その二
華やかなブルーリア宮殿を後にしたスーランは、ぎりっと奥歯を噛みしめた。
金と乳白色を基調とした壁が美しい建物は、いたるところに透かしの入った彫り物が施され、国王たちがいる本宮殿に劣らない壮麗さがあった。
けれど、そんな美しさなど見せかけだけだ。
内側の空気は澱み、使用人たちも生気のない顔をしていた。
「……なんでっ」
不浄を清めるように太陽の光がスーランを労るように包み込む。
あの宮殿で感じた陰鬱さが少しずつ浄化されていくが、スーランの心は傷つけられたままだった。
悔しい。
悲しい。
腹立たしい。
負の感情が、とぐろを巻いてきつく体を縛り付けていく。
アルツィと別れた後、スーランが向かったのはオルビアーナの元であった。
敵対するオルビアーナに頼み事などしたくなかったが、背に腹は代えられなかった。
彼女ならば、憐れな暴徒たちを殺さないよう国王に直訴できると思ったからだ。
『確かに、彼らのやったことは罪だ。でも、そこには深い事情がある。民を守るべきわたしたちが、彼らを苦しめて……だから起こった悲劇を、わたしはしっかりと受け止めたい。彼らをそこまで駆り立てたのは、わたしたちなんだよ。だったらもう二度とそうならないよう導くのが王族の務めでしょ』
そう訴えるスーランに、オルビアーナが出した答えは非情であった。
『罪を犯したのなら……それもお父様のお命を狙うという重罪を犯したのなら、しっかりと刑に処されないといけないわ。憐れんで恩赦を与えていれば、お父様はそのうち殺されてしまうわ』
国王の首を狙おうとした彼らを刑に処さなければ、ますます暴動が起きるだろうと考えているオルビアーナは、一切耳を貸さなかった。
きっと、オルビアーナが正しいのだろう。
スーランの考えは甘すぎるのかもしれない。
でも、スーランには彼女のように割り切ることができなかった。
「スーラン王女殿下……?」
ぼんやりと考え事をしていたスーランは、訝しげな声にハッと振り返った。
しかし、そこに警備守備総隊長の姿を認めて小首を傾げた。
「そうだけど、なにか用?」
「いえ、先日お会いしたときと違い、美しく装っておいででしたので」
人違いだったどうしようと思いましたと苦笑した。
スーランは、ははっと乾いた笑いを漏らした。
確かに、あのときは髪も乱れ、酷いありさまだったろう。今は、淡黄色の上品なドレスをまとい、髪も優雅に結い上げているから、驚くのも無理はない。
「申し訳ございません」
突然、警備守備総隊長が、深々と頭を下げてきた。
何事かと目を丸くしたスーランは、彼の体が小刻みに震えているのに気づいて、ゆるく首を振った。彼が何に対して謝罪しているのか、わかったのだ。
「……謝ることなんてないよ。命令だったんでしょ。だれも逆らえない。どっちかが命賭けてたら、無傷でなんていられないんだよ。もしあなたたちが守ってくれなかったら、もっと多くの死傷者が出てたと思う。ありがとう、最低限に留めてくれて」
「そんな……!」
感極まったように首を振った警備守備総隊長は、ブルーリア宮殿へと視線をやり、顔を曇らせた。
「暴徒たちの刑を軽くしようと、尽力なさったとお聞きしましたが……」
「国王陛下が首を縦に振らなければ、どれくらい足掻こうと無理だったけどね」
肩をすくめたスーランに、警備守備総隊長が訝しげに訊ねた。
「なぜ、そこまであの者たちを? これほどの事件を犯せば、死刑が妥当かと存じますが」
「わたしが生まれた村はね、ほかの村に比べて豊かだった。だから、貧しさとか、飢えとか知らないんだ。でもさ、ここに来るまでいろんな村を見て、知ったよ。世の中には、飢餓で苦しんでる人や重税にあえいでいる人がいっぱいいるって。それってさ、辛いよね」
「……」
「国王っていうのはさ、みんなの父親だって思ってた。家族を守るために国があるんだって。でも、本当は、国王は現状をまったく知らないよね。自分の大切な子供たちが、こんなに苦しんでるって。あの人たちは、せっかく苦しいって必死に伝えてきてくれたのに、国王陛下は簡単に切り捨てちゃった。子供じゃなかったのかね。王女だけがいればいいのかな」
独り言のように呟いたスーランは、静かになってしまった警備守備総隊長に気づいて、無駄話だったねと苦笑した。
「いいえ……私が育ったのは、荒れた田畑しかない貧しい村でした。貧困から逃れようと、腕に覚えのあった私は、傭兵からこの地位に登りつめたのです。けれど、年月というのは恐ろしいものですね……。私は、貧しい頃の記憶を忘れ、宮殿での華やかな生活に慣れきってしまった。けれど、貴女のおかげで、目が覚めました」
憑き物が落ちたように、ふっと皺の刻まれた顔に笑みを浮かべた警備守備総隊長は、雲一つない空を仰いだ。
──それは、突然の出来事だった。
怪我人のいなくなった部屋で物思いにふけっていたら、重装備の警備兵が離宮になだれ込んできた。
「ここをどこと心得ますか」
お茶の支度をしていたセリティンが憤然と彼らに食ってかかるが、派手な服装の男が前へ進み出て、鼻先で笑った。
懐から羊皮紙を取り出し、高々と掲げた。
「スーラン王女殿下に身分詐称の容疑がかかっております。容疑が晴れるまで、カナバス塔へ幽閉させていただきます。おとなしく、我々にご同行下さい」
「スーラン王女様!」
セリティンが悲鳴をあげた。
しかしスーランは平静であった。
いつかこの日が来るのはわかっていたからだ。
「セリティン、心配しないで。大丈夫だから」
努めて明るく言ったスーランは、抵抗せずにそのまま連れて行かれた。
離宮のさらに西の方角にカナバス塔があった。周辺を緑に囲まれ、どこか陰鬱な空気がただよい、塔に絡まった蔦がいっそう不気味にみせていた。歴史を刻んだ壁は崩れ落ち、傷みが激しく、美しい宮殿とはまったく趣が違う。
それでも、普通の犯罪者が放り込まれる牢屋より数倍待遇がいいだろう。
カナバス塔は、貴族階級の犯罪者を収容してきたため、王宮の敷地内に建てられているのだ。刑罰が確定されれば、その身は地方に造られた塔へと身柄が移される。
「入れっ」
螺旋状の階段を上がった頂上付近の一室に、スーランは乱暴に押し込められた。
かび臭い、陰惨とした小さな部屋。
高い窓から漏れる明かりだけが頼りだ。
粗末な寝台の上に寝ころんだスーランは、冷たい石壁を見つめた。
セリティンには気丈にふるまったが、やはり独りとなると不安で胸がざわめいた。
(お師匠様は、どうしてるんだろ……)
ここ数日、フェアロンは姿を消していた。いったいどこへ行ったのか、スーランにはわからなかったが、アルツィとエルゼンはなにか知っている様子だった。
けれど、スーランに事情を説明してくれなかった。巻き込みたくないと思っているのだろう。
だが、今はアルツィたちを問い詰めることもできない。
先ほど兵士たちが小声で話していたのを聞いてしまったのだ。
──スーランを王女に仕立て上げた咎により、宰相とアルツィも逮捕されたと。
もしかしたら、同じ塔に囚われているのかもしれない。
つい先日、暴徒たちが刑に処されたのを思い出したスーランは、思わず顔を覆った。
心を開いてくれた者たちが、あっけなく死んでいく現実。
自分の無力さに絶望し、国王を恨んだ。
犯罪者を簡単に釈放できない理由もスーランには理解できたが、それでも救いたかったのだ。
あの憐れな者たちを。
(わたしには、もうっ、なにも残ってないっ!)
スーランは、涙があふれそうになったのを必死に堪え、下唇を噛みしめた。
ここで泣いたって、なにも変わらないのだ。
だったら今は、自分ができることを考えるしかない。
なにか良い案はないだろうかと頭をしぼっていたそのとき、扉の外から複数の足音が聞こえてきた。
スーランが半身を起こすと同時に、鉄製の扉が勢いよく開かれた。
「こちらでお世話をさせていただきます、ロアナと申します」
兵士に連れられて中へ入ってきたのは、庭師のロアナだった。今は侍女の服に身を包み、恭しく頭を下げていた。帽子は被っていないが、長い前髪のせいで表情が見えにくい。
「ロアナ、さん……?」
「さぞ、ご心痛でしょうね。けれど、諦めてはいけませんよ」
兵士が去っていくのを確認したロアナは、驚愕しているスーランの傍に近寄った。
ロアナは刺繍の入った手巾を取り出すと、スーランの唇をそっと拭った。強く噛みすぎて、薄い皮膚が切れてしまったようだ。
「勝負は最後までわからないものです。時の女神シャーロンは、自ら切り開く者にこそ道を示して下さいますわ」
「でもっ、…もう、無理だよ。だって、わたし、」
本当に偽物だから、と小さな呟きが消えていく。
なぜロアナに重大な秘め事を伝えてしまったのかスーランにもわからなかったが、彼女のまとう優しい空気が、そうさせてしまったのかもしれない。
「ならば、本物におなりなさい」
「え?」
彼女は、真実を知っても顔色一つ変えなかった。そればかりか、スーランをたきつけた。
「──さらわれた王女が、生きているはずありませんわ。もう、十五年も経つのです。まだ乳飲み子だった幼い王女が、一人で生きられるはずもありません。それに、さらった者が、王女を生かしておくはずもないでしょう」
「ロアナさん……?」
「だから、あなたが成り代わってしまえばいいのです」
「そん、な……」
「オルビアーナ王女のおかげで、宮廷内もずいぶん腐敗し、まっとうな意見を持った者は次々と辞めさせられました。けれどね、そんな逆境の中でも光はあるのですよ」
ロアナは優しくスーランの頭を撫でた。
母親が娘を撫でるかのような慈しみに満ちた仕草に、スーランは亡き母の姿を重ねた。
「あなたが、その光です」
「わたしが……?」
「たとえオルビアーナ王女の血統が真に正しいものであっても、もう彼女を次期女王にと望んでいる者はほとんどおりません。副宰相の目が怖く、だれも表立って非難の声を上げませんが、近頃オルビアーナ王女の振る舞いは目に余るものばかり……」
ロアナは悲しげに声を落とした。
「彼女では、女王としてこの国を統べることは適わないでしょう。ならば、それに最も適したあなたが、なればいいと思いません?」
「それは、国王に対する反逆だよ」
「国を想えばこその判断、というのですよ。それに、王妃の容態が回復したのをご存じ? まだ公には広まっていないけれど、あなたがくれた解毒剤を毎日飲んでいたら、体が嘘みたいに軽くなったそうよ」
「ぇ……。王妃様が? 捨て、られなかったの? だって、素人が作ったやつを……」
まさか王妃が試すとは思わなかった。
だって、名前だって書いていなかったのに。
そこまで考えたスーランは、ロアナが王妃と親しい間柄かもしれないということを思い出した。もしかしたら、ロアナがすすめてくれたのだろうか。スーランの言葉を信じて。
「王妃はあなたに心から感謝しているようよ。まだ、出歩くことはできないけれど、あなたに会いたいとおっしゃっていたわ」
「そっかぁ……。へへっ、なんか嬉しいや。こんな状況なのにね。わたし…、役だったんだね」
くしゃり、と顔を歪めるスーラン。堪えたはずの涙が、あふれてきそうになった。
「もし、あなたがこの国…いえ、宮廷に巣くった悪を取り除こうと覚悟を決めたのなら、国王を糾弾することです」
「! 国王を……!?」
ロアナは、口元に笑みを浮かべた。
「あなたには、どこか陛下の母君の面影があるもの。正義感の強い、凛とした女性でしたから、今の陛下のふぬけた姿を決してお許しにならないでしょう。もはやオルビアーナ王女と副宰相以外の者からの言葉には耳を貸さない陛下も、亡き母君と雰囲気の似たあなたならきっと心を動かすかもしれないわ」
「わたしにはそんな大役無理だよ……」
スーランは気弱に答えた。
「いいえ、やっていただかなければ困ります。もう、あなた一人の問題ではないのだから」
「ロアナさんは酷い人だね。……母さんみたいって思ったけど、母さんよりずっと厳しい」
「母さん……? わたしが?」
ロアナは驚いたように言った。
「ちょっとね、頭の撫で方とか似てたから……。へへっ、思い出しちゃった。優しくて、いつもお日さまの匂いがして……大好きだったんだ」
「そう……あなただったら……、」
いいわ。そんな声なき声は、スーランに聞こえることはなかった。




