12話
朝の七時。カーテン越しに陽光が差し出す自室にて、スマホに設定していたアラームが鳴り響いた。
それを契機に俺はベッドの上で目を覚ます。
昨日は夜遅くまでネーム作業をしていた。何度も修正を行い検討したりして、描いては消してを繰り返し行なってきた。
ここ数日はそんな日々をひたすらに送り、昨日の夜にようやくネームが完成したのだ。
そのため、今はかなり寝不足気味だ。けれど二度寝をするわけにはいかない。こうしている間にも、約束の時間が迫っているのだから。
まだ寝ていたいという本音を押し殺し、鉛のように重い身体をベッドから起こす。
自室を出て顔を洗い、トーストで焼いた食パンにバターを塗って口に運ぶ。
食べ終わればすぐに洗面所に向かって歯磨きをして、自室に戻って寝巻きから外着に着替えた。家の中が狭いからか、生活の動線がスムーズに行える。
服は黒の長ズボンと半袖のボーダーシャツを着用。荷物はリュックサックの中に漫画のプロット用紙。
そして絶対に忘れちゃいけない、ここ二週間で完成させたネームの原稿用紙を入れた。
あとはスマホとか財布など細々したものを入れていく。
「よし、忘れ物なし!」
玄関へと向かい、ドアを開けて部屋を出る。外は快晴で、まだ六月だというのに太陽がギラギラと輝いていた。
今日は土曜日、休日だ。まだ寝ている母と妹を起こさないよう、そっとドアを閉める。
本日は赤根と事前に約束していたネームを見せる日だ。
前回のカラオケで、今日からは彼女の自宅で作業をすることとなっている。
女の子の家にお邪魔することに対して、初めは多少の抵抗があった。
けれど赤根いわく「私の部屋ならネットも繋がるし、作業もやりやすいからね!」とのことなので、俺もしぶしぶ了承した次第だ。
とはいえ二人で作業をするとなると、たしかに家の中で行う方が何かと都合がよさそうだ。
というわけで向かう先は、赤根が住まうマンション。……の前に、赤根と駅で待ち合わせてから向かう段取りとなっているので、まずは学校の最寄駅まで向かう。
いつも通りの行き慣れた通学路に沿って歩を進めた。
普段通っている学校までの道のりも、休日に歩くというだけで別の道を歩いている気分になる。なんだか見えている世界が違うみたいに。
そんなことを考えながらやがて電車に乗り、学校の最寄駅で降車した。
「あっつー……」
地球温暖化の影響なのか、まだ六月とはいえ蒸し暑い。じんわりとした汗が額をつたっていくのを感じる。
そんな中、駅の改札を出たあたりでしばらく待っていた時分のこと。
「あっ、小玉君! おまたー!」
そう言って、こちらに手を振る人物が視界に入った。
赤根だ。まるで小学生のように無邪気な明るい声で、こちらへと向かってくる。
「ごめんごめん、待った?」
「いや、俺も今きたところだよ」
「ならよかった」
ちなみに今日の赤根は学校の制服を着用していない。休日だし当然なのだけれど、完全に私服だった。
いつも通りのボブカットに、白のパーカーと黒い長ズボンを着用しておられる。かなりラフな格好だ。もう部屋着でもいけそうなほどに。
今まで赤根とは放課後にしか会っていなかったため、何だか制服以外の姿を見るのは新鮮だった。
「じゃあ行きましょうか。カモン!」
赤根が手招きをしながら前へ出る。声も張りがあって溌剌としている。
「朝から元気だなぁ」
「漫画家は体力も必要なのよ。朝からへこたれていたらやってられないわ。ほら、時間は有限なんだから早く行くよ!」
「わ、わかってるよ」
先を急かすように誘導してくる赤根。
赤根についていき、五分ほど歩いた。歩きながら周囲を見渡すと、ショッピングモールやスーパーマーケットなどのビルが立ち並んでいる。
「いまさらだけど、家にお邪魔してよかったの? ご両親とかに迷惑がかかるんじゃ……」
先を歩く赤根に後ろから訊ねると、彼女はなんともないような口ぶりで応えた。
「いいのいいの。というか、親は仕事でいつも家にいないから。気を遣わなくて大丈夫よ」
「そうなの? なんだ、良かったぁ」
親御さんがいたら緊張するなぁと思っていたけれど、どうやらそれは杞憂だったみたい。
それがわかって、俺は安堵のため息をついた。
「……小玉君、なんかいやらしいこと考えてない?」
赤根は穢らわしいものを見るような目で、こちらを睨みつけてきた。
それを言われた瞬間、俺は変な焦りを覚えた。あまりにも心外な物言いに、反論せずにはいられなくなる。
「ち、違うよ! ご家族がいるなら手ぶらでお邪魔するわけにもいかないでしょ? 何より、ちょっと緊張するから」
けれど赤根は急に吹き出し、からかいの言葉を浴びせてきた。
「ふっ、わかってるわよ。いくらなんでも焦りすぎだって。マジうけるんですけどー」
「……本当にやめてくれ」
人を小馬鹿にするような煽り方に、シンプルに怒りを覚えた。女の子といえど、うっかり顔面にグーパンをかましそうになる。
「というか、あとどれくらいかかるの?」
「もう着くよ。あっ、ほらあそこ」
赤根が指を掲げる先、そこにはクリーム色の外壁をしたマンションが建っていた。十五回建てくらいのかなり大きめなマンションだ。どうやらここが赤根の自宅らしい。
そのまま彼女について行き、エレベーターで六階まで上がる。部屋の前までやってくると、赤根が鍵を差し込んでドアを開けた。
そのまま赤根に案内されて、彼女の自室へと招かれる。
「ささ、早く作業に取り掛かりましょ」
「うん、そうだね」
可憐な見た目とは裏腹に、赤根は少々気の強い性格をしていらっしゃる。
そのため部屋も散らかり放題で、てっきり男っぽい部屋なのだろうと勝手な偏見を抱いていた。しかし、それは完全に的外れであった。
率直に申し上げると、赤根の部屋は実にシンプルだった。
本棚があって、勉強机があって、小さなタンスがある。特にこれといった特徴のない装いだ。
けれど掃除はちゃんと行き届いており、一瞥するだけでも汚れは見当たらない。清潔感があって、ほんのり甘い香りもする。
つまるところ、部屋の中は意外にも女子の部屋という雰囲気が醸し出されていた。こういうのをギャップ萌えというのだろうか。
「じゃあ早速始めようか。あっそうそう。まずはさ、これを見てよ」
赤根はそう言いながら机の上に置かれたタブレットを持ってきて、俺に見せてきた。
「じゃーん! 私が描いたキャラデザでーす!」
そこには、今作の主人公である風磨と正義のキャラクターデザインが描かれていた。
カラオケで俺がプロットを見せた際、キャラクターのデザインは赤根に一任したのだ。
「えっ、すご! めっちゃいいじゃん!」
俺は思わず興奮して、声を上げてしまった。
風磨は茶髪に学ランを着用しており、正義は金髪に同じく学ランといったキャラデザになっている。
はっきりいって、キャラデザはかなり気に入った。ラフとはいえ、キャラクターを思って大切に描いてくれていることが伝わってくるし。
漫画の原画展でプロ作家のネームやキャラデザの設定画を見たことがあるが、それと同等と言えるほどの絵の上手さだ。
まるで本当にプロの設定資料を見せられている気分になる。
「すごいよ赤根。絵めっちゃ上手いし、すごく気に入った!」
心から絶賛すると、赤根はわかりやすく頬を緩めた。心なしか顔が赤い。
「い、いやいや、褒めすぎだってば! プロットがあってこそのキャラデザだし? プロット内のキャラが魅力的だったから描けたわけで、そういう意味では小玉君の力とも言えるわけだし? まあでも、私の絵のセンスがそれをさらに魅力的に具現化できたわけだから、まあ素直にその賞賛は受け取っておこうかな!」
長々と喋られて言葉の意味が二転三転したな。素直にありがとうでよかったのに。
「ま、まあこれはさておいて、ネームを見せてくれないかな?」
「わかった」
俺は鞄からネームの束を取り出し、赤根に手渡した。
彼女はそれをすぐに一読し、話し出す。
「うん、いいね。コマ割りも初めてにしてはかなり良くできてる」
「内容は何となくわかったかな? 俺あんまり絵は得意じゃないから、赤根に伝わるか心配だったんだけど」
「ううん、ちゃんと理解できたよ。話の流れも演出も気に入ったわ。これで作画していくね!」
そうして、その後は細かい箇所の修正や変更点を二人で話し合った。そして、
「よし、これでネームは完成ね! じゃあ早速、下書きをしてペン入れをやろう」
と赤根が言い、ようやく漫画の作画に入ることができた。
「じゃあ、はいこれ」
すると何やら唐突に、赤根がタブレットを手渡してきた。
「……タブレット?」
「作画は私がやるけど、小玉君その間暇になるでしょう? だから君には、私が指定した箇所にベタやトーンを貼る作業をして欲しいの」
ベタ塗りとトーン貼り。ネットで漫画制作の仕方を調べた際に見たことがある。たしかモノクロ漫画に濃淡や質感を表現するための技法で、特定の範囲を塗りつぶしたりする作業のことだったような。
「もちろんだけど、俺がこのタブレットを使ったら赤根はどうやって作業をするの?」
「大丈夫。それは前に使っていた機種で、私は今使っているやつを使うから。漫画制作のアプリはインストール済みだから、私が作画するデータをそのタブレットと同期して作業しましょう」
なんとも用意周到なことだ。
にしても、俺にできるのだろうか。漫画制作のツールなんて、今まで使ったことがないのに。
「俺にできるかな。操作方法とかわからないんだけど」
「大丈夫よ。使い方は今から教えるし、ベタ塗りとトーン貼りならワン操作で簡単にできちゃうからね」
「へぇ、そうなんだ。なんかすごいなぁ」
なんて便利な話なのだろうか。そう考えると、一昔前のアナログで漫画を描く時代ってどれだけ大変だったのか。
よく聞く話だけれど、デジタル化が定着していない時代の漫画家って、トーンを用意するだけでもお金がかかったそうじゃないの。ベタ塗りなんてペンで地道に描かなければいけなかったみたいだし。
そう思えば、漫画制作の環境もデシタル化してからかなりコスパがよくなったように感じる。時の流れは残酷とはよく言うけれど、時に素晴らしいものだとも言えるのではなかろうか。
もっとも、俺は漫画を描いたことがないから完全にイメージでしかないけれど。
「じゃあ、始めようか」
「うん」
それからしばらく、俺は赤根にアプリの操作方法を教わった。
ややもしてある程度やり方を覚えたところで、本格的に漫画制作が開始される。
赤根が下書きを行なってペン入れをし、彼女に支持された箇所に俺がベタを塗ってという作業になっていった。
それをかれこれ夜の六時くらいまで行った。
途中俺がコンビニに晩御飯を買いに行き、赤根と部屋で爆速で食い、また作業に戻った。
そうして、その後は夜の十一時頃まで作業を行い、そろそろ俺も帰ろうかと帰宅の準備をし始めた時分のこと。赤根が「親いないから泊まってけば?」と正気とは思えぬ提案をしてきたが、それには流石に断りを入れて、俺はそのまま帰宅した。




