表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
龍になったので会社辞めました ~ヒト化したら美少女で、今は巫女やってます~  作者:
帰宅編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/12

第10話 妹とショッピング(後編)

 声をかけてきた男の視線が、まず瑞月の顔に留まる。

「すごい綺麗な子だね。その髪地毛?」

 瑞月は一瞬だけ固まった。


 隣で陽菜が、紙袋を抱え直す。

 瑞月は背筋を伸ばし、外向きの微笑みを作った。

「ありがとうございます。ですが、少し急いでおりますので、構わないでいただけますか」


「え、急いでるの? そうは見えないんだけど。ちなみにモデルさんか何か?」

「いえ、違います」

「じゃあちょっとだけお茶しない? すぐそこにカフェあるしさ」

「ご遠慮します」


 男は笑ったまま、ほんの少しだけ近づいた。

「そんな警戒しなくてもいいじゃん。そっちの子も一緒にどう?」

 陽菜の肩が、わずかに強張った。


 ナンパ男の視線が陽菜へ移った瞬間、瑞月の胸の奥に冷たいなにかが流れ込む。

「妹に関わらないでください」

「お、妹なんだ。似てないね。じゃあさ、二人で――」


「失礼します」

 瑞月は紙袋を持ち直し、立ち上がって陽菜の前へ半歩出た。

 陽菜を連れ、通り過ぎるだけ。

 それで済ませるつもりだった。


 男の笑みが、少しだけ歪む。

「ちょっと待ってよ」


 伸びてきた手が、陽菜の持っていた紙袋へ触れかけた。

 その瞬間、瑞月の視界が一段広がり、神経が細く研ぎ澄まされていく。


 音が遠のく。

 人の流れ、雑踏、施設内の案内放送、子どもの声。それらが薄い膜の向こうへ沈み、男の指先だけが妙にくっきり見えた。


「離してください」

 瑞月の声は、静かだった。

 大きくはない。けれど、その一言で男の手が一瞬止まった。


 陽菜が息を呑む。

 男は、笑みを保とうとした。

「いや、別に触ってないし」

「今、触れようとしましたよね」

「そんな怖い顔しなくても――」

 今度は男の手が、瑞月の手首へ伸びた。


 強引というほどではないが、こちらの意思を軽く見ている手だった。ちょっと引き止めるだけ。ほんの冗談。そう言い訳できる程度の……だからこそ嫌な距離感。


 瑞月の身体は、考えるより先に動いていた。

 伸びてきた手を、避けない。逆に、半歩、前へ。

 掴もうとした男の手首へ、自分の指先がふわりと添う。逆らわない。止めない。男が前のめりに乗せた力を、その流れのまま、すっと斜めへ送り出す。

 このまま流せば、男は前のめりに倒れ込む。顔からか、あるいは手から、硬い床へ。


 瑞月の体が、半歩、半円を描いた。送り出す力の向きを、ほんのわずかに変える。 前方へ泳ぎかけた男の体が、その手のひらの上で支配され、くるりと向きを変えて――支えを失ったまま後ろ向きに、その場へ座り込んだ。


 派手な音はしない。投げ飛ばしたわけでも、打ちつけたわけでもない。ただ、男の転び方を、安全な方向へ瑞月が選んでやっただけだった。


 男の顔から軽薄な笑みは消えていた。

 瑞月自身も、少し驚いていた。


(身体が軽い)

(重心移動も、手首の返しも、龍司の頃よりずっと滑らかだ)

 男を傷つけるつもりはなかった。 実際、怪我をするような倒し方ではない。 ただ、立っていられなくしただけだ。なのに、瑞月の内側には、まだ別のものが残っていた。


 “白龍の気配”

 凪いだ水面の下で、眠っていた水脈が一瞬だけ目を覚ますように――


 沈んだ男が、顔を赤くして口を開いた。

「な、何すんだよ!」


 瑞月は一歩だけ前へ出た。

 その瞬間、周囲の温度がさがる。

 瑞月の翡翠の瞳の奥に、ほんの一瞬、金色の光が差した。

 男の言葉が止まる。


「これ以上、妹に触れないでください」

 瑞月は、丁寧に言った。

 丁寧だからこそ、恐ろしかった。


 男の喉が、ごくりと鳴る。尻もちをついたまま、後ずさるように手をつき、それから慌てて立ち上がった。

「わ、わかったよ。何だよ、もう……」

 捨て台詞にもなりきらない声だった。


 男は周囲の視線を避けるように、足早に人ごみの中へ紛れていった。

 残されたのは、少しだけざわついた空気と、足元の紙袋と、息を整えようとする瑞月だった。


 白龍の気配は、すぐに引いた。瑞月は自分の手を見下ろす。

 今日買ったばかりの紙袋を持つ、どこから見ても若い女性の手。

 けれど、その内側には、龍司の頃に積み上げた体捌きと、白龍としての力が宿っている。


「……すみません。お騒がせしました」

 瑞月は、周囲へ向けて小さく頭を下げた。


 近くにいた年配の女性が、気遣うように首を振る。

「いえ、あちらがしつこかったみたいだし、大丈夫?」

「はい。ありがとうございます」

 外向きの声が戻る。

 周囲の視線は、やがて少しずつ散っていく。 だが、陽菜だけは黙ったままだった。


「陽菜?」

 瑞月が振り返ると、陽菜は紙袋を抱えたまま、目を丸くしていた。


 “怖がらせた”

 そう思った瞬間、瑞月の気が沈んでいく。


「ごめん」

 瑞月の声は、陽菜相手のものに戻っていた。

「怖かった?」

 陽菜は、数秒ほど答えなかった。


 やがて、小さく息を吐く。

「びっくりした。でも、怖くはなかった」

 瑞月は目を瞬かせた。

「本当に?」

「うん」

 陽菜はしっかりと頷いた。


「怖いっていうより、お姉ちゃん強かったんだなって」

「一応、龍司の頃に合気柔術はやってたから」

「道場通ってたのは知ってたけど」


 陽菜はまだ少し驚いた顔のまま、男が消えた方向を見た。

「あんな強かったんだ」

「いや、あれは相手が勝手に崩れただけで…」

「強い人の言い方だ、それ」


「本当に、力は入れてないよ」

「力を入れないでああなるのが怖いんだけど」

「怖くないって言ったよね?」

「怖くはない。びっくりしただけ」

 陽菜はそう言ってから、ふと瑞月を見上げた。


 その目は、プロデューサーの目ではなく、ただの妹の目だった。

「かっこよかった」

 ぽつりと、陽菜が言った。


 瑞月は固まった。

「怒るところじゃないの?」

「かっこよかった!」

「いや、でも、ショッピングモールで人を転ばせたし」

「あれ、転ばせたっていうより、力ずくじゃなくて、すうって落ちちゃった感じだった」

「表現が妙に的確!」


「あと、目がちょっと光った」

「そこは忘れて」

「無理!」

 陽菜は笑った。


 その笑みを見て、瑞月の胸の奥に詰まっていたものが、ようやくほどけた。

「でもさ」

 陽菜は紙袋を持ち直した。

「お姉ちゃん、あんなに下着売り場で死にそうな顔してたのに、いざとなったら前に出るんだね」


「比較対象がおかしくない?」

「おかしくないよ。下着には負けるけど、ナンパ男には勝つ」

「そのまとめ方、かなり嫌なんだけど」

「事実じゃん」

「事実だけど…」

 瑞月は額に手を当てた。


 この妹の適応力は、やはりどこかおかしい。けれど、今はそのおかしさが頼もしかった。


「手、痛くない?」

 陽菜が訊いた。


「大丈夫。そっちは?」

「私は平気。荷物も無事」

「荷物の心配?」

「大事だよ。今日の戦利品なんだから」

「戦利品って言わないで」

 瑞月は笑った。

 だが同時に、疲れも出てきていた。


「もう、今日は帰ろっか」

 陽菜が言った。


「うん。荷物も多いし」

「お母さんに迎え頼む?」

「そうだね。さっきのこともあるし、お願いしたほうがいいかも」

「じゃあ私が電話する」


 陽菜はスマホを取り出し、電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、母の声が聞こえる。

「もしもし、陽菜?」

「お母さん、買い物終わった。荷物多いから迎えに来て」

 陽菜はいつもの調子で言った。


 その横で、瑞月はほっと息を吐く。母に迎えを頼むこと自体は予定どおりだ。問題はその次だった。

「あ、あとね」

 陽菜が余計なことを言いそうな声になった。瑞月は嫌な予感に顔を上げる。

「陽菜、待っ――」


「お姉ちゃんがナンパ撃退した」

「陽菜!」

 瑞月の声と、電話口の沈黙……


 数秒後、母の声が低く聞こえる。

「陽菜。今、何て言ったの?」

「だから、お姉ちゃんがナンパ撃退した」

「言い方!」


 瑞月は思わず陽菜のスマホへ向かって突っ込んだ。陽菜は耳から少しスマホを離し、にこりと笑う。

「大丈夫。怪我はないし、相手もたぶん大丈夫」

「"たぶん" をつけないで」

「尻もちついただけだし」

「詳細を省略しすぎだよ」

 電話口の向こうで、母が息を呑む気配がした。


「二人とも、怪我はないのね?」

 今度は母の声が、はっきり心配の色を帯びていた。

 陽菜はすぐに真面目な声へ戻る。

「うん。私も瑞月お姉ちゃんも大丈夫」

「相手は?」

「普通に歩いて逃げた。だから、怪我はしてないと思う」


 瑞月は横からそっと言う。

「少し揉めただけで、こちらから必要以上に何かしたわけではないです」


 母は少し黙り、それから言った。

「場所を教えて。すぐ行くから」

「うん」

 陽菜が現在地を伝える。


 通話が切れると、瑞月は深く息を吐いた。

「陽菜」

「なに?」

「撃退の報告、もう少し考えてほしかったな」

「でも隠すとあとで怒られるでしょ」

「それはそうだけど…」


「あと、ちょっと自慢したかった」

「自慢?」

「お姉ちゃんが、かっこよかったから」

 陽菜は悪びれなかった。


 瑞月は言葉に詰まる。

「でも、大ごとになったら困るよ」

「うん。だから "尻もち" って言った」

「十分大ごと感あるよ」

「じゃあ、"床へご案内した"」


「余計に怖いって」

 陽菜は笑った。その笑い方が、いつもの陽菜に戻ったみたいで、瑞月も少しだけ安心した。とはいえ、陽菜の指先がわずかに震えていたことを、瑞月は覚えている。


「本当に、平気?」

「平気」

「無理してない?」

「ちょっとはしてる」

 陽菜は素直に認めた。


「でも、嫌な怖さじゃなかった。びっくりしただけ」

「そっか」

「うん。あと、ナンパ男より、下着売り場で虚無顔になってたお姉ちゃんのほうが心配だった」

「そこに戻す?」


「だって魂抜けてたし」

「抜けてないよ。現実の受け入れ処理してただけ」

「処理落ちしてたもんね」

「してたかもしれない」

 瑞月が認めると、陽菜は満足そうに頷いた。


     ◇


 母の車は、それほど待たずにやって来た。駐車場の端に停まった車から母が降りてくる。いつもより少し早足だった。

「陽菜、瑞月」


 母はまず陽菜を見て、次に瑞月を見た。

「本当に怪我はない?」

「ないよ」

「大丈夫です」

 瑞月が答えると、母は一瞬だけ眉を寄せた。

「敬語に戻ってるわよ」


「え!」

「母親相手に、外向きの顔をしなくていいの」

 言われて、瑞月は少し固まった。


 陽菜が横でにやりとする。

「お母さんも教育モードだ」

「陽菜は少し黙ってなさい!」

「はい」


 母の一言で陽菜がすぐ黙ったので、瑞月は思わず感心した。

「大丈夫。怪我はないよ」

 言い直すと、母はようやく少しだけ表情を緩めた。

「よかった」


 そして、陽菜の頭を軽く撫でる。

「怖かったでしょう」

「びっくりはしただけ。お姉ちゃんが守ってくれたし」

 陽菜は、照れもせずに言った。


 母の視線が瑞月へ移る。

「陽菜を守ってくれたのね」

「結果的には」

「ありがとうね」

 その言葉は、まっすぐだった。


 龍司への礼でもあり、瑞月への礼でもあった。 妹を守った兄へのものでもあり、妹を守った姉へのものでもある。

 瑞月は、それをどう受け取ればいいのかわからず、少しだけ視線を落とした。


「大したことはしてないよ」

「大したことかどうかは、守られた側が決めるの」

 母はそう言って、買い物袋へ目を向けた。

「それで、この量なのね」

「うん。いっぱい買った」

 陽菜が胸を張る。


「服、下着、ヘアケアにスキンケア用品、日用品、あと私の服」

「しっかり買ったわね」

「必要経費です」

「それ、お父さんの真似?」

「便利たから」

 母は呆れ顔で笑った。


「とにかく、荷物積みなさい」

 瑞月と陽菜は、二人で紙袋を運び始めた。

 荷物をトランクへ積み終え、三人は車に乗り込んだ。


     ◇


 車が走り出すと、陽菜はさっそく先ほどの出来事を語り始めた。

「ほんとにすごかったんだよ。男の人がちょっとしつこくて、私の方に手を伸ばしてきたんだけど、お姉ちゃんがすっと前に出て」


「擬音が始まりそうね」

 母がハンドルを握りながら言う。


「で、手首こう、くいって」

「やっぱり擬音」

「くいってやったら、相手がすうって」


 瑞月は後部座席で頭を抱えた。

「本当に、力任せじゃないんだよ。相手が前に重心を乗せてきたから、少し崩しただけで」

「それができる時点で、普通じゃないのよ」

 母は落ち着いた声で言った。


「龍司が、道場へ通っていたのは覚えてるけど」

「あれは、ただの合気柔術だから」

「ただの、で男の人を転ばせられるの?」

「相手が油断してたから」

「強い人の言い訳だ、それ」

「強い人の言い訳だ、それ」

 陽菜がさっきと同じ台詞を、二度繰り返す。


 瑞月は反論できず、窓の外を見た。

 車窓の向こうに、冬の名古屋の街が流れていく。


「あとね、目がちょっと光った」

「陽菜!」

 瑞月はすぐに反応した。

「そこは言わなくていい」


「だって本当だし」

「本当でも、言わなくていいこともあるよ」

「目が光る美少女お姉ちゃん、かっこいいじゃん」

「……かっこよさの問題じゃないんだけど」


 母は少しだけバックミラー越しに瑞月を見た。

「自分で制御できるの?」

「たぶん。感情が高ぶると、少し出るみたい。最初に鏡を見た時も、金色に光ったことがあって」


「そう」

 母は短く頷いた。

 過度に驚かない。その代わり、覚えておくという顔だった。

「人前では気をつけなさいね」

「うん」

「でも」


 母の声が少し柔らかくなる。

「陽菜を守るためだったなら、怒れないわ」

「……うん」

「次からは、できるだけ騒ぎにならない方法を選びなさい」

「気をつける」


「よし」

 陽菜は満足げに頷き、母が小さく笑う。


 瑞月は、頬が熱くなるのを感じた。

 守った。守れた。けれど同時に、自分が人とは違う力を持っていることも、改めて思い知らされた。


 陽菜は怖くなかったと言ってくれた。母も、ありがとうと言ってくれた。それでも、瑞月は自覚するべきだ。自分の一歩は、普通の人間の一歩より重くなることがある。


「お姉ちゃん、難しい顔してる」

 陽菜が言った。


「考えごと」

「反省?」

「それもある」

「じゃあ、今日は甘いもの買って帰ればよかったね」

「どういう理屈?」

「反省には糖分」

「初めて聞いた」

「今作った」

「だと思った」

 車内に、母の笑い声が響いた。


     ◇


 高岡家へ戻ると、買い物袋は居間の一角を占領した。

 母が敷物を広げ、陽菜が袋をひとつずつ開けていく。

「これは神社に持っていく分。これは家に置いておく分。これは今夜確認する分」


「今夜確認って何?」

「サイズとか使い方とか」

「下着は確認しなくていいから」

「誰も今ここでとは言ってないでしょ」

「言い方が怖い」


 陽菜は手際よく仕分けていく。

 服、部屋着、下着、ヘアケア用品、ポーチ、ハンカチ、髪ゴム、洗濯ネット。

 ひとつずつ並ぶたびに、瑞月としての生活が、形になって見えてくる。


 母はそれを眺めながら、時々うなずいていた。

「神社に持っていくもの、多いわね」

「うん。でも全部は持てないから、少し置かせてもらおうかなって」

 瑞月が言うと、母はすぐには返事をしなかった。


「瑞月」

 母は少し迷ったように言った。

「ちょっと見せたい部屋があるの」

「部屋?」

「ええ」

 母は立ち上がり、瑞月を手招きした。陽菜も当然のようについてくる。


「陽菜も?」

「当たり前じゃん」

「そうなの?」

「そうなの!」

 押し切られ、瑞月は母の後について二階へ上がった。


 母屋の二階へ上がるのは久しぶりだった。龍司だった頃も、離れを使い始めてからはあまり足を運ばなくなっていた場所だ。


 母が開けたのは、廊下の端にある小さな部屋だった。客間というほど整ってはいないが、窓際には小さな机があり、畳はきれいに掃かれている。押し入れの戸も開けられ、中は少し整理されていた。古い箱が端へ寄せられ、空いた場所にはハンガーを掛けられるようになっていた。


「まだ、片付け途中なんだけど」

 母は少し照れたように言った。

「瑞月が来た時に、泊まれる場所があったほうがいいでしょう」

 瑞月は、すぐには返事ができなかった。


 陽菜が先に部屋へ入る。

「ここ、私の部屋にも近いしね」

「そこも計算に入ってる?」

「当然!」

 陽菜は胸を張って言った。


 母は困ったように笑う。

「離れは、龍司の部屋だった場所でしょう」

 その言葉に、瑞月は視線を落とす。


「もちろん、離れを使いたければ使ってもいいの。でも」

 母はゆっくり続けた。

「今のあなたを、あそこに一人で寝かせるのは、違う気がするの」


 瑞月は、部屋の中を見た。

 ここはもともと龍司の部屋ではない。失踪した息子が戻る場所として整えられた部屋でもない。


 瑞月が、高岡家に帰ってきた時に使う部屋。

 それが、嬉しいのか、寂しいのか、よくわからなかった。

 けれど、胸の奥がじんわりと熱くなる。

「いいの?」

 ようやく出た声は、小さかった。


「いいのよ」

 母は即答した。

「ここは、あなたの家でもあるんだから」


 陽菜が横から言う。

「このお姉ちゃんの部屋は、まだ仮だけどね」

「仮なの?」


「これから育てる部屋だから」

「部屋って育つの?」

「育つよ。服とか小物とか増えるし」

「……増える前提なんだ」

「今日だけでかなり増えたじゃん」

「否定できない」

 瑞月は笑った。

 笑ったら、胸にのしかかっていた重苦しさも軽くなった。


 母は押し入れの中を指差す。

「今日買ったもののうち、すぐ使わないものはここに置いていきなさい。神社へ全部持っていくのは大変でしょう」

「うん。ありがとう」

「あと、洗濯するものは持ってきてもいいから」

「そこまで?」

「家族でしょう」

 その一言は、あまりにも自然だった。


 瑞月はまた返事に詰まる。

 陽菜が、少しだけ声を柔らかくした。

「お姉ちゃん、泣いちゃう?」

「泣かないって」

「ほんと?」

「……たぶん」


「そこは言い切ってよ」

「努力する」

「また努力」

 陽菜が笑う。母も笑った。


 瑞月は、窓の外を見た。冬の午後の光が、ゆるく部屋に差し込んでいる。

 この光の中に、自分の私物が増えていく。たまにここで眠むり、陽菜が隣の部屋から顔を出し、母が下から声をかける。そんな光景を、少しだけ想像してしまった。


     ◇


 夕方、瑞月は神社へ戻る準備をした。

 買ったものの全部は持っていけない。必要なものだけを大きめの紙袋に入れ、服や予備のものは、高岡家の新しい部屋に置かせてもらうことになった。


「ほんとに泊まっていかないの?」

 陽菜が不満そうに言う。


「昨日泊まったでしょ」

「二泊してもいいじゃん」

「神社にも戻らないと。宗佑さんにも、明日戻るって言ってあるし」


「今日戻るって言ってないなら、まだいける」

「いけません」

「ちぇ」

 陽菜はわかりやすく不満げだった。


 母は紙袋の中をもう一度確認する。

「重くない?」

「大丈夫。これくらいなら」

「本当に? 無理しないでね」

「うん」


 父の恒一が居間の奥から短く言った。

「送ってくのか?」

「神社の近くまで送っていくわ」

 母が答える。


 恒一は頷き、瑞月を見た。

「必要なものがあれば、また言え」

「うん。ありがとう」

「あと、今日のことは……」

 恒一は少し言葉を選んだ。


「守ったのはいい。だが、無茶はするな」

「うん、気をつける」

 瑞月は素直に頷いた。


 隼人は仕事からまだ戻っていない。その代わり、陽菜が玄関までついてきた。

「今度、合気柔術教えて!」

「何でそうなるの」

「護身術、大事でしょ?」


「それはそうだけど、まず受け身からだよ」

「受け身?」

「転び方」

「……地味」

「地味だけど一番大事」

「じゃあ、お姉ちゃんが教えてくれるならやる」

「そのうちね」

「約束」

「うん、約束」

 陽菜は満足そうに笑った。


 玄関で靴を履く瑞月を、陽菜が見送る。

 昨日ここへ来た時、瑞月は高岡家の門の前で立ち尽くしていた。 逃げたくて、怖くて、けれど逃げはしなかった。


 今は、紙袋を抱えている。中身は服や日用品ばかりだ。だが、その重さは不思議と心地よかった。


     ◇


 母の車で、瑞月は神社の近くまで送ってもらった。

 白龍辰巳神社の鳥居が見える少し手前で、瑞月は車を降りる。

「ここでいいの?」

「うん。少し歩きたいから」


 母は運転席から瑞月を見た。

「また来なさい」

「うん」

「夕飯でも、お風呂でも、買い物でも。何でもいいから」

「……うん」


「じゃあ、気をつけてね」

「ありがとう、お母さん」

 母の車がゆっくり走り出す。テールランプが、夕日に染まった道に静かに溶けていく。


 それを見送るうち、瑞月の視界が、ふいに滲んだ。車が角を曲がって見えなくなっても、瑞月はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 頬を伝ったものを、指先でそっと拭う。悲しいわけではなかった。むしろ逆だ。


 帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。また来ていいと、言ってもらえた。

 当たり前のようでいて、一度は失いかけたものだ。それが今、紙袋の重みと一緒に、確かに手の中にある。


 瑞月は小さく息を吸い、滲んだ視界のまま、茜色の空を見上げていた。


 冷たい風が、濡れた頬を撫でていく。瑞月は、もう一度だけ目元を拭うと、紙袋を抱え直し、神社へ戻る道を歩いていく。


 紙袋の中身は、どれも瑞月として生きるためのものだ。そして高岡家には、瑞月が帰ってきた時のための部屋まで用意されようとしている。


 高岡龍司の居場所は、もう以前とは同じではない。けれど、失われたわけでもなかった。

 形を変え、名を変えて、それでもまだ、帰る場所として残っている。


 白龍辰巳神社の鳥居が近づく。そこには瑞月として立つ役目がある。巫女服があり、宗佑がいて、玉藻がいて、白龍としての自分を受け止める龍脈がある。


 振り返れば、高岡家とその家族がいて、瑞月のための小さな部屋もある。


 どちらかだけを選ぶのではない。

 龍司だった自分と、瑞月として歩き始めた自分。その二つを抱えたまま、行き来していい場所ができたのだ。


 鳥居の前で、瑞月は一度立ち止まり、紙袋の持ち手を握り直す。

 重い。けれど、嫌な重さではなかった。


 瑞月は小さく息を吸い、白龍辰巳神社の境内へ足を踏み入れた。

 その背中に、冬の夕映えが静かに降りていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ