第11話 営業会議(前編)
社務所の小部屋に、紙袋の山ができていた。
畳の上に並んでいるのは、先日、陽菜と買い揃えたものばかりである。私服、肌着、ヘアブラシにヘアオイル、洗濯ネット、替えのタオル。
社務所の奥にある四畳半ほどの小部屋が、少しずつ “仮の寝床” ではなく、“瑞月の部屋” に近づいていく。
瑞月は正座したまま、畳の上に置かれたヘアオイルの瓶を見つめた。透明な容器の中で、淡い琥珀色の液体が揺れている。
以前の龍司なら、髪の手入れ用品など気にも留めていなかった。だが今は、腰まで流れる銀髪を乾かすにも梳かすにも、それなりの道具と手間がかかる。
物が増えるということは、生活習慣も増えるということだ。そして生活の習慣が増えるということは、自分がこの神社で暮らしていく事実が、少しずつ重みを持っていくということでもあった。
そんなことを考えていたその時、襖が控えめにノックされた。
「瑞月さん、入ってもいいか」
襖の向こうから、蛭田宗佑の声がした。
「はい、どうぞ」
瑞月が居住まいを正してそう返すと、襖がゆっくりと開いた。顔を出した宗佑は、いつもの白衣姿だが、手には茶封筒と古びた帳簿を抱えている。
何かを言いに来た顔だった。 その視線が、畳に積まれた紙袋の山で止まる。
「……増えたな」
「生活に必要なものです」
「いや、必要なのはわかる。わかるが、改めて見ると現実味がすごいな」
「現実ですから」
瑞月がそう返すと、宗佑は妙に深いため息をついた。
「そうなんだよなあ。現実なんだよなあ……」
「何ですか、その含みのある言い方は?」
「いや、別に」
宗佑は遠慮のない動作で座卓の前に腰を下ろした。茶封筒を置き、帳簿を開く。表紙はくたびれ、角が擦り切れている。白龍辰巳神社の経営状態を象徴するかのような見た目だった。
瑞月は、嫌な予感がして背筋を伸ばした。
「瑞月さん」
「はい」
「そろそろ、現実の話をしよう」
「その導入、だいたい嫌な話ですよね?」
「嫌かどうかは受け取り方次第だ」
「やはり嫌な話ですね」
「まだ何も言ってないだろ」
宗佑は帳簿をめくった。紙が乾いた音を立てる。
「巫女服。備品。シャワー室の増築。洗濯機まわり。境内の補修。光熱費。洗剤。タオル。あと、細々した消耗品」
「……はい」
「それから食費」
「食費?」
「そこを他人事みたいに復唱するな。お前のだ」
瑞月は少しだけ視線を逸らした。
「普段は、そこまで食べていないと思いますけど」
「力を使ったあとに、饅頭三つと握り飯を平らげたやつが言う台詞か?」
「あれは、一時的な燃費の問題です」
「便利な言い訳だな、白龍様」
「白龍様って呼んでおいて、その扱いでいいんですか?」
「呼び方と収支は別物だ!」
即答だった。
瑞月は反論できず、目を伏せ膝の上で指を組んだ。たしかに、宗佑に世話になっているのは間違いない。
神社に匿われ、ヒト化の術を学び、小部屋を借り、身支度のための設備まで整えてもらった。人の姿で過ごす時間が長くなり、生活の出費は確実に増えている。
宗佑が俗っぽいことも、帳簿を見せてくることも、どこか納得できてしまうのが悔しかった。
「でも、食費については、そこまで神社に負担をかけているつもりは……」
「それと」
宗佑が、瑞月の言葉を遮った。
「お前、たまに駅前の喫茶店でモーニング食ってるだろ!?」
瑞月の肩が、ぴくりと跳ねた。
「……なぜ知ってるんですか?」
「近所だからだよ。白龍辰巳神社の銀髪巫女が、小倉トーストをえらく幸せそうに食べてるって、普通に噂になってる」
「噂に……」
「なってる!」
宗佑は容赦なく頷いた。
瑞月は、脳裏にその喫茶店の光景を思い浮かべる。
古いが清潔で趣のある店内。窓際の席。厚めに切られたトースト。表面をこんがり焼かれたパンに、バターがじゅわりと染み、そこへ艶のある小倉あんがたっぷり乗っている。ゆで卵と小さなサラダ、それから湯気の立つミルクティー。
「あれは、マスターのご厚意で……」
「無料だったのか?」
「はい…」
「半分は厚意だろうな」
「半分?」
「残り半分は客寄せだ。お前が窓際で小倉トースト食ってると、通りがかった人間が二度見して、入店するらしい」
「……そんなに見られてましたか」
「見られるだろ。その髪で、その顔で、小倉トーストを慈しむように食ってたら」
「慈しんではいません」
「なんと言おうが、そんな顔をしてたらしいぞ」
瑞月は膝の上で指を強く組んだ。
恥ずかしい。だが、小倉トーストはとても美味しいのだ。そこを否定できない時点で、すでに負けている気がした。
「それに、喫茶店だけじゃないだろ」
宗佑が帳簿から視線を上げる。
「和菓子屋の女将さんからも、ちょくちょく菓子を貰ってるよな」
「それも……ご厚意で」
「どんだけ食い物恵んでもらってるんだ。神社の顔として恥ずかしく思わないのか?」
「恵んでもらっているという表現は、少し違うと思います」
「じゃあ何だ」
瑞月は、少しだけ考えた。
和菓子屋の女将は、いつも自然な形で菓子を渡してくる。余った饅頭、草餅、試作のどら焼き。時には「白龍様にお供えしたつもりだから」と、妙に逃げ道のない言い方をする。
断るのも、なんだか失礼な気がした。いや、正直に言えば、普通に嬉しかった。
「奉納されたようなものなので、遠慮するのは違うかなと……」
「都合のいい時だけ神社側の理屈を使うな」
『でも、完全に間違いではないわね』
窓辺から、涼しい声がした。
いつの間にか玉藻が、開け放した障子の桟に腰掛けていた。黒髪の和装美人が、冬の光を背にして、実に楽しそうにこちらを眺めている。
『供えられたものを受け取るのも、祀られる側の務めよ』
瑞月は少しだけ勇気づけられた。
ただし、宗佑には玉藻の声が聞こえない。ここでうっかり名を出せば、説明がややこしくなる。
瑞月は咳払いをひとつして、慎重に言った。
「……いま、神社的にありがたい方から肯定寄りのご意見がありました」
「どこからだ」
「見えない方面からです」
「そのありがたい方は、経費精算もしてくれるのか?」
『しないわ』
「しないそうです」
「だろうなっ!」
宗佑は頭を抱えた。
玉藻は口元を袖で隠し、肩を揺らしている。絶対に楽しんでいる顔だった。
「いいか、瑞月さん」
「はい」
「食べ物をもらうなとは言わん。近所の人が善意でしてくれてることまで、俺がどうこう言うつもりはない」
宗佑の声は、少し真面目になった。
「ただな。神社の名前を背負って外に出てる以上、受け取るものには気をつけろ。お前個人への好意なのか、神社への期待なのか、白龍様への信仰なのか。そこが曖昧なまま貰い続けると、あとで面倒になる」
瑞月は、反射的に背筋を正した。
宗佑の言葉は金勘定から始まったが、今のそれはただの小言ではなかった。神社の宮司として、瑞月を外の世界へ出す責任者として、彼なりに守るべき一線を引こうとしているのだとわかった。
「……はい。気をつけます」
宗佑は頷き、それから、ふと目を細めた。
「ちなみに、他からは貰ってないだろうな?」
瑞月の翡翠色の瞳が、わずかに右へ逸れ、それから左へ泳いだ。
最後に、何もなかったように視線が帳簿へ戻った。
「おい!」
「……すべてが食べ物というわけではありません」
「そこは否定するところだろ!」
「たまに、果物とか」
「食べ物だろ!」
「あと、近所の方から、余った大根を」
「それも食べ物だろ!」
「花屋さんから、売れ残りのお花をいただいたこともあります」
「それは食べ物じゃないな」
「はい」
「だが、ほぼ食べ物だよな?」
瑞月は黙った。
『見事に餌付けされているわね』
玉藻が、窓辺でくつくつと笑う。
「……見えない方面から、たいへん不名誉な評価をいただきました」
「何て?」
「言いたくありません」
「だいたいわかった」
宗佑は深々とため息をついた。
瑞月としても、言い訳の余地がまったくないわけではない。
神社に来る近所の人たちは、皆が明確な信仰心で動いているわけではない。物珍しさもある。噂の延長もある。銀髪の巫女を一目見たいという好奇心もある。けれど、手渡される果物やお菓子には、思ったよりもやわらかな気配があった。
かつて廃神社のように見られていたこの場所に、少しずつ人が来る。菓子を持ってくる。花を置いていく。世間話をしていく。
瑞月は、その流れの中に、自分が馴染み始めていることを感じていた。
「でも」
瑞月は小さく言った。
「いただいたものは、ちゃんと覚えています。誰から、何をいただいたかも。お礼も、できる範囲でしています」
「それは知ってる」
宗佑が、意外なほどあっさり言った。
「知ってるんですか」
「そりゃ知ってる。女将さんが言ってたぞ。瑞月ちゃんは、いちいち丁寧に礼を言うから渡しがいがあるって」
「……ちゃん」
「そこに反応するな」
瑞月は口元を押さえた。
“瑞月ちゃん” 何度聞いても、いまだに妙な破壊力がある。
「まあ、なんだ」
宗佑は帳簿を閉じた。
「食い物をもらい歩く銀髪巫女というのは、字面だけ見るとだいぶ危うい」
「もらうために歩いてません!」
「だが、近所の人間がお前に声をかけてくれるようになったのは悪いことじゃない。むしろ、今の白龍辰巳神社には、ありがたいことだ」
その言葉に、瑞月は少しだけ表情を改めた。
宗佑は俗っぽい。金の話もする。客寄せだの、収支だの、白龍様にも働いてもらうだの、ありがたみの欠片もないことを平気で言う。
けれど、それだけではない。この神社を、もう一度、人の来る場所にしたい。その気持ちだけは、たぶん本物なのだろう。
「……私で、役に立てるでしょうか?」
瑞月がそう言うと、宗佑は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らす。
「もう立ってるだろ。少なくとも、小倉トースト一枚ぶんくらいは」
「評価基準が安いです」
「ここの神社経営において、まず一枚ぶんでも大事なんだよ」
「ありがたみが消えていきます」
「ありがたみだけで屋根は直らん」
あまりにも現実的な返しだった。
瑞月は、思わず笑ってしまった。その笑いに、宗佑も少しだけ肩の力を抜く。玉藻は窓辺で目を細め、何も言わずにその様子を見ていた。
社務所の外では、冬の風が境内の木の枝を小さく鳴らしている。
白龍辰巳神社は、まだ貧しい。古く、目立たず、近所から忘れられかけていた場所だ。けれど、そこに少しずつ、瑞月の生活と、人の気配が増えている。
◇
そして宗佑は、帳簿の横へ、あらかじめ用意していたらしい一枚の紙を置いた。紙の中央には、太い油性ペンでこう書かれていた。
“白龍様活用案”
瑞月は、三秒ほど沈黙のまま目を見開いた。
窓辺で玉藻が、口元に袖を当てる。声を出さずとも、もう笑っているのがわかった。
「宗佑さん」
「何だ?」
「これは駄目です!」
「まだ説明してないだろ」
「説明される前に止めたほうがいい気がしました」
瑞月は、紙に書かれた文字を指さした。
「白龍様を “活用” しないでください。表現がひどいです」
「わかりやすいだろ」
「わかりやすければ何でも許されるわけではありません」
「じゃあ」
宗佑は紙を裏返した。そこには、少しだけ文字の圧を抑えた筆跡で、別の題名が書かれている。
“白龍辰巳神社 再興計画”
瑞月は瞬きをした。
「急にそれらしくなりましたね」
「内容的には同じだ」
「台無しです」
宗佑は悪びれずに帳簿を脇へ寄せた。古びた座卓の上に、帳簿と紙と、少し冷めた茶が並ぶ。
その紙一枚が置かれただけで、部屋の空気が変わった。ただ身を寄せるだけの場所が、何かを始める場所に変わろうとしていた。
『商売に寄りすぎると、信仰は軽くなるわよ』
玉藻が窓辺で足を組み、涼しい声で言う。
瑞月は小さく頷き、宗佑へ向き直る。
「商売に寄りすぎると、信仰は軽くなる、とのことです」
「だから誰の意見なんだ、それは?」
「神社に縁のある、ありがたい方面からのご意見です」
「そのありがたい方面は、収支表を見てくれるのか?」
『見ないわ。人間の金勘定は人間でやりなさい』
「見ないそうです」
「なんと、ありがたいことだ」
皮肉をいいつつ、宗佑が遠い目をした。
白龍辰巳神社は、まだ立ち直ったわけではない。 噂が広がり、差し入れが増え、瑞月を見に来る人も出始めた。だが、それはまだ小さなきっかけにすぎない。
宗佑が、この神社をどうにかしたいと思っていることだけは、瑞月にもわかっていた。
「で、だ」
宗佑は紙の下に、さらに三本の横線を引いた。
「当面の柱は三つ」
「柱?」
「一つ。祈祷」
宗佑が一本目の横線の横へ書き込む。
「家内安全、商売繁盛、厄除け。大きいことはいきなりできんが、小規模なら受けられる」
「はい」
祈祷という言葉には、まだ抵抗が少ない。巫女服を着て社頭に立つようになってから、参拝客へ頭を下げることには少しずつ慣れてきた。
「二つ。お祓い」
宗佑が二本目に書いた瞬間、瑞月のしせんが、それを凝視した。
「……お祓い」
「どうした」
「その、お祓いの対象って、具体的には?」
「悪い気とか、霊的なものとか、まあ、そういうのだな」
「霊的なもの…」
「目が死んでるぞ」
「死んでません。死んでるものが苦手なだけです」
「白龍だろ、お前」
「白龍でも怖いものは怖いんです」
言ってから、瑞月は自分でも少し情けなくなった。
白龍としての力はある。人の姿になってからも、その本質が消えたわけではない。だが、それと幽霊が平気かどうかは、まったく別問題だった。
『白龍が霊を怖がるとはね』
「笑わないでください」
『笑っていないわ。楽しんでいるだけ』
「もっとたちが悪いです」
瑞月が窓辺へ小さく抗議すると、宗佑が眉をひそめた。
「また見えない方面か」
「はい。見えない方面が、見えないものの話題で楽しんでいます」
「何もわからん」
「私も時々そう思います」
『祓いは、殴ることじゃないわ』
玉藻の声が、少しだけ低くなる。
瑞月は自然と背筋を伸ばした。
『怖いからといって、力任せに押し潰そうとしないこと。柏手で場を開き、祈りで神気を通す。あなたの役目は、穢れをほどくことよ。焼くのでも、砕くのでも、吹き飛ばすのでもないわ』
「……はい」
瑞月は、自分の手を見下ろした。
白く、細い手。かつて龍司だった頃の骨ばった手とは、まるで違う。だが、その内側には白龍としての神気が眠っている。破壊する力も、祓う力も、同じ奥底から湧いてくるのだろう。
だからこそ、扱いを間違えれば取り返しがつかないことになりかねない。
「……それで、もし本当に出たら?」
『出るわよ』
「断言しないでください」
『お祓いなのだから』
「宗佑さん。やっぱりこの話、なかったことにしませんか」
「しない」
宗佑の返事は速かった。
「まだ何もしてないのに逃げるな。最初から一人でやれとは言わん。俺も同席する」
「宗佑さん、見えるんですか?」
「強いものなら、まあ、何となくは」
「弱いものは?」
「空気が嫌だな、くらいだ」
「それ、同席してもらって大丈夫なんですか」
「俺だって不安なんだよ」
「正直すぎませんか」
宗佑は咳払いをして、三本目の横線を叩いた。
「三つ目。紹介動画」
「動画、ですか」
「鳥居、本殿、授与所、境内。あと瑞月さんの巫女姿」
「最後だけ、急に俗物化されてませんか?」
「目玉だろ」
「言い方」
「事実だ。白龍辰巳神社に、銀髪で翡翠色の目をした巫女がいる。これで何も発信しないのは、商売以前に広報の怠慢だ」
「信仰ではなく広報の話になってきました」
「信仰も、まず知ってもらわないと始まらん」
宗佑は、そこだけは妙に真面目な顔で言った。
たしかに、忘れられた場所に信仰は集まらない。名も知られず、誰も鳥居をくぐらなければ、神社はただ朽ちていくだけだ。
ちやほやされるのは好きだが、見世物にされるのは怖い。
けれど、誰にも見られないまま消えていくことのほうが、たぶんもっと怖いし寂しい。
「紹介動画って、具体的には何をするんですか?」
「鳥居から入って、境内を映す。本殿、授与所、お守り。白龍様の伝承を軽く話す。最後に瑞月さんが巫女姿で一礼」
「それだけなら……」
「あと、白龍様の加護っぽい演出を少し」
「少し」
「白銀の光が、ふわっと広がる感じで」
「それは演出ではなく本物になりますよね」
「どうせ見る方はAIかCGだと思うだろうから大丈夫だ」
「それでいいんですか」
「むしろ今の時代、それが一番安全だ」
宗佑は本気で言っていた。
瑞月は複雑な顔になる。たしかに今の時代なら、どれほど本物らしい映像を出しても、真っ先に疑われるのは加工やAIだろう。現実離れしたものほど、かえって現実だとは思われない。
『普通の人間は、そう思うでしょうね』
玉藻が静かに言った。
「普通ではない人には?」
『さて。人間は、あなたが思うより鋭い者もいるわ』
その一言だけで、部屋の温度が少し下がった気がした。
外へ出るということは、見られるということだ。そしてそれは、誰かに気づかれる可能性があるということでもある。
「……表向きの話を、決めましょう」
瑞月が言うと宗佑が頷いた。
彼は別の紙を取り出した。上のほうには、いくつか瑞月の肩書き案が書かれている。
「まず第一案。白龍様の化身、美少女巫女瑞月」
「却下です」
「早いな」
「早く却下しないと、そのまま肩書にされそうなので」
「駄目か?」
「駄目です。だいたい美少女って自分で名乗るみたいになるじゃないですか」
「事実でも?」
「なおさら駄目です」
瑞月は思わず強めに言った。
窓辺で玉藻が笑う。
『そこまで照れるなら、いっそ入れてしまえばいいのに』
「入れません」
「また見えない方面と揉めてるな」
「はい。見えない方面が、たいへん不名誉な提案をしています」
宗佑は紙へ斜線を引いた。
「じゃあ第二案。白龍様の使い」
「近すぎます。聞かれた時、説明が難しくなります」
「それもそうか」
「それに、使いというより……」
瑞月はそこで言葉を止めた。
自分は、白龍でもある。けれど、それを言うわけにはいかない。
宗佑もそこはわかっているのだろう。余計なことは聞かず、次の行を指で叩いた。
「第三案。白龍様の加護を受けた巫女」
瑞月は、黙りこんだ。
白龍様の加護。巫女。
嘘ではない。けれど、全てではない。
自分は白龍の加護を受けているというより、白龍そのものが人の器に収まった存在だ。けれど、それを外へ出せば、神社だけでなく、高岡家まで巻き込むことになるだろう。
高岡龍司という名も、失踪した息子としての事実も、外には出せない。
「……それなら、まだ」
瑞月が言うと、宗佑は頷いた。
「聞こえも悪くない。詳しく聞かれたら、“神域に関わることですので” で濁せる」
「便利な言い方ですね」
『嘘ではないわね。全部を言っていないだけで』
玉藻が言った。
瑞月は小さく息を吐く。
「全部を言っていないだけ、ですか?」
『人間の信仰は、だいたいそういう隙間で出来ているのよ』
「ずるいような気もします」
『ええ。ずるいわ。でも、全部を暴くことが正しいというものでもない。真実は、時に人を焼くものよ』
その言葉は、静かに胸に落ちた。
宗佑には聞こえないが、瑞月には、その見えない声だけが、冬の光を透かして届いていた。
「表向きは、それでお願いします」
「白龍様の加護を受けた巫女、だな」
「はい」
「元の名前のことは」
「外には出しません」
「白龍様本人かどうかは」
「基本的に認めない」
瑞月が言うと、宗佑はほんの少しだけ表情を引き締めた。
「わかった」
瑞月の秘密を守る。 高岡家を巻き込まない。 白龍辰巳神社として、曖昧なまま立つ。それは、ずるくて、危うくて、けれど今の彼らには必要な線引きだった。
「動画もその線で作る。白龍様の伝承。加護を受けた巫女。祈りの所作。あくまで神社紹介」
「白銀の光は?」
「演出」
「本物なのに」
「本物だからこそ、演出と言っとく」
「詭弁では」
「神社の広報とは、そういうものだ」
「全国の神社に怒られそうです」
瑞月はそう言いながら、少しだけ考え込んだ。動画を撮るなら、宗佑だけでは不安だった。
「宗佑さん」
「何だ」
「動画の編集、できますか?」
「切って繋ぐくらいなら」
「その言い方がすでに不安しかありません」
「俺だって万能じゃないからな」
「そこは威張るところではないと思います」
宗佑は少し考えた。
「じゃあ、誰かできるやつはいないのか?」
瑞月の脳裏に、即座に一人の顔が浮かんだ。
“陽菜”
買い物の時も、服選びから髪の扱い、外向きの口調まで、妙に的確に導いてくれた妹。瑞月のことを “お姉ちゃん” として全力で楽しみながら、同時にこちらの不安もちゃんと見てくれていた。
ただ、高岡家を神社の事情へ巻き込みすぎることには、少し迷いがあった。
それでも、動画という話なら、陽菜以上に相談しやすい相手はいない。
「妹に聞いてみます」
「陽菜さんか?」
「はい。ただ、あまり巻き込みすぎるのも…」
「もうだいぶ巻き込んでるだろ」
「それは……そうですが」
瑞月はスマホを手に取った。
『神社の紹介動画を作る話が出ているの。撮影や編集について、少し相談してもいい?』
送信。
返事は、ほとんど間を置かずに返ってきた。
『やる』
続けて、二つ目。
『絶対やる』
三つ目。
『お姉ちゃんの神社デビュー動画でしょ?』
四つ目。
『任せて。盛るけど盛りすぎないようにする』
瑞月は、無言でスマホを伏せた。
「どうだった」
「……やるそうです」
「頼もしい妹さんじゃないか」
「頼もしい方向が少し怖いんですが…」
宗佑は笑った。
紙の上には、祈祷、お祓い、紹介動画という三つの柱が並んでいる。
そして、その横に小さく書き添えられた肩書き。
“白龍様の加護を受けた巫女・瑞月”
瑞月は、その文字を見つめた。ただの肩書きで、外向きの説明だ。全部を語らないための、便利な言葉。
それでも、その文字の中には、自分がこの神社で立つための居場所があった。高岡龍司ではなく、ただの美少女でもなく、白龍そのものだと名乗るわけでもない。
瑞月として。白龍辰巳神社の巫女として。
まだ頼りない足場ではある。けれど、その足場の上に立たなければ、何も始まらない。
「祈祷は、小規模から」
宗佑が確認するように言った。
「はい」
「お祓いも受ける。ただし、しばらくは私も同席する」
「……はい」
「紹介動画を作る。白龍様のことは伝承としてぼかす」
「はい」
「白龍イコール瑞月さんとは、認めない」
「はい」
「高岡龍司のことは、外には出さない」
瑞月は、一拍置いて頷いた。
「はい」
その返事だけは、少し重く聞こえた。名前を隠すことに、痛みがないわけではない。龍司として生きてきた二十三年が消えるわけではない。家族は、自分を龍司だと知っている。陽菜はお姉ちゃんと呼びながら、ちゃんと兄だった自分も見てくれている。
けれど外では、瑞月として立つ。白龍様の加護を受けた巫女。
その仮面は、嘘で作られているわけではない。むしろ真実が強烈すぎるからこそ、薄い布を一枚かける必要がある。
「よし。白龍辰巳神社、再興の第一歩だな」
「言葉にすると大げさですね」
「大げさなくらいでちょうどいい。今までが地味すぎたんだよ」
宗佑の言葉に、瑞月は小さく笑った。
「……できることから、やります」
自分の声が思ったより落ち着いていたことに、瑞月は少し驚く。
宗佑は、短く頷いた。
「おう」
『その言葉、忘れないことね』
玉藻が言った。
瑞月は窓辺を見る。
玉藻は笑っていなかった。ただ、黒い瞳でこちらを見ていた。
からかうでも、試すような目でもない。
白龍辰巳神社にかつて宿った縁と、今ここに立とうとする新しい白龍を、静かに見届けるような目だった。
瑞月は小さく頷いた。
会議は、ひとまずこれで終わろうとしていた。
――そのとき、社務所の引き戸が、小さく鳴った。




