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龍になったので会社辞めました ~ヒト化したら美少女で、今は巫女やってます~  作者:


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第0話 龍になった朝

 夢を見ていた。


 月あかりの中、白く広がる雲海を、ただひたすらに駆けている夢だった。

 体は長く、しなやかで、重力など感じることもない。風は頬ではなく鱗の一枚一枚を撫でてゆき、空気のうねりが、そのまま自分の意志に従って形を変える。

 眼下には夜の名古屋が広がっていた。眠りきらない街の灯が、黒い地表に散りばめられた星のように瞬いている。


 高岡龍司は、その夢の中で、ひどく自由だった。

 年末進行の見積書も、荷主からの無茶な前倒し依頼も、電話口の理不尽な催促も、そこにはなかった。名古屋市内の物流会社で働く社会人二年生として身につけた、あの“外向きの顔”さえ要らない。ただ前へ伸びてゆく風の道すじだけが存在し、それを突き進む自分がいる。


 ――いい夢だ。

 そう思ったところで、龍司の意識はゆっくりと、深く静かに沈んでいった。


     ◇


 元旦、午前五時過ぎ。

 目覚めは、最悪だった。全身を包む違和感――自分という存在の輪郭が根本から変わっている、その気配だった。寒いとか、眠いとか、そういう人間らしい感覚より前に、もっと根本的な異物感があった。


 布団の中が、妙に窮屈だ。

 いや違う、と龍司はぼんやり思う。窮屈なのは布団ではない。自分のほうが、おかしい。寝返りを打とうとしても、体がうまく動かなかった。重い。いや、重いというより――長い。


「!?」

 思わず漏れた声が、喉の奥で低く震えた。共鳴のしかたが人間のそれではない。その異質さに反射で目をこすろうとした瞬間――

 ガシャン、と派手な音がした。


 壁際にあったはずの棚が倒れた音だった。龍司は一気に覚醒した。

 暗い。まだ夜明け前の、冷え切った元旦の闇だ。だが、その暗がりの輪郭が妙にはっきり見えた。畳の目も、倒れた棚の角も、散らばった文庫本の表紙も、まるで薄明かりの下に置かれているように見える。色彩は薄い代わりに、輪郭だけが研ぎ澄まされている。人間の夜目ではなかった。


  それ以前に、棚に触れる距離でもないのに、どうして倒れた。龍司は自分の腕を見ようとして――そこで、思考が止まった。


 腕ではなかった。

 白銀の鱗に覆われた前脚だった。月光を閉じ込めたような艶を持つ、太くしなやかな前脚。その先には鋭い鉤爪が四本、わずかに畳へ食い込んでいる。


(…………え?)

 次の瞬間、体を起こそうとして、部屋が悲鳴を上げた。机が横倒しになり、椅子が弾かれた。充電ケーブルが宙を舞い、壁に立てかけてあったギターが無残な音を立てて折れた。天井板が軋み、頭のどこかが擦れた感触まである。


 龍司は、ようやく自分の全身を認識した。

 六畳間いっぱいに、とぐろを巻くようにして白い体が詰まっていた。細身ではあるが、長い。果てしなく長い。尾の先は部屋の隅を圧迫し、胴は布団や机や棚を容赦なく押しやり、頭は天井すれすれだ。


 龍だった。どう見ても、龍だった。

 東洋の絵巻から抜け出してきたような、蛇のごとく長い白龍が、社会人二年目の男の離れ六畳間に、ぎっちり収まっていた。


(……嘘だろ)

 人生最大の混乱とは、たぶんこういうものを言うのだろう。見積書の桁をひとつ間違えたまま送信した時も、得意先の年末案件が炎上した時も、ここまでではなかった。


 スマホ、と龍司は思った。まず自分の姿を見なければ。夢ではないにしても、せめてどの程度自分が終わっているのかを確認しなければ、次の判断すらできない。

 枕元にあるはずのスマホを探る。だが、その“探る”という行為ひとつが、難しかった。鉤爪が畳をひっかき、布団を持ち上げ、ようやく端末の角に触れる。つまむ。落とす。もう一度挟む。滑る。三度目でようやく前脚の爪の間に固定できた。


(頼むから割れるな。まだローン残ってんだぞ……)

 龍の爪でロックを解除するという地獄のような作業を経て、インカメラが起動する。

 画面に映ったのは、人間の顔ではなかった。

 白銀の鱗。

 細長い鼻梁びりょう

 額から伸びる金の角。

 縦に裂けた瞳孔の奥で、獣とも神ともつかない光を宿した眼。


 龍司は、しばらく無言でその画面を見つめていた。

 高岡龍司、二十三歳。趣味は美少女なりきり妄想。特技は合気柔術初段。贔屓は中日ドラゴンズ。名古屋市内の物流会社勤務、年始明けにはたぶんまた地獄みたいなやり取りが待っている男。

 ――だったはずの自分が、龍になっている。なってしまった。


(なんでだよ……!)

 声にならない悲鳴が胸の内で暴れだす。だが同時に、これ以上、物理的に暴れれば離れが完全に壊れることも理解してしまう。合気柔術の稽古で何度も叩き込まれた“まず呼吸を整えろ”という教えが、まさかこんな形で蘇るとは思わなかった。

 龍司はゆっくり息を吸った。すると離れの空気が大きく動き、カーテンがはためき、散乱した紙がめくれた。肺活量まで龍仕様らしい…


(落ち着け。順番に考えろ)

 一つ。自分は龍になっている。理由は不明。

 二つ。ここは高岡家の敷地内にある離れの六畳間。母屋とは少し離れている。

 三つ。元旦の早朝で、家族はまだ起きていない可能性が高い。

 四つ。この姿を見られたら、説明以前に家族の心臓が止まるかもしれない。

 五つ。人間に戻る方法は、現時点で一切わからない。

 そして六つ。このままでは、生活が成立しない。


 切実だった。

 電気代だの口座引き落としだのという話ではない。そもそも離れの中に二十メートル級の龍が収まっている時点で、人間の生活が成立するはずがない。

 家を出るしかない。家族が起きる前に、ここを離れるしかない。


 ではどこへ?

 白い龍。白龍。

 その連想は、ひどく短絡的だった。だが短絡的であることは、時に正しくもある。


 白龍辰巳神社。

 名古屋の街中にありながら、名前だけは知っていた小さな神社だ。白龍を祀る、寂れた神社。熱田神宮ほど有名でもなく、賑やかさとも無縁で、元旦の早朝でさえ人影がないと噂される場所。

 龍になったのなら、龍の神社へ行くしかない。

(行くぞ……)

 龍司は持ち物を確保した。スマホ。充電器。財布。どれも今の自分にはひどく心許ないが、それでも人間だった自分と繋がっている最後のアイテムだった。前脚の爪の間にどうにか挟み込む。


 問題は出口だった。

 離れの引き戸を通るのは不可能だ。なら、窓しかない。

 掃き出し窓へ身をずらす。自分の体が這うたびに、床の畳と壁が悲鳴をあげた。この部屋の窓は、龍にとってあまりにも小さい。

 龍司は数秒だけ躊躇し、それから覚悟を決めた。

(ごめん)


 前脚に力を込める。

 サッシがみしりと歪み、窓枠が耐えきれず悲鳴を上げ、窓ガラスが砕け散った。できるだけ静かに壊そうとしているのに、結果はまったく静かではない。壁の一部もばきりと裂け、冷たい外気が一気に流れ込んできた。


 元旦の朝の空気は、刃物のように鋭く澄んでいた。だが白銀の鱗は、その冷たさをほとんど通さない。

 龍司は壊した窓穴から頭を出すと、あたりを見回し、長い体をずるりと外へ引きずり出した。離れと母屋の間に伸びる冬の庭が、いつもよりずっと小さく見える。

 その時、不思議な感覚が脳裏をよぎった。

 飛べる。


 理屈ではない。翼なんてないのに、空を泳ぐ方法を体が知っている。風の流れ、地の気配、見えない道筋。そのすべてが、白龍になった自分へ当然のように手を差し出していた。


 龍司は意を決して、身を浮かせた。ふわり、と一度は持ち上がる。次の瞬間、ぐらりと傾いた。

(うわっ!?)


 右へ流れ、慌てて戻そうとして左へ振れ、高度が上がったかと思えば今度は下がる。まっすぐ進むだけのはずが、夜明け前の名古屋の空で白い巨体が見苦しく蛇行していた。荘厳な飛翔などではない。酔っ払いが空を泳いでいる、と表現したほうがまだ近い。だが、それでも飛んでいた。


 眼下の街が後方へ流れてゆく。ビルの輪郭、眠りをやどした道路、遠くに沈む駅の影。見慣れたはずの名古屋が、今はどこか別世界のように見えた。

 街はまだ薄暗く、人通りはほとんどない。元旦だからこそ、人の起き出しは遅いのかもしれない。白龍辰巳神社まで、それほど距離はなかった。

 途中、どこかのビルの屋上で、初日の出を待っていた若者たちが空を指していた。だが龍司は気づかなかった。風を読み違え、落ちるな落ちるなと必死で、それどころではなかったのだ。


 やがて、街の切れ目に小さな社叢が見えた。

 白龍辰巳神社だ。

(見えた……けど、待て。着地ってどうやるんだ)

 飛ぶことを本能が知っていても、上手に飛ぶ技術までは保証してくれないらしい。まして減速など、龍司は一度も習ってないし経験もない。


 神社が近づく。鳥居が迫る。境内の砂利が視界いっぱいに広がり――


(やばい――)

 白龍は、ほとんど墜落に近い形で境内へ滑り込んだ。

 砂利が爆ぜ、尾が地を薙ぎ、白い体が長々と滑ってゆく。鳥居の脇をかろうじて逸れ、巻き上がった砂塵が冬の空気に舞った。尾の先が何か硬いものに当たり、石の転がる音がした。

 ようやく止まった時、龍司は境内の真ん中に横たわっていた。

 冷たい砂利の感触が、腹の鱗越しにじわりと伝わる。


 東の空が、わずかに白み始めていた。

 名古屋市某所、白龍辰巳神社。

 長年の経営難から、近隣住民でさえ“廃神社”と、ほとんどが誤解するほど寂れたその神社には、元旦の早朝だというのに参拝客の姿がなかった。


 誰もいない。

 ただ、一柱だけ。

 途方に暮れた白龍が、砂利の上に長い体を投げ出している。


 龍司は、爪の間に挟み込んだままのスマホをようやく見た。画面には、陽菜からの通知が一件だけ光っている。

『あけおめー。九時には起こすからね』

 九時。

 あと三時間あまりで、妹は壊れた離れを見て、自分の不在に気づく。


(……詰んだな)

 白龍のため息は、人間のそれよりずっと大きく、境内の落ち葉が、ざわりと揺れた。


 空は静かに明けていく。無慈悲なほど穏やかな、年のはじめの朝だった。

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