣き笑いのような、もう全てを諦めたかのような、凪いだ海のように寂しげな表情。
私のせいだ…………。
全部私のせいだ。私がもっと、小玉君に作品の良さを伝えられていれば、あるいはもっと小玉君の気持ちに寄り添った発言ができていれば、あんな顔をさせずに済んだかもしれないのに……。
そんな激しい後悔と自己嫌悪に陥っていると、遠い昔の記憶が走馬灯のように蘇ってきた。
……もう戻りたくても戻れないあの日の記憶が、私の脳内に滲み出てきた。まるで冷たいアイスバーが徐々に溶けていき、私の核となるあの日の記憶という名の棒があらわになるように。
*
「おかあさーん、お本読んでー!」
「はいはいちょっと待ってね、もうちょっとだから」
小さな部屋の仕事机に腰を下ろし、作業を行なっていた母。
机上にはタブレットが置かれ、漫画の原稿データが映し出されている。
私の母は漫画家だった。そこまで売れているわけではなくて、それほど名も知られていなかったけれど、私にとっては尊敬でしかなかった。
机付近の壁や本棚には、漫画のネタが記された付箋のメモが、あちらこちらに数えきれないほど貼られていた。まるでちょっとした呪いの部屋みたいだ。
そんな母の服を、私は駄々をこねるように小さな手で引っ張った。
「もー! 寝る時間になっちゃう! はやく読んでくんないと明日学校お休みするからね!」
「あー、誰だそんな悪いこと言う子はー」
お母さんが冗談めかしに笑って私をこしょばしてきた。その器用な手つきでいたずらに身体を撫でられ、私も耐えきれず笑ってしまう。
「はい、じゃあお本読みましょう!」
「やったー!」
仕事がひと段落したお母さんは、私の部屋まで一緒に来て、ベッドの上で絵本を読み聞かせてくれる。いつもそうだった。毎日お母さんは仕事が終わったら、どれだけ疲れていても私の部屋に来て絵本を読み聞かせてくれた。
今思えば、少しくらい母を労ってあげれば良かったな、なんて思う。当時の私はまだ小学二年生くらいだったから、そこまでの気遣いを覚えていなかったのだ。
それでも、母が絵本を読み聞かせてくれる時間は、私にとって落ち着けないくらい楽しい時間だったのだ。
お母さんはいつも、柔らかく温かい羽毛布団のように優しい声で読み聞かせてくれた。そのおかげで私は、いつしか物語が大好きになっていた。
それもあり、絵で物語る漫画家というお母さんの仕事に、私は憧れを抱いていたのだ。
「私、いつかおかあさんみたいな漫画家になる!」
いつしかそれが私の目標となっていた。それを聞いたお母さんはいつも「嬉しいねぇ。美雨なら絶対にいい漫画家になれるよ!」と笑顔で頭を撫でてくれた。
……そんな日々が、私の当たり前の生活だった。間違いなく、私の人生が一番幸せだった時期。……のはずだった。
「……私のアイスは?」
本当にどうでもいい、小さなことだった。
お父さんに買ってもらったサイダー味のアイスバー。それを入浴後に食べようと思って、冷凍庫を開けた時だった。
そこにあるはずのアイスが、ポツンと消えていたのだ。
「ごめんごめん、ごめんね美雨。美雨のアイスだってこと知らなくて……」
私がお風呂に入っている間に、お母さんが間違って私のアイスを食べてしまったのだ。
お父さんと公園に行った帰りに、二人で選んで買ってきたやつなのに。お母さんのはバニラアイスで、私がサイダーのアイスを食べたかったのに……!
「ごめんじゃないよ! お風呂上がったら食べようって楽しみにしてたのに!」
私が冷凍庫の前で地団駄を踏む。そして——、
「もう、おかあさんなんて大嫌い!」
そんな心無い言葉が、小さな口からぽんっと出てきた。
子供というのはそういうものだ。自分の感情に揺れ動かされやすくて、ちょっと思い通りにならないだけで残酷な言葉を出してしまう。
今考えれば、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。そんな怒ることでもなかったはずなのに。
いや、実際に当時の私もそこまで怒っていたわけじゃない。アイスを食べられたことに怒っていたわけじゃなかった。
ただ単に、感情のコントロールができない年頃だったのだろう。
お母さんのことが大好きだったから故か、ちょっとしたことでムキになってしまう。大好きなお母さんに自分の嫌なことを少しされただけで、感情が強く出てしまう。構って欲しかったのかもしれない。
そうやってしばらくお母さんを責めていると、見かねたお父さんが顔を顰めだした。
「こら美雨、そんな言い方をするな! お母さんだってわざとじゃないんだぞ。アイスはまた買ってきてやるから」
「今日食べたかったの! 今すぐ食べたかったの!」
それでも私は駄々をこねた。アイスを食べられた嫌な気持ちをなんとかして欲しくて、いつも通りぎゅっと抱きしめて欲しかったのだ。構って欲しかったのだ。
「早くアイス買ってきてよ! サイダーのやつ! 買ってきてくれるまでおかあさんのこと嫌い! おかあさんの顔なんて見たくない!」
私はお母さんの背中を強く叩いて、玄関へと強引に追いやった。
「はいはいわかりました。今から買ってくるから」
「おいおい、こんな遅くに外出て大丈夫か?」
玄関の前に立ったお母さんに、お父さんが心配そうな顔を向ける。
「心配しすぎだって。ちょっと近所のコンビニに行くだけよ」
お母さんは玄関を開けて、外へ出る。
「じゃあ、行ってくるね」
知らんぷりをし続ける私に、お母さんは最後にそう言い残して部屋を出て行った。私は最期までそっぽを向いて、お母さんの顔を見なかった。
まさかこれが、お母さんの最後の言葉になるということも知らずに……。
それから数時間後に、お母さんはトラックに跳ねられて亡くなった。運転手側の信号無視だったようだ。
近所の人に通報を受けた警察から連絡を受けたことで、私とお父さんは事故のことを知った。
薄暗い病室には、倒れたお母さんの身体がベットの上に寝かされている。
私は冷たくなったお母さんの手をぎゅっと握りしめた。その手の体温にはもう、今までの暖かい温もりは感じられない。
それを察知した瞬間、私は子供ながらに、どうしようもない虚無感と喪失感に苛まれた。もう、お母さんには会えないんだ。二度とお話しできないんだ。
もう二度と、絵本も読んでもらえなくて、抱きしめてももらえないんだ。
バケツに溢れた水をひっくり返すように、涙が止まらなくなった。どうしようもない恐怖が、私の小さな身体を襲った。
「……ごめんなさい、……ごめんなざいっ、おかあざぁん!」
鼻水で声が上擦り、石でも詰まったかのように喉が苦しかった。
……ごめんなさい、ごめんなさい。今さらながらにそう謝り続けた。
どれだけ叫んでも届くはずのないその言葉で、小さな病室が埋め尽くされる。
もしも神様がいるのだとしたら、私は神様が嫌いだ。どうして神様はこんなひどいことをするんだろう。
たしかに、お母さんの顔なんて見たくないって言ったよ。でもそれは冗談っていうかさ、本当にそう思ったわけじゃなくて……。ただちょっと、意地を張って言っちゃっただけじゃん……。
それだけなのに……本当に会えなくすることないじゃん……。
……本当はどうでも良かったんだ、アイスなんて。どうでも良かったはずなのに、くだらない意地を張って、お母さんにアイスを買いに行かせてしまった。
……私のせいだ。私がお母さんを殺したんだ。
もういくらしたって遅い後悔を、私はいつまでもし続けた。それは、高校生となった今でも変わらない。
なんとも惨めで馬鹿馬鹿しくて、みっともない話なのだろう……。




