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第四章   お師匠様


 ──……ガシャンッ


「…ぁ、し、失礼いたしましたっ」


 アーロンの花びらを丁寧な手つきで煎じていたスーランは、その手を止めると、物音がしたほうに顔を向けた。


「ちょっと、大丈夫? ものすごい音だったけど」


 ちょうどお茶の時間帯ということもあり、新しく淹れようとしてくれたのだろう。

 毛足の長い絨毯の上ではなく、固く冷たい飴色の床には、砕け散った陶器の破片が散らばっていた。どうやら、お盆ごとひっくり返してしまったようで、転がった銀の盆が離れたところにあった。


「も…、申し訳ありませんっ、す、すぐに片付けて……っ!」


 駆け寄ってきたスーランに気づいた侍女は、その場で跪いて頭を下げると、慌てて散らばった茶器の欠片を片付けようとした。

 だが、その顔色ははた目からもよくわかるほど青ざめ、欠片を拾う手は小刻みに震えていた。

 動揺しているというよりは、怯えているような姿に、スーランはほんの少しだけ眉を潜めた。


「ほら、そんな手つきじゃ危ないよ。わたしも手伝うから、慌てなくていいって。一緒にやったほうが早く片付くしね」


 スーランもしゃがむと近くにあった破片を拾い始めた。

 それに気づいた侍女が、顔を上げた。


「そ、そんな、スーラン王女様にそんなことさせるわけには……っ、いたっ」


 スーランに気を取られた一瞬、鋭く尖った破片を指先に突き刺してしまったらしい。

 小さく声を上げた彼女が指を離すと、見る間に血の雫が浮かび、滴り落ちた。


「やだっ、大変! 傷の手当てしなきゃ。ほら、こっち来て座って」


 侍女の手を取ったスーランは、その場から離れさせると、長いすへと座らせた。

 俯き、カタカタと震えるばかりの侍女の姿に、懐から軟膏を取り出したスーランは、片眉を上げた。


「なにを恐れてるの?」

「! ……ぁっ」

「大丈夫だって。だれも怒らないよ。失敗なんかだれでもあるんだし。──ってか、顔色ほんと悪いよ? 具合悪いんだったら、少し休んだら? セリティンには言っておくからさ」

「で、ですが……っ」

「スゥの命令だよ! 気分がよくなったらまたお茶を淹れてね」


 にっこりと笑ったスーランは、絹の手巾で血を優しく吸い取ると、軟膏をべっとりと塗った。


「傷はそんなに深くなかったし。すぐ治るよ。……だから、泣かない、泣かない」


 スーランは、自分より年上の侍女の頭を撫でた。

 彼女の大きな目には涙がたまり、今にもこぼれ落ちそうだった。


「ぁ、ありが…とう、ございますっ。わ、わたし、いつもそそっかしくて……、みんなに迷惑かけてばかりで……。このお仕事が向いてないのは、わかっているんです。でも、今辞めさせられるとわたしの家族が路頭に迷って……っ、だから、あの…、もうこんな失態はおかしません。だから……だから、わたしをスーラン王女様の元で働かせて下さいっ。お願いします!」


 必死にそう言いつのる侍女に、スーランは首を傾げて笑った。


「わたしの話、聞いてなかった? 辞めさせるつもりなんかこれっぽっちもないよ。さ、ここはいいからさ。部屋で少し休みな」

「けれど、」

「いいから、いいから」


 スーランは、まだ何か言いたそうな侍女を部屋から追い出すと、大きくため息を吐いた。


(見かけない顔だったけど、新しく来た子だったのかな)


 この離宮で働く使用人の名前と顔は全員覚えていたつもりだったが、このところ初めて見る顔がいくつもあった。セリティンは、その都度、顔を引き合わせてくれるのだが、先ほどの侍女はまだであった。

 スーランがぼんやり考え事をしながら、床に散らばった破片を拾い上げていると、扉が開いた。


「失礼するよ、スーラン」

「アルツィ! お客さんの相手はもういいの?」


 あの舞踏会のあとから、この離宮に出入りする貴族の姿が増えていた。

 その者たちはたいがい宰相支持者であり、副宰相に敵愾心を抱いていた。この離宮に来れば、宰相の息子であるアルツィがいるのは周知の事実であり、宰相との繋がりを持ちたい貴族たちが人目を忍んでやって来ているのだ。


 もちろん、スーラン自身もお茶会や晩餐会に誘われる機会が多くなった。

 アルツィたちの厳しい選別により、オルビアーナを推す者のところへ赴くことはなく、前のように比べられて嫌な思いはしていない。王女らしからぬスーランの振る舞いを気に入ってか、年若い令嬢の多くは好ましくスーランを受け入れているのだ。


「ああ、エルゼンに押しつけてきた。相手を言いくるめるのが得意なのは彼のほうだからね。……それより、この惨状はどうしたの? 子猫が暴れたのかな」


 視線を落としたアルツィは、目を見開いた。


「俺も手伝うよ」


 願ってもない申し出に、スーランはゆっくりと瞬いた。


「アルツィなら、他人任せかと思った。生粋の箱入り息子だもんね。こういう雑用ってやったことないんじゃない?」

「まあ、ね。俺だけだったなら使用人に任せていたよ。けれど、君が進んで行っていることを俺がやらないとでも?」

「セリティンやエルゼンが見たら卒倒しちゃうかも」


 くすりと笑ったスーランは、破片拾いをアルツィに任せて、奥から布の切れ端を持ってきた。そのまま、床に広がった水気を吸い取っていく。細かな破片もくるんで、転がっていた盆の上に乗せたスーランは、そこでアルツィの顔色がよくないことに気づいた。


「アルツィ? 具合でも悪いの?」


 スーランが心配そうに声をかけると、盆を運ぼうとしたアルツィの顔が一瞬、強ばった。けれどすぐに柔らかな笑みを浮かべる。


「いや、なんともないよ」

「うそ──、」

「スーラン王女様、先ほど、ロゥエルが粗相をしたようですが……まぁ、一体、何事です?」


 アルツィの動揺を見抜いていたスーランがとっさに否定したそのとき、申し訳なさそうに入ってきたセリティンが、目の前の光景に唖然としたように口を開けた。

 すぐに現状をくみ取ってか、額に手を当てると深くため息を吐いた。


「スーラン王女様の仕業ですか……まったく、貴女という方はわたくしどもの仕事を奪うのがお上手なのですから。そのような雑務は、貴女の手を煩わせることはないと再三申し上げたのに。……なんです。アルツィ様も一緒になって。このような場面を心ない者に見られたら、どう申し開きをするおつもりだったんです? これでは王女としての威厳もありませんわ」


 アルツィの手から盆を取り上げたセリティンは、片手に盆を持ちながら、もう一方の手で素早く床を綺麗に拭くと、いったん廊下を出て行った。

 それからしばらくして戻ってきたその手には、湯気の上った茶器とお菓子があった。

 セリティンは、てきぱきと円卓の上に並べるとスーランたちに席を勧めた。


「さ、どうぞお召し上がり下さいませ。焼き菓子に思いのほか時間を取られ、お茶の時間帯に遅れて申し訳ありません。その分、わたくしが味の保証を致しますわ」


 セリティンは料理長からお茶の時間帯に食べる焼き菓子を受け取るために席を外していたのだ。

 甘いものに目がないスーランは、いつも料理長お手製のお菓子を楽しみにしていた。

 まず蜂蜜入りの紅茶を一口飲んだスーランは、いつもながらり美味しさにホッと一息吐いた。アルツィがスーランのために隣国から取り寄せた茶葉は、貴族御用達の高級品であり、香りも味わいも格別だ。

 次に白雪のように砂糖がふってある焼き菓子に手を伸ばした。


「うわっ、美味しい! サクッとしてて、まだあったかいし。料理長のところに習いに行こうかな。へへっ、村のみんなにも食べさせてやりたいや。あ、でも。材料費がかかりそう」


 むぅと唸りながらもその顔は幸せそうに綻んでいた。

 それを見つめるアルツィの眼差しは、とても愛おしげであったが、一転してセリティンに投げかける視線は冷たくなった。


「なぜ、スーランの世話を他の者に任せた? 飲み物に毒でも混ぜられていたらどうするつもりだ。精査しているとはいえ、まだ完全に信を置いているわけではない。スーランの口に入るものだけではなく、身につけるものすべてに至るまで、セリティンが執り行うよう命じたはずだけど?」

「そ、れは──」

「まあまあ、アルツィ。いいじゃん、別に」


 言いよどむセリティンが、それでも言い訳するように言葉を紡ごうとしたのをスーランが遮った。


「な……っ、スーラン、俺は……」

「心配してくれるのは嬉しいけど、疑ってばっかりはイヤだよ。わたし、ここの人たちが好きだよ。みんな優しくて、見守ってくれてる。それって、アルツィがわたしのためにいい人材を集めてくれたからだよね? それってすっごく嬉しい。けど、そこまでして選んでくれた人たちのこと、わたしは疑いたくない。たとえ途中から入ってきた新入りでもね。アルツィが決めた人なら、わたしはどんな人だって信じるから」

「──まいったな」


 顔を赤く染めたアルツィは、照れを隠すように片手で顔を覆った。


「そう言われたら、セリティンを糾弾できないじゃないか」


 スーランから寄せられる信頼の大きさを初めて知り、喜びを噛みしめているようだった。


「ねぇ、セリティン。さっきの子って、いつからいたの?」


 クッキーを食べながら、畏まるセリティンに問いかける。

 セリティンの顔には、安堵の表情が浮かんでいた。スーランが庇ってくれなければ、最悪解雇されていたかもしれないのだ。


「つい先日こちらに配属されました。慣れてからご挨拶に伺わせようと思っていたのですが、まさかわたくしの代わりに不慣れなロゥエルを給仕にあたらせているとは存じ上げず、ご迷惑をおかけいたしました。本来なら、わたくしの代わりはアーベルが務めるところでしたのに」


 給仕を頼んだアーベルが、よもやロゥエルにその責務を任せていたとはセリティンも思わなかったのだろう。

 侍女長であるセリティンにしてみれば、まさに不測の事態。

 礼儀や作法に厳しいセリティンだけに、まだ主人に挨拶もすませていない者が、給仕するのはもってのほかだったようだ。


「オルビアーナ様がいらっしゃるブルーリア宮殿のほうで働かせていただいたようですが、あの通り不器用なところがございますから……」

「ふぅん。追い払われたってわけか。でも、それにしては様子がおかしかったようだけど?」

「それは……」


 困ったように瞳を揺らしたセリティンは、主人ではなく、アルツィの反応を窺った。

 すでに顔の赤みが引いたアルツィは、紅茶を飲み干すと、ちらりとセリティンに視線をやった。一瞬、咎めるように眉を寄せたものの、このまま黙っていてもスーランが納得しないのを見越してか、仕方なさそうに頷いた。

 許可が出て、ホッとした表情を浮かべたセリティンが、ゆっくりと口を開いた。


「オルビアーナ様は、自分が気に入らない者を陛下に告げ口して、解雇させているようですわ。七日ほど前にも、オルビアーナ様に粗相を働いた侍女が暇をいただいたと。それ以来、オルビアーナ様の侍女や使用人は戦々恐々と過ごしているようですわ。明日は我が身とばかりに。……覚えていらっしゃいますか? スーラン王女様が、お声をおかけになった侍女のことを」

「軟膏を塗ってあげた?」

「ええ。その者も、オルビアーナ様の髪を梳いている際、櫛に御髪を引っかけたという咎で城を追われたそうですわ」


 では、あの傷はオルビアーナから折檻を受けたときのものだろうか?

 それとも自分で……?

 どちらにせよ、いい状況とはいえないだろう。

 スーランは、眉間に皺を寄せ難しそうな顔を作ると、セリティンに訊いた。


「だからさっきの子は、怯えてたの? わたしがオルビアーナ王女のようになるんじゃないかって」

「はい。わたくしの指導不足です。そのようなことはないと何度も説いたのですが、ブルーリア宮殿でのことがあまりに衝撃的だったようで……。ロゥエルは、次に失敗すれば、首になるか、それとも命を失うかもしれないと思い詰めていたようですわ」

「そこまで……?」

「けれど、スーラン王女様の気取らない優しさに触れ、涙を流して喜んでいましたよ。また機会をいただけるのならば、今度こそしっかりこなしたいと」

「そっか……うん、楽しみにしてるって言っておいて」

「──ありがとうございます」


 セリティンは、深々と頭を下げた。

 スーランは、セリティンから視線を逸らすと、口を挟もうとしなかったアルツィと目を合わせた。

 冷たく見えがちな蒼の双眸と、炎を宿した紫の双眸が絡み合う。


「アルツィ、どういうこと? オルビアーナ王女の暴挙がなくなるどころか悪化してるじゃん。これじゃ、わたしがなんのためにいるかわからないよ。あの舞踏会は、意味なかったの? 国王からオルビアーナ王女を引き離すことなんて出来やしなかった! 次の手を考えないと、国王はわたしのことなんか忘れちゃうよ」

「わかっているよ、スーラン。けれど、表立って動けない状況下にあるんだ。どうやら、副宰相が本格的に動き出したようでね。オルビアーナを使って、宰相派の大臣を次々と罷免し、副宰相の息の根がかかった者たちをその地位に就けているんだ。もちろん父上は陛下に、罪のない有能な者たちを解雇するのはいかがなものかと、訴えたそうだけれど、聞き入れられなかった。今、事を荒立てれば、信の厚い父上でさえ陛下の反感を買うのは目に見えている」

「だからって……っ」


 スーランは悔しそうに地団駄を踏んだ。

 なにもできないのが、歯がゆい。

 今の副宰相には、アルツィの父を宰相の地位から退かせることなど赤子の首を捻るより簡単なことだろう。

 つけいる隙を与えないためには、大人しくしているしかない。

 頭では理解しても、現状を考えるとやるせなかった。


「今は我慢して欲しい。父上の立場が危うくなれば、俺たちの計画は無に帰してしまう。それはなんとしてでも避けないといけないんだ」

「アルツィ……」


 声音は淡々としていたが、その蒼の双眸に潜む激情は消せなかった。

 だれよりも辛いのは、アルツィたちだろう。

 せっかく、スーランが国王の目に留まったというのに、オルビアーナにまた奪われてしまったのだから。

 副宰相派が日増しに増えていく中で、真正面から立ち向かうのは、骨が折れるはず。


(わたしは、ただいることしかできない……)


 それが、スーランには悔しかった。





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