第10話 妹とショッピング(後編)
声をかけてきた男の視線が、まず瑞月の顔に留まる。
「すごい綺麗な子だね。その髪地毛?」
瑞月は一瞬だけ固まった。
隣で陽菜が、紙袋を抱え直す。
瑞月は背筋を伸ばし、外向きの微笑みを作った。
「ありがとうございます。ですが、少し急いでおりますので、構わないでいただけますか」
「え、急いでるの? そうは見えないんだけど。ちなみにモデルさんか何か?」
「いえ、違います」
「じゃあちょっとだけお茶しない? すぐそこにカフェあるしさ」
「ご遠慮します」
男は笑ったまま、ほんの少しだけ近づいた。
「そんな警戒しなくてもいいじゃん。そっちの子も一緒にどう?」
陽菜の肩が、わずかに強張った。
ナンパ男の視線が陽菜へ移った瞬間、瑞月の胸の奥に冷たいなにかが流れ込む。
「妹に関わらないでください」
「お、妹なんだ。似てないね。じゃあさ、二人で――」
「失礼します」
瑞月は紙袋を持ち直し、立ち上がって陽菜の前へ半歩出た。
陽菜を連れ、通り過ぎるだけ。
それで済ませるつもりだった。
男の笑みが、少しだけ歪む。
「ちょっと待ってよ」
伸びてきた手が、陽菜の持っていた紙袋へ触れかけた。
その瞬間、瑞月の視界が一段広がり、神経が細く研ぎ澄まされていく。
音が遠のく。
人の流れ、雑踏、施設内の案内放送、子どもの声。それらが薄い膜の向こうへ沈み、男の指先だけが妙にくっきり見えた。
「離してください」
瑞月の声は、静かだった。
大きくはない。けれど、その一言で男の手が一瞬止まった。
陽菜が息を呑む。
男は、笑みを保とうとした。
「いや、別に触ってないし」
「今、触れようとしましたよね」
「そんな怖い顔しなくても――」
今度は男の手が、瑞月の手首へ伸びた。
強引というほどではないが、こちらの意思を軽く見ている手だった。ちょっと引き止めるだけ。ほんの冗談。そう言い訳できる程度の……だからこそ嫌な距離感。
瑞月の身体は、考えるより先に動いていた。
伸びてきた手を、避けない。逆に、半歩、前へ。
掴もうとした男の手首へ、自分の指先がふわりと添う。逆らわない。止めない。男が前のめりに乗せた力を、その流れのまま、すっと斜めへ送り出す。
このまま流せば、男は前のめりに倒れ込む。顔からか、あるいは手から、硬い床へ。
瑞月の体が、半歩、半円を描いた。送り出す力の向きを、ほんのわずかに変える。 前方へ泳ぎかけた男の体が、その手のひらの上で支配され、くるりと向きを変えて――支えを失ったまま後ろ向きに、その場へ座り込んだ。
派手な音はしない。投げ飛ばしたわけでも、打ちつけたわけでもない。ただ、男の転び方を、安全な方向へ瑞月が選んでやっただけだった。
男の顔から軽薄な笑みは消えていた。
瑞月自身も、少し驚いていた。
(身体が軽い)
(重心移動も、手首の返しも、龍司の頃よりずっと滑らかだ)
男を傷つけるつもりはなかった。 実際、怪我をするような倒し方ではない。 ただ、立っていられなくしただけだ。なのに、瑞月の内側には、まだ別のものが残っていた。
“白龍の気配”
凪いだ水面の下で、眠っていた水脈が一瞬だけ目を覚ますように――
沈んだ男が、顔を赤くして口を開いた。
「な、何すんだよ!」
瑞月は一歩だけ前へ出た。
その瞬間、周囲の温度がさがる。
瑞月の翡翠の瞳の奥に、ほんの一瞬、金色の光が差した。
男の言葉が止まる。
「これ以上、妹に触れないでください」
瑞月は、丁寧に言った。
丁寧だからこそ、恐ろしかった。
男の喉が、ごくりと鳴る。尻もちをついたまま、後ずさるように手をつき、それから慌てて立ち上がった。
「わ、わかったよ。何だよ、もう……」
捨て台詞にもなりきらない声だった。
男は周囲の視線を避けるように、足早に人ごみの中へ紛れていった。
残されたのは、少しだけざわついた空気と、足元の紙袋と、息を整えようとする瑞月だった。
白龍の気配は、すぐに引いた。瑞月は自分の手を見下ろす。
今日買ったばかりの紙袋を持つ、どこから見ても若い女性の手。
けれど、その内側には、龍司の頃に積み上げた体捌きと、白龍としての力が宿っている。
「……すみません。お騒がせしました」
瑞月は、周囲へ向けて小さく頭を下げた。
近くにいた年配の女性が、気遣うように首を振る。
「いえ、あちらがしつこかったみたいだし、大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
外向きの声が戻る。
周囲の視線は、やがて少しずつ散っていく。 だが、陽菜だけは黙ったままだった。
「陽菜?」
瑞月が振り返ると、陽菜は紙袋を抱えたまま、目を丸くしていた。
“怖がらせた”
そう思った瞬間、瑞月の気が沈んでいく。
「ごめん」
瑞月の声は、陽菜相手のものに戻っていた。
「怖かった?」
陽菜は、数秒ほど答えなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「びっくりした。でも、怖くはなかった」
瑞月は目を瞬かせた。
「本当に?」
「うん」
陽菜はしっかりと頷いた。
「怖いっていうより、お姉ちゃん強かったんだなって」
「一応、龍司の頃に合気柔術はやってたから」
「道場通ってたのは知ってたけど」
陽菜はまだ少し驚いた顔のまま、男が消えた方向を見た。
「あんな強かったんだ」
「いや、あれは相手が勝手に崩れただけで…」
「強い人の言い方だ、それ」
「本当に、力は入れてないよ」
「力を入れないでああなるのが怖いんだけど」
「怖くないって言ったよね?」
「怖くはない。びっくりしただけ」
陽菜はそう言ってから、ふと瑞月を見上げた。
その目は、プロデューサーの目ではなく、ただの妹の目だった。
「かっこよかった」
ぽつりと、陽菜が言った。
瑞月は固まった。
「怒るところじゃないの?」
「かっこよかった!」
「いや、でも、ショッピングモールで人を転ばせたし」
「あれ、転ばせたっていうより、力ずくじゃなくて、すうって落ちちゃった感じだった」
「表現が妙に的確!」
「あと、目がちょっと光った」
「そこは忘れて」
「無理!」
陽菜は笑った。
その笑みを見て、瑞月の胸の奥に詰まっていたものが、ようやくほどけた。
「でもさ」
陽菜は紙袋を持ち直した。
「お姉ちゃん、あんなに下着売り場で死にそうな顔してたのに、いざとなったら前に出るんだね」
「比較対象がおかしくない?」
「おかしくないよ。下着には負けるけど、ナンパ男には勝つ」
「そのまとめ方、かなり嫌なんだけど」
「事実じゃん」
「事実だけど…」
瑞月は額に手を当てた。
この妹の適応力は、やはりどこかおかしい。けれど、今はそのおかしさが頼もしかった。
「手、痛くない?」
陽菜が訊いた。
「大丈夫。そっちは?」
「私は平気。荷物も無事」
「荷物の心配?」
「大事だよ。今日の戦利品なんだから」
「戦利品って言わないで」
瑞月は笑った。
だが同時に、疲れも出てきていた。
「もう、今日は帰ろっか」
陽菜が言った。
「うん。荷物も多いし」
「お母さんに迎え頼む?」
「そうだね。さっきのこともあるし、お願いしたほうがいいかも」
「じゃあ私が電話する」
陽菜はスマホを取り出し、電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、母の声が聞こえる。
「もしもし、陽菜?」
「お母さん、買い物終わった。荷物多いから迎えに来て」
陽菜はいつもの調子で言った。
その横で、瑞月はほっと息を吐く。母に迎えを頼むこと自体は予定どおりだ。問題はその次だった。
「あ、あとね」
陽菜が余計なことを言いそうな声になった。瑞月は嫌な予感に顔を上げる。
「陽菜、待っ――」
「お姉ちゃんがナンパ撃退した」
「陽菜!」
瑞月の声と、電話口の沈黙……
数秒後、母の声が低く聞こえる。
「陽菜。今、何て言ったの?」
「だから、お姉ちゃんがナンパ撃退した」
「言い方!」
瑞月は思わず陽菜のスマホへ向かって突っ込んだ。陽菜は耳から少しスマホを離し、にこりと笑う。
「大丈夫。怪我はないし、相手もたぶん大丈夫」
「"たぶん" をつけないで」
「尻もちついただけだし」
「詳細を省略しすぎだよ」
電話口の向こうで、母が息を呑む気配がした。
「二人とも、怪我はないのね?」
今度は母の声が、はっきり心配の色を帯びていた。
陽菜はすぐに真面目な声へ戻る。
「うん。私も瑞月お姉ちゃんも大丈夫」
「相手は?」
「普通に歩いて逃げた。だから、怪我はしてないと思う」
瑞月は横からそっと言う。
「少し揉めただけで、こちらから必要以上に何かしたわけではないです」
母は少し黙り、それから言った。
「場所を教えて。すぐ行くから」
「うん」
陽菜が現在地を伝える。
通話が切れると、瑞月は深く息を吐いた。
「陽菜」
「なに?」
「撃退の報告、もう少し考えてほしかったな」
「でも隠すとあとで怒られるでしょ」
「それはそうだけど…」
「あと、ちょっと自慢したかった」
「自慢?」
「お姉ちゃんが、かっこよかったから」
陽菜は悪びれなかった。
瑞月は言葉に詰まる。
「でも、大ごとになったら困るよ」
「うん。だから "尻もち" って言った」
「十分大ごと感あるよ」
「じゃあ、"床へご案内した"」
「余計に怖いって」
陽菜は笑った。その笑い方が、いつもの陽菜に戻ったみたいで、瑞月も少しだけ安心した。とはいえ、陽菜の指先がわずかに震えていたことを、瑞月は覚えている。
「本当に、平気?」
「平気」
「無理してない?」
「ちょっとはしてる」
陽菜は素直に認めた。
「でも、嫌な怖さじゃなかった。びっくりしただけ」
「そっか」
「うん。あと、ナンパ男より、下着売り場で虚無顔になってたお姉ちゃんのほうが心配だった」
「そこに戻す?」
「だって魂抜けてたし」
「抜けてないよ。現実の受け入れ処理してただけ」
「処理落ちしてたもんね」
「してたかもしれない」
瑞月が認めると、陽菜は満足そうに頷いた。
◇
母の車は、それほど待たずにやって来た。駐車場の端に停まった車から母が降りてくる。いつもより少し早足だった。
「陽菜、瑞月」
母はまず陽菜を見て、次に瑞月を見た。
「本当に怪我はない?」
「ないよ」
「大丈夫です」
瑞月が答えると、母は一瞬だけ眉を寄せた。
「敬語に戻ってるわよ」
「え!」
「母親相手に、外向きの顔をしなくていいの」
言われて、瑞月は少し固まった。
陽菜が横でにやりとする。
「お母さんも教育モードだ」
「陽菜は少し黙ってなさい!」
「はい」
母の一言で陽菜がすぐ黙ったので、瑞月は思わず感心した。
「大丈夫。怪我はないよ」
言い直すと、母はようやく少しだけ表情を緩めた。
「よかった」
そして、陽菜の頭を軽く撫でる。
「怖かったでしょう」
「びっくりはしただけ。お姉ちゃんが守ってくれたし」
陽菜は、照れもせずに言った。
母の視線が瑞月へ移る。
「陽菜を守ってくれたのね」
「結果的には」
「ありがとうね」
その言葉は、まっすぐだった。
龍司への礼でもあり、瑞月への礼でもあった。 妹を守った兄へのものでもあり、妹を守った姉へのものでもある。
瑞月は、それをどう受け取ればいいのかわからず、少しだけ視線を落とした。
「大したことはしてないよ」
「大したことかどうかは、守られた側が決めるの」
母はそう言って、買い物袋へ目を向けた。
「それで、この量なのね」
「うん。いっぱい買った」
陽菜が胸を張る。
「服、下着、ヘアケアにスキンケア用品、日用品、あと私の服」
「しっかり買ったわね」
「必要経費です」
「それ、お父さんの真似?」
「便利たから」
母は呆れ顔で笑った。
「とにかく、荷物積みなさい」
瑞月と陽菜は、二人で紙袋を運び始めた。
荷物をトランクへ積み終え、三人は車に乗り込んだ。
◇
車が走り出すと、陽菜はさっそく先ほどの出来事を語り始めた。
「ほんとにすごかったんだよ。男の人がちょっとしつこくて、私の方に手を伸ばしてきたんだけど、お姉ちゃんがすっと前に出て」
「擬音が始まりそうね」
母がハンドルを握りながら言う。
「で、手首こう、くいって」
「やっぱり擬音」
「くいってやったら、相手がすうって」
瑞月は後部座席で頭を抱えた。
「本当に、力任せじゃないんだよ。相手が前に重心を乗せてきたから、少し崩しただけで」
「それができる時点で、普通じゃないのよ」
母は落ち着いた声で言った。
「龍司が、道場へ通っていたのは覚えてるけど」
「あれは、ただの合気柔術だから」
「ただの、で男の人を転ばせられるの?」
「相手が油断してたから」
「強い人の言い訳だ、それ」
「強い人の言い訳だ、それ」
陽菜がさっきと同じ台詞を、二度繰り返す。
瑞月は反論できず、窓の外を見た。
車窓の向こうに、冬の名古屋の街が流れていく。
「あとね、目がちょっと光った」
「陽菜!」
瑞月はすぐに反応した。
「そこは言わなくていい」
「だって本当だし」
「本当でも、言わなくていいこともあるよ」
「目が光る美少女お姉ちゃん、かっこいいじゃん」
「……かっこよさの問題じゃないんだけど」
母は少しだけバックミラー越しに瑞月を見た。
「自分で制御できるの?」
「たぶん。感情が高ぶると、少し出るみたい。最初に鏡を見た時も、金色に光ったことがあって」
「そう」
母は短く頷いた。
過度に驚かない。その代わり、覚えておくという顔だった。
「人前では気をつけなさいね」
「うん」
「でも」
母の声が少し柔らかくなる。
「陽菜を守るためだったなら、怒れないわ」
「……うん」
「次からは、できるだけ騒ぎにならない方法を選びなさい」
「気をつける」
「よし」
陽菜は満足げに頷き、母が小さく笑う。
瑞月は、頬が熱くなるのを感じた。
守った。守れた。けれど同時に、自分が人とは違う力を持っていることも、改めて思い知らされた。
陽菜は怖くなかったと言ってくれた。母も、ありがとうと言ってくれた。それでも、瑞月は自覚するべきだ。自分の一歩は、普通の人間の一歩より重くなることがある。
「お姉ちゃん、難しい顔してる」
陽菜が言った。
「考えごと」
「反省?」
「それもある」
「じゃあ、今日は甘いもの買って帰ればよかったね」
「どういう理屈?」
「反省には糖分」
「初めて聞いた」
「今作った」
「だと思った」
車内に、母の笑い声が響いた。
◇
高岡家へ戻ると、買い物袋は居間の一角を占領した。
母が敷物を広げ、陽菜が袋をひとつずつ開けていく。
「これは神社に持っていく分。これは家に置いておく分。これは今夜確認する分」
「今夜確認って何?」
「サイズとか使い方とか」
「下着は確認しなくていいから」
「誰も今ここでとは言ってないでしょ」
「言い方が怖い」
陽菜は手際よく仕分けていく。
服、部屋着、下着、ヘアケア用品、ポーチ、ハンカチ、髪ゴム、洗濯ネット。
ひとつずつ並ぶたびに、瑞月としての生活が、形になって見えてくる。
母はそれを眺めながら、時々うなずいていた。
「神社に持っていくもの、多いわね」
「うん。でも全部は持てないから、少し置かせてもらおうかなって」
瑞月が言うと、母はすぐには返事をしなかった。
「瑞月」
母は少し迷ったように言った。
「ちょっと見せたい部屋があるの」
「部屋?」
「ええ」
母は立ち上がり、瑞月を手招きした。陽菜も当然のようについてくる。
「陽菜も?」
「当たり前じゃん」
「そうなの?」
「そうなの!」
押し切られ、瑞月は母の後について二階へ上がった。
母屋の二階へ上がるのは久しぶりだった。龍司だった頃も、離れを使い始めてからはあまり足を運ばなくなっていた場所だ。
母が開けたのは、廊下の端にある小さな部屋だった。客間というほど整ってはいないが、窓際には小さな机があり、畳はきれいに掃かれている。押し入れの戸も開けられ、中は少し整理されていた。古い箱が端へ寄せられ、空いた場所にはハンガーを掛けられるようになっていた。
「まだ、片付け途中なんだけど」
母は少し照れたように言った。
「瑞月が来た時に、泊まれる場所があったほうがいいでしょう」
瑞月は、すぐには返事ができなかった。
陽菜が先に部屋へ入る。
「ここ、私の部屋にも近いしね」
「そこも計算に入ってる?」
「当然!」
陽菜は胸を張って言った。
母は困ったように笑う。
「離れは、龍司の部屋だった場所でしょう」
その言葉に、瑞月は視線を落とす。
「もちろん、離れを使いたければ使ってもいいの。でも」
母はゆっくり続けた。
「今のあなたを、あそこに一人で寝かせるのは、違う気がするの」
瑞月は、部屋の中を見た。
ここはもともと龍司の部屋ではない。失踪した息子が戻る場所として整えられた部屋でもない。
瑞月が、高岡家に帰ってきた時に使う部屋。
それが、嬉しいのか、寂しいのか、よくわからなかった。
けれど、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「いいの?」
ようやく出た声は、小さかった。
「いいのよ」
母は即答した。
「ここは、あなたの家でもあるんだから」
陽菜が横から言う。
「このお姉ちゃんの部屋は、まだ仮だけどね」
「仮なの?」
「これから育てる部屋だから」
「部屋って育つの?」
「育つよ。服とか小物とか増えるし」
「……増える前提なんだ」
「今日だけでかなり増えたじゃん」
「否定できない」
瑞月は笑った。
笑ったら、胸にのしかかっていた重苦しさも軽くなった。
母は押し入れの中を指差す。
「今日買ったもののうち、すぐ使わないものはここに置いていきなさい。神社へ全部持っていくのは大変でしょう」
「うん。ありがとう」
「あと、洗濯するものは持ってきてもいいから」
「そこまで?」
「家族でしょう」
その一言は、あまりにも自然だった。
瑞月はまた返事に詰まる。
陽菜が、少しだけ声を柔らかくした。
「お姉ちゃん、泣いちゃう?」
「泣かないって」
「ほんと?」
「……たぶん」
「そこは言い切ってよ」
「努力する」
「また努力」
陽菜が笑う。母も笑った。
瑞月は、窓の外を見た。冬の午後の光が、ゆるく部屋に差し込んでいる。
この光の中に、自分の私物が増えていく。たまにここで眠むり、陽菜が隣の部屋から顔を出し、母が下から声をかける。そんな光景を、少しだけ想像してしまった。
◇
夕方、瑞月は神社へ戻る準備をした。
買ったものの全部は持っていけない。必要なものだけを大きめの紙袋に入れ、服や予備のものは、高岡家の新しい部屋に置かせてもらうことになった。
「ほんとに泊まっていかないの?」
陽菜が不満そうに言う。
「昨日泊まったでしょ」
「二泊してもいいじゃん」
「神社にも戻らないと。宗佑さんにも、明日戻るって言ってあるし」
「今日戻るって言ってないなら、まだいける」
「いけません」
「ちぇ」
陽菜はわかりやすく不満げだった。
母は紙袋の中をもう一度確認する。
「重くない?」
「大丈夫。これくらいなら」
「本当に? 無理しないでね」
「うん」
父の恒一が居間の奥から短く言った。
「送ってくのか?」
「神社の近くまで送っていくわ」
母が答える。
恒一は頷き、瑞月を見た。
「必要なものがあれば、また言え」
「うん。ありがとう」
「あと、今日のことは……」
恒一は少し言葉を選んだ。
「守ったのはいい。だが、無茶はするな」
「うん、気をつける」
瑞月は素直に頷いた。
隼人は仕事からまだ戻っていない。その代わり、陽菜が玄関までついてきた。
「今度、合気柔術教えて!」
「何でそうなるの」
「護身術、大事でしょ?」
「それはそうだけど、まず受け身からだよ」
「受け身?」
「転び方」
「……地味」
「地味だけど一番大事」
「じゃあ、お姉ちゃんが教えてくれるならやる」
「そのうちね」
「約束」
「うん、約束」
陽菜は満足そうに笑った。
玄関で靴を履く瑞月を、陽菜が見送る。
昨日ここへ来た時、瑞月は高岡家の門の前で立ち尽くしていた。 逃げたくて、怖くて、けれど逃げはしなかった。
今は、紙袋を抱えている。中身は服や日用品ばかりだ。だが、その重さは不思議と心地よかった。
◇
母の車で、瑞月は神社の近くまで送ってもらった。
白龍辰巳神社の鳥居が見える少し手前で、瑞月は車を降りる。
「ここでいいの?」
「うん。少し歩きたいから」
母は運転席から瑞月を見た。
「また来なさい」
「うん」
「夕飯でも、お風呂でも、買い物でも。何でもいいから」
「……うん」
「じゃあ、気をつけてね」
「ありがとう、お母さん」
母の車がゆっくり走り出す。テールランプが、夕日に染まった道に静かに溶けていく。
それを見送るうち、瑞月の視界が、ふいに滲んだ。車が角を曲がって見えなくなっても、瑞月はしばらくその場に立ち尽くしていた。
頬を伝ったものを、指先でそっと拭う。悲しいわけではなかった。むしろ逆だ。
帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。また来ていいと、言ってもらえた。
当たり前のようでいて、一度は失いかけたものだ。それが今、紙袋の重みと一緒に、確かに手の中にある。
瑞月は小さく息を吸い、滲んだ視界のまま、茜色の空を見上げていた。
冷たい風が、濡れた頬を撫でていく。瑞月は、もう一度だけ目元を拭うと、紙袋を抱え直し、神社へ戻る道を歩いていく。
紙袋の中身は、どれも瑞月として生きるためのものだ。そして高岡家には、瑞月が帰ってきた時のための部屋まで用意されようとしている。
高岡龍司の居場所は、もう以前とは同じではない。けれど、失われたわけでもなかった。
形を変え、名を変えて、それでもまだ、帰る場所として残っている。
白龍辰巳神社の鳥居が近づく。そこには瑞月として立つ役目がある。巫女服があり、宗佑がいて、玉藻がいて、白龍としての自分を受け止める龍脈がある。
振り返れば、高岡家とその家族がいて、瑞月のための小さな部屋もある。
どちらかだけを選ぶのではない。
龍司だった自分と、瑞月として歩き始めた自分。その二つを抱えたまま、行き来していい場所ができたのだ。
鳥居の前で、瑞月は一度立ち止まり、紙袋の持ち手を握り直す。
重い。けれど、嫌な重さではなかった。
瑞月は小さく息を吸い、白龍辰巳神社の境内へ足を踏み入れた。
その背中に、冬の夕映えが静かに降りていた。




