四幕目の前に、幕が降りるー[1]
急げ。
芸術家の語彙としては最悪の一語だ。芸術に急ぎは禁物。作品は十分な時間をかけて完成させるものであって、締切に追われて作るものではない。
——と、かつての俺なら言っていた。第一作の時、七日間の遂行期限を「馬鹿を言うな」と突っぱねていたあの頃の俺なら。
だが今は、急がなければ死ぬ。
ベッカーが動く前に、五つの証言を揃える。揃えられなければ——師匠の物語の最終幕は書けない。それどころか、俺の物語が先に打ち切られるかもしれない。
……打ち切りは許さない。俺の物語も、誰の物語も。
グリューネ市。南部の港町。海風が塩辛い。
「レヴィアン様。グリューネ市の〝末端〟は——港湾管理官のオスカー・ハフナーです」
ニーカが馬車を降りながら報告した。
「港湾管理官? 港の管理か」
「はい。港の使用料を水増しし、差額をベッカーに送金しています。ルカの資料によると、この男は——」
「待て。まず自分の目で見る」
俺は《万象観劇》を起動した。
港の方角に——灰色の糸。やはりだ。ブラウト、ディートリヒと同じ色。罪悪感と疲弊。そして——黒い糸が上に向かって伸びている。ベッカーへの恐怖の糸。
だが——灰色の糸の中に、もう一つの色が混じっている。青。
「……青い糸がある」
「青?」
「悲しみの色だ。だが罪悪感の灰色とは違う。もっと——純粋な悲しみ。何かを失った悲しみ」
「エリザベッタ。この男の〝物語〟を推理できますか」
ニーカがエリザベッタに振った。
「……港湾管理官。港の使用料の水増し。純粋な悲しみ。——海に関わる喪失。もしかしたら……海で誰かを失った?」
「推測だが、筋は通る。調べよう。——ニーカ、この街の過去十年の海難事故の記録を」
「承知しました」
「エリザベッタ。港の周辺を歩いて、ハフナーの評判を聞いてきてくれ。普通の旅人として。衣装はいらない。素のままでいい」
「はい」
二人が行った。俺は港の岸壁に腰を下ろし、手帳を開いた。
四つ目の末端。あと一つ——フィーネ班のシュタインバッハが終われば、五人分の証言が揃う。
手帳に書く。
『グリューネ市。四人目の末端。因果の糸に青——純粋な悲しみ。海に関わる喪失。エリザベッタに脚本を任せる。……正直に言えば、今の俺は冷静な脚本が書けるか自信がない。ベッカーが師匠を殺した男だと知ってしまった以上、〝末端〟の人間に対しても——無意識に〝ベッカーの手先〟というフィルターがかかってしまう。だから脚本はエリザベッタに任せる。俺は演出に集中する。……これは弱さの告白ではない。適切な役割分担だ。——と、思いたい』
◇◇◇
調査結果は半日で揃った。急いでいるだけに、全員の動きが早い。
ニーカの報告。
「八年前。グリューネ港で大規模な嵐がありました。漁船七隻が沈没。死者十九名。——その中に、オスカー・ハフナーの妻と息子がいました」
「……またか」
ブラウトは妻の治療費。ディートリヒは孤児院。そしてハフナーは、海で家族を失った男。
「嵐の後、ハフナーは港の安全設備の拡充を訴えましたが、予算がつかなかった。市の財政が逼迫していたためです。そこに——」
「ベッカーが現れた」
「はい。〝港湾使用料を少し水増しすれば、安全設備の予算を捻出できる。誰にも迷惑はかからない〟と。ハフナーは——妻と息子のような犠牲者を出さないために、その提案を受けた」
「安全設備のために横領を始めた。そしてベッカーに取り込まれた」
「はい。実際に安全設備は拡充されています。ハフナーの在任中、グリューネ港での海難事故は激減しました。——横領のおかげで」
……救いがたい皮肉だ。犯罪の結果として、人が助かっている。
「エリザベッタ。脚本は」
「……書けます。ですが——レヴィアン。この人を告発したら、安全設備の予算が途絶える可能性があります。港がまた危険になるかもしれない」
「分かっている。だから——告発と同時に、安全設備の予算を正規のルートで確保する段取りを組む」
「正規のルート?」
「ルカ・ヴァレンティに連絡する。ルカは監察部の人間だ。《終幕庁》の権限で、市に安全設備予算の特別支給を勧告できる。——ハフナーが捕まった後も、港の安全は守られる」
「……レヴィアン。それは〝暗殺〟の範囲を超えてますよ」
「超えている。だが——港が危険になって人が死んだら意味がない」
エリザベッタが少しだけ、微笑んだ。
「……お父様とは、逆ですね。お父様は〝秩序のために人を犠牲にした〟。レヴィアンは〝人のために秩序を曲げる〟のですね」
「曲げてはいない。拡張しているだけだ」
「安全管理の拡張ですか」
ニーカが横から言った。安全管理を使うのは俺じゃなくて、お前だろう。
「……とにかく、脚本を書いてくれ。第三幕の舞台は——」
「港です。ハフナーが毎日見ている海。妻と息子を呑み込んだ海。そして——ハフナーが命を懸けて安全にした海。……あの海の前で、全てを語ってもらいます」




