第1話 神社に居つく
高岡龍司の、人間としての過去は、たしかに終わっていた。
――はずだった。
だが、終わったものは終わったものでしかなく、そのあとどうすればいいのかまでは、誰も教えてくれない。
白龍辰巳神社の境内に長々と横たわったまま、龍司はしばらく動けなかった。砂利の冷たさが腹の鱗越しにじわりと沁みる。尾の先がぶつかったらしい何か――たぶん石灯籠か狛犬か、そのへん――のことも気になったが、確認する勇気も気力もなかった。
しかも、離れの窓から飛び出し、ろくに慣れもしないまま空を渡ってここまで来たせいか、腹の奥がじわじわと空いている。猛烈というほどではない。だが、何かを少し口に入れたくなるような、落ち着かない空腹感だった。
龍になったせいで寒さには強くなったくせに、飛ぶだけで腹が減るらしい。便利なのか不便なのか、まだよくわからない。
◇
爪の間に挟んだままのスマホが、ぶる、と震えた。
画面には妹の陽菜からの通知が並び始めていた。
『起きてる?』
『あれ、返事ない』
『ねえ、離れの窓なんだけど』
見なかったことにしたい文面ばかりだった。だが、見なかったことにしたところで現実はなかったことにできない。
(どうする)
問いかけに、だれも答えてはくれない。
白龍のため息が落ち葉を吹き飛ばした。
その時だった。砂利を踏む、かすかな足音が近づいてきた。
龍司はびくりと身を強張らせた。鳥居の向こうから現れたのは、煤けた箒を手にした中年の男だった。年の頃は五十代後半。白衣に袴といういかにも宮司らしい格好だが、背筋の伸びきらない疲れ方に、年始のめでたさは見てとれない。
その男、蛭田宗佑は、白龍辰巳神社の宮司だった。
元旦の早朝だというのに、この神社には参拝客の姿がない。熱田神宮のような名のある社へ人は流れ、ここには冷えた空気と売れることのないお守りと、ひとりで箒を持つ宮司だけが存在する。宗佑はいつものように賽銭箱の前を掃き清め、並べ直した破魔矢の数を見て小さくため息をついたとき、何某かの衝突音が聞こえた。
境内の砂利が抉れている。
狛犬が地面に落ちている。
そして、その先に――白く巨大なものが存在している。
宗佑は動きを止めた。
龍司も動きを止めた。
朝の境内に、妙に長い沈黙が落ちた。
宗佑の鼓動が速くなっていくのが、龍司にははっきり聞こえた。数メートル先の人間の心臓の音まで拾ってしまう自分の耳が、もう人間のそれではないことを改めて突きつけてくる。
「…………は?」
先に口を開いたのは宗佑だった。掠れた声だった。龍司は、どうにか敵意がないことを伝えようとした。
『あ、すみません』
そう言うつもりだった。だが、己の口から吐き出されたのは、地の底から響いたような低い唸りだけだった。
宗佑は腰を抜かした。
(違う、そうじゃない!)
龍司は慌てた。慌てた結果、前脚でスマホを操作しようとして、二度落とし、三度滑らせ、四度目でようやくメモ帳を開いた。巨大な白龍が境内の真ん中で必死にフリック入力している光景は、怖いというより、滑稽な絵面であった。
宗佑は恐怖のあまり動けないまま、その様子を見ていた。やがて恐怖の中に、ほんの少しだけ別の感情が混ざる。
――なんだこれ。
龍司はどうにか文字を打った。
『怪しい者ではありません』
自分でも、たいがい間抜けな一文だと思った。
『今朝起きたら龍になっていました』
『助けてください』
宗佑はその画面と、龍と、また画面を見比べた。
白龍。金の角。月光みたいな鱗。どう見ても化け物、いや神獣!?
少なくとも現実には存在しないはずの何か。そのくせ、言っていることはあまりにも切実で、しかも人間臭かった。
「……夢なのか!?」
宗佑が呟いた。
龍司は無言で首を横に振った。白い鬣のようなものがふわりと揺れる。
「神罰とかでもなく?」
今度は縦に振る。いや、自分でも知らんけど、と龍司は内心で突っ込んだ。
宗佑は額に手を当てた。新年早々、過労で幻覚でも見ているのかと思いたかった。が、砂利を抉る白龍の巨体はあまりにも生々しい。白龍辰巳神社の宮司として、白龍を無視するという選択肢もまた、奇妙な形で潰れていた。
ここに来たこと自体が縁なのかもしれない。
あるいは、この神社に残った最後の一手なのかもしれない。
そんな俗っぽい考えが、ほんの一瞬、宗佑の頭をよぎった。そして、それを自覚したことに自分で面食らう。
「……と、とりあえず」
宗佑は喉を鳴らし、震える声をどうにか絞り出した。
「本殿の裏へ行こう。ここにいたら、さすがにまずい」
龍司はほっとした。ほっとした拍子に尾が動き、宗佑がびくりと肩を震わせる。
謝りたかったが、唸り声しか出ないことはもうわかっていたため、やめておいた。
◇
本殿の裏は、表の境内よりさらに人の気配が薄かった。
龍司はできるだけ音を立てないように身を縮めた。縮めたつもりでも、約二十メートルの白龍にとって“できるだけ”は誤差みたいなものだ。白い胴が木立の影に沈み、本殿も、朝の光も、どこか遠いもののように見えた。
ここへ来てようやく、龍司は自分の体をゆっくりと観察することができた。
鱗は、ただ白いのではなかった。陽が差すと銀に近い光沢を帯び、影の中ではほのかに青みがかる。触れ合う時、わずかに陶器のような硬質な音がする。前脚の爪は黒みを帯びた銀。自分の体なのに、見れば見るほど人間との接点が遠くなる。
空気の匂いもまた、ここでは違った。参道に漂っていた土と埃の気配が薄れ、代わりに木と、苔と、古い建材の匂いが混ざっている。嗅覚が、まるで分析器のように周囲の気配を解像していく。
参道側へ戻った宗佑は、何事もなかったような顔をして、抉れた砂利を均し続けていたが、落ち着きなく何度もこちらを窺ってくる。龍司はそれを見るたび、申し訳なさが胸の底に溜まっていくのを感じた。
スマホがまた震えた。
『龍司どこ?』
『電話出て』
『窓どうなってるの!?』
陽菜だけではない。兄からも、母からも、メッセージが増えていた。
返せるわけがなかった。
何と返すのだ。あけましておめでとう、起きたら龍になってた。今ちょっと神社にいる――そんな返答で済む話なら、どれだけ素晴らしい世の中だっただろうか……
龍司は目を閉じた。閉じても、耳はやたらとよく聞こえた。遠くの車の音。風が木の枝葉をゆらす騒めき。表で箒が砂利を掃く音。そして、その合間に聞こえる、自分の鼓動。人間の時より遅く、低く、重い。ひとつひとつの拍動が、体の端まで響いていた。
「――へえ。本当に現れたのね」
女の声だった。
龍司は目を開けた。
本殿の屋根の上に、女がいた。黒髪。和装。雪の朝に滲んだ墨みたいな艶やかな髪が肩を流れ、切れ長の目がこちらを見下ろしている。唇の端にだけ、どこか人の悪い笑みを浮かべていた。
そして何より、その背後で揺れていた。
尾が。
狐の尾が、何本も。
(なんだ今度は)
女は音もなく地に降りた。砂利はほとんど音を発しなかった。人ではない、と龍司は本能的に理解した。向こうもまた、龍司を遠慮なく観察する。
「若いわね」
「は?」
「霊格の話よ。まだ粗い。でも筋は悪くない」
龍司は反射でスマホを持ち上げかけたが、女はそれを見てくすりと笑った。
「まだそんなものに頼るの?」
声音は柔らかいのに、言い方が妙に棘がある。
「念じなさい。あなたはもう、人間じゃないのだから」
(いや、念じろって言われても)
「聞こえてるわよ」
即座に返ってきた言葉に、龍司はぎょっとした。
「今のだって、立派な念話。声帯じゃなく、意識で届く。やればできるじゃない」
龍司はしばらく黙った。試しに、強く念じてみる。
(……本当に聞こえてるのか?)
「聞こえてるわ」
(うわ)
「その『うわ』もね」
女は面白そうに笑った。
「私は玉藻御前。この社に座している狐の神獣よ」
「人間どもは勝手に“お稲荷さん”扱いしているけれど、まあ、外れてもいないわね」
龍司は反射的に表の宗佑を見た。宗佑は相変わらず、こちらを気にしているが、この女の存在など感じていないらしい。
「安心しなさい。あの宮司には見えてないから」
玉藻は龍司の視線の先を見て言った。それから、ほんの少しだけ目を細める。
「……ああ、“玉藻御前”の由来が気になる?」
「この国の人間は、狐を見るとすぐ昔話と結びつけたがるのよ」
「でも、あの子とは別人。よく間違えられるけど」
そっけない口調だったが、その一言だけで、龍司は逆に余計な深みを感じた。
名も、来歴も、たぶん見た目ほど単純ではないのだろう。
そして、龍司は思い出す。この神社にお稲荷様が配祀されているという話を聞いたことがある。
「それで――あなた。どういう経緯で白龍なんかになったの?」
(こっちが聞きたい)
「それはそうね」
あっさり頷かれた。
龍司は少し迷ってから、念話で断片的に事情を伝えた。元旦の朝、離れで目覚めたこと。龍になっていたこと。家族に見つかる前に逃げてきたこと。今もスマホの向こうで家族が心配していること。会社に戻りたいかと問われれば、正直そこは微妙なこと。
玉藻は途中で一度も口を挟まなかった。ただ、最後まで聞くと、ほんのわずかに目を細めた。
「……戻れるなら戻ったほうがいいのか、って顔をしてるわね」
(そう見えるか?)
「見えるわ」
玉藻は肩を竦めた。
「答えは急がなくていい。でも、生きる術は急いで覚えなさい。あの方の後継かもしれないものを、境内の隅で野垂れ死にさせる趣味はないの」
(あの方?)
「昔、この神社にいた白龍よ」
そこで初めて、玉藻の声音にほんの少しだけ温かみが宿った。
「私には恩義がある。だから見捨てない。けれど甘やかすつもりもないわ。わかる?」
龍司は、わかったようなわからないような気持ちで頷いた。
その日から修行が始まった。
◇
元旦から三が日まで、白龍辰巳神社は拍子抜けするほど静かだった。
有名神社に人が流れ、ここへ来るのは物好きか、迷い込んだ近所の老人くらいのものだ。しかも早朝や夜となれば、境内はほとんど龍司と宗佑と――龍司にしか見えない玉藻の領域だった。
玉藻が最初に叩き込んだのは、念話の安定化だった。
「思ったことを全部垂れ流すな」
(いや無理だろ)
「無理じゃない。人間だって口に出す前に選別してるでしょ」
それはそうだが、頭の中を見透かされるのは、思った以上に落ち着かない。
次に教え込まれたのは、龍脈の流れを感じることだった。
目に見えない気のうねりを追う。風と地のあわいにある道筋へ、自分の体を逆らわずに乗せる感覚。
最初、龍司はどうしても力んだ。龍なのだから、龍らしく強く押し切らなければならないような気がしていた。だが玉藻は呆れたように言う。
「押すんじゃない。通すの」
「力で噛み砕くな。流れに身を預けなさい」
その言葉に、龍司はふと昔の稽古を思い出した。合気柔術の道場で何度も言われたことがある。
ぶつかるな、受けるな、流せ。相手に逆らうな。動きの先を拾え。
ゆっくり息を吸い、肩の――今は肩と呼んでいいのかわからないが――余計な力を抜く。風の向きではない、もっと深いところを感じる。地の底から昇る水脈のような、見えない熱があった。そこへ体を添わせた瞬間、白い鱗の下を何かが通った。暖かい、というのとは違う。鱗が内側から震えるような、かすかな共鳴だった。
龍司は息を呑んだ。
「……今の」
「それよ」
玉藻の声が、少しだけ満足げだった。
「ようやく掴んだわね。武術の心得があるのは悪くないわ」
褒められた、と思った次の瞬間には、「なら次はもっと速く」と要求が増えた。やはり甘くはないらしい。
一方で、宗佑の側から見えている景色はずいぶん奇妙だった。
白龍が本殿裏でじっと動かなくなったかと思えば、急に何もない空間へ向かって顔を上げる。唸る。止まる。うなだれる。たまにひどく気まずそうな顔をする。人間の表情などないはずなのに、なぜかそう見えてしまうのが不思議だった。
「……誰と喋ってるんだ、お前」
一度だけ、宗佑はぼそりと呟いた。龍司はぎくりとしたが、もちろん玉藻のことは言えない。言っても信じてもらえないし、玉藻が面倒くさそうにする顔も目に浮かぶ。
宗佑は結局、それ以上は聞かなかった。代わりにペットボトルの水と、余った供物の煎餅を少し置いていく。龍司が煎餅を爪でつまみ損ねて粉々にすると、宗佑はなんとも言えない顔になった。
「龍神様かと思ったが、だいぶ不器用だな……」
(こっちだって好きで龍やってるわけじゃないんだよ!)
そう念じても、当然宗佑には届かない。
◇
三日目の昼、龍司は初めて“力”の輪郭に触れた。
玉藻に言われるまま、口元へ霊気を集める。白い火花のような光が喉の奥で弾け、龍司は思わずむせた。その拍子に光が散って、近くに置いてあった宗佑の紙袋の端を焦がした。
「うわあっ!」
宗佑が飛び上がって驚いていた。龍司は平謝りした。唸り声で。
宗佑は「謝ってるのはわかる、わかるけど怖いんだよ!」と半泣きになった。
玉藻だけが腹を抱えて笑っていた。
◇
三が日の最後の夜、玉藻は唐突に言った。
「行くわよ」
(どこへ?)
「決まってるでしょう。試し撃ち」
その一言で、龍司の喉はカラカラになった。
向かったのは夜の名古屋港だった。
街の光が海へ滲み、冬の風が水面を撫でている。人目のない岸壁に降り立つまで、龍司は二度ほど高度を見失いかけ、玉藻に「よくそれで今まで墜ちなかったわね」と呆れられた。
「いい? 細く、遠くへ。力みすぎないこと」
(簡単に言うなよ)
「簡単よ。失敗しても海だもの」
それは慰めになっていなかった。龍司は海を見た。黒いうねりが夜を抱え込んでいる。潮の匂いが鱗を舐め、それだけで海の深さと、その存在が体に伝わる。自分の中にも、似たような深みがある気がした。怖い。だが、何も知らないままでいるよりはましだと思った。
息を吸う。
流れを感じる。
押さず、通す。
道場で覚えた呼吸と、龍の体が知っているはずの感覚を、無理やりひとつに重ねる。
喉の奥が熱を持った。
白銀の光が、細く研ぎ澄まされていく。
「今!」
玉藻の声と同時に、龍司は口を開いた。
白銀の閃きが、夜の海を裂いた。
一拍遅れて、水柱が上がる。
黒い海面に銀の軌跡が走り、その先で砕けた水が夜風に散った。大砲のような轟音ではなかった。もっと静かで、もっと鋭い。世界の一点だけを、白く穿つような輝跡だった。
龍司は呆然とした。
(……出た)
その一言しか、出てこなかった。胸の奥が熱くなる。人生で初めて、自分が自分のものではない何かになった気がした。いや、たぶん本当にそうなのだろう。
だが感動は長く続かなかった。ぐううう、と情けない音が腹の底から響いたのである。龍司はふらついた。
(やばい)
「えっ、もう!?」
玉藻が呆れたように目を細める。
(腹、減った……)
「まだ小さいのしか吐いてないのに」
(無理だ、なんか急に……っ)
空腹だった。猛烈に。胃袋があるのかどうかもわからない龍の体なのに、とにかく食べ物を寄越せと全身が訴えてくる。龍の品位も神々しさもあったものではない。
帰りの飛行は、行きよりひどかった。
なんとか神社まで戻り、本殿裏へ落ちるように身を滑り込ませた龍司を見て、宗佑は目を丸くした。
「お、おい、大丈夫か!?」
大丈夫ではなかった。白龍は格好悪く地面に伏せたまま、念話も使わず、ただ低く情けなく呻いていた。
「はあ!? いや、そんな呻かれても!」
『空腹ですって』
『力を使った代償よ』
宗佑には玉藻の声は聞こえない。聞こえているのは、腹を空かせた白龍の情けない呻きと腹の音だけだ。
「腹が減ったのか? 何か食うか?」
宗佑は半信半疑で聞いた。龍司は力なく頷いた。
それから三十分後。
宗佑はコンビニの袋を両手いっぱいに提げて戻ってきた。おにぎり、パン、サンドイッチ、肉まん、あんまん。年始の深夜に買えるだけ買ってきたらしい。
「とりあえず、これ……」
龍司は泣きそうになった。
だが感動的なのはそこまでで、次の問題は包装だった。龍の爪でコンビニのおにぎりを開けるのは、スマホの操作以上に難しかった。端をつまめば破れる。力を抜けば滑る。ようやく開いたと思ったら海苔が爪の間に張り付く。
宗佑はしばらく呆然と見ていたが、やがて噴き出した。
「いや、はは……」
笑ってはいけないと思いながら、笑いがこみ上げてしまう顔だった。
「なんだお前。ほんとに、なんだよ……」
白龍は黙っておにぎりを食った。神々しさはもうどこにもない。ただ腹を空かせ、途方に暮れた若者のような食べ方だった。
宗佑はその様子を見守りながら、長く息を吐いた。怖くないわけではない。白龍だ。この神社にとってはとんでもない存在だ。ひとつ間違えれば、自分の手に負えるものではないだろう。
それでも――放っておけなかった。
神様のようでもあり、人間のようでもある。いや、たぶんどちらでもないのだろう。だが今のこの白龍は、ひどく行き場がないように見えた。
「しばらく」
宗佑は続けて言った。
「しばらく、ここにいればいい」
龍司の手が止まった。顔を上げる。白い睫毛のようなものの下で、縦に裂けた瞳が宗佑を見る。
すぐには言葉が出なかった。念話も、唸り声も、何も。
しばらくしてから、ようやく宗佑の頭の内側に、不器用で聞き取りづらい声がひとつだけ響いた。
(……タスカリマス)
宗佑は目を見開き、それから苦く笑った。
「今さら直接かよ」
その脇で、玉藻がくすくすと笑う。
『居候が決まったわね』
龍司は抗議したかったが、おにぎりを咥えたままだったので無理だった。
白龍辰巳神社の夜はつづく。
寂れた社の本殿裏で、巨大な白龍がコンビニのおにぎりを必死に開けている。その光景を、くたびれた宮司と、狐のなにかが見守っている。
人生は終わったのだと思っていた。
会社も、住む家も、人としての過去も、もう戻らない戻れないものだと思っていた。けれど、破綻した人生の先に、こんな奇妙な夜が待っているとは想像もしなかった。
龍司は包装の端を爪で引っ掛けながら、ひどく静かな気持ちで思った。
――まだ、終わっていないのかもしれない。
元旦の空には、遅れてきた月が薄く光を灯していた。




