叙事詩は、一人では書けないー[4]
報告書の作成に、丸一日かかった。
手帳の〝舞台設定資料〟から必要な情報を抽出し、軍人が読んで理解できる文体に書き直す。
独特なメモは全部削った。「照明効果として満点」も「即興として採用」も「芸術家は結末を選べない」も——全部。残ったのは、純粋な情報だけの報告書。
完成した報告書は二通。同じ内容。宛先が違うだけだ。
第一部:〝あなたは外部のスキルによって精神を操作されている。あなたが報告している敵国の軍事情報は、あなた自身の判断ではなく、外部から注入された虚偽である〟——操作の事実。
第二部:〝相手国も同様に操作されている。両国の兵士の大半は戦争を望んでいない〟——相手国の実情と、自国兵士の本音。フィーネが集めた〝声〟が、ここに使われている。
第三部:〝操作元は国境地帯の廃砦にいる一人の人間である。この人物を排除すれば操作は解ける〟——操作の出所。
そして末尾に——俺は一行だけ、私見を添えた。
『あなたの部下の若い兵士と、相手国の若い兵士は、かつてこの中立都市の酒場で共に酒を飲んだ間柄だそうです。彼らを殺し合わせるための戦争を、あなたは本当に望んでいますか』
フィーネが集めた話だ。照明の修行で兵士たちの〝本音〟を読み取り、聞き出した情報。
これが刺さるかどうかは、分からない。だが——脚本に数字やデータを並べるだけでは、人の心は動かない。最後の一行は感情で書く。それが、演出家としての俺の信念だ。
◇◇◇
作戦決行日。日没直後。
配置は以下の通り。
リゼット——アルテア公国側の陣営内部。バロッソ大佐への報告書を届ける。王都の紋章を模倣した封蝋で〝高級軍事文書〟に偽装。
「封蝋は完璧です。大佐クラスなら、開封せずにはいられないはずです」
「書類の衣装という新ジャンルだな」
「……もう何でも衣装にしないでほしいんですけど」
俺——ベルガルド侯国側。ディアマンテ卿への報告書を直接届ける。ニーカが用意した中立都市の商人の服を着て、〝和平の嘆願書を持参した商人〟として面会を求める。
「商人の衣装まで安全管理の範囲なのか」
「あらゆる事態に備えるのが安全管理です」
「……もう何も言わない」
ニーカとフィーネ——廃砦近くで待機。報告書が効果を発し、操作糸が揺らいだ瞬間に突入する。
セレスティーヌ——中立都市カルチェラータで待機。最悪の場合の住民保護。
「全員、通信魔具を確認。——作戦開始だ」
◇◇◇
ベルガルド侯国の陣営。外交顧問ディアマンテ卿の執務天幕。
案内された天幕の中で、俺はディアマンテ卿と対面した。五十代の痩せた男。疲れ切った顔。目の下のクマが深い。……ニーカの報告通り、まともに寝ていないのだろう。
「嘆願書? 今さら和平の嘆願など——」
「これを、お読みいただきたい」
報告書を差し出した。
ディアマンテ卿が封を切り、読み始めた。最初は不審そうな顔だ。何を馬鹿な、という表情。
だが——第一部を読み終えた頃、手が震え始めた。
第二部。〝相手国の兵士も戦争を望んでいない〟。卿の目が揺れる。
そして——末尾の一行。
『酒場で共に酒を飲んだ間柄です。彼らを殺し合わせるための戦争を、あなたは本当に望んでいますか』
ディアマンテ卿の手から、報告書がこぼれ落ちた。
「……これは……誰が書いた」
「書いた者の名は重要ではありません。書かれていることが〝真実かどうか〟を——あなた自身の心に聞いてください」
「私は……本当に……操られて……」
同時刻。通信魔具にリゼットの声が入る。
「レヴィアン。バロッソ大佐が報告書を読みました。——泣いてます」
「泣いている?」
「はい。末尾の一行で。……大佐の息子が、その〝酒場で飲んだ若い兵士〟の一人だったみたいで——〝俺は自分の息子を殺すところだったのか〟って」
フィーネが集めた情報が——こんな形で刺さるとは。
「ニーカ! フィーネ! 今だ! 廃砦に突入しろ!」
「はいっ!」
◇◇◇
後から聞いた話を、ここに書く。
フィーネとニーカは廃砦に突入した。報告書の効果で操作糸が揺らぎ始めていたため、三百メートルの操作範囲を走り抜けることができた。
廃砦の最上階。
老人が一人——椅子に座っていた。白髪。痩せた体。何百本もの金色の糸が指先から四方八方に伸びている。だが糸は今、ピクピクと不安定に震えていた。操作対象の二人が〝揺らいでいる〟影響だ。
フィーネは躊躇わなかった。
「照明——点灯ッ!!」
《陽だまりの残像》を全力で展開。残像が部屋中に出現し、真昼のような光が廃砦を満たした。
そして——金色の糸が、見えた。
フィーネの光に照らされ、操作糸が実体化した。老人の指先から何百本もの糸が四方八方に伸びているのが、肉眼で見える。
ここまでは、計画通りだ。廃砦の中で糸を可視化し、ニーカが本体を制圧する——はずだった。
だが。
フィーネの光は——予想以上に、強かった。
残像が放つ金色の光が、廃砦の四つの窓から外に溢れ出した。夜明け前の暗い国境地帯を——一瞬だけ、昼のように照らした。
その一瞬で。
両陣営の、操作されていた全ての人間が——自分の身体から伸びる金色の糸を、見た。
兵営地のあちこちで、叫び声と動揺が上がった。
「なんだ、この糸は!?」
「俺の腕に——何かがついてるぞ!?」
「あの山の方から伸びて……全部、あの山に繋がってる!」
そして——報告書を読んだバロッソ大佐とディアマンテ卿が、同時|に叫んだ。
「操られていたのは——本当だったのか——!」
報告書で〝頭〟が揺さぶられ、光で〝目〟が確信した。
二段階の自覚。
糸が——切れ始めた。
自覚した者から、順番に。自分の意志で。パチン、パチン、パチンと——金色の糸が弾け飛んでいく。一本、十本、百本——。
◇◇◇
俺が廃砦に到着した時——ニーカとフィーネが既に全てを終えていた。
最上階の老人は、椅子に深く座り込んでいた。全ての糸が切れ、五十年間張り続けた蜘蛛の巣が消滅した衝撃で——もはや指一本動かせない様子だった。
「……やあ。君が、《破滅の芸術家》かい」
深い皺の刻まれた顔。とても知性に満ちた目をしていた。
「ああ。遅くなった」
「いいや。——いい〝照明係〟を連れているね」
「自慢の弟子だ」
フィーネが照れたように笑った。
「見事だよ。私の叙事詩を——こうも鮮やかに崩すとはね」
「崩したのは俺じゃない。操られていた人間が、自分で糸を切ったんだ」
「ふん。だが——糸が見えるようにしたのは、君たちだろう。光で照らした。そして——言葉で揺さぶった」
老人が俺の手に握られた手帳を見た。
「あの報告書。あれは君が書いたのかね」
「ああ。俺の手帳のメモを元にした」
「あの末尾の一行——〝酒場で共に飲んだ間柄だ〟。あれは効いた。五十年間の私の叙事詩を崩したのが——酒場の話とはね。皮肉なものだ」
老人が笑った。自嘲ではなく、感嘆の笑みだ。
「あの一行を書いたのは、俺じゃない」
「ん?」
「俺の弟子が集めた情報だ。照明係が、兵士たちの〝本音〟を読み取って、聞き出した」
「照明係……。暗殺者の弟子が照明係かね」
「ああ。変だろう。俺の劇団は変な連中ばかりだ」
老人はしばらく黙った。それから、深いため息をついた。
「私は五十年間、人を操って歴史を書いてきた。壮大な叙事詩を書いた。国を動かし、戦争を起こし、英雄を作り、悪役を作った。——一人で全て書いた」
「…………」
「だが、君は——一人では書かない。照明係が兵士の声を集め、衣装係が報告書を届け、大道具係が隣で守り、演出家が脚本を書く。——私にはできなかったことだ」
「…………」
「手を貸してくれるかね。もう、立てなくなってしまった」
「……いいのか。俺は敵だぞ」
「敵? いいや、君はもう敵ではない。私の叙事詩は——終わったのだから」
俺は老人に手を貸して立ち上がらせた。
「《終幕庁》に出頭するよ。抵抗する理由もない。糸が切れた人形遣いに、存在価値はないからね。……いや——糸のない人形遣いに何ができるか、少し考えてみるのも悪くないかもしれんが」
「好きにしろ。ただし——俺の手帳には触るな」
「はっ。芸術家の手帳は命より重い、か。……分かるよ。私にとっても、脚本は命だったからね」
老人が最後に穏やかに笑った。




