第2話 ヒト化の術
三が日が終わる頃には、高岡龍司も、白龍辰巳神社の朝の冷えこみにいくらか慣れていた。慣れたからといって、現状に納得したわけではない。目が覚めるたびに、自分がまだ白龍のままであることを確かめ、そのたびに小さく絶望し、そこから気を取り直すまでの時間が、ほんの少し短くなっただけだった。
本殿裏の空気は澄んでいた。冬の陽は低く、木々のあいだを抜けてくる光は細い。二十メートル級の白龍がそこに身を伏せていれば、本来なら異様でしかないはずなのに、この寂れた神社の静けさは、その異様ささえどこか呑み込んでしまう。
龍司は長い体を丸めたまま、爪のあいだに挟んだスマホを見た。未読メッセージは、増え続けていた。妹、兄、母、父。ときどき学生時代の友人。会社からの連絡も来ていたが、それは通知欄に見えた瞬間に閉じた。龍司にとって、いちばん遠い場所はむしろあの職場だろう。
(最低だな、俺)
そう思う。だが、その最低な自分をどうにかする方法も、いまだ見つからない。
『浮かない顔をしているわね』
頭上から女の声が降ってきた。見上げると、黒髪の和装美人が、枝の上に腰掛けていた。狐の尾が、冬の光をゆるく払っている。
玉藻だった。人には見えず、人には声も聞こえず、それでいてこちらの気分だけはよく見抜く、性格の悪い神獣である。
(浮かないに決まってるだろ)
『返事が雑ね』
(龍になって神社の裏で寝泊まりしてるやつに、繊細な応対を求めるなよ)
『元気そうで何より』
玉藻は枝から音もなく降り立った。袖を払う仕草まで妙に絵になっているのが腹立たしい。
『基礎は一通り叩き込んだわ。念話も前より安定したし、龍脈の流れも掴めるようになった。なら、次の段階へ進む頃合いでしょう』
(次?)
『ヒト化よ』
龍司はしばらく黙った。
意味はわかる。わかるからこそ、反応に困る。
(……できるのか、そんなの)
『できなければ言わないわ』
(いや、できても困るんだが)
『なぜ?』
(なぜって、龍が人になるんだぞ)
『あなた、自分が龍になったことには、だいぶ慣れてきたくせに』
淡々とした言い方だった。逃げ道を塞ぐことにかけては、玉藻は実に容赦がない。
その時、本殿側から足音が近づいてきた。蛭田宗佑である。紙袋を二つ提げていた。
「おう、おはよう。……って、また誰もいないところ見てるな、お前」
宗佑からすれば、白龍が今日も何もない空間へ向かって気まずそうな顔をしているだけである。
(だからそれを言うなって……)
龍司が内心で毒づくと、玉藻が肩を揺らした。
「これ、近所からもらった饅頭な。白龍様が甘いもん食うのかは知らんが、まあ腹の足しにはなるだろ」
龍司が受け取ろうとして、前脚の爪で包み紙を破きかける。宗佑が慌てて引き戻した。
「待て待て待て。今開けるから。なんでそう毎回、絶妙に不器用なんだよ」
宗佑は包みを開けながら、ふいに真顔になった。
「……なあ」
龍司は顔を上げる。
「いつまでもこのままってのも、さすがに厳しいよな。お前にとっても、うちにとっても」
それはヒト化を知る者の台詞ではなかった。ただ、長大な白龍を本殿裏へ匿い続ける生活が、永遠に成立するはずがないという、まっとうな嘆きだった。
「追い出すって意味じゃないぞ。ただ、このままじゃできることが限られるし、目立つし、何より不便だろ」
(……まあ、俺も困ってる)
唸り声にしかならなかったが、宗佑はなんとなく意味を汲んだらしく、苦い顔で頷いた。
玉藻が龍司を見る。
『ちょうどいいわね』
(何が)
『条件よ』
嫌な予感がした。
『ヒト化の術を教える。その代わり、あなたはこの神社のために働きなさい。ここに匿われ、ここで学び、ここで生きるなら、対価は必要でしょう』
(それは……)
『無茶を今すぐ全部やれとは言わないわ。でも、何もしないまま恩だけ受け取るのは筋が通らない』
その通りだった。
龍司は数秒だけ考え、それからスマホを引き寄せた。爪の先でどうにかメモ帳を開き、宗佑へ向ける。
『もし人の姿を取れるようになったら、神社の手伝いをします』
『その代わり、しばらくここに置いてください』
宗佑は、画面と白龍の顔を見比べた。
「……人の姿、って」
言いかけて、彼は息を呑む。
「いや、待て。そんなこと、できるのか?」
龍司は少し間を置いてから首を傾けた。自分にもわからない。だが、玉藻が言うなら、たぶん不可能ではないのだろう。
宗佑はしばらく呆然としていたが、やがて口元を引き結び、うなずいた。
「できるなら、ありがたい。……いや、できなくても、お前がここにいること自体は、もう今さらだが」
商売っ気はある。だが、それだけでもない。困りながらも受け入れてしまう、その半端な善人ぶりが宗佑らしかった。
『話がついたなら始めましょうか』
(始めるって、今からかよ)
『何か不満?』
(あるに決まってるだろ)
『聞き流しておくわ』
そうして、ヒト化の術の修行が始まった。
◇
ヒト化の術は、龍司が思っていた以上に繊細で、思っていた以上に面倒だった。
『人に “化ける” じゃないの』
玉藻は言う。
『人の形の器を組み、その中へ収まるのよ。本質は白龍のまま。だから雑にやれば歪む』
(歪むって何が?)
『いろいろ』
(その説明じゃ、不安しかないだろ!)
玉藻は答えず、まず呼吸を整えさせた。
龍脈から流れ込む霊力を乱さず巡らせる。角、尾、鱗、爪。
龍としての輪郭を意識し、力ずくで消そうとするのではなく、外側だけを別の型へ寄せていく。
『力むな』
『散らすな』
『今の姿を消そうとするな。龍であることはそのままに、収まり方を変えなさい』
難しい。だが、わからなくもなかった。合気柔術で叩き込まれた、力に逆らわず、重心を通して流す感覚が、ここでも微かな手がかりになる。押し固めるのではなく、軸を通し、余分な力を抜いて整える。
その一方で、別の考えが頭をもたげていた。
人の形の器を組み、外側を整える。
しかも、玉藻の言い方からすると、それはただの無機質な変身ではないらしい。
(待てよ)
(人の形の器を作るってことは、理想が多少なり反映されるんじゃないのか?)
(いや、だとしたら……!)
『集中しなさい』
(今、むしろ変な方向に集中してるんだよ!)
『そう』
玉藻は口元だけで笑った。
『あなた、念話の制御が甘いのよ。言葉だけじゃなくて、映像まで流れてくるの』
龍司は硬直した。
『とくに妄想してる時は気の高ぶりが露骨すぎるわ。あれで隠してるつもり?』
(ちょ、お前、それ……!?)
『見た目だけじゃなく、理想の所作まで一緒に流れてくるのだから、嫌でもわかるわ』
玉藻の目が、面白がるように細められる。
『まったく、ああいうのを毎回鮮明に押し付けられるこっちの身にもなりなさい』
龍司の全身を包みかけていた白い光が、ぱちんと散った。
(今のは言わなくてよかっただろ!)
『図星だったのね』
(違う!)
『どうだか』
少し離れたところでは、宗佑が雑巾を絞りながら、おそるおそる様子を窺っていた。彼に見えているのは、白龍が急に光ったり、妙な呻き声を上げたり、地面へ額をぶつけたりしている光景だけである。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな」
宗佑が不安げに言う。
龍司は答えられず、ただ尾の先を小さく動かした。
初日は失敗ばかりだった。
二日目も、大きくは変わらなかった。
三日目に入って、ようやく龍司は「力をまとめる」感覚に触れ始めた。理想の美少女像だけではない。武術で染みついた重心の置き方、力を抜いて軸を通す感覚が、意外なほど効果的だった。どこへ力を乗せれば形が崩れず、どこを緩めれば余計な歪みが抜けるのか。白龍の巨体で覚えた流れを、人の輪郭へ細く絞る。
『遅い』
(掴めただけ褒めろよ)
『少しは見込みがあるわ』
(それ、褒めてるのか?)
『甘やかされたいの?』
(いや別に…)
性格は相変わらず悪い。だが、それが妙に頼もしいのもまた事実だった。
四日目の昼。
冬の陽が本殿の屋根を白く照らす頃、龍司は大きく息を吸い込んだ。
龍脈から流れ込む霊力が体を巡り、白い鱗の下を熱が走る。長い胴が、自分自身の意志から少しずつ遠ざかっていくような、不思議な感覚だった。
『今度はいい』
『外だけ整えなさい。中身はそのまま』
光があふれた。
激しい閃光ではなかった。雪明かりを濃くしたような、静かな白だ。龍司の巨体を包み込み、その輪郭を曖昧にしていく。
宗佑が思わず目を覆う。
「うおっ、なんだ今の!」
玉藻は腕を組み、じっと見ていた。
数秒。
やけに長い数秒だった。
光の中で、龍司はたしかに、自分の体が変わっていくのを感じていた。長さがほどけ、重さが抜け、尾の気配が細く奥へ引いていく。だが完全に消えたわけではない。龍の芯だけは、胸の奥に鋭く残っている。
やがて、光が収まり、本殿裏に立っていたのは、ひとりの少女だった。
銀の髪が、冬の日差しを受けて淡く光る。腰近くまで流れたそれは絹糸のようにやわらかく、動くたび白い衣の上をすべる。瞳は翡翠色。澄んだ水底のような色彩の奥で、龍の気配が細く沈んでいる。
身に纏っていたのは、白い小袖を思わせる簡素な和装だ。銀の差し色と、雲や龍鱗を思わせる淡い文様。飾り立ててはいないのに、妙に神々しい。
宗佑が固まった。
龍司も固まった。
視界の高さが違う。髪が頬に触れる。そして、胸元の重心が、知っている自分のそれではなかった。
『……成功ね』
玉藻の声だけが落ち着いていた。
龍司はとりあえず、自分の手を見た。白く、細く、しなやかで美しい。恐る恐る胸元へ視線を落とし、次の瞬間、顔を上げる。
「――うそだろ」
耳に届いたのは、自分が発した実際の声だった。
それより先に、宗佑が半ば悲鳴じみた声を上げる。
「しゃ、喋った!?」
次の瞬間、少女のお腹がきゅう、と鳴った。
さっきまでなかったはずの、小さな空腹。けれど確実にそこにある、妙に現実的な飢えだった。
『当然でしょう』
玉藻が涼しい顔で言う。
『人の形の器を組んだのよ。これくらいで済んでいるなら、むしろ上出来だわ』
「……ヒト化って、お腹減るんですか?」
『少しはね。便利な術ほど、ただではないの』
お腹を空かせた銀髪の少女は、しばらく呆然と立ち尽くした。




