24話
……寒い夜だった。喫茶店を出て駅まで無心に歩を進めていた最中、ふとした瞬間に雪が降っていることに気づく。積もるほどの雪ではないが、小さな雪のチリがちらほらと視界をハエのように通り過ぎ、痛いほどの冷気が頬を撫でた。
そんな冷たい空気の痺れが、凍てついた俺の惨めさの輪郭を際立たせる。
「小玉君!」
信号待ちをしていると、割れるような声が背中にぶつけられた。見るまでもない、赤根だ。
「小玉君っ、急に出ていかないでよ……」
苦しそうに息切れをしながら、赤根は搾り出すように声を出した。……正直にいうと、追いかけて来てほしくなかったんだけどな。
「小玉君、あんなの気にすることない! 感じ方なんて人によって違うし、あの人の言ってることが全てじゃないんだから」
俺の背中越しから、赤根は必死に励ますような言葉をかけてくれる。しかし今は、赤根から発せられる全ての言葉が、俺の胸を縛り潰すような苦しみを与えた。
人に認められた俺の相棒。そんな彼女にかけられる言葉はナイフそのものであった。心身が泣き叫ぶかのように暴れたい衝動に駆られる。
……あぁ、自分が惨めすぎて辛い。目が熱くなってきて、喉が熱いほどに痛い。今すぐこの場にしゃがみ込んで泣き崩れたい。
しかしそんな苦しみは、赤根の次の言葉によって凍結されるように押し固められる。
「あのさ小玉君、さっきの話なら大丈夫だよ。私、ちゃんと断るから!」
「…………は?」
その言葉が耳の中で止まり、俺は吐き気がするほどの嫌悪感を覚えた。
赤根は続ける。
「だから安心して? 私は小玉君から離れたりしない。私たちは二人で一人の作家でしょ。あなた以外の人と組むなんて考えたくもないし、ありえない! だから……!」
「なんだよそれ、馬鹿にしてない?」
咄嗟に浮かんだ率直な言葉が、赤根の顔を突き刺すように飛び出た。
「……なっ、…………え?」
突然平手打ちを決められたかのように、赤根は何が起こったのかと言わんばかりに戸惑いの表情を浮かべた。
けれど俺は構わず続ける。もうここまで言ってしまったら、後戻りなんてできない……。
「……さっきから全部、嫌味にしか聞こえないんだけど」
自然と暗い笑みが浮かんでくるようだった。
俺は後ろを振り向きそう言うと、赤根の顔が凍りつく。彼女はそのまま、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
口が金魚のようにパクパクと開口して、言葉に詰まったような顔をしている。そう思いきや、すぐに赤根は声を出した。
「な、なんで? ちがう、違うわよ! 私は本当に、あなたと漫画家になりたいって思った! あなたとタッグを組んで、一緒に作品を作りだしてからずっとそう決めてた!」
今にも泣き出しそうに赤根は顔を真っ赤にして、懸命に言葉を紡いだ。
「私は本当にっ、小玉君と一緒に二人で一人の作家として漫画家になりたいって思ったの!」
赤根は必死に言葉を吐き出し続けた。大きく見開かれた彼女の目に、じわりじわりと涙が滲んでいく。
「……だからって、せっかくのチャンスだっただろ! なんで断るんだよ! 俺と二人で漫画家になる? そんなこと言ってる場合かよ! 赤根は漫画家になりたかったんじゃないのかよ!」
今までの俺の人生史上で、一番張りのある声が出た。周囲で行き交う通行人の視線がこちらに集まるのを感じる。けれど今は、そんなことどうでもよかった。
赤根もまるで俺しか見ていないように、負けじと声を爆発させる。
「そりゃなりたいよ! なりたいに決まってんじゃん! ずっと、ずっと夢だったんだから!」
「だったら俺なんかに構わずさっきの人の提案を呑めよ! 俺と一緒にいたら漫画家になんてなれないんだぞ!」
「わかんないじゃん!」
「わかるよ!」
だんだん喉が掠れてきて、うまく声が出てこない。
一旦息を整え、冷たい空気を吸って、また口を開いた。
「……赤根にはわかんないよ。才能のない俺の気持ちなんて」
才能……そんな言葉で片付けていいはずがない。単に今までの努力が足りていなかっただけだろうに。
もちろんそんなことわかってるさ。わかってるけど、俺だって自分なりに必死こいて頑張ってきたんだよ。
「そんなやつにどうこう言われたってさ……」
あぁ、……だめだ翔太郎。それだけは言っちゃいけない。
「うざいよ……」
たった一言、そんな最低な言葉が溢れた。
「…………」
赤根はそれを聞いて、呆然としていた。流石に怒りを覚えたのか、赤くなるまで顔を顰めている。
「……俺やっぱ、創作の才能ないんだよ。……今回でちゃんとわかった。もう疲れたんだ、たくさんなんだ」
そう、もうたくさん。頼む、もう楽にさせてくれ……。
そりゃあ、俺だって頑張ってきたさ。ちゃんと漫画の勉強もしてきたし、赤根と創作し始めてから、漫画のことを考えない日なんてなかった。
俺だってがむしゃらにもがき続けてきたよ。……でもやっぱりダメだった。
ずっと不安はあった。このまま走り続けて、最後に笑える日なんて来るのかなって。でも、それでも走り続けた。けれどその走り続ける勇気は、ある日突然ぷつりと切れてしまうものなのだと俺は知った。
「もう、俺のことはほっといてくれ……」
さっき話した黒川さんの、あの冷めたような表情を見て痛感した。……俺はやっぱりダメなんだって。
中学校のトラウマが走馬灯のように蘇る。あの担任の憐れむような冷めた顔の記憶が、まるで写真のように脳内に貼り出された。不安と怖れがかつての傷から染み出して、心のうちに広がっていく。
「……ほっとけるわけないじゃん」
今にも消えてしまいそうな小さな声で、赤根はそう呟いた。
そしてバケツに溜め込んだ水を無理やりひっくり返すように、ものすごい勢いで言葉を浴びせてきた。
「俺のことはほっとけって? ふざけんなよ! そんなの無責任でしょ! ここまで一緒に頑張ってきて、急にそんなの受け入れられるかよ!」
赤根の口調が徐々に荒くなっていく。
「私は! 小玉君の書いたお話を初めて読んだ時、心の底から感動したの! 少なくとも、私はあなたの物語に心を動かされた! あなたには、人の心を動かす力があるんだよ!」
赤根はそう言ってその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って啜り泣く。
「……なんで、それをわかってくれないの」
「…………」
俺は返す言葉が見つからなかった。そこまで言ってくれるのは、やっぱり赤根しかいない。
……嬉しいよ、素直に。
でも、それでももう、一緒に漫画家は目指せない。目指さないほうがいい。だって赤根は、ようやく自分の夢を切り開いたのだから。
それに対して俺が、俺なんかが足を引っ張るわけにはいかない。
「……ありがとう、赤根。……でも——」
俺はしゃがんで赤根の顔を見つめる。赤根はゆっくりと顔だけを上げて、俺の目を見てくれた。鼻水がわずかに出ていて、顔も赤い。……こんな顔をさせて、いたたまれない気持ちになる。
「ごめん、赤根。……でもやっぱり、俺はもう赤根と一緒に漫画家を目指せない。……目指したくない」
嘘だ。本当はそんなこと思ってない。でも、赤根はやっぱり、俺といるべきではないんだ。……だから、そう言うしかない。
赤根はとうとう、紙を無理やり丸めたようにグシャリと顔を歪ませた。鼻頭を真っ赤にして、崩れるように泣きじゃくる。
……ごめん、赤根。
「……ごめん、ごめん。……だからもう、俺のことは気にしないでよ。だから……」
俺は一泊置いて、言葉を紡いだ。
「これからは、赤根は赤根の道を進んでよ。今日で『ショーマン』は解散だ」
そんな身勝手極まりない、裏切りにも近い言葉を俺は無情にも赤根に告げた。
「……今までありがとう。頑張って俺の分も、いつか絶対に漫画家になってくれ」
そう言い残し、俺は再び赤根から背を向けた。そのまま青になった信号を渡って、帰路に着く。
……普通なら、もっと頑張ってあの編集者を見返してやろうとか思うんだろうな。でも俺には根性がなくて自信もないし、打たれ弱い。だからちょっとしたきっかけですぐに壊れてしまうんだろうな。
いや、諦めた方が良かったのだ。大切な相棒が切り拓いた夢を喜ばしく思っている反面、今は妬ましさもあった。仲間の成功も思うように喜べない最低な人間が、そもそも作家になんてなれはずがないのだから。
しばらく歩いても、まだ赤根の悲痛な泣き声が背中越しに聞こえてくる。
……これでいい、これでいいんだ。
夜の寂しげな空気と冷たい雪の粒が頬を刺激し、最低な俺の醜さの輪郭を際立たせた。




