第6話 家族のもとへ(中編)
母に促され、瑞月は玄関の敷居をまたいだ。
それは、高岡龍司としてなら何百回、何千回と繰り返してきた動作だった。
靴を脱ぐ。上がり框に足を乗せる。廊下の軋みを聞く。左手に見える飾り棚、壁にかかった家族写真、少し古びたスリッパ立て。
何もかも見慣れているはずだった。
だが、銀髪の少女としてその場に立つと、母屋はひどく遠い場所に見えた。
龍司だった頃の自分は、社会人になってからは離れを使っていた。完全に家族から離れていたわけではない。それでも、母屋は生活の中心でありながら、少しだけ距離のある場所だった。
その母屋に、いま瑞月は迎え入れられている。客としてではない。けれど、完全に家族として戻ったわけでもない。その曖昧さが胸を締めつける。
「お茶を……」
母はそう言いかけて、途中で手を止めた。泣いたせいか目元は赤く、声もまだ落ち着いていない。それでも何かをしようとするあたりが、いかにも母だった。
「座って。とりあえず、座って」
「うん」
瑞月は頷いた。
居間へ入ると、陽菜が当然のように瑞月の隣を確保した。距離が近い。近すぎる。まるで逃がさないとでも言っているようだった。
隼人は少し離れた位置に座っている。警戒は解けかけているが、まだ完全ではない。腕を組み、眉間に皺を寄せたまま、瑞月を見ている。
母は湯飲みにお茶を入れようと、持ち上げた急須ごと手が小刻みに震えていた。
「それで」
隼人が低く口を開いた。
「何があったのか、最初から話せるか」
責める声ではなかった。だが、逃げ道を許す声でもない。
瑞月は膝の上で指を組んだ。
「うん。話すよ」
そこで一度、喉が詰まった。何から話せばいいのか。元旦の朝、目が覚めたら白龍になっていた、と言葉にすれば、冗談にしか聞こえない。だが、家族はもう玄関先で光を見せている。完全には信じられなくても、すべてを否定されるわけではないはずだ。
「元旦の朝、離れで目が覚めたら……俺は、もう人間の姿じゃなかった」
母が息を呑んだ。隼人の視線が一瞬だけ離れの方へ向く。
陽菜は瑞月の袖を握ったまま、黙って聞いていた。
「白い龍になってた。 最初は夢だと思った。でも、部屋の中で動いたら棚は倒れるし、天井には当たるし、窓も壊して……」
「やっぱり、あれ……」
陽菜が呟く。
瑞月は頷いた。
「俺がやった。あのまま母屋に行ったら、みんなを怖がらせると思った。だから、家を出た」
「なんで連絡しなかったの」
母の声は、責めるというより、縋るようだった。
瑞月は目を伏せる。
「できなかった。スマホは持ってたけど、何て言えばいいかわからなかった。『起きたら龍になってました』なんて、言えるわけないって思った」
「馬鹿!」
母が小さく言った。
「本当に、馬鹿」
「うん」
それ以上は返せなかった。
「それで、白龍辰巳神社に逃げ込んだ。白龍を祀ってる神社なら、助けてくれるかもって、ほとんど思いつきだったけど、そこで、宮司の蛭田宗佑さんに出会った」
「宮司さん?」
陽菜が身を乗り出す。
「あの、瑞月お姉ちゃんが今いる神社の?」
「うん。白龍辰巳神社。最初は宗佑さんも腰を抜かしてたけど、匿ってくれた」
「普通、匿うか?」
隼人がぼそりと言う。
「俺もそう思う」
瑞月は苦笑した。
「でも、追い出されなかった。神社の本殿裏に隠してもらって、何日かそこで過ごした。そこで、神社に縁のある……いろいろ教えてくれる存在がいて」
「存在?」
隼人の目が細くなる。
瑞月は少しだけ言葉を選んだ。
玉藻ことだけは伏せたい。あれは話せば長くなるし、神獣だの、異世界だの、相殿だの、今ここで説明すれば、家族が余計に混乱してしまう。
「人じゃない、と思う。少なくとも、人には見えないし、普通の人間ではない。けど、俺に念話とか、龍脈のこととか、人の姿になる術とかを教えてくれた」
「人の姿になる術!?」
母が瑞月を見る。
その視線は、銀髪から顔、細い肩、膝の上の指先へと落ちていった。
「じゃあ、今のその姿は?」
「うん。白龍のまま、人の形に収まってる。完全に人間になったわけじゃない」
口にしてから、瑞月は胸が痛くなった。
それは、何度も自分に言い聞かせてきたことだった。自分は人間に戻ったのではない。白龍の本質を抱えたまま、人の形をしているだけだ。
だが、その人の形は、家族の目には言葉よりも重く受け止められた。
陽菜が、瑞月の顔をじっと見る。
「だから、そんなに綺麗なんだ」
「そこ?」
「いや大事でしょ。白龍クオリティってことじゃん」
「まとめ方が雑すぎる」
隼人が即座に突っ込んだ。
けれど、その雑さに救われる部分もあった。
居間の空気が、ほんの少しだけ緩む。
「今は、その神社で暮らしてるの?」
母が訊いた。
「うん。社務所の奥に小さい部屋を借りてる。人の姿でいる時はそこで寝てる。龍に戻る時は、本殿裏にいることもあるけど」
「戻るの? 龍に?」
陽菜の目が丸くなる。
「戻れる。というか、今はまだ、完全にこの姿が安定しきってるわけじゃない。前よりはだいぶ馴染んできたけど」
話しながら、瑞月はふと、すこしお腹が減っているのを感じた。
言ってしまえば空腹だった。
神社を出てから、家まで歩き、玄関で家族と対面し、緊張のまま話し続けていたのだから当然といえば当然だ。ただ、それはヒト化した直後のような、霊力を削られた奇妙な飢えではなかった。普通に、夕方が近くなり腹が減っている。
「龍司」
母が気づいて眉を寄せる。
「何か食べる?」
「え、いや、大丈夫」
「大丈夫な顔じゃないわよ」
母は立ち上がり、陽菜がすかさず言う。
「食べなよ。今のお姉ちゃん、絶対ちょっとしか食べれないでしょ」
「体型で判断するな」
「でも華奢だし」
「それはまあ……そうなんだけど」
自分で認めて、瑞月は少しだけ複雑な気分になった。
母は台所へ行き、すぐに小皿と茶碗、湯呑みをトレーにのせて戻ってきた。煮物の残りとご飯、温かい茶。何でもない家の食べ物だった。
瑞月は箸を受け取り、少しだけ口に運ぶ。
懐かしい味がした。
前世の、というほど大げさではないけれど、高岡龍司だった日々が、舌の上に戻ってくるようだった。
「……おいしい」
こぼれた言葉に、母の目元がまた赤くなる。
「そう」
それだけ言って、母は湯呑みに視線を落とした。
◇
事情説明が一段落した頃、母は白い事務封筒を持ってきた。見覚えのある会社名が印字されている。それを見た瞬間、瑞月は内容を半分察した。
母は、ためらうように封筒を差し出した。
「会社から、通知が来てたの」
瑞月は封筒を受け取った。紙の重みなど、たいしたものではないはずなのに、その封筒はやけに重く感じられた。
中身は、予想していた通りだった。
無断欠勤が続いたこと。就業規則に基づく処分。雇用契約の終了。貸与品と私物の返却に関する案内。事務的な文面が、理路整然と並んでいる。
そこには怒りも困惑もない。ただ、納得するしかない事実があった。
高岡龍司という社員が突然出勤しなくなり、連絡も取れず、規則に従って切り離された。その事実だけが、淡々と書面に記されていた。
瑞月はしばらく黙っていた。もっと衝撃を受けると思っていた。
人生が終わったような気分になるのかもしれないと、どこかで身構えていた。
(......やっぱり、そうなるよな)
あの会社に戻りたかったかと問われれば、答えは単純ではない。毎日が楽しかったわけではない。むしろ、削られることのほうが多かった。荷主との折衝、見積もり、納期調整、無茶な前倒し依頼、電話口の理不尽な要求。思い出すだけで胃のあたりが重くなる。
それでも、自分で辞めたのではなく、音信不通になったことで切られた。
その違いが、胸の奥に鈍く刺さった。
「ごめんね」
母が言った。
「せめて、何か連絡できてたら……」
「お母さんのせいじゃない」
瑞月はすぐに首を振った。
「俺が何も言わずに消えたんだし」
「でも」
「本当に、お母さんのせいじゃない」
強めに言うと、母は唇を結んだ。
隼人が低く息を吐く。
「会社に連絡くらいはしてほしかったがな」
「うん」
「でも、できる状況じゃなかったのもわかる」
「だから余計、腹立つんだよ」
隼人の声には、苛立ちがあった。
瑞月に向けたものではない。たぶん、状況そのものへの怒りだった。突然龍になった弟。壊れた離れ。連絡の取れない日々。届いた解雇通知。どれも隼人の常識では処理しきれない。
それでも、怒るという形で受け止めようとしてくれている。
瑞月は、それが少しだけありがたかった。
「でもさ」
陽菜が、場の空気に耐えきれなくなったように口を開いた。
「お兄ちゃん……じゃない、瑞月お姉ちゃん、もう神社にいるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、生き方が変わっただけじゃん」
母と隼人が陽菜を見る。
陽菜は少しだけ肩をすくめた。
「前の生活が終わっただけで」
「だけ、って言い方は軽すぎるだろ!?」
隼人が言う。
「でも、そうじゃん。会社員の龍司は終わったかもしれないけど、瑞月お姉ちゃんは神社にいるんでしょ。じゃあ無くなったわけじゃないじゃん!」
言い方は乱暴だったが、まっすぐな陽菜らしかった。
瑞月は思わず笑いそうになった。笑っていい場面ではない気もしたが、唇の端が少し緩む。
「陽菜は、たまに核心ついてくるよな」
「褒めてる?」
「たぶん」
「じゃあ褒められたことにしとく」
陽菜は満足げに頷いた。
その軽さに、また救われる。
母はしばらく封筒を見つめてから、迷うように言った。
「……家に戻ってきてもいいのよ」
瑞月は、息を止めた。
その言葉は、想像していたよりも深く刺さった。
“戻ってきてもいい”
その一言を、どこかで待っていたのかもしれない。自分でも気づかないうちに。あれだけ逃げてたくせに、家族へ何も告げずに消えたくせに、それでも戻っていいと言われたかったのかもしれない。
陽菜が即座に乗ってきた。
「そうだよ。今日からこっち住めばいいじゃん」
「だって部屋もあるでしょ!? 離れはあれだけど、こっちならどうにかなるし」
母は陽菜をたしなめなかった。
隼人も、すぐには否定しなかった。
瑞月は、目の前の三人を見た。
このまま、うんと言えたら楽だったかもしれない。
母屋へ戻る。高岡家で暮らす。陽菜に髪を触られ、母のご飯を食べ、隼人に小言を言われる。そんな日々に再び戻れるのなら、それはきっと幸せなことなのだろう。
けれど、現実はそれほど単純ではなかった。
「ありがとう」
瑞月はゆっくり言った。
「でも、普段は神社にいようと思う」
陽菜が不満そうに眉を寄せる。
「なんで?」
「理由はいくつかある」
瑞月は膝の上で指を組み直した。
「まず、近所への説明がつかない。龍司が消えたあとに、急に瑞月が高岡家に出入りし始めたら、余計な詮索を呼ぶ」
隼人が苦い顔で頷いた。
「近所の目は、確かに面倒だな」
「それに、俺が龍司だってことは、あまり広めないほうがいい。今の俺は、説明しようとするほど話がややこしくなるから」
「龍司と結びつけると、戸籍とか会社とか、全部ややこしくなるか」
「うん」
隼人は現実的な問題にすぐ辿り着いた。
瑞月は少しだけ頷いた。
「あと、宗佑さんには恩がある。神社に匿ってもらって、寝る場所も用意してもらってる。人の姿で動けるようになってからは、神社の手伝いも始めた。巫女服も、用意してもらったし」
「巫女服!?」
陽菜の目が露骨に輝いた。
「それ見たい!」
「今そこ?」
「そこは大事でしょ」
「機会があったらっていうか、神社に来たら見れるよ」
「やったー!」
逃げ道が一つ、なくなった気がした。
瑞月は咳払いして続ける。
「それに、白龍辰巳神社は……龍脈が通っているらしい。あそこにいると、この姿を保つのも楽なんだ。神社の空気というか、流れというか、そういうものがあるみたいで」
「家だと、苦しいの?」
母が心配そうに訊いた。
「今すぐどうこうってわけじゃない。今も普通にしてられる。でも、まだ完全にこの姿が安定しきってるわけじゃないから、普段は神社にいたほうがいいと思う」
それは言い訳ではなかった。同時に、完全な本音でもなかった。
本当は、恐怖心もある。
家族のそばにいれば、瑞月としての輪郭が、龍司だった頃の自分に揺らされる。けれど、もう完全に同じ場所へは戻れない。神社にいれば、瑞月としての役目がある。白龍としての自分を受け止める場所もある。
どちらか一方を選ぶのではない。
今の自分には、たぶん、その間を行き来する時間が必要だった。
母は長いあいだ黙っていた。
やがて、陽菜が不満そうに頬を膨らませる。
「じゃあ、たまに来るのは?」
「え?」
「夕飯とか、お風呂とか。あと、私の部屋でだらだらするとか」
「最後は何だ?」
「家族交流」
「便利な言葉にするなよ!」
瑞月が苦笑すると、陽菜は真剣な顔で言った。
「でも、来るんでしょ?」
その目を見て、瑞月は少しだけ背筋を伸ばした。
「うん。ちょくちょく来る」
母を見る。
「夕飯も、お風呂も……迷惑じゃなければ、甘えさせてもらう」
母の目がまた潤んだ。
「迷惑なわけないでしょう!」
その声は、玄関で聞いた涙混じりの声より、少しだけ日常に近かった。
陽菜がすかさず手を挙げる。
「じゃあ最低でも週一」
「勝手に条件をつけるな!」
隼人が言う。
「えー、じゃあ月二?」
「交渉するな」
「隼人兄、厳しい!」
「お前が適当なんだよ!」
そのやり取りを見ながら、瑞月は思った。
帰る場所は、失われたわけではない。
ただ、帰り方が変わったのだ。
◇
夕方が夜へ傾き、母屋の中に夕食の匂いが満ち始めた頃、玄関の戸が開く音がした。
居間の空気が、もう一度ぴんと張る。
母が立ち上がる。
隼人も視線を玄関の方角へ向ける。
陽菜だけが「あ、来た」とでも言いたげな顔をして、瑞月の袖を握った。
「大丈夫」
小さな声だった。
瑞月はその横顔を見る。
「何が?」
「お父さん、ああ見えて、けっこう甘いから」
「そうかな?」
「そうだよ。わかりづらいだけ」
陽菜は妙な自信を持って言った。
ほどなくして、居間の入口に父が姿を見せた。
高岡恒一。
五十代前半。仕事の都合で県外の支店に詰めることが多く、平日は家を空けがちだった。家族に無関心なわけではない。ただ、感情を言葉にするのがひどく下手な人だった。
恒一は、居間の入口で足を止めた。
視線が瑞月に落ちる。
銀髪。翡翠の瞳。落ち着いた色のニット。ロングスカート。見知らぬ少女が、座っている。
それだけなら、父は即座に事情を問いただしただろう。だが、母の目元。隼人の強張った横顔。陽菜が袖を握る距離。そして、瑞月の目。
それらを順に見て、恒一は少しだけ息を止めた。
母から、事前に連絡は受けていたのかもしれない。だが、文面や電話で聞くのと、直接見るのとでは違う。
父はしばらく黙っていた。
やがて、コートを脱ぐより先に口を開く。
「龍司だというなら」
低い声だった。
「俺とお前しか知らないことを話してみろ」
母が何か言いかけた。けれど瑞月は、それを目で静止した。
父ならそう来るだろう。
むしろ、泣かれるより、怒鳴られるより、確認を求められるほうが、父らしいし、そのほうがありがたかった。
瑞月は正面から父を見た。
「中学の時、体育祭で転んで膝、怪我した日」
恒一の眉がわずかに動く。
「病院の帰りにコンビニ寄って、缶コーヒー買ってくれた」
父は黙っている。
瑞月は続けた。
「就職が決まった日、駅まで送ってくれた車の中で言われた。『向いていることより、続けられることを探せ』って言った」
恒一の手が、コートの袖口を握ったまま止まる。
「あと、俺が合気柔術の道場に行くって言った時」
瑞月は少しだけ苦笑した。
「父さんは、『漫画の真似事で終わるならやめておけ。本気でやるなら応援する』って言った」
沈黙が落ちた。
母も、隼人も、陽菜も何も言わなかった。父だけが、瑞月を見ている。
その目の奥にある感情は読み取れない。驚き、疑い、安堵、怒り。どれもありそうで、どれも表へは出ない。
長い沈黙のあと、恒一はようやく息を吐いた。
「……そうか」
短い言葉だった。
「龍司なんだな」
それだけ言って、父は目を閉じる。
ほんの少し遅れて、続けた。
「よく、顔を見せに来た」
その一言で、瑞月の胸の奥につかえていたものが、静かにほどけた。
母のように抱きしめるわけではない。陽菜のように飛びつくわけでもない。隼人のように怒りを見せるわけでもない。
けれど、それは確かに、父が受け入れた証拠。
「ごめん」
瑞月は小さく言った。
恒一は首を横に振る。
「謝る必要はない」
父はようやくコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。それから、いつもの調子に近い声で言う。
「座ったままでいい。いくつか確認したい」
「うん」
「今いる神社の宮司は信用できるのか?」
「信用できると思う。俗っぽいけど、悪い人じゃない。最初に助けてくれたのも宗佑さんだし、今も社務所の小部屋に住まわせてもらってる」
「金は、どうしてる?」
「お父さん」
母が少し咎めるように言ったが、瑞月は首を振った。
「いや、大事な話だから」
食べるものも、着るものも、寝る場所も必要になる。綺麗事だけでは、生活は回らない。
「龍司の頃の預金が、少し残ってる」
瑞月は言った。
隼人が眉を寄せる。
「使えるのか?」
「ネットバンキングとカードは、まだ使ってないけど、少額ならATMで何とかなるし」
そこで瑞月は、自分の銀髪を指先で少しつまみ、苦笑した。
「でも、窓口は無理。この姿で銀行に行って、"高岡龍司本人です" は、さすがに通らないから」
居間に、なんとも言えない沈黙が落ちた。
「まあ、無理だな」
隼人が言った。
「本人確認で詰む」
瑞月は素直に頷いた。
「だから、当面は必要な分だけ使う。神社にも、生活費は少し渡すつもり。ずっとただで置いてもらうわけにはいかないし」
「神社のほうは受け取るのか?」
恒一が問う。
「宗佑さんは最初、すごく渋ってた。白龍様から家賃を取る宮司ってどうなんだ、みたいな顔してたけど」
「神様扱いなのか」
「たぶん半分くらいは」
「もう半分は?」
「面倒な居候」
隼人が小さく噴き出した。その笑いは、ほんの一瞬だった。だが、その一瞬だけで、居間の空気が少しほどけた。
父はそこで目を細めたが、追及はしなかった。
「危険は?」
「ゼロじゃないと思う。俺自身が、もう普通じゃないから。でも、神社にいるほうが安定する。龍脈も通ってるし、白龍としての役目もある」
「龍脈、か…」
父は聞き慣れない言葉を口の中で転がすように呟いた。
「つまり、家に戻るより神社にいるほうが利点があると?」
「うん。今はそのほうがいいと思うし、近所への説明もつかないから」
恒一は隼人を見る。
隼人が小さく頷く。
「龍司が消えたあと、急にこの子が住み始めるのは無理がある」
「だろうな」
父は短く言った。
その目が、もう一度瑞月へ戻る。
「なら、無理に戻れとは言わん」
父は、少しだけ間を置く。
「ただし、帰ってくるなとも言わん」
その言葉は、居間の空気へ静かに落ちてきた。
母が目元を押さえる。
陽菜が、瑞月の袖をぎゅっと握る。
隼人は視線を逸らし、何かを飲み込むように喉を動かした。
瑞月は、父を見ていた。
元の場所へ戻れたわけではない。
高岡龍司として、何もなかったように離れへ戻り、会社へ通い、家族に「ただいま」と言う日々は、もう戻っては来ない。
けれど――
帰ってきていい場所まで、失ったわけではなかった。
「……ありがとう」
その言葉は、自分で思っていたよりも小さく、震えていた。
恒一は、ほんのわずかだけ頷いた。それ以上の言葉はなかったが、その沈黙ごと、高岡家の夜は少しだけ形を変えていた。
龍司が消えた家の居間に、瑞月が座っている。
それはとても奇妙で、説明しがたく、どこか心細い。
それでも、この家は瑞月を追い返したりはしなかった。
母屋の灯りが、冬の空に淡く灯る。
その光の中で、瑞月はようやく、自分が家族全員に受け入れられたのだと理解した。




