終幕を拒む者たちー[3]
ヴィットリオ・フィナーレの屋敷は、王都の高級住宅街にあった。
品のいい邸宅だ。門には薔薇が咲き、庭は丁寧に手入れされている。引退した劇場支配人の隠居先として、申し分ない雰囲気。
——ここに、大陸の暗殺世界を五十年間支配した男が住んでいる。
俺は門前に立ち、呼び鈴を鳴らした。ニーカが隣にいる。他の三人は近くの広場で待機だ。
門が開いた。使用人らしき老婦人が出てきた。
「どちら様でしょうか」
「レヴィアン・グラースと申します。《終幕庁》の《執行者》です。ヴィットリオ・フィナーレ様にお目にかかりたいのですが」
老婦人が一瞬、目を細めた。俺を値踏みするような視線。それから——微笑んだ。
「お待ちしておりました。旦那様から、〝若い芸術家が訪ねてくるだろう〟と伺っております。どうぞ、お入りください」
……待っていた、だと?
門をくぐり、庭を抜け、屋敷の中へ案内された。
通されたのは——書斎だった。壁一面の本棚。戯曲の初版本、演劇の理論書、演出家の手記——ここだけで図書館が一つ作れそうな蔵書量だ。
窓際の椅子に、老人が座っていた。
白髪を後ろに撫でつけ、仕立てのいい服を着ている。七十代か。背筋が真っ直ぐだ。引退した劇場支配人。文化人。紳士。
——だが、俺の《万象観劇》は見逃さない。
この男の因果の糸は——黒と金の二色だった。
黒は〝終わり〟の色。全てを閉じる力。《強制終幕》の色。
金は〝支配〟の色。五十年間の暗殺世界の支配者としての糸。
この二色が、穏やかな老紳士の姿の下で——静かに渦巻いている。
「ようこそ、《破滅の芸術家》。——いや、レヴィアン・グラース君、と呼ばせてもらおうか」
穏やかな声。知性と品性を感じさせる話し方。
「……ヴィットリオ・フィナーレ」
「ああ。その名で呼んでくれ。〝演目〟の名前は——もう使わないでほしい。あれは若い頃の過ちのようなものでね」
「若い頃の過ち? 《黒幕連》を作ったことが、か?」
「おや。もう調べがついているのか。……まあ、そうだろうね。君の調査能力は、報告書で読んでいるよ。——《終幕庁》の報告書でね」
「……やはり、《終幕庁》の中にも、お前の目があるのか」
「目というか——私が作った組織だからね。隅々まで、知っているよ」
涼しい顔で言う。五十年間、表と裏の両方から暗殺の世界を支配してきた男の余裕か?
「お茶を入れよう。話は長くなりそうだ」
「……ああ。いただこう」
ニーカが俺の隣で緊張しているのが分かる。だが——ここで硬くなっても仕方ない。相手は話す気でいる。なら、聞こう。
老人が自らお茶を注いだ。使用人にやらせず、自分で。その手つきは——慣れている。
「さて、君は私に何を聞きたい?」
「一つだけだ。——なぜ、こんなことをしている」
「こんなこと?」
「《黒幕連》。七つの演目。暗殺を〝演劇〟として組織化し、使い捨ての兵器を作り、戦争を引き起こし、人を死なせてきた。——なぜだ。何のためだ」
ヴィットリオが、お茶を一口飲んだ。
「……君は〝暗殺は芸術だ〟と言うそうだね」
「ああ」
「私もかつて、同じことを思っていた。若い頃——君くらいの年の頃にね。暗殺は芸術だ。死に美しさを。物語を。……だが」
老人の目が——遠くなった。
「五十年もやっていると、分かるんだよ。物語に意味なんかないとね」
「…………」
「どんなに美しく演出しても、人は死ぬ。どんなに物語性を持たせても、死んだ人間は戻らない。遺された者は泣く。憎む。忘れる。そして——次の物語が始まる。延々と。終わりなく」
「…………」
「終わらない物語は——苦痛だ。私はそう悟った。だから《黒幕連》を作った。物語を〝終わらせる〟ための組織を。人々の苦痛を——〝幕を降ろす〟ことで、終わらせる」
「それは——暗殺を正当化しているだけだろう」
「そうかもしれない。だが——結果を見てくれ。《終幕庁》と《黒幕連》。この二つが表と裏で機能することで、この大陸の暗殺は秩序を持った。野放しの殺し合いではなく、制度化された〝終わりの技術〟として。——それは、悪いことだったかね」
「…………」
答えに詰まった。
悔しいが——一理ある。暗殺が完全に制度の外にあった時代に比べれば、《終幕庁》の存在は暗殺を〝管理可能〟にした。被害を最小限に抑え、無差別な殺しを減らした。
だが——
「一理あるかもしれない。だが、お前は使い捨ての兵器を作った」
「…………」
「ニーカ。ルナ。《即興劇》。——名前を消され、感情を消され、物語を打ち切られた子供たちを、暗殺の道具にした。それが——〝秩序〟か?」
ヴィットリオの表情が——初めて、曇った。
「……それは」
「それだけは——お前の〝理屈〟では正当化できないだろう。子供たちの物語を打ち切って、道具にして、用が済んだら捨てた。——お前のスキルで物語を終わらせたんだろう」
「…………」
ニーカが——俺の隣で、震えていた。怒りではない。もっと深い感情。この男の前に立つことの重み。自分の人生を〝終わらせた〟張本人の前に。
ヴィットリオが——長い沈黙の後、口を開いた。
「……君の言う通りだ。あれは——私の最大の罪だ」
「…………」
「〝物語を終わらせる〟ことが正しいと信じるあまり——始まってすらいない物語を終わらせた。名前も、感情も、未来も——全てを。それは……慈悲ではなかった。ただの——暴力だった」
老人の手が——かすかに震えていた。
「レヴィアン。……君に聞きたいことがある」
「何だ」
「あの子たちは——ニーカ・エスペランテは。ルナは。《即興劇》は。……幸せになれたかね」
俺は——ニーカを見た。
ニーカは目を赤くしていたが、真っ直ぐにヴィットリオを見ていた。
「……レヴィアン様」
「何だ」
「わたしから——答えてもいいですか」
「…………ああ」
ニーカがヴィットリオの前に立った。
「わたしは——いま、幸せです」
「…………」
「あなたに名前を消され、道具にされ、捨てられた。呪印を刻まれて、死にかけた。……でも——レヴィアン様に出会った。物語を途中で打ち切るなと言ってくれた。わたしの物語には続きがあると言ってくれた」
「…………」
「今、わたしは劇団の大道具係です。変な肩書きですけど——わたしの居場所です。わたしの物語は——続いています」
ヴィットリオの目から——涙がこぼれた。
老人が、泣いている。
「……そうか」
「はい」
「……そうか。続いているか。……よかった」
しわくちゃの顔が、涙で歪んでいた。五十年間の〝終わりの演出家〟が——〝続いている物語〟の存在に、救われている。
その瞬間——
《万象観劇》が反応した。
ヴィットリオの因果の糸に——変化が起きている。黒と金の二色の糸の間に、第三の色が現れた。
白。
微かだが——白い糸。贖罪の色。
「……ヴィットリオ。お前は——」
言いかけた時。
書斎の扉が、音もなく開いた。
全員が振り向いた。
扉の向こうに——一人の人物が立っていた。
フードを深く被り、顔が見えない。背格好は中肉中背。性別も年齢も判断がつかない。
だが——因果の糸が見えない。
いや、正確には——糸がありすぎる。何百色もの糸が束になって、判別不能になっている。あらゆる色が混ざり合って——白になっている。
「…………誰だ」
俺が問いかけた。
ヴィットリオが——顔を上げた。涙を拭いもせず。
「……来たか」
「来ました。——お父様」
フードの下から、女性の声がした。
「お父様?」
俺が問い返す前に、ニーカが——息を呑んだ。
「レヴィアン様。この人は——〝身元未確認の一名〟です」
「…………何?」
「《即興劇》が提供した情報の中に、〝座長には後継者がいる〟という一文がありました。ですが名前もスキルも不明で——特定できていなかった」
フードの人物が——ゆっくりとフードを下ろした。
二十代後半の女性だった。黒髪。ヴィットリオと同じ色の目。鋭く、知性に満ちた——しかし、どこか悲しげな目。
「名乗らせてもらうわ。——エリザベッタ・フィナーレ。ヴィットリオ・フィナーレの娘。そして——《黒幕連》の、次期座長」
ヴィットリオが——目を閉じた。
「エリザベッタ。来るなと言ったはずだ」
「来ないわけがないでしょう。——《破滅の芸術家》がお父様に会いに来たと聞いて。お父様を——終わらせに来たのでしょう? この人は」
「終わらせに来たわけじゃない」
俺が割って入った。
「俺は——話しに来ただけだ」
エリザベッタが俺を見た。値踏みするような目。
「話す? 《黒幕連》の幹部を六人潰した男が、〝話しに来た〟? ——笑えないわね」
「笑えないのは同意するが、本当のことだぞ」
「…………」
「お前は何をしに来たんだ。——エリザベッタ」
「わたしは——お父様の〝最終幕〟を守りに来たの。あなたに——終わらせないために」
エリザベッタの因果の糸が——膨張した。何百色の糸が圧を増す。
何だ、このスキルは。《強制終幕》とは違う。
「ニーカ。この女のスキルは——」
「分かりません。《即興劇》の情報にも、名前すら記載されていない。……未知のスキルです」
未知。最悪だ。相手の手札が分からない状態で、しかもこちらは作戦なしの即興。
だが——
「エリザベッタ。俺は、お前の父親を殺しに来たんじゃない」
「信じると思う?」
「信じなくていい。だが——事実を見てくれ。俺が排除した六人の〝演目〟のうち、死んだのは三人だ。それも俺が直接手を下した者はゼロだ。残りの三人は生きている。保護されている。出頭して、新しい人生を始めている」
「…………」
「俺は——物語を打ち切る男じゃない。物語を続かせる男だ。お前の父親の物語も——終わらせたくない。続けてほしい。償いの物語として」
エリザベッタの目は、動揺しているみたいに揺れていた。
「償い……」
「ああ。ニーカに聞いてみろ。俺が〝打ち切り〟を許す人間かどうか」
ニーカが——一歩前に出た。
「……わたしは、この人に物語を続けてもらった者です。あなたのお父様に打ち切られた物語を——この人が、書き直してくれた」
エリザベッタが——しばらくの間、ニーカの顔を見つめていた。
「……あなたが。ニーカ・エスペランテ」
「はい」
「お父様が——よく名前を呟いていたわ。後悔の中で。……あなたたちのことを」
「…………」
書斎に、長い沈黙が降りた。
ヴィットリオが——椅子から立ち上がろうとした。だが足が震えて、立てなかった。
「エリザベッタ。——もういい」
「お父様……」
「《破滅の芸術家》。いや——レヴィアン」
「何だ」
「私は——出頭する。《終幕庁》に。全てを。《黒幕連》の創設も、使い捨ての兵器のことも、五十年間の全てを——白状する」
「お父様!」
「エリザベッタ。お前には——新しい物語を生きてほしい。《黒幕連》を継ぐのではなく。……この老いぼれの罪を継ぐのではなく」
エリザベッタの目から——涙が溢れた。
「お父様……でも、わたしは——」
「エリザベッタ」
俺が言った。
「お前の〝未知のスキル〟。——名前は何だ」
「…………」
「俺の《万象観劇》で視えた。お前の因果の糸は何百色もの色が混ざり合って白になっている。それは——あらゆる物語を内包している色だ。お前のスキルは——物語を〝終わらせる〟力じゃない。物語を〝書き換える〟力だろう」
エリザベッタが——息を呑んだ。
「……なぜ、分かるの」
「芸術家の勘だ。お前の因果の糸は、お前の父親の〝終わらせる力〟とは真逆だ。お前は——続ける力を持っている。終わった物語に新しい展開を与える力。〝書き換え〟の力だ」
「…………」
「お前の父親は〝全ての物語には終わりが必要だ〟と言った。だが、お前は——終わらせたくないんだろう? だからこそ、父親の最終幕を〝守り〟に来た。〝終わらせないため〟に」
エリザベッタが崩れ落ちるように、膝をついた。
「……分かるの。本当に……分かるのね。わたしは——お父様の物語を終わらせたくなくて。お父様が自分で自分を〝終わらせよう〟としているのが怖くて。だから——《黒幕連》を継いででも、お父様の物語を——」
「エリザベッタ。お前の父親の物語は——終わらないぞ」
「え……」
「出頭するんだろう。罪を白状するんだろう。——それは〝終わり〟じゃない。新しい幕の始まりだ。償いの物語の。……俺はそういう〝終わらせ方〟をする芸術家だ」
エリザベッタが、声を上げて泣いた。
するとヴィットリオが、震える手で娘の頭を撫でた。
「……すまなかった。エリザベッタ。お前まで——巻き込んで」
「お父様……」
「レヴィアン」
「何だ」
「……君の〝劇団〟に——頼みがある」
「言ってみろ」
「エリザベッタを——預かってくれないか」
「…………はっ?」
「この子は、何も悪いことをしていない。《黒幕連》を継ごうとしたが、まだ何も実行していない。だが——私が出頭すれば、この子の立場は危うくなる。《黒幕連》の残党に狙われるかもしれない」
「いやだから——」
「君の劇団には——脚本家がいないだろう?」
「…………」
脚本家。
照明係がいる。衣装係がいる。大道具係がいる。音響係がいる。演出家がいる。
だが——脚本家はいない。
俺は演出家であって、脚本家ではない。毎回、脚本を書いてはいるが——正直、脚本通り率は50%にも届かない。本職の脚本家がいれば——
「……正気か。《黒幕連》の次期座長を、俺の劇団に入れろと」
「次期座長にはならなかった。——ただの、物語を書き換える力を持った娘だ。君の劇団にはぴったりだと思うがね」
「…………」
エリザベッタが、涙で濡れた顔を上げて、俺を見た。
「……わたしは。あなたの劇団に——入っても、いいのですか」
「おい。まだ承諾していないぞ」
「お師匠様! 新しいメンバーですか!?」
通信魔具越しにフィーネの声が聞こえた。広場で待機しているはずなのに、しっかり聞いている。
「フィーネ! 盗み聞きするな!」
「してません! 通信魔具がオンのままだっただけです! ——新しい人、歓迎します!」
「勝手に歓迎するな!」
「レヴィアン。脚本家は、確かに必要よね」
リゼットまで通信魔具越しに参加してきた。
「わたしも、脚本家がいてくれたら助かります。潜入前の背景設定とか、もっと精密に書いてもらえたら……」
「レヴィアン。わたしも賛成です。歌の歌詞を一緒に考えてくれる人がいたら嬉しいです」
セレスティーヌまで。
「お前たち……全員通信魔具で聞いていたのか」
「はい。安全管理の一環です」
ニーカが涼しい顔で言った。|お前が一番怪しいぞ。|
「…………」
俺は天を仰いだ。
劇団の増員を決めるのは演出家の権限だ。俺の権限だ。俺が決めるんだ。
だが——四人全員が賛成している。というか五人目のニーカも、表情は無だが目が「賛成」と言っている。
……分かった。分かったよ。
「エリザベッタ」
「は、はい」
「——脚本家として、試用期間付きで採用する。一つだけ条件がある」
「条件?」
「俺の手帳を絶対に覗くな。脚本家だからって中身を勝手に見るなよ。あれは俺の——」
「あ、ニーカさんは覗いてましたけど」
「…………ニーカ?」
「安全管理の一環です」
「もう安全管理で全部済ませるのやめろ!」
ヴィットリオがふふっと笑った。
それを目に、ヴィットリオも笑みをこぼした。
「……いい劇団だ。エリザベッタを——よろしく頼む」
「…………ああ。任せろ。——お前の娘の物語は、俺たちの劇団で続ける」




