その二
──その夜。
いつもならとっくに夢の中だというのに、今日はなぜか眠れずにいた。
寝返りを何度となく打ち、目をぎゅっときつく瞑ってみるも、頭は冴えるばかりであった。
しかたなく寝台を下りたスーランは、軽く上に薄布を羽織ると、窓辺へと近づいた。
少し欠けた月が、燦然と紺碧の夜空を彩っていた。
(アルツィ……)
銀色の輝きは、アルツィを思い起こさせた。
月の女神の加護を受けたアルツィならば、月光の下でよりいっそう輝くことだろう。
月の光を浴びて佇むアルツィの姿を脳裏に描いたスーランは、眉を寄せた。昼間見た、彼の憂えたような表情が浮かんでは消えていく。
「わたしが、本物の王女だったら……」
呟きが、闇に溶けて消えていった。
静まり返った室内に、スーランのため息だけがこぼれ落ちる。
もし、本物の王女であったなら、現状を打破できたかもしれないのに。
思い悩んでいたそのとき、突然、隣の窓が開いた。
生ぬるい風が部屋に入り込んでくる。
何事かと身を堅くしたスーランだったが、よく知る気配にホッと肩の力を抜いた。
刹那、頭に激痛が走る。
「──……馬鹿者っ、気を抜くな!」
「…っ、たぁ~~っ、なにすんのさ! お師匠様の馬鹿っ、可愛い愛弟子に向かって酷い!」
「ふんっ、知るか」
冷たく聞こえがちな低い美声。
だけど、その素っ気ない中に、ちゃんと愛情がつまっていることをスーランは知っている。
へへっと思わず口元を緩めると、男がスーランの頭をぐしゃりと撫でた。
部屋に差し込む月明かりに照らされて、彼の姿が浮かび上がる。闇に溶けてしまうほど深い色をまとった彼は、怜悧な美貌にうっすらと笑みを乗せた。
なぜ師匠がスーランの居場所を知っているかなんて愚問だ。
師匠は、なんでも知っている。
スーランがいちいち知らせなくとも。
久しぶりに会った師匠にぎゅっと抱きつくと、頭を撫でていた手が優しくなった気がした。
しかし、そんな幸福な時間もつかの間で、すぐに耳を引っ張られた。
「いたっ…、痛いってば!」
「なぜ、こんなところにいる?」
「ま、まあ、いろいろと事情があって……」
「今すぐ離れるぞ」
「ちょっ、お師匠様!?」
耳から手を離した男が、スーランの体に着ていた漆黒の外套を巻きつけると横抱きにした。アルツィやエルゼンよりがっしりとした体躯は、小柄なスーランをすっぽりと包み込んでしまう。
本気で連れ出す気だと悟ったスーランが必死に暴れると、男の足が止まった。
「このままここにいては、お前の身が危険にさらされる。私が許可すると思うか?」
「……っ、!」
師匠が心配してくれてるんだって思ったら、すごく嬉しい。
ふわって胸が温かくなって、くすぐったくなるけれど、ここで流されるわけにはいかなかった。
「でも…っ、でもね、約束したの! わたし、王女となってこの国を救うって」
ぴくり、と男の片眉が動いた。
不快そうに切れ長の目を細めた彼は、スーランが言った内容がおおいに気に入らない様子であった。
なまじ顔が整っているだけに、たったそれだけでも威圧感がある。思わず怯みそうになったが、スーランはじっと師匠の感情を悟らせない闇色の双眸を見つめた。
「ほんとは大罪だってわかってる。ばれたらどうなるかも……。けど、見捨てられないよ。わたしが消えたら、アルツィはきっと困る。そんなのできない。それに、悪をのさばらせておくわけにはいかないんだ。国が腐敗していくのを黙って見過ごせないよ」
「……タイザンのところへやったのは早まったか。一人前の守人気取りで、安い正義感を振りかざす。困ったものだ」
信じられないといいたげに目を見開いたスーランは、小さく唇を噛むと師匠を睨み上げた。
「なんで……、」
腹の底からわき上がってくる、抑えきれない激情。
師匠が、それを言うのだろうか?
悔しくて、腹立たしくて、涙がでそうになった。
「なんで、いまさらそんなこと言うの!? 叔母さんたちのところへ行けって言ったのお師匠様じゃんっ! お師匠様はいつもスゥを置いていなくなる。スゥが泣いても、叫んでも、いつだって……っ。父さんと母さんが死んじゃったとき、ほんとはお師匠様と一緒にいたかったのにっ」
今更言ったって仕方のないことだとわかっていたが、一度開いた口は止まらなかった。
これまでの鬱憤を晴らすように師匠を詰った。
「お師匠様はずるいよ。一人で自由に羽ばたいて……。スゥは……スゥは、お師匠様をいつもじっと待ってることしかできない。いつ現れるのかわからないのを、首を長くして待ってるしかないんだよ……」
「悪かったよ、放っておいて。けれど、私はそう長くひとつの場所には留まってはいられない。すべてはお前を守るため……」
「お師匠様の馬鹿っ。守ってもらっても嬉しくないったら! スゥはそんなに頼りない? 昔に比べたら力だってついたよ。叔父さんだって村の人たちだってわたしを頼ってくれる。なのに……、」
「そうじゃない。……そうじゃないんだ」
スーランの言葉を遮った男は、スーランの気を静めるようにぎゅっと抱きしめる腕に力をこめた。珍しく、彼の双眸が苦しそうに揺れていた。
「もし、私が何者であるか知ったら、お前は私から離れていく。それが怖いんだ」
「離れない! 絶対に。お師匠様が何者であっても。もぅ、離れたくないよ……っ。離れるのは嫌だよっ」
スーランの目が見る間に潤み、透明な雫が頬を伝った。
「スゥをもう独りにしないで……っ。家族を失うのは、もう嫌だよ……!」
普段のスーランだったら絶対に口にしない台詞。ここでの生活は思ったよりも気を張っていたのか、いきなり現れた師匠に甘えているんだっていうことはスーランもしっかりと自覚していた。
でも、駄目なのだ。師匠のあたたかさに触れ、すべてから守るように抱きしめられると、スーランは弱さをさらけ出してしまう。アルツィたちには絶対に見せない、弱い部分を。
「ああ――、わかったよ。お前を傷つけてきたのは私の方、か」
諦めたように嘆息した男は、さらうのを諦めると、天蓋付きの豪奢な寝台の上にスーランの体を横たえた。
「今は、眠れ。私はお前の傍にいる。これからずっと。お前が私を捨てるまでは」
男がスーランの涙を指先で拭うと、目の上にそっと掌を乗せた。
とたん、眠気がスーランを襲う。薄れゆく意識の中で、男の気配をずっと感じていた。




