第12話 営業会議(後編)
社務所の引き戸が、からから、という控えめな音とともに開いたようだった。
参拝客が勢いよく開けた時の音ではない。外から様子をうかがい、迷いながら手をかけたといった、遠慮のある音だ。
「ん?」
宗佑が顔を上げる。
瑞月も座卓の上から視線を外した。
宗佑は立ち上がり、廊下へ出た。
「はいはい、今行きます」
引き戸が開く音がした後、外の冷たい空気がひと筋、小部屋まで流れ込んでくる。
「あら、宮司さん。お忙しいところごめんなさいね」
聞こえてきた声に、瑞月は思わず背筋を伸ばした。
聞き覚えがある。 近所の和菓子屋の女将である。
「女将さんじゃないですか。どうしました?」
「大したことじゃないのよ。大したことじゃないんだけどね…」
そう言いながら、女将は手にした小さな紙袋を差し出した。
「これ、余りものだけど、よかったら皆さんで」
瑞月の肩が、ぴくりと動いた。
宗佑に追及されたばかりの案件が、自ら再現しにやって来たのだ。
しかも、紙袋からはほんのり甘い香りがする。餡ときな粉の匂い。人より鼻のきく瑞月には、それだけで誘惑されているようなものだ。
『あら、噂をすれば何とやらね』
玉藻が楽しそうに言ったが、瑞月は聞こえなかったふりをした。
「ありがとうございます。いつもすみません」
宗佑が紙袋を受け取り、女将を社務所へ招き入れる。
「寒いですから、中へどうぞ」
「じゃあ、少しだけ」
女将が上がってくる気配がした。
瑞月は慌てて座卓の上の紙を整理した。
“白龍様の化身、美少女巫女瑞月” と書かれた文字など、その他もろもろが見えないように、そっと帳簿の下へ滑り込ませる。
それを見ていた玉藻が言う。
『見せてあげればいいじゃない』
「……」
反論したいが、女将の前で虚空に言い返すわけにもいかない。
ほどなくして、小部屋の入口に女将が姿を見せた。
年の頃は五十代後半だろうか。落ち着いた色の上着に、店の名が入った前掛けをつけている。髪はきちんとまとめられ、目元には長年店頭に立ってきた人間特有の柔らかで明るい雰囲気が漂っていた。
瑞月を見ると、女将はぱっと顔をほころばせた。
「あら、瑞月ちゃんもいたのね」
「はい。お邪魔しています」
「お邪魔って、あなたはもうここの巫女さんでしょう?」
「……そう、ですね」
瑞月は少しだけ頬を緩め、丁寧に頭を下げた。
「この前の草餅、お口に合ったかしら」
「……とても、おいしかったです」
言った瞬間、瑞月は自分でしまったと思った。もちろん、事実である。草餅は、よもぎの香りも餡の甘さ加減も申し分なく、本当においしかった。だからこそ、嘘はつけなかった。
けれど、その答えは同時に、瑞月の逃げ道を一つ塞いだ。
「そう。ならよかった」
女将は嬉しそうに目を細める。
宗佑が横で、すでに何かを察した顔をしていた。
「それで、今日は?」
宗佑が訊ねた。
女将は「ああ、そうそう」と頷いたが、その表情が少しだけ曇る。
「実はね、ちょっと相談があって」
「相談?」
「大げさな話じゃないのよ。本当に、気のせいならそれでいいんだけど……」
女将は膝の上で手を重ねた。その声色が、先ほどよりほんの少し落ちる。
「ここ最近、店の奥がどうにも寒くてね。暖房を入れても、そこだけ冷えるの」
瑞月の指先が、膝の上でぎこちなく固まった。
宗佑は表情を引き締める。
「店の奥、というと?」
「作業場の奥。古い棚があるでしょう。昔から使ってる菓子型とか、箱とかをしまってあるところ」
「ふむ」
「それだけなら、まあ冬だし、隙間風かしらと思うんだけど、夜になると、その棚の上で、ことこと音がするのよ」
瑞月は、息を止めた。
ことこと。棚の上。夜。 その三つの単語だけで、脳が嫌な方向に絵を描き始める。
「鼠か何かでは?」
瑞月は、できるだけ穏やかな声で言った。外向きの丁寧な瑞月口調である。
心の中では、全力で鼠であってほしいと願っていた。
「私もそう思ったのよ」
女将が頷く。
「でもね、業者さんに見てもらっても、そういう痕跡はないって。それに、箱が落ちるの。誰も触っていないのに、棚から菓子箱がひとつ、ぽとんって」
「……ぽとん」
瑞月の声が小さくなる。
「あと、時々お線香みたいな匂いがするのよ。店では焚いてないのに」
「……お線香」
声はさらに小さくなった。
宗佑がちらりとこちらを見る。その目には、おもしろ半分、心配半分の気配があった。
瑞月は、目だけで抗議する。 “見ないでください。今、かなり頑張ってます”
そういう意味を込めたつもりだったが、宗佑にどこまで通じたかはわからない。
女将は続ける。
「近所の子がね、店の奥を見て “棚の上に黒い子がいる” なんて言うものだから、少し気味が悪くなってしまって」
瑞月の背筋に、冬の空気とは別の冷たいものが走った。
黒い子。夜にことこと鳴る棚。落ちる菓子箱。線香の匂い。情報が増えるたび、鼠の可能性が音を立てて小さくなっていく。
『ふうん。小物ね。それに、悪さをしている匂いもないわ』
玉藻が、面白そうに目を細めた。
(……小物でも嫌なものは嫌っ!!)
瑞月は心の中で叫んだ。だが、声には出せない。
女将は少し申し訳なさそうに笑った。
「本当に大したことじゃないの。気のせいならそれでいいのよ。ただ、うちは食べ物を扱う商売でしょう。気持ちの悪いままにしておくのも、どうかと思って」
「それで、うちに?」
宗佑が訊ねる。
「ええ。宮司さんに一度見てもらえないかと思って。それと……」
女将の視線が、瑞月へ向いた。
「変なお願いだけど、よかったら瑞月ちゃんにも一緒に来てもらえないかしら。あなたがいてくれると、なんだか心強い気がするのよ」
瑞月は、姿勢を正したまま固まった。肩書きも理屈もない、まっすぐな信頼だけが飛んできた。
これは、断れない…
宗佑が、妙に真面目な顔で頷く。
「ちょうど、祈祷やお祓いも少しずつお受けしていこうと話していたところです。瑞月さんと一緒に伺いますよ」
「あら、それは心強いわ」
女将は少し安心したように息を吐いた。
「なら、無理のない範囲で構わないので、お願いするわね。もちろん、お代はお納めしますから」
「いえ、そんな……」
瑞月が反射的に言いかけると、宗佑が静かに遮った。
「そこは神社として、きちんと受けさせていただきます」
「宗佑さん」
「仕事だ」
短く言われ、瑞月は口を噤んだ。
たしかに、つい先ほど決めたばかりだ。 祈祷もお祓いも小規模から受ける、できることからやる――自分でそう言ったばかりだった。
『よかったじゃない。言うだけで終わらなくて』
玉藻が楽しそうに言った。
瑞月は虚空を恨めしそうに見るも、女将の前なので、もちろん名は呼ばない。
「……見えない方面まで、たいへん前向きなご意見です」
「なら多数決で決まったな」
宗佑が言う。
「その多数決に数えていいかどうか、かなり疑問があります」
「神社関係者なんだろ、たぶん」
「たぶんで決めないでください」
女将が不思議そうに二人を見比べた。
「あら、何か?」
「いえ…」
瑞月は慌てて背筋を伸ばし、外向きの笑みを作った。
「失礼しました。少し、確認をしておりまして」
「確認?」
「神社の……内部の事情です」
自分でも、たいへん便利な言い方だと思った。
宗佑が少しだけ肩を震わせている。笑いをこらえている顔だった。
瑞月はあとで文句を言ってやろうと決心した。
「それで、女将さん」
宗佑は咳払いをして話を戻す。
「見るだけなら、こちらで伺えます。店を閉めたあとより、開店前の明るい時間のほうがいいでしょう。最初から夜に行く必要はない」
瑞月は心の中で、宗佑に深く感謝し、先ほどのことは許すことにした。
夜じゃない。それだけで、恐怖感が全然違う。
「そうねえ。明日の朝、仕込みの前なら少し時間が取れるわ」
「では、その時間に」
「助かるわ。瑞月ちゃんも、無理しないでね」
「はい。できる範囲で、務めさせていただきます」
瑞月は丁寧に頭を下げた。
言葉だけは、神社の巫女だった。言葉だけなら……
しかし、内心では棚の上の黒い子という単語が、脳内を全力で走り回っている。
女将は安心したように微笑み、もう一度礼を言って立ち上がった。
「じゃあ、明日の朝に。あ、紙袋の中は草餅と、少しだけど栗まんじゅうも入れておいたから」
「……栗まんじゅう」
瑞月の声が、ほんの少しだけ明るくなった。
宗佑が即座に瑞月を睨む。
「おい!」
「違います。反射です」
「何の反射だ」
「甘味への礼節です」
「また都合のいい言葉を作ったな」
女将はくすくす笑っている。
「瑞月ちゃんは、本当においしそうに食べてくれるから、見ていて嬉しくなるのよ」
「……ありがとうございます」
瑞月は赤面しながら頭を下げた。
ここまで言われてしまうと、もう完全に断れない。
甘味をもらったからではない。いや、甘味のせいも少しはある。だがそれ以上に、自分がこの町に少しずつ受け入れられていることを、面と向かって突きつけられた気がしたからだ。
◇
女将が帰っていき、社務所の引き戸が閉まる。冬の空気がまた静かに戻ってきた。
その後しばらく、誰も口を開かなかった。
座卓の上には、再興計画と記された紙。和菓子の紙袋。そして瑞月の前には、決まったばかりの初仕事が存在していた。
宗佑が、紙袋を座卓の端に置いた。
「初仕事だな、瑞月さん」
「……初仕事」
「もちろん、お祓いだ」
「決ってしまったんですよね?」
「そうだ! 決まったなら動く。仕事とはそういうもんだ」
「社会人みたいなことを言わないでください。刺さります」
「元社会人だろ!?」
「そこを突かないでください」
瑞月は両手で顔を覆いそうになり、途中でやめた。
女将の前でなくても、巫女としての品位は守りたい。守りたいが、かなり難しい。
「ほら、日頃のご厚意に報いる時だ」
「言い方がずるいです」
「ずるくない。礼儀だ」
『食べた分は働きなさい』
玉藻が言う。
瑞月は窓辺を見た。
「……見えない方面まで、追い打ちをかけてきました」
「なら決まりだな」
「白龍辰巳神社の記念すべき第一歩だ。胸を張れ」
「胸を張るには、依頼内容が怖すぎます」
「大丈夫だ。言っただろう、俺も行く」
「 “空気が嫌だな、くらい” の宮司さんが、ですか?」
「……覚えてたのか」
「忘れられるわけがありません」
宗佑は気まずそうに咳払いをした。
『それと、安心なさい』
玉藻が、窓辺から静かに言った。
『あれは、悪いものの類いじゃないわ』
「……わかるんですか」
『話を聞く限りはね。悪意のあるものなら、もっと露骨に荒れるわ。おそらく、行き場をなくした小さなものが、居心地のいい場所へ迷い込んだだけよ』
「……居心地のいい場所?」
『あの店は、ずっと白龍様へ供物を捧げてきたのでしょう。人の善意で温まった場所には、悪いものより、弱いものが引き寄せられるの。むしろ、頻繁にお供えがあったからこそ、質の悪いものが寄りつかずに済んでいたとも言えるわね』
瑞月は、少しだけ目を見開いた。
“悪いものではない”
あの店の温かさに、行き場のない何かが、身を寄せていただけ。
そう聞くと、棚の上の「黒い子」の輪郭が、ほんの少しだけ怖くないものに変わる。
「じゃあ、危なくは……」
『ないでしょうね。ただ』
玉藻は目を細めた。
『怖がりのあなたがちゃんと、ほどいて送って あげられるかどうかは、別の話よ。教えたわよね。祓いは殴ることじゃない』
「……はい」
穢れをほどき、行くべき場所へ通す。
頭ではわかっている。わかってはいるのだが。
「それでも、怖いものは怖いんです」
『知ってるわ』
玉藻は実に楽しそうだった。
瑞月は、座卓の上の紙を見た。決めたばかりの三つの柱。その一つが、もう動き出している。
社務所の外では、冬の風が境内の砂利を撫でていた。
白龍辰巳神社の小さな営業会議は、こうして幕を下ろす。
そして瑞月は、巫女としての初仕事が、よりによって自分の一番苦手なものから始まることを知った。
しかも依頼主は、これまで何度も菓子を分けてくれた和菓子屋の女将である。
断れない。とてもじゃないが、断れない。
「……なんにしても、出るものは出るんですよね?」
その問いに、宗佑は答えなかった。
窓辺で玉藻だけが、ひどく楽しそうに笑っていた。




