被告席の芸術家ー[2]
《終幕庁》本部。理事会室。
重厚な扉を開けると、長い楕円形のテーブルが目に入った。その周囲に、十数名の人間が座っている。
理事五名。長官一名。副長官ガルシア・モンターニュ。監察部からルカ。書記官数名。そして——テーブルの上座に。
グスタフ・ベッカー。
六十代後半。痩せた体。銀縁の眼鏡。冷たい目。——一見すると、ただの官僚にしか見えない。地味で、目立たず、誰の記憶にも残らないタイプの男。
だが俺の《万象観劇》は——見逃さない。
ベッカーの因果の糸。真っ黒だった。
黒——だが、かつて視た《鉄の審問官》ヴァルトラウトの黒とは質が違う。あれは、暴力的な黒だった。ベッカーの黒は——冷たい黒。感情のない黒。計算と支配だけで構成された、無機質な闇。
この男は——怒らない。泣かない。笑わない。全てを数字で判断し、損得で動く。
つまり——感情に訴える俺の手法が、最も効きにくい相手だ。
「レヴィアン・グラース。入れ」
副長官ガルシアの声。四十代の男。厳格な顔つき。ベッカーの弟子——と、ルカは言っていた。
俺はテーブルの一番端——被告席に案内された。ニーカは俺の後ろに立つことを許された。護衛として。
「さて。臨時理事会を開会する」
ガルシアが議事進行を始めた。長官は——最上席に座っているが、何も言わない。老齢の男で、実権はガルシアに握られているのだろう。
「本日の議題は、《一番手》レヴィアン・グラースの活動に関する査問である。ベッカー理事より、議題の提案理由を説明いただく」
ベッカーが立ち上がった。
「ありがとう、副長官」
声が——平坦だった。感情がない。報告書を読み上げるような声。
「《一番手》レヴィアン・グラースは、《黒幕連》幹部の排除任務において、複数の標的を〝殺害せず〟に処理しています。自主出頭、保護、無力化——いずれも、暗殺とは言えない手法です」
「……」
「《終幕庁》は国家公認の暗殺者ギルドです。我々の存在意義は〝合法的な処刑代行〟にあります。標的を殺さないのであれば——それは暗殺ではなく、ただの交渉です。交渉であれば、外交官の仕事であって、《執行者》の仕事ではない」
理路整然としている。反論しにくい。——論理だけで言えば、ベッカーの指摘は正しい。
「よって、レヴィアン・グラースの《一番手》資格を剥奪し、《終幕庁》からの除名処分を提案します」
除名。資格剥奪だけではなく、追放。
理事たちがざわめいた。さすがに除名は重い処分だ。《黒幕連》を壊滅させた英雄を追放するのは——政治的にもリスクがある。
「ベッカー理事。除名は些か厳しいのでは。レヴィアン・グラースの実績は——」
理事の一人が異議を挟んだ。
「実績は認めています。しかし、手法が問題なのです。殺さない暗殺者が《一番手》の地位にある限り、他の《執行者》に〝殺さなくてもいい〟という前例を与えてしまう。制度の根幹が揺らぐ」
ベッカーは淡々と語っている。感情を交えず、論理だけで。この男は——自分の保身のために俺を排除しようとしているのに、それを「制度の問題」にすり替えている。
巧妙だ。五十年間、組織の中枢に居座ってきた男の処世術。
「ガルシア副長官。被告——レヴィアン・グラースに弁明の機会を与えます」
「認めます。レヴィアン・グラース、弁明を」
俺の番だ。
立ち上がった。テーブルの端から——全員を見渡す。
理事五名。ベッカーの目が光っている。冷たく、計算高い目。
ガルシアは無表情。ベッカーの弟子。
長官は沈黙。
ルカは——俺と目が合った。微かに頷いた。準備はできている、と。
「弁明、ということですが」
俺は口を開いた。
「まず一つ、訂正させていただきたい」
「何をだ」
「俺は——標的を〝殺さなかった〟のではなく、〝殺す必要がなかった〟のです」
「同じことだ」
「違います。暗殺の目的は〝標的の排除〟です。排除とは、標的が二度と同じ罪を犯せない状態にすることです。殺害はその手段の一つに過ぎない。自主出頭させても、スキルを喪失させても、社会的に機能不全に追い込んでも——排除は達成されている」
「詭弁だ。暗殺とは——」
「暗殺とは何ですか、ベッカー理事」
俺はベッカーの目を真っ直ぐ見た。
「この組織の正式名称は《終幕庁》です。〝殺し屋ギルド〟ではない。〝終幕〟——物語の結末を与える庁です。殺すことが目的なのではなく、物語に結末を与えることが目的のはずだ。それとも——この組織の名前は、ただの飾りですか」
ベッカーの目が——ほんの一瞬だけ、細くなった。怒りではない。警戒。この男は、俺が何かを仕掛けようとしていることに気づいている。
「名前の解釈で制度の運用を変えるのは——」
「では、制度の運用について話しましょう。ベッカー理事。あなたは〝暗殺制度の根幹〟を守りたいと仰った。では——その制度を誰が作ったのか、理事会の皆様はご存じですか」
その時、場の空気がピリッとしたものに変わった。
「この組織の制度設計には、先日出頭したヴィットリオ・フィナーレが関わっていた。これは既に公になっている情報です。では——ヴィットリオと共に制度を作った人物は、誰ですか」
ベッカーの顔色が変わった。ほんの僅かだが——変わった。無表情の鉄仮面に、最初のヒビが入った。
「それは本件とは無関係だ。査問の議題は——」
「無関係ではありません」
ここだ。
「ガルシア副長官。査問の場において、被告には関連する情報の提出権があるはずです。俺の活動が〝制度の根幹を揺るがしている〟と言われるなら——その制度の根幹がどう作られたかを検証する権利がある」
ガルシアが——ベッカーを見た。ベッカーは微かに首を振った。許すな、という合図。
だがガルシアは——少し迷った後、口を開いた。
「……認めます。ただし、本件との関連性を示してください」
ガルシアはベッカーの弟子だが——理事会という公の場で、あからさまにベッカーの指示に従うわけにはいかない。体裁は守らなければならない。
その隙間を——使う。
「では。——監察部のルカ・ヴァレンティ監察官に、関連する調査報告をお願いしたい」
「は?」
ガルシアが眉を上げた。
「監察官の報告は本件の査問とは——」
「関連しています」
ルカが立ち上がった。薄笑いは消えている。鋭い目、監察官の顔だ。
「ガルシア副長官。わたくしは監察部として、《終幕庁》の設立経緯に関する内部調査を行いました。本査問の議題——〝暗殺制度の根幹〟に直接関わる報告です。ご許可をいただければ、この場で報告いたします」
ガルシアがもう一度ベッカーを見た。ベッカーの目は冷たいまま。だが——顎の筋肉がわずかに動いた。歯を食いしばっている。
ガルシアが判断を下す——その一瞬の間に。
「副長官。監察部の報告権限は、理事会のいかなる議事においても保障されています。これは《終幕庁》設立規約第十四条に明記されている事項です」
ルカが規約を引いた。ガルシアに拒否の選択肢を与えないために。
「……認めます。報告を」
ガルシアが苦い顔で許可した。
ルカが口を開いた。
「《終幕庁》の設立資金について、報告いたします」
ベッカーの手が——テーブルの下で握りしめられた。俺の《万象観劇》には見えている。黒い糸が——揺れ始めた。
「五十年前、本組織の設立にあたり、制度設計をヴィットリオ・フィナーレが、資金面をある財務省官僚が担当しました。この官僚は現在も本組織の理事として在籍しています。——グスタフ・ベッカー理事です」
理事たちがざわめいた。
「それ自体は知られている事実です。ベッカー理事が設立に功績があったことは——」
「はい。功績は認められています。しかし——設立後五十年間にわたり、ベッカー理事が行ってきた別の活動について、報告しなければなりません」
ルカが——暗記した内容を、読み上げ始めた。
「ヴァイスハイム市。財務官ヘルマン・ブラウト。公金横領。横領資金の八割が匿名口座を経由してベッカー理事に送金されていた。ブラウト本人の証言あり」
「フレーデン市。工務長官ディートリヒ・ヴォルフ。公共事業費の水増し。同様の送金構造。本人の証言あり」
「ハイリゲン市。税務官クラウス・マイヤー。税収の不正操作。本人の証言あり」
「グリューネ市。港湾管理官オスカー・ハフナー。港湾使用料の水増し。本人の証言あり」
「シュタインバッハ市。教育長官ハンス・リート。教育予算の水増し。本人の証言あり」
五人の名前。五つの都市。五つの証言。
ルカの声が、理事会室に——反響した。紙に書いていない。全て口頭だ。握り潰せない。消せない。
「以上五名の証言は、全て独立した聴取で得られたものであり、相互の連絡はありません。にもかかわらず——五名全員が、同一の名前を証言しています。グスタフ・ベッカー」
理事会室が——静まり返った。
ベッカーは動かなかった。
表情を変えず、姿勢を変えず、ただ——座っていた。
「……監察官。その証言の信憑性は」
ベッカーが口を開いた。声は平坦なまま。
「五名とも犯罪者です。犯罪者の証言に、どれほどの信憑性がある? 自分の罪を軽くするために、上の人間の名前を出すのは——常套手段でしょう」
「もっともなご指摘です。ですから——物的証拠も添えます」
ルカがポケットから一枚の紙を取り出した。
「え……紙は持ち込まないと——」
「証言は暗記しました。ですが、これは証言ではありません。——送金記録です」
ルカがテーブルの中央に紙を置いた。
「五つの都市からベッカー理事の個人口座に至る資金の流れを、金融機関の協力を得て追跡しました。過去十年分の記録です。——ベッカー理事。ご確認いただけますか」
ベッカーが送金記録を見た。
数秒間。
その数秒間で——俺は《万象観劇》でベッカーの因果の糸を視ていた。
黒い糸が——震えている。だが表面上は、まだ鉄仮面を保っている。
「……これは偽造だ」
「偽造ではありません。金融機関の公式記録です。照合はお好きにどうぞ」
「副長官。この監察官は——明らかに越権行為を——」
「ベッカー理事」
俺が立ち上がった。
「俺の査問は、まだ終わっていないはずだ。——弁明の続きをさせてもらう」
ガルシアが俺とベッカーを交互に見た。迷っている。ベッカーの弟子として庇うべきか、副長官として手続きを守るべきか。
「……認めます。弁明を続けてください」
ガルシアが手続きを選んだ。ベッカーの目が一瞬、ガルシアを射抜いた。裏切り——ではない。ガルシアは裏切ったのではなく、自分の立場を守っただけだ。だがベッカーにとっては同じことだ。
「ベッカー理事。あなたは俺の手法——〝殺さない暗殺〟が制度の根幹を揺るがすと仰った。では、あなたが制度の根幹に何をしたか、話してもらえますか」
「私は制度を——守ってきた」
「守ってきた? 五つの都市から公金を吸い上げ、善良な役人を脅して末端にしたて上げて。それが——制度を守ることですか」
「……」
「ブラウトは妻の治療費のために。ディートリヒは孤児院のために。ハフナーは港の安全のために。リートは子供たちの図書館のために。——全員が、誰かを守りたくて横領に手を染めた。その弱みに付け込んだのが——あなただ」
理事たちの表情が変わっていく。ベッカーを見る目に——疑念が浮かんでいる。
「善人の弱みに付け込み、犯罪に引きずり込み、逃げられなくする。そして自分は安全な場所から金だけを吸い上げる。——五十年間。あなたはそれを〝制度を守る〟と呼んでいた」
「……証拠はある。だが、動機はない」
ベッカーが——まだ戦っている。
「私には動機がない。金は全て組織の運営に使っている。個人的な蓄財はしていない」
「組織の運営に使っている? どの組織のですか、ベッカー理事」
「《終幕庁》の——」
「本当に?」
ベッカーの目が——初めて、揺れた。
「ヴィットリオ・フィナーレの供述によれば——あなたは《終幕庁》だけでなく、《黒幕連》にも資金を流していた。表と裏、両方の組織に。——それは組織の運営ですか? それとも——あなた個人の支配構造の維持ですか」
——ここで、ベッカーの鉄仮面に二つ目のヒビが入った。
「ヴィットリオの証言は——あの男は犯罪者だ。信用に値しない」
「では、ヴィットリオが証言していない事実を——一つだけ、追加しましょう」
俺はコートの内ポケットに手を入れた。
《幕引きの栞》に触れた。温かい。先生の温もりだ。
「十年前。ヴァリオン市で、一人の演出家が殺されました。名前は——マルコ・アルテシアーノ」
ベッカーの手が——テーブルの下で、痙攣した。
俺の《万象観劇》が視ている。ベッカーの黒い糸に——赤が混じった。初めて。恐怖の赤。
「マルコ・アルテシアーノは——《終幕庁》の暗部を知り、告発しようとした民間人です。そして——口封じに殺された。殺害を命じたのは——制度を〝守る〟ために、真実を語ろうとした人間を消した人物です」
「……」
「ベッカー理事。マルコ・アルテシアーノの名前に——覚えはありますか」
理事会室が、完全に静まった。
ベッカーの顔から——全ての色が消えた。鉄仮面ではない。空白だ。
「……知らんな」
「知らない?」
「知らない。マルコ何某という名前は——聞いたこともない」
嘘だ。俺の《万象観劇》が見ている。ベッカーの因果の糸に〝嘘〟の歪みが走っている。この男は——知っている。知っていて、嘘をついている。
だが——それを証明する手段がない。
《万象観劇》で見える因果の糸は、法的な証拠にはならない。五人の証言と送金記録は横領の証拠にはなるが、十年前の殺人の証拠にはならない。
ヴィットリオの証言がある——が、ヴィットリオ自身が犯罪者だ。そしてヴィットリオは公式の供述では師匠の名前を出していない。俺を守るために。
……詰んでいる?
いや。まだだ。
「ベッカー理事。あなたが〝知らない〟と仰るなら、それはそれで構いません。——マルコ・アルテシアーノの件は、今後の調査に委ねましょう」
「……」
「ですが——横領の件は動かぬ証拠がある。五人の証言と、送金記録。これは否定できない」
ベッカーが——ゆっくりと立ち上がった。
「……レヴィアン・グラース」
「何だ」
「お前は——マルコ・アルテシアーノの弟子か」
——来た。
この質問を待っていた——わけではない。だが、来ることは分かっていた。
「ああ」
「……やはりな。栞を持っていることは知っていた。だが確信がなかった。——今、確信した」
「あなたが師匠を殺させたのか」
「……殺した、だと? 私は誰も殺していない。命じたこともない」
「《万象観劇》で因果の糸が視える。あなたの糸は——今、嘘の色に歪んでいる」
「因果の糸など——法的な証拠にはならんだろう」
「ならないだろうな。だが——この場にいる全員が見ている。あなたの顔を。あなたの声を。あなたの揺れを。——法的な証拠がなくても、人間の目は誤魔化せない」
理事たちがベッカーを見ている。五十年間信頼してきた理事を——疑いの目で。
「ベッカー理事。横領の件だけでも——あなたの理事資格は剥奪に値します。師匠の件は——これから調査する。必ず調査する。逃がさない」
「……」
ベッカーが——俺を見た。
初めて——感情が見えた。あの無機質な黒い糸の中に——怒りが灯った。
「……お前は、何を分かっている。何も分かっていない。私は——この組織を五十年間支えてきた。金を集め、制度を守り、暗殺が野放しにならないように——秩序を維持してきた。その過程で——犠牲は必要だった。マルコ・アルテシアーノは——秩序のための犠牲だったのだ」
——認めた。
全員の前で。理事会の場で。
マルコ・アルテシアーノが——秩序の犠牲だっ|たと。
「……ベッカー理事。今——ご自身で仰いましたね。マルコ・アルテシアーノは犠牲だった、と」
ベッカーが—、分が何を言ったか、気づいた。
感情が——五十年間の鉄仮面を破った。怒りに突き動かされて、認めてはいけないことを——認めてしまった。
「……取り消す。今の発言は——」
「取り消せません」
ルカが言った。冷静に。
「理事会の議事録は、書記官が記録しています。全ての発言は——公式記録として残ります」
ベッカーが——書記官を見た。書記官は怯えた顔で、だがペンを止めていなかった。全てを記録している。
「……」
ベッカーの鉄仮面が——完全に崩壊した。
黒い糸がばらばらに散っていく。五十年間張り巡らした支配の構造が、一つの失言で——瓦解した。
「ガルシア副長官。本査問の議題を——変更します」
ルカが宣言した。
「レヴィアン・グラースの資格剥奪の審議は棄却。代わりに——グスタフ・ベッカー理事の理事資格停止および身柄拘束を提案します。横領の証拠は充分。加えて——マルコ・アルテシアーノ殺害への関与について、正式な捜査を開始する必要があります」
ガルシアが——長い沈黙の後、口を開いた。
「……異議なし」
ベッカーが——ガルシアを見た。裏切り、という目で。
だがガルシアは——目を伏せた。弟子は——師を見捨てた。いや——見捨てたのではない。秩序を選んだのだ。ベッカーが本当に組織を汚していたなら——組織の秩序を守るために、ベッカーを切る。それがガルシアの信念だ。
ベッカーは抵抗しなかった。
ルカが呼んだ護衛官に両腕を取られ、理事会室から連行される。
扉の前で——ベッカーが振り返った。俺を見た。
「……お前の師匠は——馬鹿な男だった。秩序を壊そうとした。私は秩序を守っただけだ」
「……」
「秩序のない世界で、何千人が死ぬか——お前に分かるか。私が五十年間守ってきたものの重さが——」
「ベッカー。一つだけ教えてやる」
俺は——コートのポケットから、《幕引きの栞》を取り出した。
「師匠は馬鹿な男だった。秩序を壊そうとした——お前の言う通りだ。だが、師匠は〝秩序〟ではなく〝人〟を見ていた。秩序のために人を犠牲にするお前とは——逆だ」
「……」
「そして師匠は——死ぬ前に、俺にこの栞を託した。〝物語は終わらない〟という栞を。お前が師匠を殺しても——師匠の物語は続いている。俺の中で。俺の弟子の中で。——お前に打ち切ることは、できなかったんだ」
栞が——光った。強く。理事会室全体を照らすほどに。
ベッカーが——目を細めた。光が眩しかったのか。それとも——別の理由か。
「……馬鹿な弟子だ。師匠に似て」
それがベッカーの最後の言葉だった。
護衛官に連行されて、扉の向こうに消えていった。




