第八章 母と娘
見たこともない豪奢な一室で目を覚ましたスーランは、しばらくの間身じろぎもできないでいた。
「あら、目を覚ましたのね?」
「ロアナ……いいえ、ローディアナ王妃様……」
「他人行儀な。お母様と呼んでちょうだい」
にこにこと嬉しそうに微笑むローディアナ。薄化粧をした彼女は、娘がいるとは思えないほど若々しく、美しかった。
「! お師匠様は!? わたし、どれくらい眠って……っ」
「一日よ。疲れが溜まっていたのね。彼は……判決が下ったわ。死罪を免れないわ。王女誘拐の実行犯なのだから」
「そんな……っ。やだよ! そんなの嫌だっ」
「いくらあなたの願いであろうと、こればかりは変えられないわ」
聞き分けのない子をなだめるように、ローディアナがスーランの頭を撫でた。
「あの刺客は、あなたの心に入り込んでしまったのね……。あなたを守ってくれていたことには感謝したいけれど……、彼はあなたをずっと騙していたのよ? あなたをさらっておきながら、のうのうと傍らにいたなんて」
「っ、嘘つきは王妃様もだよ」
スーランはローディアナを睨みつけた。
「どうして? なんでなにもしなかったの? 王妃様が動いてくれたら、暴動を起こした人たちだって命が助かったかもしれないっ。なのに、なんで! 見てるだけじゃないっ。そんなの酷いよ……ひどい……。この腐った宮廷で、唯一の良心だって信じてたのにっ」
スーランの目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
拭っても拭っても、あふれてくる雫を止めることができなかった。
「あなたは真っ白な心を持っているのね。みんなの命を救いたいなんて、それは綺麗事よ。罪を犯したのならば、しっかりと刑に処さなければならない。さもないと、秩序が保たれないわ。ねぇ、愛しいクルッチェルラ。優しいだけでは、平穏は崩れ落ちていくのよ。ときには、無情になって処罰を下さないと、王国は簡単に傾いてしまう。わたくしたちには、民を守る義務があります。いちいち情に流されていては、その民を守りきることなんてできないわ」
ローディアナが優しく諭す。
それは、オルビアーナと同じ考え方であった。
「……けど、わたしは、」
フェアロンを死なせたくない。
暴徒たちは守れなかったが、今度はちゃんと救いたいのだ。
なにより、フェアロンはスーランにとって大切な家族。
失いたくないのだ。
絶対に。
フェアロンが自分を殺そうとしていたという事実は、少しばかり辛かったが、結果的に彼は命を救ってくれた。
(わたし、今ならあのときのお師匠様の言葉の意味がわかるよ)
正体を知れば嫌うだろうと言っていた。このことを指していたのだろう。
でも真実を知っても、スーランの想いは変わらない。
だって宣言したはずだ。師匠が何者であっても、嫌いにならないって。
それは誓って本当だ。
「わたし、幸せだった。母さんも父さんも優しくて……、本当に愛情を注いでくれて……」
「ええ、わかるわ。こんなにも真っ直ぐに育ったんだもの。とてもよい環境だったということは」
「そうだよ。毎日楽しかった。わたし、二人の娘でよかったって思ったの。でもね、そこにはお師匠様もいたんだよ。お師匠様もわたしの大事な家族なんだ。わたしをさらったとかどうでもいい! わたしは、あの村で育ったこと、後悔してないよ。お師匠様のこと恨みたいとも思わない」
「クルッチェルラ……」
「違うよ、王妃様。わたしはスーラン。スーラン・ライザだよ。ほかの名前はいらない。……ごめんなさい」
ローディアナの榛色の双眸が悲しげに曇っているのに気づいて、スーランは顔を俯けた。
「──わたくしは、もうクルッチェルラは死んでしまったと思っていたの。だから、オルビアーナが現れたとき、陛下のように素直に喜べなかったわ。彼女が、王女らしい振る舞いをするたびに、わたくしのクルッチェルラが消えてしまいそうで……」
ローディアナは遠くを見つめるように、目を細めた。
「そんなとき、わたくしの影となってくれていた者が毒を含んで倒れたのよ。入れ替わっていたせいで、彼女を危険な目に遭わせてしまったわ。わたくしに影がいるのは、近しい数人の者しか知らないの。陛下ですらご存じないわ。だからこそ、わたくしは姿を見せることができず、彼女の容体が回復するまで庭師の姿に扮していたの。そこで、噂をいろいろと聞いたわ。傾きつつある王国の現状を知りつつ、わたくしに手を打つ術はなにもなかったの……」
けれどね、と彼女の視線がスーランへと移った。
「あなたと出会って、わたくしも動くときが来たのではないかと思ったのよ。覚えている? 王妃の元へわざわざ薬を届けてくれたときのことを」
「もちろん、覚えてるよ。わたし、王妃様が薬を飲んでくれると思わなかった。……あなただったんだね、言ってくれたの」
「なんでもいいから、すがりたかったのよ。主治医も匙を投げ、彼女の容体は一向に回復しなかったから。……薬を含んだ彼女が、日に日によくなっていくのをどんなに嬉しく思ったことか」
「大切な人なんだね」
「ええ…とても。彼女はわたくしのために、名も顔も捨て、人生を捧げてくれたの。この宮廷での孤独な日々を癒してくれたのは、彼女の存在があったからだわ。そんな彼女の命を救ってくれたあなたには、感謝してもしたりなかった。……だから、あなただったらいいと思ったのよ」
「いい?」
「偽物でも、王女として認めようと思っていたの。……ふふ、変ね。あなたはわたくしの産んだ子だったのに。気づかなかったわたくしはきっと親失格ね。あなたは、クルッチェルラと同じ瞳を持っていたというのに……。気づかないなんて」
寂しそうな顔を見たくなくて、思わずスーランは彼女に抱きついていた。
スーランを育ててくれた母とは違う匂い。
母からは太陽の匂いがしていたが、彼女からは香水のいい匂いがする。
とくん、とくんっ
心臓の音を聞いていると安心するのはなぜだろう。
「わたし、王妃様を母さんとは思えない」
「……ええ」
「でも、ロアナさんは好きだったよ」
「クルッチェルラ……」
「わかってるよ。みんなにみんな事情があるんだって。わたし一人のわがままで、曲げちゃいけないって。わかってるけど、辛いよ……。苦しいよ。わたし、偽物のときとなんにも変わらない。無力なままだ……」
その夜、動きやすい服に着替えたスーランは、窓を開けると眼下を見下ろした。人気がないのを確認してから、飛び降りる。
二階ならば、楽勝だ。
軽やかに地面に降り立つと、ふっと背後に気配を感じた。
バッと振り向くと、アルツィが呆れた顔で立っていた。
「アルツィ! なんで……」
月明かりの下で佇むアルツィは、想像通りの美しさだった。月の女神の寵愛を一身に受けたような美貌は、暗闇の中でもひときわ輝いて見えた。
「それはこっちの台詞だよ。少し夜風にでも当たろうかと思ってね。歩いていたのだけれど……。まさか、王女殿下が降ってくるとは思わなかったよ。まだ臥せっていると聞いていたからお見舞いも控えていたんだけれど、どうやら違ったみたいだね」
「周囲が騒がしいから、当分籠の中の鳥だってさ」
肩をすくめると、アルツィの顔から笑顔が消え、苦痛をたたえた。
「すまない……。謝ってすむことではないけれど、君がまさか、」
「やめて! わたしはスーランだよ。わたしだってまだよくわかってないんだから。困るよ。いきなりさ、実は本物の王女でした~って言われても」
「スーラン……」
「頭ン中ぐっちゃぐちゃ。だからさ、離れて行かないでよ。わたしは、わたし。これまでも、これからも変わらないよ? だいたい、わたしにお上品な真似なんかできないんだからさ」
「ははっ、わかったよ。けれど、俺は君を守れなかった。守ると誓ったのに。すべては、俺の浅はかさが招いたんだ。スーランがいなければ、今回の計画は成し遂げられなかっただろうね」
アルツィは苦く笑った。
スーランと同じくカナバス塔に囚われたアルツィたちが抜け出すことができたのは、警備守備総隊長のおかげだ。彼がスーランの人柄に触れ、宰相派に加わらなければ、計画に支障をきたしていただろう。
そして、副宰相派の筆頭の一人であるロウェル卿が、可愛がっている姪の懇願に負け、土壇場で寝返ったのも大きかった。彼の姪は、スーラン崇拝者の一人だったようだ。
彼のおかげで、審問委員会の流れや時間帯を把握できたのだから、功労は大きい。
いつの間にか増えたスーラン支持者たちによって、アルツィたちは、秘密裏に動くことができたのだ。
もし、スーランがここまで支持を得なかったら、水泡に帰していたかもしれない。アルツィたちは、牢屋に閉じこめられ、今頃、死刑に処される日を指折り数えていたはず。
そう考えると、アルツィはここまでの筋書きを描いたとはいえ、ほとんど手柄を立てていないような状況である。
好きな人の前では格好良くありたかったのか、悔しそうに顔を歪めるアルツィに、スーランが人差し指をつきつけた。
「結果がすべて。中間なんてどうでもいいと思わない? 副宰相とオルビアーナは逮捕されて、悪の根源は去ったんだから。今回のことを教訓として、お貴族サマも改心したんでしょ? 真面目に仕事するならいいじゃん。へへっ、やっぱりさ、正義は勝たないとね」
「……スーランのおかげだよ。君が、彼らに生まれ変わらせるきっかけを与えてくれた。やはり、俺は間違っていなかったんだね。君なら、澱みを取り払ってくれると思っていた」
「大げさな。……けど、変わるといいけどね。この国が」
「変えていくんだよ、スーラン。俺たちが」
「……ッ」
熱のこもった双眸が、スーランに注がれる。
蒼い双眸が深く色づき、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
けれど、スーランは、頷けなかった。頷くことができなかった。
「スーラン?」
「わたし、行かないと」
「行くって……まさか」
アルツィの声が低くなった。
これからスーランがなにをしに行くのか思い当たったのだろう。
「駄目だ。行かせられない」
「どうして? アルツィに止める権利なんかない! わたしはもう、これ以上大切な人を失いたくないんだ! ……だって、ここはもう、わたしがいなくても大丈夫だよ」
「! けれど君は王女だ。その血筋は偽ることはできない」
「でも、きっと。これからやろうとしていることは、国王に刃向かうことだよ。……アルツィは、わたしと会ったこと秘密にして」
「そ、んな……」
「ごめんね、アルツィ。最後まで期待に応えられなくて。アルツィたちと過ごした時間、すっごく楽しかったよ。わたし、ここに来ていろんな事実を知ったけど、後悔なんてしてないよ。来てよかったって思ってる。だから、ありがとう。それから、ごめんね」
一方的に別れを告げて走り出そうとしたスーランの華奢な体をアルツィが抱きしめた。
「…っ、アル、ツィ……?」
細いながらもしっかりとした体つきであった。
アルツィの温もりに包まれたスーランは、脈が不規則に速くなるのを感じていた。師匠とは違う、すべてを奪い取ってしまうほど激しい抱擁に、なぜか顔が熱くなった。
「は、はな、して……!」
抜け出そうともがくが、アルツィはそれを許さなかった。
「――君が、どんどん遠くなる。俺はいつの間にか置いてきぼりだ。ずるいな……。フェアロンが憎くてたまらない。こんなにも想われているアイツが! 俺は、どうやったら彼を超えることができるんだろう……。君を衛兵から颯爽と救い出すことも、力でねじ伏せることもできない」
吐き出された言葉のひとつひとつが、スーランの胸を打った。
いつもの優しい微笑みを浮かべた貴公子ではない、スーランを求めてもがいているただの男の姿がそこにはあった。
「ねぇ、スーラン。君は、自分はいなくても大丈夫だって言ったけれど、俺には君が必要だよ」
「! アルツィ……」
「本当は、この手を離したくないし、アイツの元へなんか行かせたくない」
苦しげに言ったアルツィは、スーランを抱きしめる腕に力をこめた。
でも、と言葉を続ける。
「そうしたら、俺は一生嫌われるだろうね。君の美しい瞳が翳るのなんて見たくない。だから、待っている」
「アルツィ……?」
ゆっくりとスーランから体を離したアルツィは、なにかが吹っ切れたように、ふっと微笑んだ。
「警備守備総隊長が知り合いの執行官に手を回して、時間稼ぎをしてくれたおかげで、君が気にかけていた罪人たちの身柄はね、まだ地下牢に留まったままだよ。父が手続きを行っているから、数日後には身柄も釈放されるだろうね」
「え?」
振り返ったスーランは、耳を疑った。アルツィは、今なんて言ったのだろう。
釈放ということは、彼らは生きているのだろうか。
信じられない面持ちでアルツィを見つめていると、彼は優しくスーランの頭を撫でた。
「諦めずにいれば、叶うんだよ、スーラン。君のために、みんなが手を差し伸べてくれる。だから、救いに行っておいで。それで君の顔が輝くなら、俺は満足だよ」




