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龍になったので会社辞めました ~ヒト化したら美少女で、今は巫女やってます~  作者:
帰宅編

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第7話 家族のもとへ(後編)

 その後の居間には、奇妙な静けさが残っていた。重苦しい沈黙ではない。

 むしろ、あまりに大きなものが通り過ぎたあとで、誰もすぐには次の言葉を見つけられないような、そんな静けさだった。


 高岡恒一は湯呑みに手を伸ばし、ゆっくり茶を飲んだ。母は食器を片付けようとして、何度も瑞月の方を見てしまう。陽菜は相変わらず瑞月の隣を確保したまま、袖をつかんで離さない。隼人だけは少し離れたところに座り、何かを飲み込むように口を閉ざしていた。

 瑞月は、その全景を見ていた。


昔と変わらぬ配置の家族の居間に、食卓の湯気だけがゆっくり立ちのぼっている。

 そこにいる自分だけが、昔と違っている。

 高岡龍司ではなく、瑞月として座っている。

 それでも、追い返されることはなかった。


ふと、瑞月が言う。

「あと、シャワー室の件もあるし」

「シャワー室?」

 母が顔を上げる。

「うん。神社自体には、ちゃんとしたお風呂ないから」


 瑞月は簡単に説明した。

 社務所の奥の小部屋で寝起きするようになったこと。宗佑が社務所の裏手に小さな脱衣所と簡易シャワー室を増築してくれたこと。


「そこまでしてもらってるの」

 母の声には、感謝と不安が入り混じっていた。

「宗佑さんも最初は涙目だったけどね。そんなに余裕があるわけじゃないし」

「だろうな」

 隼人が呟く。


「でも、古くからの氏子さんに、つい愚痴ったら、少人数だけど寄進してくれる人がいたらしいよ。瑞月ちゃんの身支度用なら、って。設備関係に詳しい人も、安く手配してくれて…」

 言いながら、瑞月は少し気恥ずかしくなった。

 “瑞月ちゃん”

 自分で言うと、妙な破壊力がある。


 陽菜はそこを聞き逃さなかった。

「瑞月ちゃん!」

「そこ拾わなくていい」


「瑞月ちゃんのためなら寄進しちゃうんだ」

「言い方」

「大人気じゃん」

「人気というか……たぶん、物珍しさと親切心が混ざってる」


 瑞月がそう言うと、恒一は静かに頷いた。

「なら、なおさら礼は欠かすな」

「うん」

「金を出すだけで済む話じゃない。世話になったなら、態度で返せ」

「わかってる」

 その言葉は、仕事の話をしていた頃の父の声に少し似ていた。

 

 瑞月は、湯呑みの縁を見つめながら、静かに頷いた。

「生活費も、シャワー室のことも、少しずつ返すつもり。預金は、百万ちょっとくらいはあると思うから、当面は何とかなる」


「それ以外の手続きは?」

 隼人が訊く。

「無理。身分証とか全部、龍司のままだし……」

「だろうな」

 隼人は腕を組み直した。


「でも、何か困ったら言え。金のことは、ひとりで抱えるな」

 瑞月は顔を上げた。

 隼人は目を逸らす。

「別に、甘やかすって意味じゃない。お前、昔から変なところで抱え込むだろ」

「……うん」

 それは否定できなかった。


     ◇


居間の奥では母が食器を片づけ、台所の明かりが白く灯っている。


「ちょっと、トイレ」

隼人が短く言って席を立った。その背中を見送りながら、瑞月は少しだけ迷い、陽菜の意識がテレビへ向いた隙にそっと立ち上がる。


居間を出ると、廊下には夜の冷気が薄く溜まっていた。ダイニングの暖かさが背中から遠ざかり、古い家の床板が、瑞月の足元で小さく鳴る。

トイレから戻る途中だった隼人は、縁側の近くで足を止めていた。瑞月が近づくと、彼は振り返らず、庭の暗がりを見たまま言った。

「……何だよ」

「怒ってる?」

「そりゃ怒ってる」

 即答だった。


「生きてたのに何も言ってこなかったし、戻ってきたと思ったらその姿だし、意味わからんし」

瑞月は何も言えなかった。

 

龍になっていたから。話せなかったから。怖かったから。

 どれも事実だ。けれど、それで家族が受けた不安が消えるわけではない。


「でも、どう怒ればいいのか、俺もわかんねえんだよ」

「……うん」

「会社のことも、離れのことも、母さんたちのことも、全部わかる。わかるけど、納得はできない」

「うん」

「だから余計腹が立つんだよ。誰を責めればいいのかわからないからな」

 隼人はようやく振り返った。その顔は、疲れているようにも見えた。

 

「生きてくれてて、よかったって、言いたいだけなんだけどな」

 隼人は苦い顔をする。

「でも、それで全部よかったことにできるほど、俺も器用じゃない」

「うん」

 瑞月は頷いた。


「殴っていいよ」

「いや……殴るわけにもいかんだろ。その見た目だと」

「そこ?」

隼人は顔をしかめた。


「銀髪美少女を殴る兄って、最悪すぎる」

「弟ではあるんだけど」

「見た目が弟じゃないんだよ!」

「それは、まあ……」

 瑞月が口ごもると、隼人は息を吐いた。

 

 しばらく無言でいると、瑞月はふと思い出したように「あっ」と声を漏らした。

「そうだ!」

「何?」

「ちょっと待ってて」

 そのまま母屋の客間へ行き、離れから持ってきていた小さな紙袋を探る。目的のものを確かめ、もう一度縁側へ戻った。


 隼人の前へ立ち、背後に隠していたそれを、にこりと笑って可愛らしく両手で差し出した。

「これ、借りっぱなしだったから、返しておくね」


 透明なブックカバーに入った、薄い本だった……

 隼人の表情が固まり、数秒遅れて、顔が引きつり赤くなった。


「おま……」

「離れのクローゼットの奥に保管してた」

「何で今持って来た!?」

「本人証明としてはかなり強いかなって」

「強すぎるんだよ!」


「居間で返さなかったのは、褒めて欲しい」

「そこは感謝する! いや、俺が感謝するのもおかしいだろ!」

 隼人は冊子を紙袋ごと奪うように受け取り、いたたまれない顔をした。


(それは男の姿の時に返してほしかった……)

 と、その顔に書いてある。


 瑞月は耐えきれず、肩を震わせた。

「隼人兄、顔に出てる」

「そりゃ出るだろ!」

「ちゃんと変形しないように保管しといたから」

「そういう気遣いはいらん!」

 そのやり取りをしたことで、張りつめていた何かがほどけた気がした。


「……ほんとに、龍司なんだな」

「今さら?」

「今さらだ!」


 隼人は冊子を紙袋へ戻し、深く息を吐いた。

「見た目は全然違うけどな」

「そこは俺も、まだ困ってる」

「だろうな」

 その言い方が、妙に優しかった。


 廊下の向こうから陽菜の声が聞こえる。

「ねえ、二人で何してるのー?」


 隼人が瞬時に紙袋を背中へ隠す。

「何でもない!」

「怪しい!」

「怪しくない!」


 瑞月はその横で、懐かしい罪悪感のようなものを噛みしめていた。

 実家で、兄とくだらない秘密を共有している。

 それは、失われたと思っていた日常の、ひどく小さな欠片だった。


     ◇


 居間へ戻ると、母が食卓を片付け終えていた。

 父は新聞を広げていたが、字を読んでいるようには見えない。陽菜は瑞月を見るなり、何かを察したように目を細めた。

「隼人兄と、何こそこそしてたの?」

「「何でもない」」

 瑞月と隼人の声が重なった。


「余計怪しい」

「……いいから」

 隼人が言う。


 陽菜は疑いの目を向けていたが、すぐに別のことを思いついたらしく、目を輝かせて言った。

「じゃあさ」


 嫌な予感がした。その予感が的中する前に、母が優しい声で言った。

「瑞月。お風呂、入っていきなさい」


 瑞月は固まった。

 風呂。高岡家の風呂。

 龍司だった頃なら、何も考えずに入っていた場所だ。だが今は、その言葉ひとつで意味が変わる。

「……お風呂!?」


「神社では、ちゃんと入ってるの?」

「シャワーだけ」

「なら、今日は湯船に浸かっていきなさい。冷えるでしょう」

 母の言い方は自然で、断る理由が見つからない。


 そこへ陽菜が、ぱっと声を上げた。

「じゃあさ、瑞月お姉ちゃん、泊まっていきなよ!?」


「え?」

 今度は瑞月だけでなく、隼人もわずかに顔を上げた。


「ご飯も食べて、お風呂も入るんだし、もうこのまま泊まっていけばいいじゃん」

「いや、でも……宗佑さんにも連絡しないと」

「連絡すればいいでしょ」


 陽菜はあまりにも当然のように言った。

 その当然さが、逆に瑞月の逃げ道を塞いでいく。


「それに、今日は帰ってきた日なんだから」

 陽菜の声が、少しだけ柔らかくなった。

「一晩くらい、家にいてもいいじゃん」

 瑞月は言葉に詰まった。


 “家”

 その一文字が、思った以上に重かった。神社へ戻る理由はいくらでもある。けれど、目の前には母がいて、父がいて、隼人がいて、陽菜がいる。


 そして誰も、瑞月を追い出そうとはしていなかった。

「……迷惑じゃ、ないですか?」

 思わずそう訊くと、母が少しだけ眉を寄せた。

「迷惑なわけないでしょう」

 その声は、叱るようで、泣きそうでもあった。


 恒一も新聞を畳み、短く言った。

「連絡だけは入れておけ。先方も心配するだろう」

「……はい」

 瑞月は小さく頷いた。


 泊まる。高岡家に。龍司だった頃、長年住んでいた家に、瑞月として……

 その事実を胸の奥へ落とし込むより早く、陽菜が勢いよく身を乗り出した。

「じゃあ、一緒にお風呂入ろ!」


 瑞月の思考が停止した。

 隼人がむせた。

 恒一が新聞を下げた。

 母が「まあ」とだけ言って二人を見た。


「……それだけは本当に勘弁してください」

 瑞月は、懇願した。涙目だった。


「えー、なんで? もう瑞月お姉ちゃんじゃん」

「中身は兄です」

「でも見た目は完全にお姉ちゃんだよ?」

「兄としての最後の尊厳が死にます」

「大げさ」

「大げさじゃないし!」

 瑞月は真顔だった。


 いくら姿が瑞月でも、陽菜は妹である。十七歳の妹である。龍司だった頃の倫理観が、全力で首を振っている。それだけは、世界がひっくり返っても譲れなかった。


 陽菜はしばらく不満そうに唇を尖らせていたが、やがて何かを計算し始めているように見えた。


「じゃあ、一緒に寝る」

「どうしてそうなる?」

「泊まっていくんでしょ?」

「それに、一緒風呂を断るんだから、それくらい当然でしょ」

「取引材料がおかしい…」

「おかしくない。私、お姉ちゃん欲しかったんだもん」


 その一言で、瑞月は言葉が詰まった。

 陽菜は冗談めかしている。けれど、その気持ちは本物だった。


「……同じ布団は無理だからな」

「二組並べる」

「近すぎるのも駄目」

「努力する」

「努力目標じゃなくて確約して」

「善処します」

「政治家みたいな逃げ方するな」

 陽菜はにこにこと笑っていた。


 その時点で、瑞月はすでに負けていた。

 母は目元を柔らかくしている。隼人は呆れ顔で、父は新聞の向こうでわずかに口元を動かしていた。


 瑞月は息を吐く。

「……わかった。寝るだけなら」

「やった」

「ただし、風呂は一人で入る」

「はーい」

 陽菜の返事は、妙に軽やかだった。


     ◇


 浴室の扉を閉めた瞬間、瑞月は深く息を吐いた。

 脱衣所の匂いがした。洗剤と柔軟剤、少し湿ったタオルの匂い。洗濯かごの位置も、バスマットの色も、龍司だった頃と大きくは変わっていない。


 けれど、鏡に映るのは銀髪の少女だった。瑞月は、しばらくその姿を見ていた。

 落ち着いた色のニットとロングスカート。長い銀髪。翡翠の瞳。細い肩。

 もう、初めて見た時ほど混乱はしない。だが慣れたと言い切るには、程遠い。


 慎重に衣服を脱ぎ、畳んでいく。

 肌を直接見ることへの戸惑いは、もうほとんどなかった。けれど、まったく消えたわけでもない。自分の身体であるはずなのに、丁寧に扱わなければならない別の何かのようで、少し緊張が残る。

 それでも、欲に呑まれるような感覚はなかった。あるのは、羞恥と妙な責任感だった。


(……扱いが雑だと、後で陽菜に怒られそうだな)

 そんなことを考えて、瑞月は自分自身に少し呆れた。


 浴室に入ると、湯気が白く立ちのぼっていた。

 曇った鏡。壁に反射する淡い照明。シャンプーと石鹸の匂い。浴槽の湯面が、微かに揺れている。

 龍司だった頃には、当たり前すぎて意識したこともなかった風景だった。


 神社のシャワー室でも、髪は何度か洗っていた。宗佑が社務所裏手に増築してくれた、あの狭い脱衣所と簡易シャワー室で、最低限の身支度はどうにか整えてきたのだ。だから、まったくの初めてではない。


 長い髪の洗い方も、トリートメントの使い方も、知識だけなら人間だった頃からある。朝起きたら美少女になっていたらどうするか――そんな馬鹿な妄想の延長で、ネットの記事や動画を無駄に眺めたことも、一度や二度ではなかった。


 それでも、高岡家の浴室で腰まで流れる銀髪を濡らすと、瑞月は改めて小さく呻いた。

(……やっぱり重い)


 神社のシャワー室では、寒さと狭さに急かされるように、いつも最低限で済ませていた。

 けれど今日は違う。湯気のこもる浴室で、見慣れたシャンプーの匂いに包まれながら、いつもより丁寧に髪を梳き、泡を含ませ、指先でゆっくりと洗っていく。


 知識はある。経験も、少しは積んだ。

 だが、腰まである銀髪を “ちゃんと洗う” のがここまで重労働だとは、聞いていない。泡にまみれた銀髪を見下ろし、瑞月は浴室でしばらく無言になった。


 ようやく髪をすすぎ終え、身体も丁寧に洗う。自分の身体なのに、妙な気遣いがいる。

 最後に、浴槽へ足を入れた。

 湯が肌に触れる。その瞬間、瑞月は思わず目を閉じた。

 肩まで沈む。


「……ああ」

 小さな声が漏れた。

「これだよ……」

 神社でも身体は洗っていた。


 瑞月が社務所の小部屋で寝起きするようになってから、社務所の裏手に、洗濯機置き場を兼ねた小さな脱衣所と、簡易シャワー室を、宗佑に増築してもらったからだ。

 小部屋から直接行けるわけではない。社務所の裏口から出て、屋根付きの短い通路を通る。冬場はそれだけでも足元が冷える。

 脱衣所は狭いが、洗濯機一台と脱衣かご、小さな棚くらいは置いてある。鍵もある。身支度ができ、清潔も保てる。


 だが、湯船はない。

 あれは、身体を洗い流し、身支度を整えるためだけの場所であって、一日の終わりをほどく場所ではなかった。


 最初にその相談をした時の宗佑は、預金通帳を抱いて泣く寸前だった。

『この姿で、宮司さんのご自宅のお風呂を借りるわけにもいきませんし』

 瑞月がそう言うと、宗佑はしばらく天井を仰いでいた。

『……わかった。最低限だぞ。湯船とか贅沢言うなよ』

 あの時の宗佑の顔は、今思い出しても、申し訳なくなる。


 湯が、肩を包む。髪が湯に浮かないよう、タオルを巻いて高い位置に留める。

 高岡家の浴室で、瑞月は静かに息を吐いた。


 神社のシャワーは、身支度を整える場所。

 高岡家の湯船は、一日の終わりをほどく場所。

 高岡龍司だった頃には当たり前だったものが、今はひどく贅沢に思える。


 家に帰ってきた。

 その実感は、母に抱きしめられた時とも、父に受け入れられた時とも違う形で、身体の芯へ染みていった。


     ◇


 風呂から上がる頃には、瑞月は少し疲れていた。髪をいつもより丁寧に洗ったせいでもある。

 脱衣所で用意されていた寝間着を見て、瑞月は少し固まった。母のものだろうか。淡い色のゆったりした部屋着だった。

(……母の寝間着を着る日がくるとは)


 着るしかない。着るしかないのだが、着た瞬間、鏡の中の瑞月は完全に "実家で風呂上がりの娘" になっていた。

(……情報量が多い)


 銀髪をタオルで包み、脱衣所の扉を開ける。

 そこには、ドライヤーを持った陽菜が待ち構えていた。


「髪、乾かしてあげる」

「いや、自分でできるし」

「無理。絶対乾かし残すでしょ」

「決めつけが早い」

「お姉ちゃん初心者でしょ」

「初心者って何!?」

「今の髪の長さで、自分で完璧に乾かせると思ってるなら甘いよ!」


 妙に説得力があった。瑞月は抵抗しようとして、やめた。

 正直、すでに腕が少し疲れている。これを全部乾かすのは、かなり大変そうだった。


「……お願いします」

「よろしい」

 陽菜は満足げに頷いた。


 瑞月は居間の隅に座らされ、背中にタオルをかけられる。陽菜が丁寧に髪を分け、ドライヤーの温風を当て始めた。銀髪が陽菜の指の間を流れていく。

「すごい!」

「何が?」

「本当にさらさら。人形みたい」

「褒めてる?」

「褒めてる。めちゃくちゃ褒めてるよ!」


 瑞月は複雑な顔になった。

 母は少し離れたところから、その様子を見ていた。


 姉の髪を妹が乾かしている。

 そんな光景に見えるのだろうか。いや、正確には息子の髪を妹が乾かしているのだが、言葉にすると何もかもおかしい。


「お兄ちゃんだった頃は、こんなこと絶対させてくれなかったよね」

 陽菜が言った。


「そりゃ、妹に髪を乾かされる趣味はなかったからな」

「今は?」

「今も趣味ではない」

「でも嫌じゃないでしょ?」

「……そこは複雑」


 温風が耳の後ろを通り過ぎる。

 くすぐったい。だが、不快ではない。

 陽菜の指先は思ったより丁寧だった。遊んでいるわけではない。楽しんではいるが、それ以上に大切なものを扱うような慎重さがある。


「ねえ、瑞月お姉ちゃん」

「何?」

「明日さ、服とか見に行こうよ」

「明日?」

「うん。私服、全然足りないでしょ。下着とか日用品もいるし。神社で巫女服だけ着てるわけにもいかないじゃん」

「それは、まあ」

 瑞月は言葉に詰まる。服。下着。日用品。


 必要だ。

 間違いなく必要だ。

 だが、その単語が並ぶだけで、今の自分の生活が思った以上に "女性の身体で続いていくもの" だと突きつけられる。


「お金は、龍司の頃の預金から出すよ」

「そこはまあ、あとで相談しよ。カード使えるか怪しいなら、私かお母さんが立て替えてもいいし」

「妹に立て替えてもらう兄……」

「ぷっ、今はお姉ちゃんだからセーフ」

「何もセーフじゃない気がする」


 陽菜が笑う。

 瑞月も、少しだけ笑った。

 ドライヤーの音が、居間の空気を柔らかく埋めていく。その音を聞きながら、瑞月はふと思う。


 強い空腹はない。

 神社の外で、長く人の姿を保っている。家族と話し、食事をし、湯船に浸かり、髪を乾かされている。

 それでも、内側を削られるような感覚はない。


 あるのは、風呂上がりの軽い眠気と、普通の満腹感と、少しだけくすぐったい疲労だけだった。

 それはたぶん、いい兆しなのだろう。


     ◇


 髪が乾ききる頃には、夜はさらに深くなっていた。窓の外は黒く、庭木の枝が外灯に淡く浮かびあがっている。

 高岡家の夜は、こんなに静かだっただろうかと、瑞月は思った。龍司だった頃は、離れに戻ればゲームや動画の音に囲まれていた。母屋の穏やかな夜の静けさを、こんなふうに座って聞くことは、ほとんどなかった。


そんなふうに浸っていた瑞月に、陽菜が横から割り込む。

「で、布団はもう敷いたから」

「早っ!」

「当然、一緒に寝るから」

「近すぎるのは駄目だから」

「二組並べるだけだよ。健全」

「言い方がもう健全じゃない」

 陽菜は聞いていない。


 瑞月はスマホを取り出し、宗佑へメッセージを送った。

『今日は実家に泊まることになりました。明日、戻ります』

 少し間を置いて、返信が来た。

『わかった。ゆっくりしてこい』

 続けて、

『家族と話せる時に話しておけ。社のほうは心配するな』

 その文面を見て、瑞月は少しだけ目を細めた。


 宗佑らしい。

 商売っ気はある。俗物でもある。だが、こういう時に変に縛りつける人間ではなかった。

 玉藻なら、きっと鼻で笑って言うだろう。

『そうしなさい。帰る場所が一つ増えたくらいで、器は壊れないわ』

 そんな声が聞こえた気がして、瑞月は息を吐いた。


「大丈夫そう?」

 母が訊く。

「うん。ゆっくりしてこいって」

「いい人なのね」

「変な人だけど、悪い人じゃないよ」


 瑞月がそう言うと、隼人がぼそりと呟いた。

「白龍拾って、美少女になったお前を巫女にしてる時点で、普通ではないと思うけどな」

「だいぶ語弊がある」

「事実だろ!」

「事実だけど…」

 反論できないのが悔しかった。


     ◇


 客間に布団が二組並べられていた。瑞月が布団へ入ると、陽菜も隣の布団へ潜り込んだ。


「近くない?」

「普通だよ」

「普通かなあ」

「姉妹ってこういうものじゃない?」

「姉妹経験ないから」

「じゃあ今から経験してこう」

 陽菜は、あまりにも簡単に言った。瑞月は返答に困り、天井を見上げる。薄暗い部屋の中で、常夜灯の光がやわらかく滲んでいた。


「ねえ」

「何?」

「お兄ちゃんだった時より、こっちのほうが、なんかしっくりくる」

「それ、複雑なんだけど」

「でも、嬉しくない?」

 瑞月は黙った。

 嬉しくないわけではない。


 陽菜が自分を怖がらないこと。瑞月として扱ってくれること。お姉ちゃんと呼び、髪を乾かし、同じ部屋で眠ろうとしてくれること。


 それは、救いのようでもあった。

 同時に、龍司だった自分が少しずつ遠ざかっていくようで、怖くもある。


「……嬉しくないとは言わない」

 ようやくそう答えると、陽菜は満足そうに笑った。


「じゃあいいじゃん」

「よくはない」

「お姉ちゃん、細かい」

「元兄だからな」

「そこは早く慣れて」

「努力します」

「よろしい」


 陽菜は布団の中で、少し身じろぎした。しばらく、二人とも黙っていた。

 家の夜の音が聞こえる。遠くで誰か歩く足音。どこかの扉を閉める音。


 昔からあった音だ。

 けれど今夜は、その全部が少し遠く、少し優しく思えた。


「ほんとは」

 陽菜が小な声で言った。

「ちょっと怖かった」


 瑞月が横を向く。

 陽菜は天井を見たまま続ける。

「離れが壊れてて。お兄ちゃんいなくて。連絡しても返ってこなくて。最初は、どっかで寝てるとか、スマホ落としたとか、そういうのだと思おうとしたけど……」


 声が少しだけ細くなる。

「でも、だんだん、もう会えないかもって思った」


「ごめん」

「でも、もういい」

 陽菜は即座に言った。

「戻ってきたから」

「うん」


「戻り方は、だいぶ想定外だったけど」

「それは本当にそう」

 瑞月が小さく笑うと、陽菜も笑った。


 そして、布団の中から手を伸ばし、瑞月の腕をつかんだ。

  離さないためのようであり、確かめるためのようでもあった。

「次からは、いなくなる前に言って」

 瑞月は胸が苦しくなる。


 そんな約束ができるのかはわからない。白龍になった時だって、自分で選んだわけではない。これから何が起きるのかも、何ひとつ見えてこない。


 それでも。

「うん」

 瑞月は答えた。

「ちゃんと言う」


 陽菜は「よし」と小さく呟き、それきり黙った。

 やがて、寝息が聞こえ始める。瑞月は、しばらく眠れなかった。


 高岡家の母屋、客間の布団の中に瑞月はいる。

 龍へ戻るような感覚はなかった。強い空腹もない。霊力を無駄に削られているような、飢えもない。瑞月の姿のまま、普通に息をしている。


 今日、母に抱きしめられた。父に受け入れられ、隼人と笑い、陽菜にお姉ちゃんと呼ばれた。

 それらが、ひとつずつ、瑞月という器の内側へ落ちていく。


 名を受け、役目を受け、そして今、家族にも受けれられた。

 白龍の本質が消えたわけではない。

 高岡龍司だった過去が消えたわけでもない。

 ただ、その両方を抱えたまま、瑞月という形が少しだけ深く馴染んでいく。

 神社でも、離れでもない場所で……


 高岡家の母屋の布団の中で、瑞月は人の姿のまま、静かに息をしていた。それが今は、少しも不自然ではなかった。


     ◇


 朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。

 瑞月はゆっくり目を開けた。まず、自分の手を見る。


 少女の手。

 龍には戻っていないことを確かめ、布団の中で身体を起こすと、銀髪が肩から滑り落ちた。昨夜、陽菜が丁寧に乾かしてくれたおかげか、絡まりは少ない。身体も重くない。空腹はあるが、ひどい飢えではなかった。


 ただ、朝になったから腹が減っている。そんな、人間らしい空き方だった。

 隣の布団で、陽菜がもぞもぞと動いた。

「お姉ちゃん、起きた?」

 寝ぼけ声だった。


 瑞月は、その呼び方に昨日ほど違和感を覚えなかった。むしろ、胸の奥が少しだけ温かくなる。


「起きてるよ」

 そう答えた声は、思っていたより優しく自然だった。

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隼人がおこってる理由が分からない
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