第7話 家族のもとへ(後編)
その後の居間には、奇妙な静けさが残っていた。重苦しい沈黙ではない。
むしろ、あまりに大きなものが通り過ぎたあとで、誰もすぐには次の言葉を見つけられないような、そんな静けさだった。
高岡恒一は湯呑みに手を伸ばし、ゆっくり茶を飲んだ。母は食器を片付けようとして、何度も瑞月の方を見てしまう。陽菜は相変わらず瑞月の隣を確保したまま、袖をつかんで離さない。隼人だけは少し離れたところに座り、何かを飲み込むように口を閉ざしていた。
瑞月は、その全景を見ていた。
昔と変わらぬ配置の家族の居間に、食卓の湯気だけがゆっくり立ちのぼっている。
そこにいる自分だけが、昔と違っている。
高岡龍司ではなく、瑞月として座っている。
それでも、追い返されることはなかった。
ふと、瑞月が言う。
「あと、シャワー室の件もあるし」
「シャワー室?」
母が顔を上げる。
「うん。神社自体には、ちゃんとしたお風呂ないから」
瑞月は簡単に説明した。
社務所の奥の小部屋で寝起きするようになったこと。宗佑が社務所の裏手に小さな脱衣所と簡易シャワー室を増築してくれたこと。
「そこまでしてもらってるの」
母の声には、感謝と不安が入り混じっていた。
「宗佑さんも最初は涙目だったけどね。そんなに余裕があるわけじゃないし」
「だろうな」
隼人が呟く。
「でも、古くからの氏子さんに、つい愚痴ったら、少人数だけど寄進してくれる人がいたらしいよ。瑞月ちゃんの身支度用なら、って。設備関係に詳しい人も、安く手配してくれて…」
言いながら、瑞月は少し気恥ずかしくなった。
“瑞月ちゃん”
自分で言うと、妙な破壊力がある。
陽菜はそこを聞き逃さなかった。
「瑞月ちゃん!」
「そこ拾わなくていい」
「瑞月ちゃんのためなら寄進しちゃうんだ」
「言い方」
「大人気じゃん」
「人気というか……たぶん、物珍しさと親切心が混ざってる」
瑞月がそう言うと、恒一は静かに頷いた。
「なら、なおさら礼は欠かすな」
「うん」
「金を出すだけで済む話じゃない。世話になったなら、態度で返せ」
「わかってる」
その言葉は、仕事の話をしていた頃の父の声に少し似ていた。
瑞月は、湯呑みの縁を見つめながら、静かに頷いた。
「生活費も、シャワー室のことも、少しずつ返すつもり。預金は、百万ちょっとくらいはあると思うから、当面は何とかなる」
「それ以外の手続きは?」
隼人が訊く。
「無理。身分証とか全部、龍司のままだし……」
「だろうな」
隼人は腕を組み直した。
「でも、何か困ったら言え。金のことは、ひとりで抱えるな」
瑞月は顔を上げた。
隼人は目を逸らす。
「別に、甘やかすって意味じゃない。お前、昔から変なところで抱え込むだろ」
「……うん」
それは否定できなかった。
◇
居間の奥では母が食器を片づけ、台所の明かりが白く灯っている。
「ちょっと、トイレ」
隼人が短く言って席を立った。その背中を見送りながら、瑞月は少しだけ迷い、陽菜の意識がテレビへ向いた隙にそっと立ち上がる。
居間を出ると、廊下には夜の冷気が薄く溜まっていた。ダイニングの暖かさが背中から遠ざかり、古い家の床板が、瑞月の足元で小さく鳴る。
トイレから戻る途中だった隼人は、縁側の近くで足を止めていた。瑞月が近づくと、彼は振り返らず、庭の暗がりを見たまま言った。
「……何だよ」
「怒ってる?」
「そりゃ怒ってる」
即答だった。
「生きてたのに何も言ってこなかったし、戻ってきたと思ったらその姿だし、意味わからんし」
瑞月は何も言えなかった。
龍になっていたから。話せなかったから。怖かったから。
どれも事実だ。けれど、それで家族が受けた不安が消えるわけではない。
「でも、どう怒ればいいのか、俺もわかんねえんだよ」
「……うん」
「会社のことも、離れのことも、母さんたちのことも、全部わかる。わかるけど、納得はできない」
「うん」
「だから余計腹が立つんだよ。誰を責めればいいのかわからないからな」
隼人はようやく振り返った。その顔は、疲れているようにも見えた。
「生きてくれてて、よかったって、言いたいだけなんだけどな」
隼人は苦い顔をする。
「でも、それで全部よかったことにできるほど、俺も器用じゃない」
「うん」
瑞月は頷いた。
「殴っていいよ」
「いや……殴るわけにもいかんだろ。その見た目だと」
「そこ?」
隼人は顔をしかめた。
「銀髪美少女を殴る兄って、最悪すぎる」
「弟ではあるんだけど」
「見た目が弟じゃないんだよ!」
「それは、まあ……」
瑞月が口ごもると、隼人は息を吐いた。
しばらく無言でいると、瑞月はふと思い出したように「あっ」と声を漏らした。
「そうだ!」
「何?」
「ちょっと待ってて」
そのまま母屋の客間へ行き、離れから持ってきていた小さな紙袋を探る。目的のものを確かめ、もう一度縁側へ戻った。
隼人の前へ立ち、背後に隠していたそれを、にこりと笑って可愛らしく両手で差し出した。
「これ、借りっぱなしだったから、返しておくね」
透明なブックカバーに入った、薄い本だった……
隼人の表情が固まり、数秒遅れて、顔が引きつり赤くなった。
「おま……」
「離れのクローゼットの奥に保管してた」
「何で今持って来た!?」
「本人証明としてはかなり強いかなって」
「強すぎるんだよ!」
「居間で返さなかったのは、褒めて欲しい」
「そこは感謝する! いや、俺が感謝するのもおかしいだろ!」
隼人は冊子を紙袋ごと奪うように受け取り、いたたまれない顔をした。
(それは男の姿の時に返してほしかった……)
と、その顔に書いてある。
瑞月は耐えきれず、肩を震わせた。
「隼人兄、顔に出てる」
「そりゃ出るだろ!」
「ちゃんと変形しないように保管しといたから」
「そういう気遣いはいらん!」
そのやり取りをしたことで、張りつめていた何かがほどけた気がした。
「……ほんとに、龍司なんだな」
「今さら?」
「今さらだ!」
隼人は冊子を紙袋へ戻し、深く息を吐いた。
「見た目は全然違うけどな」
「そこは俺も、まだ困ってる」
「だろうな」
その言い方が、妙に優しかった。
廊下の向こうから陽菜の声が聞こえる。
「ねえ、二人で何してるのー?」
隼人が瞬時に紙袋を背中へ隠す。
「何でもない!」
「怪しい!」
「怪しくない!」
瑞月はその横で、懐かしい罪悪感のようなものを噛みしめていた。
実家で、兄とくだらない秘密を共有している。
それは、失われたと思っていた日常の、ひどく小さな欠片だった。
◇
居間へ戻ると、母が食卓を片付け終えていた。
父は新聞を広げていたが、字を読んでいるようには見えない。陽菜は瑞月を見るなり、何かを察したように目を細めた。
「隼人兄と、何こそこそしてたの?」
「「何でもない」」
瑞月と隼人の声が重なった。
「余計怪しい」
「……いいから」
隼人が言う。
陽菜は疑いの目を向けていたが、すぐに別のことを思いついたらしく、目を輝かせて言った。
「じゃあさ」
嫌な予感がした。その予感が的中する前に、母が優しい声で言った。
「瑞月。お風呂、入っていきなさい」
瑞月は固まった。
風呂。高岡家の風呂。
龍司だった頃なら、何も考えずに入っていた場所だ。だが今は、その言葉ひとつで意味が変わる。
「……お風呂!?」
「神社では、ちゃんと入ってるの?」
「シャワーだけ」
「なら、今日は湯船に浸かっていきなさい。冷えるでしょう」
母の言い方は自然で、断る理由が見つからない。
そこへ陽菜が、ぱっと声を上げた。
「じゃあさ、瑞月お姉ちゃん、泊まっていきなよ!?」
「え?」
今度は瑞月だけでなく、隼人もわずかに顔を上げた。
「ご飯も食べて、お風呂も入るんだし、もうこのまま泊まっていけばいいじゃん」
「いや、でも……宗佑さんにも連絡しないと」
「連絡すればいいでしょ」
陽菜はあまりにも当然のように言った。
その当然さが、逆に瑞月の逃げ道を塞いでいく。
「それに、今日は帰ってきた日なんだから」
陽菜の声が、少しだけ柔らかくなった。
「一晩くらい、家にいてもいいじゃん」
瑞月は言葉に詰まった。
“家”
その一文字が、思った以上に重かった。神社へ戻る理由はいくらでもある。けれど、目の前には母がいて、父がいて、隼人がいて、陽菜がいる。
そして誰も、瑞月を追い出そうとはしていなかった。
「……迷惑じゃ、ないですか?」
思わずそう訊くと、母が少しだけ眉を寄せた。
「迷惑なわけないでしょう」
その声は、叱るようで、泣きそうでもあった。
恒一も新聞を畳み、短く言った。
「連絡だけは入れておけ。先方も心配するだろう」
「……はい」
瑞月は小さく頷いた。
泊まる。高岡家に。龍司だった頃、長年住んでいた家に、瑞月として……
その事実を胸の奥へ落とし込むより早く、陽菜が勢いよく身を乗り出した。
「じゃあ、一緒にお風呂入ろ!」
瑞月の思考が停止した。
隼人がむせた。
恒一が新聞を下げた。
母が「まあ」とだけ言って二人を見た。
「……それだけは本当に勘弁してください」
瑞月は、懇願した。涙目だった。
「えー、なんで? もう瑞月お姉ちゃんじゃん」
「中身は兄です」
「でも見た目は完全にお姉ちゃんだよ?」
「兄としての最後の尊厳が死にます」
「大げさ」
「大げさじゃないし!」
瑞月は真顔だった。
いくら姿が瑞月でも、陽菜は妹である。十七歳の妹である。龍司だった頃の倫理観が、全力で首を振っている。それだけは、世界がひっくり返っても譲れなかった。
陽菜はしばらく不満そうに唇を尖らせていたが、やがて何かを計算し始めているように見えた。
「じゃあ、一緒に寝る」
「どうしてそうなる?」
「泊まっていくんでしょ?」
「それに、一緒風呂を断るんだから、それくらい当然でしょ」
「取引材料がおかしい…」
「おかしくない。私、お姉ちゃん欲しかったんだもん」
その一言で、瑞月は言葉が詰まった。
陽菜は冗談めかしている。けれど、その気持ちは本物だった。
「……同じ布団は無理だからな」
「二組並べる」
「近すぎるのも駄目」
「努力する」
「努力目標じゃなくて確約して」
「善処します」
「政治家みたいな逃げ方するな」
陽菜はにこにこと笑っていた。
その時点で、瑞月はすでに負けていた。
母は目元を柔らかくしている。隼人は呆れ顔で、父は新聞の向こうでわずかに口元を動かしていた。
瑞月は息を吐く。
「……わかった。寝るだけなら」
「やった」
「ただし、風呂は一人で入る」
「はーい」
陽菜の返事は、妙に軽やかだった。
◇
浴室の扉を閉めた瞬間、瑞月は深く息を吐いた。
脱衣所の匂いがした。洗剤と柔軟剤、少し湿ったタオルの匂い。洗濯かごの位置も、バスマットの色も、龍司だった頃と大きくは変わっていない。
けれど、鏡に映るのは銀髪の少女だった。瑞月は、しばらくその姿を見ていた。
落ち着いた色のニットとロングスカート。長い銀髪。翡翠の瞳。細い肩。
もう、初めて見た時ほど混乱はしない。だが慣れたと言い切るには、程遠い。
慎重に衣服を脱ぎ、畳んでいく。
肌を直接見ることへの戸惑いは、もうほとんどなかった。けれど、まったく消えたわけでもない。自分の身体であるはずなのに、丁寧に扱わなければならない別の何かのようで、少し緊張が残る。
それでも、欲に呑まれるような感覚はなかった。あるのは、羞恥と妙な責任感だった。
(……扱いが雑だと、後で陽菜に怒られそうだな)
そんなことを考えて、瑞月は自分自身に少し呆れた。
浴室に入ると、湯気が白く立ちのぼっていた。
曇った鏡。壁に反射する淡い照明。シャンプーと石鹸の匂い。浴槽の湯面が、微かに揺れている。
龍司だった頃には、当たり前すぎて意識したこともなかった風景だった。
神社のシャワー室でも、髪は何度か洗っていた。宗佑が社務所裏手に増築してくれた、あの狭い脱衣所と簡易シャワー室で、最低限の身支度はどうにか整えてきたのだ。だから、まったくの初めてではない。
長い髪の洗い方も、トリートメントの使い方も、知識だけなら人間だった頃からある。朝起きたら美少女になっていたらどうするか――そんな馬鹿な妄想の延長で、ネットの記事や動画を無駄に眺めたことも、一度や二度ではなかった。
それでも、高岡家の浴室で腰まで流れる銀髪を濡らすと、瑞月は改めて小さく呻いた。
(……やっぱり重い)
神社のシャワー室では、寒さと狭さに急かされるように、いつも最低限で済ませていた。
けれど今日は違う。湯気のこもる浴室で、見慣れたシャンプーの匂いに包まれながら、いつもより丁寧に髪を梳き、泡を含ませ、指先でゆっくりと洗っていく。
知識はある。経験も、少しは積んだ。
だが、腰まである銀髪を “ちゃんと洗う” のがここまで重労働だとは、聞いていない。泡にまみれた銀髪を見下ろし、瑞月は浴室でしばらく無言になった。
ようやく髪をすすぎ終え、身体も丁寧に洗う。自分の身体なのに、妙な気遣いがいる。
最後に、浴槽へ足を入れた。
湯が肌に触れる。その瞬間、瑞月は思わず目を閉じた。
肩まで沈む。
「……ああ」
小さな声が漏れた。
「これだよ……」
神社でも身体は洗っていた。
瑞月が社務所の小部屋で寝起きするようになってから、社務所の裏手に、洗濯機置き場を兼ねた小さな脱衣所と、簡易シャワー室を、宗佑に増築してもらったからだ。
小部屋から直接行けるわけではない。社務所の裏口から出て、屋根付きの短い通路を通る。冬場はそれだけでも足元が冷える。
脱衣所は狭いが、洗濯機一台と脱衣かご、小さな棚くらいは置いてある。鍵もある。身支度ができ、清潔も保てる。
だが、湯船はない。
あれは、身体を洗い流し、身支度を整えるためだけの場所であって、一日の終わりをほどく場所ではなかった。
最初にその相談をした時の宗佑は、預金通帳を抱いて泣く寸前だった。
『この姿で、宮司さんのご自宅のお風呂を借りるわけにもいきませんし』
瑞月がそう言うと、宗佑はしばらく天井を仰いでいた。
『……わかった。最低限だぞ。湯船とか贅沢言うなよ』
あの時の宗佑の顔は、今思い出しても、申し訳なくなる。
湯が、肩を包む。髪が湯に浮かないよう、タオルを巻いて高い位置に留める。
高岡家の浴室で、瑞月は静かに息を吐いた。
神社のシャワーは、身支度を整える場所。
高岡家の湯船は、一日の終わりをほどく場所。
高岡龍司だった頃には当たり前だったものが、今はひどく贅沢に思える。
家に帰ってきた。
その実感は、母に抱きしめられた時とも、父に受け入れられた時とも違う形で、身体の芯へ染みていった。
◇
風呂から上がる頃には、瑞月は少し疲れていた。髪をいつもより丁寧に洗ったせいでもある。
脱衣所で用意されていた寝間着を見て、瑞月は少し固まった。母のものだろうか。淡い色のゆったりした部屋着だった。
(……母の寝間着を着る日がくるとは)
着るしかない。着るしかないのだが、着た瞬間、鏡の中の瑞月は完全に "実家で風呂上がりの娘" になっていた。
(……情報量が多い)
銀髪をタオルで包み、脱衣所の扉を開ける。
そこには、ドライヤーを持った陽菜が待ち構えていた。
「髪、乾かしてあげる」
「いや、自分でできるし」
「無理。絶対乾かし残すでしょ」
「決めつけが早い」
「お姉ちゃん初心者でしょ」
「初心者って何!?」
「今の髪の長さで、自分で完璧に乾かせると思ってるなら甘いよ!」
妙に説得力があった。瑞月は抵抗しようとして、やめた。
正直、すでに腕が少し疲れている。これを全部乾かすのは、かなり大変そうだった。
「……お願いします」
「よろしい」
陽菜は満足げに頷いた。
瑞月は居間の隅に座らされ、背中にタオルをかけられる。陽菜が丁寧に髪を分け、ドライヤーの温風を当て始めた。銀髪が陽菜の指の間を流れていく。
「すごい!」
「何が?」
「本当にさらさら。人形みたい」
「褒めてる?」
「褒めてる。めちゃくちゃ褒めてるよ!」
瑞月は複雑な顔になった。
母は少し離れたところから、その様子を見ていた。
姉の髪を妹が乾かしている。
そんな光景に見えるのだろうか。いや、正確には息子の髪を妹が乾かしているのだが、言葉にすると何もかもおかしい。
「お兄ちゃんだった頃は、こんなこと絶対させてくれなかったよね」
陽菜が言った。
「そりゃ、妹に髪を乾かされる趣味はなかったからな」
「今は?」
「今も趣味ではない」
「でも嫌じゃないでしょ?」
「……そこは複雑」
温風が耳の後ろを通り過ぎる。
くすぐったい。だが、不快ではない。
陽菜の指先は思ったより丁寧だった。遊んでいるわけではない。楽しんではいるが、それ以上に大切なものを扱うような慎重さがある。
「ねえ、瑞月お姉ちゃん」
「何?」
「明日さ、服とか見に行こうよ」
「明日?」
「うん。私服、全然足りないでしょ。下着とか日用品もいるし。神社で巫女服だけ着てるわけにもいかないじゃん」
「それは、まあ」
瑞月は言葉に詰まる。服。下着。日用品。
必要だ。
間違いなく必要だ。
だが、その単語が並ぶだけで、今の自分の生活が思った以上に "女性の身体で続いていくもの" だと突きつけられる。
「お金は、龍司の頃の預金から出すよ」
「そこはまあ、あとで相談しよ。カード使えるか怪しいなら、私かお母さんが立て替えてもいいし」
「妹に立て替えてもらう兄……」
「ぷっ、今はお姉ちゃんだからセーフ」
「何もセーフじゃない気がする」
陽菜が笑う。
瑞月も、少しだけ笑った。
ドライヤーの音が、居間の空気を柔らかく埋めていく。その音を聞きながら、瑞月はふと思う。
強い空腹はない。
神社の外で、長く人の姿を保っている。家族と話し、食事をし、湯船に浸かり、髪を乾かされている。
それでも、内側を削られるような感覚はない。
あるのは、風呂上がりの軽い眠気と、普通の満腹感と、少しだけくすぐったい疲労だけだった。
それはたぶん、いい兆しなのだろう。
◇
髪が乾ききる頃には、夜はさらに深くなっていた。窓の外は黒く、庭木の枝が外灯に淡く浮かびあがっている。
高岡家の夜は、こんなに静かだっただろうかと、瑞月は思った。龍司だった頃は、離れに戻ればゲームや動画の音に囲まれていた。母屋の穏やかな夜の静けさを、こんなふうに座って聞くことは、ほとんどなかった。
そんなふうに浸っていた瑞月に、陽菜が横から割り込む。
「で、布団はもう敷いたから」
「早っ!」
「当然、一緒に寝るから」
「近すぎるのは駄目だから」
「二組並べるだけだよ。健全」
「言い方がもう健全じゃない」
陽菜は聞いていない。
瑞月はスマホを取り出し、宗佑へメッセージを送った。
『今日は実家に泊まることになりました。明日、戻ります』
少し間を置いて、返信が来た。
『わかった。ゆっくりしてこい』
続けて、
『家族と話せる時に話しておけ。社のほうは心配するな』
その文面を見て、瑞月は少しだけ目を細めた。
宗佑らしい。
商売っ気はある。俗物でもある。だが、こういう時に変に縛りつける人間ではなかった。
玉藻なら、きっと鼻で笑って言うだろう。
『そうしなさい。帰る場所が一つ増えたくらいで、器は壊れないわ』
そんな声が聞こえた気がして、瑞月は息を吐いた。
「大丈夫そう?」
母が訊く。
「うん。ゆっくりしてこいって」
「いい人なのね」
「変な人だけど、悪い人じゃないよ」
瑞月がそう言うと、隼人がぼそりと呟いた。
「白龍拾って、美少女になったお前を巫女にしてる時点で、普通ではないと思うけどな」
「だいぶ語弊がある」
「事実だろ!」
「事実だけど…」
反論できないのが悔しかった。
◇
客間に布団が二組並べられていた。瑞月が布団へ入ると、陽菜も隣の布団へ潜り込んだ。
「近くない?」
「普通だよ」
「普通かなあ」
「姉妹ってこういうものじゃない?」
「姉妹経験ないから」
「じゃあ今から経験してこう」
陽菜は、あまりにも簡単に言った。瑞月は返答に困り、天井を見上げる。薄暗い部屋の中で、常夜灯の光がやわらかく滲んでいた。
「ねえ」
「何?」
「お兄ちゃんだった時より、こっちのほうが、なんかしっくりくる」
「それ、複雑なんだけど」
「でも、嬉しくない?」
瑞月は黙った。
嬉しくないわけではない。
陽菜が自分を怖がらないこと。瑞月として扱ってくれること。お姉ちゃんと呼び、髪を乾かし、同じ部屋で眠ろうとしてくれること。
それは、救いのようでもあった。
同時に、龍司だった自分が少しずつ遠ざかっていくようで、怖くもある。
「……嬉しくないとは言わない」
ようやくそう答えると、陽菜は満足そうに笑った。
「じゃあいいじゃん」
「よくはない」
「お姉ちゃん、細かい」
「元兄だからな」
「そこは早く慣れて」
「努力します」
「よろしい」
陽菜は布団の中で、少し身じろぎした。しばらく、二人とも黙っていた。
家の夜の音が聞こえる。遠くで誰か歩く足音。どこかの扉を閉める音。
昔からあった音だ。
けれど今夜は、その全部が少し遠く、少し優しく思えた。
「ほんとは」
陽菜が小な声で言った。
「ちょっと怖かった」
瑞月が横を向く。
陽菜は天井を見たまま続ける。
「離れが壊れてて。お兄ちゃんいなくて。連絡しても返ってこなくて。最初は、どっかで寝てるとか、スマホ落としたとか、そういうのだと思おうとしたけど……」
声が少しだけ細くなる。
「でも、だんだん、もう会えないかもって思った」
「ごめん」
「でも、もういい」
陽菜は即座に言った。
「戻ってきたから」
「うん」
「戻り方は、だいぶ想定外だったけど」
「それは本当にそう」
瑞月が小さく笑うと、陽菜も笑った。
そして、布団の中から手を伸ばし、瑞月の腕をつかんだ。
離さないためのようであり、確かめるためのようでもあった。
「次からは、いなくなる前に言って」
瑞月は胸が苦しくなる。
そんな約束ができるのかはわからない。白龍になった時だって、自分で選んだわけではない。これから何が起きるのかも、何ひとつ見えてこない。
それでも。
「うん」
瑞月は答えた。
「ちゃんと言う」
陽菜は「よし」と小さく呟き、それきり黙った。
やがて、寝息が聞こえ始める。瑞月は、しばらく眠れなかった。
高岡家の母屋、客間の布団の中に瑞月はいる。
龍へ戻るような感覚はなかった。強い空腹もない。霊力を無駄に削られているような、飢えもない。瑞月の姿のまま、普通に息をしている。
今日、母に抱きしめられた。父に受け入れられ、隼人と笑い、陽菜にお姉ちゃんと呼ばれた。
それらが、ひとつずつ、瑞月という器の内側へ落ちていく。
名を受け、役目を受け、そして今、家族にも受けれられた。
白龍の本質が消えたわけではない。
高岡龍司だった過去が消えたわけでもない。
ただ、その両方を抱えたまま、瑞月という形が少しだけ深く馴染んでいく。
神社でも、離れでもない場所で……
高岡家の母屋の布団の中で、瑞月は人の姿のまま、静かに息をしていた。それが今は、少しも不自然ではなかった。
◇
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
瑞月はゆっくり目を開けた。まず、自分の手を見る。
少女の手。
龍には戻っていないことを確かめ、布団の中で身体を起こすと、銀髪が肩から滑り落ちた。昨夜、陽菜が丁寧に乾かしてくれたおかげか、絡まりは少ない。身体も重くない。空腹はあるが、ひどい飢えではなかった。
ただ、朝になったから腹が減っている。そんな、人間らしい空き方だった。
隣の布団で、陽菜がもぞもぞと動いた。
「お姉ちゃん、起きた?」
寝ぼけ声だった。
瑞月は、その呼び方に昨日ほど違和感を覚えなかった。むしろ、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「起きてるよ」
そう答えた声は、思っていたより優しく自然だった。




