第8話 妹とショッピング(前編)
朝、高岡家の母屋には、いつもの生活音が戻っていた。
台所で味噌汁が温まり、食器が重なり、廊下の床板が誰かの足音に小さく鳴る。どれも高岡龍司だった頃には聞き流していた音ばかりだ。けれど瑞月としてそこに立つと、その一つひとつが、ずいぶん遠くから帰ってきたことのように聞こえた。
昨夜、陽菜と布団を並べて眠った。
同じ布団は駄目だと何度も言い、近すぎるのも駄目だと釘を刺し、それでも結局、陽菜は朝まで満足そうにしていた。
そして目覚めて最初に言われたのが、これである。
「今日は買い物だからね!」
洗面所へ向かう途中から、陽菜はすでに買い物の話しかしなかった。
「服、下着、ヘアケア用品、日用品。あと、お姉ちゃんっぽく見えるもの」
「お姉ちゃんっぽく見えるものって何?」
「お姉ちゃんっぽく見えるものは、お姉ちゃんっぽく見えるものだよ」
「説明になってないよ」
そう返すと、陽菜は満足げに笑っていた。
「今の、ちょっとお姉ちゃんっぽい」
「採点しないで!」
「今日は私が先生だから」
そうして瑞月は、朝食前からすでに負け戦の気配を感じていた。
◇
朝食の席には、昨夜とは少し違う空気が流れていた。重くはない。けれど、何もなかった頃と同じでもない。
父の恒一は湯呑みを片手に新聞を広げていたが、瑞月が居間に入ると、紙面の向こうから一度だけ視線を上げた。母は味噌汁をよそいながら、やはり何度も瑞月を見てしまう。隼人は出勤前なのか、ネクタイを緩く締めたまま、いつもより遅い朝食を取っていた。
陽菜は当然のように瑞月の隣を確保した。
「近い」
「昨日より離れてるよ」
「基準がおかしい」
「お姉ちゃん、味噌汁こぼさないでね。髪に付いたら大変だから」
「子ども扱いしないでほしいな」
「長髪初心者でしょ?」
「それは否定できない」
母が小さく笑った。
その笑い声を聞いて、瑞月は胸の奥が温かくなるのを感じた。
食卓には、朝食らしい品々が並んでいた。
日本の家庭では一般的な朝食だった。 けれど、龍になってからの瑞月にとって、その何でもなさが、少し眩しかった。
「ちゃんと食べられるのね」
母が、安心したように言った。
「うん。今は、普通にお腹が空く感じだから」
「普通に?」
「ヒト化した直後とか、力を使ったあとだと、もう少し変な減り方するけど。今朝は普通。朝だからお腹空いた、くらい」
「そう」
母はそれだけ言って、少しだけ目元を伏せた。
生きていることを、食事で確かめているのかもしれない。
陽菜が瑞月の茶碗を覗き込んだ。
「思ったより食べるよね」
「体型で判断しないで」
「だって、儚げ美少女なのに」
「儚げ美少女は米を食べないとでも?」
自分でいうんだ、と陽菜は笑いながら言う。
「食べてもいいけど、なんか霞とか朝露とかで生きてそうじゃん」
「人を仙人みたいに言わないで!」
恒一が新聞を畳んだ。
「食えるなら食え。食えないよりはいい」
言葉は短い。けれど、それだけで十分だった。瑞月は小さく頷き、味噌汁を口に運んだ。
湯気の向こうで揺れる朝の光が、瑞月として座る食卓を静かに照らしていた。
◇
朝食を終え、出かける準備が始まった。瑞月は昨日着ていたニットとロングスカートに着替える。神社で用意された私服の中では、いちばん落ち着いた組み合わせだった。
清楚ではある。派手ではない。だが、腰まで流れる銀髪と翡翠色の瞳の時点で、地味に見せるための努力には限界がある。
鏡の前で髪を梳いていると、背後から陽菜が覗き込んだ。
「今日、それで行くの?」
「他に選択肢がないから」
「なら、今日はいっぱい買おう!」
「そうなんだけど」
瑞月は自分の姿を見た。
銀髪の少女が、鏡の中で少し困った顔をしている。
「予算が……」
その時、母が襖の向こうから声をかけた。
「瑞月。少しいい?」
「うん」
瑞月が振り向くと、母は少し改まった顔をしていた。
「外では、言葉遣いに気をつけなさいね」
「言葉遣い?」
「あなたが龍司だと知っている人ばかりじゃないでしょう。瑞月として見られるんだから」
瑞月は一瞬だけ困った顔をした。
「神社では、ちゃんとそれらしく話してるよ」
「じゃあ、昨日 “俺” とか言ってたのは?」
陽菜がすかさず横から突っ込む。
「あれは、家族に龍司だってわかってもらうために、少し戻してたというか…」
「ほんとに?」
「ほんと。気を抜かなければ、そんなに簡単には戻らないし」
「気を抜いたら?」
「たぶん、戻る」
「だめじゃん」
陽菜の即答が早かった。
瑞月は反論しかけて、やめた。昨日の受け入れられた後の自分を思い返すと、たしかに随所で龍司が漏れていた。母や父の前ではまだ抑えようとしていたが、隼人とのやり取りではかなり素だった。
「とりあえず、外では "俺" 禁止ね」
「それはわかってる」
「あと、私と話す時に、敬語なのも禁止」
「え、そこも?」
「妹相手にずっと敬語だと、距離感じるじゃん」
陽菜は少しだけ唇を尖らせた。
その表情に、瑞月は返す言葉を失う。
からかっているだけではない。
陽菜は本気で、距離を詰めようとしている。
「外向きの瑞月お姉ちゃんは丁寧でいいけど、私と話す時はもうちょっと普通でいいよ」
「普通って、難しいんだけど」
「じゃあ、私を練習台にしていいから。女の子っぽいフランクな喋り方の練習」
「練習台って言い方」
「 “お姉ちゃん初心者” なんだから、練習しないと」
瑞月は少しだけ視線を逸らした。
「……善処します」
「ほらまた」
「……頑張る」
「よし」
陽菜は満足げに頷いた。
母はそのやり取りを見て、苦笑している。呆れているようで、どこか嬉しそうでもあった。
「陽菜、あまり無理に押しつけないのよ」
「押しつけてないよ。教育」
「それを押しつけと言うの」
「お母さん、今日のお姉ちゃんは私に任せて」
「余計に心配だわ」
瑞月は鏡の中の自分をもう一度見た。
◇
出発直前、恒一が陽菜を呼んだ。
「陽菜」
「なに?」
「これを持っていけ」
差し出されたのは、白い封筒だった。
陽菜が受け取って中を覗き、目を丸くする。
「え、けっこう入ってる」
瑞月は反射的に身を乗り出した。
「待って。そんなに出してもらうわけには――」
「今日は俺が出す」
恒一の声は短かった。
反論を許す声ではない。決めたことを告げる声に、瑞月は何も言えなくなった。
父は封筒を陽菜に渡したまま、瑞月の方を見た。
「必要なものなんだろう」
「……うん」
「ならこれで買ってこい。昼飯と飲み物代も込みだ」
「飲食費まで?」
「変な遠慮はしなくていい」
その言い方が、妙に父らしかった。
瑞月は、少しだけ胸が詰まった。
「……ありがとう、お父さん」
恒一はわずかに目を逸らした。
「礼はいい。足りなければ連絡しろ」
「足りないほど買わないよ」
陽菜がにこにこと言う。
恒一はその陽菜へ視線を向けた。
「陽菜も、一着くらいなら服を買っていいからな」
「え、ほんと?」
「付き添い代だ」
「やった!」
母が横で、呆れたようにため息をついた。
「あなた、娘には甘いわよね」
「必要経費だ!」
「便利な言葉ね、必要経費って」
恒一は顔を隠すように新聞を上げ、視線をそらした。
隼人が玄関脇で靴を履きながら、ぼそりと呟く。
「父さん、俺の時より財布の紐ゆるくない?」
「お前はもう社会人だろう」
「そういう問題か?」
「そういう問題だ!」
隼人は、しかたがないかと苦笑しながら、行ってきますと言い高岡家を後にした。
陽菜が封筒を大事そうに鞄へ入れる。
「任せて。瑞月お姉ちゃん、ちゃんと仕上げてくるから」
「仕上げるって何…」
瑞月が小さく言うと、陽菜は笑顔で振り向いた。
「お姉ちゃんは素材が強いから、方向性を整えるだけでいいんだよ」
「私は素材扱いなの?」
「原石?」
「磨かれる前提なのが怖い」
「大丈夫。私、けっこうセンスあるから」
その自信が、いちばん怖い。
そう思いながらも、瑞月は靴を履いた。
玄関の框に立つと、母がマフラーを持ってきた。
「外、まだ冷えるでしょう」
「龍だから、寒さはそこまで…」
「今はその姿でしょう」
母はそれ以上言わせず、瑞月の首元へやわらかなマフラーを巻いた。
人の手が近い。
母の手だ。
その当たり前のしぐさに、瑞月は一瞬だけ目を伏せた。
「……ありがとう、お母さん」
「行ってらっしゃい」
その言葉を聞いた瞬間、瑞月の胸の奥に、静かな波が立った。
“行ってらっしゃい”
高岡龍司だった頃、何度も聞いた言葉だったが、瑞月として聞くのは、初めてだった。
「行ってきます」
そう答えた声は、思ったより自然だった。
◇
行きは公共交通を使うことになった。
荷物が少ない行きは電車かバス。帰りは服や日用品で荷物が増えるから、母に車で迎えに来てもらう。そう言う陽菜の説明は合理的だった。
「車で行かないの?」
「行きから車だと、お姉ちゃんの街歩き練習にならないでしょ」
「街歩き練習って何?」
「視線に慣れる練習」
「実戦訓練みたいで怖いんだけど…」
自宅から最寄り駅へ向かう道で、瑞月はすでに何度か視線を感じていた。
冬の午前。まばらに行き交う人の視線が、銀髪と翡翠色の瞳に、ときどき引っかかる。
(見られてる)
瑞月は歩きながら、息を呑んだ。
(いや、変な意味じゃなく……たぶん)
(でも、これが普通の私服で外を歩く瑞月の見られ方なのかな)
白龍辰巳神社の巫女として見られるのとは違う。その事実が落ち着かない。落ち着かないのに、胸のどこかで、妙な高揚が消えない。
「お姉ちゃん、目立ってるね」
「言わないで。余計に意識するから」
「でも、悪い目立ち方じゃないよ」
「それは……まあ、助かる」
陽菜は隣で少し得意げだった。
「そういえば、お姉ちゃんって車運転できるの?」
「龍司としてなら免許は持ってる」
「瑞月としては?」
「……ない」
「顔写真も名前も違うもんね」
「この姿で龍司の免許証を出して "本人です" は、さすがに通らないよね」
「通ったら逆に怖いよ」
◇
駅に着き、改札を通り、地下鉄のホームに立つと、さらに視線が増えた。
瑞月はマフラーの端を軽く握る。
車両が滑り込んできて扉が開き、中へ入ると、陽菜が手際よく端の方の席を指した。
「ここ座ろ」
「慣れてるね」
「高校生だからね」
「高校生、すごい!」
「お姉ちゃん、その感想おばちゃんっぽい」
「おじさんよりはまし?」
「見た目がそれで中身の話をしない」
「はい」
「はい、じゃなくて、うん」
「……うん」
陽菜は満足げに頷いた。
車内の窓に、瑞月の姿がぼんやり映る。銀髪の少女と、その隣に座る妹。
◇
目的地は、市内の大型商業施設だった。入口の自動ドアを抜けると、暖房の効いた空気がふわりと肌に触れる。
化粧品売り場の匂い。どこかで流れる軽いノリの音楽。人の声。
神社とも、高岡家とも違う。瑞月がこれから生きることになる、外の世界の匂いだった。
陽菜はスマホのメモを確認する。
「まず服。次に下着。次にヘアケア関連。最後に細かい日用品」
「計画的だね」
「 “お姉ちゃん初心者” を連れてるからね」
「その呼び方、定着させないで」
「便利だから無理」
「……」
◇
まず向かったのは、若い女性向けの服が並ぶフロアだった。
瑞月は店内へ足を踏み入れた瞬間、固まった。男性だった頃の買い物とは、空気がぜんぜん違う。
「まず、白系を見よう」
陽菜が言った。
「やっぱり?」
「お姉ちゃん、白が似合いすぎるから」
「それは、白龍だから?」
「それもあるけど、顔」
「顔で決まるの?」
「だいぶ決まる」
陽菜は遠慮がない。
次々に服を手に取っては、瑞月の身体へ当てていく。
アイボリーのワンピース。淡い水色のニット。落ち着いたグレーのロングスカート。黒のカーディガン。春先にも使えそうな薄手の羽織。
瑞月は途中で、無難そうなベージュのシンプルなトップスを指した。
「こういう地味なのでいいんじゃない?」
「却下」
「早っ」
「お姉ちゃん、素材が強すぎるから、地味にしても目立つんだよ。だったらちゃんと似合う方向に寄せたほうがいい」
「素材が強いって言い方、褒めてるの?」
「褒めてる。ちょっと腹立つけど」
「腹立つの?」
「だって、何着ても事故らないんだもん。ずるい」
ずるい、と言われても困る。困るのだが、鏡の前で服を当てられるたびに、瑞月は薄々気づいてしまう。
“似合う”
思ったより、ずっと似合う。
(……これは)
(楽しい、のか!?)
(いや、待て。落ち着け)
(服を選んでもらってるだけだ。別に浮かれる場面じゃない)
そう思うほど、胸の奥が妙にそわつく。
自分をどう見せるか。 どんな服を選べば、どういう印象になるか。 昔は画面越しに、女性アバターの衣装でだけ試していたことだ。それが今や自分の身体で実践している。 瑞月は少しだけ、負けを認めるような気持ちになった。
「試着しよ」
「えっ!?」
「何着か持っていくから」
「心の準備が」
「服を見るだけだよ」
「私の心も見られる気がする」
「大丈夫。もうだいぶ顔に出てる」
「出てない!」
「出てる」
陽菜は容赦なく数着を抱え、瑞月を試着室へ押し込んだ。
◇
試着室は、思ったより狭かった。瑞月はカーテンを閉め、まず深呼吸をした。
着替えるだけだ。それだけだ。
だが、腰まで流れる銀髪が邪魔をする。服を脱ぐ時にも、着る時にも、油断すると髪が引っかかる。
女性服の形は、男性服よりも身体の線を意識するものが多い。胸元、腰、肩の落ち方。どこをどう整えれば自然に見えるのか、鏡を見ながら何度も確認する羽目になった。
最初に着たのは、アイボリーのワンピースだった。柔らかな布地が、身体の線に沿って落ちる。
瑞月は鏡を見た。そして、無言になった。
(似合ってる)
白すぎない白が、銀髪と喧嘩しない。翡翠色の瞳も、やわらかな布地の中で落ち着いて見える。
清楚で、どこか神秘的。けれど巫女服ほど役目に寄りすぎていない。
普通の私服なのに、瑞月という存在の輪郭を整えてしまっている。
「お姉ちゃん、開けていい?」
「待って。心の準備が」
「さっきから心の準備しかしてないよ」
「準備に時間がかかることもあるの!」
「開けるね」
「待っ――」
カーテンが少しだけ開いた。
陽菜が顔を覗かせ、そして固まった。
「……強っ!」
「何が?」
「服との相性」
「それ、褒めてるの?」
「褒めてる。腹立つけど」
「さっきも聞いた」
「何度でも言う。ずるい」
陽菜はスマホを取り出しかけ、瑞月に真顔で止められた。
「撮らないで」
「記録用」
「お願い」
「お母さんに見せるだけ」
「今は駄目」
「じゃあ、あとで」
「次っ!」
次は淡い水色のニットとロングスカート。
その次は黒のカーディガンを合わせた、少し大人っぽい組み合わせ。
だが、黒は危険だった。
銀髪が、映えすぎる。自分で鏡を見て、瑞月は思わず眉を寄せた。
(これは、駄目だ)
(何が駄目って、似合いすぎるのが駄目だ)
陽菜が外で一言。
「黒も買おう」
「まだ見てないでしょ」
「見ないでも分かる。負けてるって」
「何に?」
「自意識」
「陽菜、楽しんでるでしょ」
「うん」
「隠さないんだ…」
最後に、普段使いしやすいトップスとスカートを合わせる。こちらは派手ではない。だが、動きやすく、神社と高岡家の行き来にも使えそうだった。
結局、瑞月は陽菜に押される形で数点を候補に入れた。
カーテンを開けて外へ出ると、近くにいた店員が自然な笑顔で声をかけてきた。
「どちらもよくお似合いですね。特にアイボリーのワンピースは、髪色が映えて、とても素敵です」
瑞月は一瞬だけ固まり、それから外向きの顔を作った。
「ありがとうございます。少し、迷っていて」
柔らかな声。 丁寧な笑み。 自分でも驚くほど、瑞月の外向きの口調は自然に出た。
陽菜が横で小さく親指を立てる。
「外向き合格」
「今言うことじゃないでしょ」
瑞月は小声で返した。
店員は首をかしげたが、深くは聞かなかった。
◇
会計前に、陽菜の服も見ることになった。
「私はあとで適当に見るから」
陽菜はそう言ったが、瑞月は首を振った。
「買っていいって言われたでしょ」
「でも今日はお姉ちゃんの買い物だし」
「お父さんの好意を、素直に受けるのも親孝行のうちだよ」
「……今の、ちょっとお姉ちゃんっぽい」
「判定が細かい」
陽菜は照れたように笑った。
瑞月はラックに並んだ服を見ながら、少し真剣に考えた。
ふと、淡いミントグリーンのニットが目に留まった。白いスカートにも、デニムにも合いそうな、柔らかい色だった。
「これ、陽菜に似合うと思う」
「え、ほんと?」
「うん。明るいけど、子どもっぽくないし、陽菜に似合うと思う」
「……お姉ちゃん、そういうこと言うのずるい」
「ずるい?」
「うん。なんか普通に嬉しいから」
陽菜はそれを手に取り、試着室へ入った。
しばらくして出てきた陽菜は、いつもの勢いを少しだけ隠すように、照れくさそうにしていた。
「どう?」
瑞月は素直に言った。
「可愛いよ」
陽菜の頬が、わずかに赤くなる。
「今の、お姉ちゃんっぽい」
「そう?」
「うん。ちょっと照れる」
その顔を見て、瑞月は胸の奥が満たされるのを感じた。それは奇妙で、少し照れくさくて、けれど悪くなかった。
◇
服をいくつか購入した時点で、昼に近くなっていた。陽菜はフロアマップを見ながら言う。
「お昼、どうする?」
「ちゃんと食べよう」
「お、素直」
「お腹は普通に空いてるから」
「よし。じゃあカフェ行こ。お姉ちゃんっぽいとこ」
「ぽいってなに…」
「大事なことだから」
陽菜が選んだのは、商業施設の中にある明るいカフェだった。
窓際の席に案内されると、瑞月は自然に店員へ会釈した。
「ありがとうございます」
陽菜が小声で言う。
「外面はほんと綺麗なんだよね」
「陽菜、声」
「はいはい」
メニューを開く。
パスタ、オムライス、サンドイッチ、パンケーキ。 見慣れたはずの食べ物なのに、今の自分が何を選ぶべきかと考え始めると、途端に難しくなる。
「こういう時、何を頼むのが瑞月らしいんだろ?」
「食べたいもの頼めばいいじゃん」
「それが一番難しいんだけど」
「じゃあ、私と半分こする?」
「女っぽい」
「言い方!」
「……女の子っぽい」
「よし」
陽菜が満足げに頷く。
結局、瑞月はクリームパスタを選び、陽菜はオムライスを頼んだ。デザートに小さなパンケーキを一つ、二人で分けることになった。
注文を終えると、陽菜はテーブルに肘をついて瑞月を見た。
「楽しい?」
「うん」
瑞月は少し考えてから、正直に頷いた。
「楽しい。ちょっと怖いけど」
「怖い?」
「似合うものが増えるのが」
「何それ」
「認めるしかなくなるから」
陽菜はしばらく瑞月を見て、それから少しだけ優しい顔をした。
「いいじゃん。似合うなら」
「そういうもの?」
「そういうもの。お姉ちゃんは、これから瑞月として生きるんでしょ!?」
その言葉は、軽い調子で放たれたものだったが、瑞月の胸には深く静かに刺さった。
瑞月として生きる――
昨日までは、どこかでまだ、これは仮の姿だと思っていた。神社での名前。巫女としての顔。家族に説明するための形。 けれど、今日買った服は違う。
普段着るための服。 人と会うための服。 陽菜と並んで歩くための服。それは、瑞月として日常を送るためのものだった。
「……うん」
瑞月は小さく頷いた。
「だから、ちゃんと選ぶことにする」
「よろしい」
「先生みたい」
「今日は先生だから」
料理が運ばれてくる。
瑞月はフォークを手に取り、一口食べた。
普通においしい。普通に腹が満たされていく。
それが、ひどくありがたかった。
「お姉ちゃん、一口いる?」
「うん。じゃあ、私のも少しあげる」
陽菜は笑って、オムライスを少し分けてくれた。
窓の外を、人が行き交っている。
その中に、自分も少しずつ混ざっていくのだろうか。
白龍辰巳神社の巫女としてでもなく、高岡龍司としてでもなく、瑞月として。
◇
昼食を終え、カフェを出たところで、陽菜は当然のように言った。
「じゃあ、次は下着ね」
瑞月の足が止まった。
「帰っていい?」
「だめ!」
「必要なのはわかる。わかるけど、心の準備が」
「もう逃げられないよ」
「どういうこと?」
「お姉ちゃんとして生きるなら、ここは避けて通れません」
「そこまで重い話?」
「重い話なの」
陽菜は真顔だった。
やがて、淡い照明の向こうに、その売り場が見えてきた。
白、ピンク、水色、黒。柔らかな布地が整然と並んでいる。
店内に足を踏み入れる前から、瑞月の精神はすでに半分ほど擦り切れていた。
「大丈夫。白は当然として、淡いピンクと水色も見ようね。あと黒」
「黒!?」
「絶対似合うから」
「似合うかどうかの問題じゃないんだけど」
「大丈夫。お姉ちゃんの自意識と勝負するだけだから」
「その勝負、始まる前から負けそうなんだけど」
陽菜は笑顔で、瑞月の手を引いた。
瑞月は、白龍になった朝とは別種の覚悟を胸に、下着売り場の光の中へ足を踏み入れた。




