沈黙の山に、照明を灯すー[4]
新月の夜。ヴォルフスベルク山。
廃修道院は、山頂付近の岩棚に建っていた。崩れかけた石壁、朽ちた木の扉、蔦に覆われた尖塔。五十年の放棄が、この建物を骸にしていた。
俺とフィーネは、日没前に修道院内部に潜入していた。
内部は広い。礼拝堂、回廊、独房の並ぶ修道棟、そして——地下への階段。
「お師匠様。地下の瞑想室、見つけました」
フィーネが囁いた。
地下に降りると、巨大な空間が広がっていた。天井の高い円形の部屋。壁には古い宗教画の痕跡。中央に石の祭壇。
そして——この部屋には一切の窓がない。
完全な闇。完全な沈黙。
ここが《黙劇》の〝舞台〟か。
「フィーネ。残像を配置しろ。部屋の四隅と、回廊の要所に。合図があるまで、光は最小限に抑えておけ」
「はい……!」
フィーネが動いた。《陽だまりの残像》を次々と配置していく。残像は淡い光を帯びているが、今はほとんど発光していない。火の点いていない蝋燭のように、部屋の各所に「待機」している。
仕込み完了。
あとは——セレスティーヌの合図を待つ。
通信魔具に、セレスティーヌの声が届いた。
「レヴィアン様、〝沈黙の穴〟が山を登っています。修道院に向かっています。……あと、十五分くらいで到着します」
「了解。——全員、配置につけ」
ニーカは地下瞑想室の天井付近——崩れた梁の上に潜んでいる。完全に気配を消して。
フィーネは俺の隣。残像の「点灯」をコントロールする位置。
リゼットは山の麓で長老と共に待機。《黙劇》が排除された後の村の安全確保が任務だ。
セレスティーヌは中腹で音の監視を続けている。
そして俺は——地下瞑想室の端、祭壇の影に隠れている。《万象観劇》を起動して、因果の糸を視る準備はできている。
……だが。
「フィーネ」
「はい」
「正直に言うが。今回、俺は——怖い」
「……! お師匠様が!?」
「見えない敵を相手にするのは初めてだ。《万象観劇》で因果の糸は視えるかもしれないが、相手の〝姿〟が見えない状況で戦うのは……不安がある」
格好悪いことを言っている自覚はある。師匠が弟子の前で弱音を吐くなんて。
だが——嘘はつきたくなかった。
「……お師匠様」
フィーネが、暗闇の中で俺の手を握った。小さな手だが——温かい。
「大丈夫です。わたしが、照らしますから」
「…………」
「お師匠様が〝見えない〟って言うなら、わたしが見えるようにします。それが照明係の仕事です。——お師匠様が教えてくれたことです」
……こいつ。
いつの間に、こんなことを言えるようになったんだ。危ない、泣きかけた。
「……ああ。頼んだぞ、照明係」
「はいっ!」
——十分後。
空気が変わった。
変わった、というか——消えた。
修道院の中に、音があった。風が石壁の隙間を通る音。虫の声。自分の呼吸。
それが、全て消えた。
完全な無音。
《黙劇》が、来た。
俺は《万象観劇》で視た。
因果の糸が——ない。
いや、ある。あるはずだ。だが見えない。《無言の帳》が、因果の糸すら「認識できない」状態にしている。
……ここまでか。俺のスキルでは。
だが。
「フィーネ——今だ」
フィーネが叫んだ。
「照明、点灯ッ!!」
瞬間——地下瞑想室が、光に満ちた。
部屋の四隅に配置された残像が、一斉に輝き始めた。フィーネの《陽だまりの残像》。暖かい、金色の光。
窓のない地下室が、まるで真昼のように明るくなった。
そして——見えた。
部屋の中央に、一人の人影が立っていた。
小柄だった。フードを被り、全身を黒い布で覆っている。顔は見えない。だが——そこにいる。
初めて、《黙劇》の姿を捉えた。
光に照らされた《黙劇》は——一瞬、動きを止めた。
その一瞬で、ニーカが動いた。
梁の上から、音もなく落下。《無音行進》で完全に気配を殺しながら、《黙劇》の背後に回る。
だが——《黙劇》も動いた。
光に怯んだのは一瞬だけだった。次の瞬間には影のように移動し、ニーカの攻撃を回避している。音がない。足音すらない。石の床を踏んでいるのに、何の音もしない。
無音の攻防が始まった。
ニーカと《黙劇》。二人の「沈黙の使い手」が、光に満ちた地下室で戦っている。
だが——フィーネの光があるおかげで、俺には見える。《万象観劇》でも因果の糸が視え始めている。光の下では、《無言の帳》の因果隠蔽効果が弱まっている。
「ニーカ! 左だ!」
俺は叫んだ。因果の糸の動きから、《黙劇》の次の移動先を予測した。
ニーカが反応した。左方向への攻撃を放つ——命中。
《黙劇》が、初めて体勢を崩した。
「フィーネ! 光を集中しろ! あいつの周囲に!」
「はいっ!」
フィーネが残像を操作した。部屋に散っていた残像が、《黙劇》を囲むように集まる。光の檻。
逃げ場のない光の中で、《黙劇》のフードが落ちた。
——少女だった。
銀色の短い髪。蒼い目。十代半ば——フィーネと同じくらいの年齢。
その目には——何の感情もなかった。
「…………」
ニーカが、動きを止めた。
「ニーカ……?」
「……この子」
ニーカの声が震えていた。
「この子は……わたしの、後輩です」
「……何?」
「《黒幕連》の、使い捨て兵器。わたしと同じ施設で育った子。名前は——ルナ。まだ、生きていただなんて……」
使い捨て兵器。名前を消され、感情を消され、「黙劇」という役割だけを与えられた少女。
またか。
《即興劇》と同じ構造。自分の物語を打ち切られた者。
俺は《幕引きの栞》を手に取った。
「ニーカ。俺が近づく。お前は——あの子を、抑えてくれ」
「……はい。でも、レヴィアン様。あの子に、怪我は——」
「しない。物語を打ち切りにさせないのが、俺の美学だ。——何度でも言うぞ」
ニーカが泣きそうな顔で頷いた。
光の檻の中で、少女——ルナは立ち尽くしていた。戦う意志は見える。だが、光に囲まれた状態では、《無言の帳》が機能しない。
ニーカが少女を後ろから抱きしめた。
「ルナ……わたしだよ。ニーカだよ。……覚えてる?」
少女の蒼い目が、泳いでいた。
俺は《幕引きの栞》を、少女の額に当てた。
反応は——《即興劇》の時とは違った。
劇的な変化は起きなかった。黒い靄が出たりもしなかった。
ただ——少女の目から、一筋の涙がこぼれた。
そして、口が開いた。
「…………ニー、カ」
声だった。
《黙劇》が——初めて声を出した。
ニーカが、少女を強く抱きしめた。二人とも泣いていた。
…………。
俺は手帳を開いたが、何も書けなかった。
こういう時、芸術家として何を書けばいいか、俺には分からない。
フィーネが俺の隣で泣いていた。彼女自身の光で、照らされて。
照明効果として、満点だ。
……いや。今はそういうことを言う場面じゃない。分かっている。
分かっているが——手帳にだけは書いておく。
『フィーネの照明。泣いている二人を照らす金色の光。これ以上に美しい照明を、俺はまだ知らない』
◇◇◇
ルナは——完全には「戻らなかった」。
《即興劇》の場合は、《幕引きの栞》で自己認識の上書きが解除され、記憶が断片的に戻った。だがルナの場合、消されていたのは認識ではなく感情だった。
声は戻った。名前も思い出した。ニーカのことも覚えていた。だが——表情がほとんど動かない。感情の回路が、長年の「黙劇」によって摩耗している。
「時間がかかるかもしれません」
ニーカが言った。
「ですが……ルナは生きています。声を取り戻しました。それだけでも、今は——充分です」
「ああ。……物語は、まだ続いている。打ち切りにはなっていない」
「はい」
ルナは《終幕庁》に保護された。ニーカの嘆願もあり、「元構成員の保護対象」として処遇されることが決まった。




