第5話 家族のもとへ
巫女服を脱いだあとも、その感慨は瑞月の中に残っていた。白衣と緋袴の感触そのものではない。あの装いで人の視線を受け止めた時に生まれた、昂揚感と当事者意識。
白龍辰巳神社の巫女として立つ。その役目を、自分は受入れた――そう意識した瞬間、今度は別の問題が脳裏をよぎる。
母。隼人。陽菜。そして父。
社務所の小部屋へ戻った瑞月は、座卓の上のスマホを見た。未読通知は、画面の端から端まで溜まっている。時間が空いたぶんだけ、心配も怒りも、所在のなさも、文字になって積み重なっていた。
母からの短い文面。隼人の、必要事項だけをどうにか整えたような問いかけ。陽菜の、最初は軽く、途中からあきらかに不安へ傾いていった連投。
そして、その並びの中に、元旦の朝にはなかった名前が混じっている。
父だ。
『連絡だけでもよこせ』
『生きているなら、それで構わない』
たったそれだけの文だったが、やけに重く感じられた。
瑞月は、膝の上で自分の指を握りしめた。白く、細い指だった。まだ少し借り物めいて見えるその手が、いまは確かに自分のものでもある。
高岡龍司として、離れにこもり、会社へ通い、見積書と電話と年末進行に削られていた日々に未練があるかと問われれば、答えは「はい」とは言えない。
だが、だからといって家族を置き去りにしていい理由にはならなかった。
『行きなさい』
窓辺に腰掛けていた玉藻が言った。
いつの間にそこにいたのかは、もう気にするだけ無駄だと瑞月も学び始めている。
『家族を安心させるのも、あなたの役目よ』
『ただし、泣かれることは覚悟しなさい』
「そういう言い方、やめてください」
口ではそう返したが、自分の声に普段の張りがないことに、瑞月自身が気づいてしまう。
玉藻は肩を竦める。
『泣くでしょうよ。元旦に失踪した息子が、一か月ちょっとして娘になって帰ってくるんだもの』
『泣かないほうが、むしろ怖いわ』
「それは……まあ、そうですけど」
的を射ていた。
◇
今日の瑞月は、巫女としての装いではなく、落ち着いた色のニットにロングスカートだった。清楚で、目立ちすぎず、できるだけ穏やかに見えるものを選んだつもりだ。もっとも、銀髪と翡翠色の瞳の時点で、その努力に限界があることもわかっている。
それでも、巫女服で行くよりはいい。神社の巫女としてではなく、家族のもとへ帰る者として行くのだから。
社務所の小部屋を出ると、宗佑がちょうど土間で紙袋を整理していた。
私服に着替えた瑞月を見て、手を止める。
「出かけるのか?」
その声は、問いというより確認に近かった。
瑞月は一瞬だけ迷ってから、うなずく。
「はい。自宅に行ってきます」
宗佑は少しだけ言葉を選ぶように黙り、それから口を開いた。
「……巫女として立つのも大事だが、その前に会うべき相手がいるんだろ」
瑞月は少しだけ目を見開いた。
あの中年宮司にも、こういうセリフが言えるらしい。
「お土産だ。持っていけ」
そう言って差し出されたのは、小さな紙袋だった。
「近所の和菓子屋からもらったやつの残りだ。手ぶらよりはいい」
「残り物ですか」
「縁起物ってことにしとけ」
ぶっきらぼうだが、その距離感がありがたかった。瑞月は紙袋を受け取り、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「無事に帰ってこい」
「大げさです」
「追い返されたら、泣きながら戻ってきてもいいからな」
「そこは縁起でもないので却下です」
宗佑はそこで、ようやく笑った。
玉藻が横で鼻を鳴らす。
『行ってきなさい、瑞月』
『家族の前では、最初に “着飾った自分” を気取らないことね。あの人たちが会いたいのは、あなたの外面じゃないのだから』
その言葉には反論できなかった。
瑞月は紙袋を抱え直し、白龍辰巳神社をあとにした。
◇
二月上旬の空は、高く、澄んでいた。
名古屋の街を歩くたび、瑞月はもう自分が目立たずにはいられないことを知る。
振り返る視線がある。銀髪と顔立ちが人目を引く。けれど今日は、そのことをありがたいとも煩わしいとも思う余裕がなかった。
高岡家の門が見えてくる。見慣れたはずの外壁が、妙に遠く感じられた。
母屋の脇に、小さな離れが見える。窓も外壁も綺麗に直されていた。砕けたガラスも、裂けた枠も、もう元通りに補修されている。
けれど、瑞月にはそれがまったく元通りには見えなかった。
あの元旦の朝、自分が壊した場所だ。
自分だけが消えた場所だ。
胸の奥を、鈍い何かが刺しつづける。
門の前で一度、立ち止まる。
逃げたい、と思った。ここで踵を返してしまえば、少なくとも今この瞬間の苦しさからは逃れられる。だが、逃げたらたぶん、もう二度と来られない。そう理解できてしまう程度には、瑞月も自分の弱さを知っていた。
意を決して、インターホンを押す。聞き慣れた電子音が、妙に遠い。
しばらくして、玄関の向こうから足音がして、戸が開く。出てきたのは母だった。
当然、母の目には見知らぬ銀髪の少女しか映っていない。来客用の笑みを浮かべかけ、その顔が途中で止まる。相手が誰かはわからない。けれど、何かただならぬものを感じ取ったらしい。
「……どちらさまでしょうか?」
その声に、瑞月は喉を詰まらせた。ここまで来て、また逃げたくなる。だからといって、逃げたら終わる。
瑞月はまっすぐ母を見て、言った。
「母さん。俺だよ。龍司!」
空気が凍った。
母の顔から、感情が見事なほど抜け落ちる。理解できない。だからこそ、最初に浮かんだのは喜びでも安堵でもなく、警戒と怒りだった。
「いったい何を言ってるの!?」
「急にそんなこと言われても……あなた、ふざけてるの!?」
「待って、ちゃんと説明するから」
「説明って、そんな――」
その時、奥から足音が近づいてきた。
「母さん、どうした」
隼人だった。続いて、陽菜も玄関の奥から顔を覗かせる。
「誰?」
陽菜が半歩前へ出て、瑞月を見る。きょとんとした視線が、銀髪と顔立ちと、その場に満ちた妙な緊張感を順に拾っていく。
「え、何。知り合い?」
隼人の反応は逆だった。瑞月を見るなり、無意識に母の前へ半歩入り、家族を庇う位置へ立つ。表情が硬い。
「すみません。どういうご用件ですか?」
「隼人兄……」
呼びかけてから、瑞月は自分で口を噤んだ。兄、と呼んだ。素で。
隼人の眉が、わずかに動く。
「今、何て?」
ここで一気に畳みかけるのは違う、と瑞月は思った。そんなことをすれば、余計に怪しい。だから、家族しか知らないことを一つずつ差し出すほうがいい。
息を整え、言葉を選ぶ。
「隼人兄。高二の時、進路のことで喧嘩したあと、仲直りして庭で缶コーヒー飲んだよね」
隼人の顔色が変わった。
「去年の夏、勝手に俺のエナドリ飲んだの、陽菜だろ」
「えっ!?」
陽菜が目を丸くする。
「あと、母さん。就職決まった日に、離れに来て『あんたは気を張ると黙るから、嬉しい時くらいちゃんと喜びなさい』って言った」
母の唇が震えた。
どれも世間を揺るがす程の秘密ではない。だが、家族の中だけに通じる温度を持った記憶だった。
「そんな……」
母が掠れた声で言う。
「でも、そんなの……」
「俺しか知らないこと、まだ言えるよ」
瑞月は言った。
「だけど、それでも信じろっていうのは無理なのも、わかってる」
陽菜はさっきから瑞月の顔と母の顔を見比べている。隼人はまだ警戒を解いていない。だが、その目の奥には、完全な拒絶とは違う揺れが生まれていた。
理屈だけでは届かない。
なら、最後のひと押しがいる。
瑞月はゆっくりと右手を差し出した。掌を上へ向け、息を整える。霊力を大きく流す必要はない。ほんのわずか、指先へ寄せるだけでいい。
白銀の微光が、掌の上へ灯った。
火ではない。熱も煙もない。けれど、たしかにそこに光がある。やわらかく、澄んで、冬の朝の空気と心が清められる静かな光だった。
母が息を呑む。
陽菜の口が、ぽかんと開く。
隼人だけが、はっとしたように離れのほうを振り返った。元旦の朝、不可解に壊れたあの離れと、目の前の現象が、ようやく一本に繋がったのだろう。
「……本当に」
隼人の声が、初めて揺れた。
「龍司、なのか?」
瑞月は掌の光を消し、小さく頷く。
「うん。中身は、ちゃんと俺」
そこで一度だけ息を継ぎ、目の前の家族を順に見た。
「ただ、今は神社でお世話になっていて、そこでは "瑞月" って呼ばれてる」
「この姿の名前として、そう名乗ってるんだ」
「みづき……?」
陽菜が、その音を口の中で転がすように繰り返した。
「うん」
瑞月は少しだけ苦く、それでも誤魔化さずに笑った。
「龍司の名前じゃ、今の姿で外へ出るには都合が悪いから」
母の唇がまた震える。
隼人はまだ整理しきれない表情のまま、それでももう、目の前の少女を完全に他人としては見られなくなっていた。
次の瞬間、最初に感情が崩れたのは母だった。
言葉より先に、涙が溢れていた。口元を押さえたまま、その場にしゃがみ込みそうになる。瑞月が慌てて一歩前へ出ると、母はそのまま瑞月を抱きしめた。
「生きてたのね」
「何で、何も言わないで……」
「ごめん」
それしか言えなかった。
母に抱きしめられる感触は、懐かしさの中に違和感があった。娘を抱くみたいに腕が回されている。けれど、その腕の震えは、間違いなく龍司へ向けられていた。
陽菜はそこでようやく我に返ったらしく、一気に距離を詰めてくる。
「えっ、待って、ほんとに?」
「ほんとにお兄ちゃん?」
「ていうか……」
言いながら、ためらいなく銀髪へ手を伸ばした。
「すご。サラサラ」
順応が早い。
母が泣き、隼人が固まり、陽菜だけが距離を縮めて物理接触してくる。いかにも陽菜らしくて、瑞月は胸の奥がゆるむのを感じた。
「てか、めっちゃ可愛くない?」
陽菜は真顔で言った。
「第一声それ?」
「いや、だって本当に可愛いし」
そこで陽菜は一拍置き、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、瑞月お姉ちゃんって呼んでいい?」
「え?」
「私、昔っからお姉ちゃん欲しかったの!」
瑞月は、返す言葉を失った。
冗談半分ではない。陽菜の目は本気でそう言っていた。
瑞月は助けを求めるように隼人へ目を向けた。が、隼人は固まっていた。情報量が限界を超えたのだろう。警戒も怒りも安堵も、全部が中途半端に混ざり合って、処理落ちしたような顔をしている。
「ちょっと待って!」
「待てない」
陽菜が即答する。
「だって今、うちに可愛いお姉ちゃんが爆誕したんだよ」
「その理屈で進めるな!」
「いやでも中身はお兄ちゃんでしょ?」
「そこがややこしいんだろうが!」
ようやく隼人がいつもの調子へ戻りかけたのを見て、瑞月は少しだけ肩の力を抜いた。
玄関先の空気が、変わっていた。
見知らぬ女として締め出される気配は、もうそこにはない。説明のつかない何かではあっても、自分がここにいていい存在なのだと、母の腕と、陽菜の手と、隼人の崩れかけた声が伝えてくる。
母は涙を拭いながら、それでもまだ瑞月の肩へ手を置いたまま言った。
「とにかく、中へ」
その一言が、瑞月の胸へ静かに落ちた。
帰ってきたのだと、ようやく思えた。




