第13話 初めてのお祓い(前編)
社務所奥の小部屋で、瑞月は巫女服を前に固まっていた。
畳の上には、白衣と緋袴がきちんと畳まれている。布目は整い、白は朝の光を含んでやわらかく、緋は冬の空気の中でも鮮やかに映えていた。
以前なら、それは憧れの形だった。
龍司だった頃、画面の向こうや妄想の中でいくらでも見てきた、清らかで、凛として、少しだけ非日常の匂いがする装い。
だが今、その布は瑞月の前で、まったく別の意味を持っていた。
これを着るということは、和菓子屋へ行くということだ。そして和菓子屋へ行くということは、つまり、店の奥の――あれを確認に行くということだった。
「……」
瑞月は、そっと白衣へ手を伸ばした。
指先が布に触れる直前で止まる。そして、何事もなかったかのように手は膝の上へ戻る。
『まだ着ていないの?』
窓辺から声がした。振り向かなくてもわかる。玉藻である。
黒髪の和装美人は、今日も当然のようにそこへ腰掛けていた。開けてもいない窓辺に自然発生するあたり、もう突っ込む気力もない。
「着たら、行くことになるじゃないですか」
『着なくても行くわよ』
「理不尽です」
『依頼を受けたのだから当然でしょう』
「昨日の今日ですよ。もう少し心の準備期間というものがあってもいいと思います」
『心の準備をしたら怖くなくなるの?』
「……なりません」
『なら同じね』
「同じではありません。怯える時間が増えます」
『増やしてどうするの』
玉藻は呆れたように言った。
瑞月は巫女服を見つめたまま、小さく息を吐く。
「でも、気のせいかもしれませんし…」
『なら、確かめればいい』
「確かめた結果、気のせいじゃなかった場合は?」
『祓えばいいじゃない』
「軽っ!」
思わず声が大きくなった。
障子の向こうで、どこかの床板が小さく鳴った気がした。宗佑に聞こえていないことを祈る。
瑞月は白衣の前で肩を落とした。
龍になったからといって、怖いものが怖くなくなるわけではない。
むしろ、今の瑞月は見ようと思えば見えてしまうかもしれない。暗がりも、人の気配も、空気の流れも、以前よりずっと細かく拾ってしまう身体だ。幽霊だのおばけだの、そういう類のものまで解像度高めで見えてしまったらと思うと、それだけで胃のあたりが冷えてくる。
白龍としての神気。浄化の波紋。白銀の力。 言葉にすればいかにも強そうなのに、棚の上に不確かなものがいるかもしれないというだけで、このざまである。
『怖がることは悪いことじゃないわ』
ふいに、玉藻の声が少しだけ低くなった。
瑞月は顔を上げる。
『怖いものを怖いと知っている方が、力を雑に使わない。怯えを知らない者ほど、祓いを壊すことと間違えるものよ』
「……怖がっていても、いいんですか?」
『怖がるだけならね』
「最後の一言で台無しです」
『逃げる言い訳にするなら駄目。怖いと知ったうえで、為すべきことを為しなさい』
玉藻は窓辺から滑るように降りた。
『祓いは殴ることじゃない。押し潰すことでも、吹き飛ばすことでもない。穢れをほどくことよ』
「ほどく……」
『ええ。怖いからといって、力任せにしないこと』
瑞月は膝の上の手を見下ろした。
白く、細い指。
けれど、その内側には白龍の力が宿っている。人を守ることもできるし、たぶん何かを壊すこともできる。
だからこそ、怖いからといって無茶をしてはいけないのだろう。
納得はしたが、それはそれとして、怖いものは怖いのだ。
「……着ます」
『そうしなさい』
「ただし、これは前向きになったわけではありません」
『わかっているわ』
「責任感と、昨日いただいた栗まんじゅうの対価です」
『甘味に釣られる巫女というのも、なかなか味があるわね』
「釣られてなどいません。あくまで責任感からです!」
瑞月はようやく白衣へ手を伸ばした。
◇
着替え終わった頃、瑞月は姿見の前で、白衣の襟をそっと直していた。
鏡の中には、白龍辰巳神社の巫女が立っている。銀髪は腰まで流れ、翡翠色の瞳はいつもより少しだけ緊張して見えた。白衣と緋袴はよく似合っている。似合っているのが、今は恨めしい。
その時、襖の向こうから宗佑の声がした。
「瑞月さん、支度できたか。入っていいか?」
「……はい、どうぞ」
瑞月は姿見から宗佑の方へ向き直り、居住まいを正して返すと、襖がゆっくりと開いた。
「支度自体はできています。ですが、心の準備が……できていません」
瑞月は正直に答えた。
宗佑が一拍黙る。
「正直なのはいいんだが、できれば急いでもらえないか。女将さんと、開店前の約束なんでな」
「その急かし方が、心霊スポットに無理やり連れて行こうとする友人を思い出させます」
「人聞きの悪い宮司だな」
宗佑は苦笑しながら、座卓の上へ持ち物を並べた。
祓串、小さな榊、御札、小分けの塩、筆ペンに封筒、手ぬぐい。さらに、古びてはいるが手入れの行き届いた御幣。そして懐中電灯。
瑞月の視線は、そこに吸い寄せられた。
「懐中電灯、必要ですか?」
「店の奥を見るんだから必要だろ」
「霊的な意味ではなく?」
「物理的な意味でだ」
“物理”
なんて頼もしい言葉だろう。瑞月は少しだけ安心した。
宗佑は懐中電灯のスイッチを押し、光が点くか確認する。白い光が畳に丸く落ちた。
「まあ、物理だけで済めばいいけどな」
「そういう一言が余計なんです!」
「現場に行く前に楽観しすぎてもよくないだろ」
「悲観しすぎてもよくないと思います」
「なら中間だな」
「その中間でも、私のお腹をチクチク攻撃してくるんです」
宗佑は小さく笑ったが、すぐに表情を改めた。
「いいか。今日は俺もいる。女将さんへの説明は俺がする。瑞月さんは、無理に前へ出ようとしなくていい」
「本当ですか」
「最初はな」
「最初は?」
「必要になったら前に出てもらう」
「……実家に帰っていいですか?」
「駄目だ!」
即答だった。
瑞月は深く息を吐く。
玉藻はいつの間にか宗佑の後ろに立って、楽しそうに眺めていた。もちろん宗佑には見えていない。
『なかなかにいい準備ね。弱いわりに、段取りは悪くないわ』
「……見えない方面から、段取りを褒められています」
「それは喜んでいいのか?」
「“弱いわりに” が前提ですが…」
「……喜べないな」
宗佑は、ため息を吐きつつ御札を風呂敷に包み直した。
「行くぞ。開店前に見せてもらう約束だ」
「……はい」
◇
白龍辰巳神社を出ると、冬の空気が頬を撫でた。
朝の光はまだやわらかく、境内の砂利は淡く白んでいる。鳥居の向こうには、少しずつ目を覚まし始めた町が広がる。
宗佑は道具を持ち、瑞月は巫女服の裾を乱さないよう気をつけながら隣を歩いた。玉藻はその少し後ろを、気ままに散歩でもするかのようについてくる。
見えていない人間にとっては、宮司と銀髪の巫女が二人で歩いているだけだ。だが、瑞月にはわかる。玉藻が後ろで絶対に面白がっている。
「……笑っていますよね?」
「俺は笑ってないぞ!」
「宗佑さんではありません」
「また見えない方面か?」
「そうです」
「お前は、見えない方面に相当好かれてるな」
「好かれているというか、面白がられているだけだと思います」
◇
商店街へ向かう道すがら、数人の近所の人がこちらに気づいて会釈してきた。
以前なら、瑞月の銀髪や巫女服を見て、遠巻きにする視線が多かった。今も視線はある。だが、そこに混じる色は少しずつ変わっている。
“得体の知れない美少女” “廃神社の謎の巫女” という距離のある目線から、“白龍辰巳神社の瑞月ちゃん” という親近感のある呼び名へと。
「あら、瑞月ちゃん。今日はお仕事?」
道端で掃き掃除をしていた年配の女性が声をかけてくる。
瑞月は背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。
「はい。和菓子屋さんに伺います」
「まあ。頑張ってね」
「ありがとうございます」
外向きの声は、自然に出た。柔らかく、控えめで、少しだけ澄ました瑞月の声。自分でもだいぶ慣れてきたと思う。
ただし内心は、穏やかではない。その「和菓子屋さん」の先に待っているのが、棚の上の黒い何かかもしれないのだ。
「もう神社の顔だな」
宗佑が小声で言った。
「顔が引きつってなければいいのですが」
「若干引きつってるぞ」
「そこは、うそでも否定してください!」
「正直でいいだろ」
「正直にもほどがあります」
その時、通りの向こうから喫茶店のマスターが顔を出した。
「瑞月ちゃん、今度また食べにおいで。小倉、少し多めにしとくから」
瑞月の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
宗佑が横目で見る。
「仕事前に餌付けされるなよ」
「地域交流です!」
「便利な言葉だな」
「昨日、宗佑さんも地域とのつながりは大事だと言っていました」
「小倉あんの増量が地域とのつながりに含まれるかどうかは、議論が必要だな」
「必要ありません。含みます」
瑞月はきっぱり言った。
玉藻が後ろで肩を揺らしている。
『甘味に関しては、だいぶ肝が据わっているのね』
「……見えない方面から、妙な評価が出ました」
「聞かなくてもだいたいわかる」
宗佑はため息をつき、それでも少し笑っていた。
そうして歩いているうちに、和菓子屋の看板が見えてきた。
暖簾はまだ半分だけ掛けられている。開店前の準備中なのだろう。ガラスケースの中には、きれいに並べられた饅頭、どら焼き、草餅、季節の上生菓子が並び始めていた。
餡と米粉の甘い香りが、ふわりと漂ってくる。瑞月は、思わず視線を奪われてしまう。
白い饅頭の丸み、艶のあるどら焼きの皮、淡い緑を帯びた草餅。 どれも朝の光の中で、正しく美味しそうだった。
「瑞月さん」
「見ていただけです」
「まだ何も言ってない」
「目が言っていました」
「まあ、言ってたかもな」
宗佑が小声で言う。
瑞月は軽く咳払いをして、外向きの顔を作った。
今日ここへ来たのは、菓子を買いに来たからではない。お祓いである。その目的を思い出した瞬間、甘い香りに少しだけ冷たいものが混じった気がした。
「あら、来てくれたのね」
奥から女将が姿を見せた。
昨日と同様、落ち着いた上着に店の前掛け姿である。顔には笑みがあるが、目元には少しだけ寝不足のような影が見えた。気にしないようにしていても、やはり昨夜も気になっていたのだろう。
瑞月は丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。お力になれるかはわかりませんが、確認させていただきます」
「こちらこそ、朝からごめんなさいね」
「いえ。お声がけいただいた以上、できる範囲でですが、務めさせていただきます」
言葉だけなら、たいへん立派だった。内心では、お祓いなど投げ出して、今すぐ喫茶店のモーニングを堪能したい。
宗佑は一歩前へ出た。
「まずは現場を拝見します。大げさにせず、順番に見ていきましょう」
その声は、落ち着いていて、低く、聞く者を安心させる響きがある。
瑞月は少しだけ宗佑を見直した。
こういう時は、本当に宮司さんなのだな、と思う。もちろん、本人には言わない。言ったら絶対に調子に乗る。
「ええ。こっちよ」
女将は店の奥を示したが、その前に少しだけ眉を下げた。
「その前に、もう一度だけ話しておくわね。大げさにするほどのことじゃないかもしれないんだけど」
「構いません。順を追って伺います」
宗佑が頷く。
瑞月も静かに頷いた。
できるだけ、静かに。怖がっているのが顔に出ないように。
◇
女将は店先の隅にある小さな椅子を勧めてくれたが、宗佑は立ったままで話を聞くことにした。瑞月もそれに倣う。
座ったら、立ち上がる勇気が余計に必要になりそうだった。
「冷えるのは、作業場のさらに奥ですか」
宗佑が訊ねる。
「ええ。古い棚があるところ。昔の菓子型とか、木箱とか、そういうものをしまってある棚ね。普段はあまり触らないんだけど」
昨日も聞いた内容だった。だが、現地で聞くと、言葉の重みが少し変わる。
店先の甘い香り、朝の光、女将の困った笑顔。その奥にある、まだ見えない冷えた場所。
瑞月は、背筋が少しだけ硬くなるのを感じた。
「暖房を入れても、そこだけ妙に冷えるの。最初は隙間風かと思ったんだけど、見てもらっても、これといった原因はないって」
「建物の傷みではなさそうだと」
「そうみたい」
「音は、夜だけですか」
「ええ。閉店して片づけをしている時とか、朝早く仕込みに来た時とか。棚の上で、ことことって…」
(ことことって、怖いんですけど……)
瑞月の視線が、無意識に店の奥へ向いた。
何も見えない。 それなのに、想像力だけは勝手に働く。
「黒いものが棚の上を動いた気がするって、若い子が言ってね」
「黒いもの……」
瑞月の声が小さく反復する。
「ええ。気のせいだとは思うんだけどね」
「気のせいであってほしいですね」
「…瑞月ちゃん?」
「いえ。こちらの話です」
外向きの笑みを保つ。保てているかどうかは、かなり怪しい。
宗佑が小声で訊ねる。
「大丈夫か?」
「帰りたいです」
「早すぎないか?」
「来たばかりですけど、心はもう帰り道です」
「戻ってこい!」
「……努力します」
女将は二人のやり取りを見て、少しだけ笑った。
「ごめんなさいね、怖がらせるつもりじゃないのよ」
「いえ。大丈夫です」
瑞月はすぐに姿勢を正した。
「食べ物を扱う場所ですから、不安なままにしておくのはよくないと思います。まずは確認だけでも、させてください」
その言葉は、思ったより自然に出た。
怖い。帰りたい。できれば、隙間風であってほしい。
けれど、女将には何度も菓子を分けてもらった。草餅も、饅頭も、どら焼きの試作品も。おいしかっただけではない。瑞月がこの町に馴染むまでの隙間を、少しずつ甘いもので埋めてくれた人でもある。
だからこそ、怖いから何も見ません、したくありませんとは言えない。
宗佑が短く頷いた。
「では、奥を見せていただけますか」
「ええ。こっちよ」
女将が暖簾の向こうへ体を向ける。
甘い香りのする店先から、少し薄暗い作業場の方へ。
そして女将は、瑞月たちを作業場の奥へ案内した。
店先の暖かさが、背中の方へ遠ざかっていく。
瑞月は、無意識に息を浅くした。
白龍の感覚は、人間の頃よりずっと鋭く細かい。
餡の甘い香りも、米粉のやわらかな匂いも、作業台に染みついた砂糖の気配も拾える。だからこそ、その中に混じる異質なものも、嫌でもわかってしまった。
少し焦げたような、古い畳の奥に沈んだような匂い。線香に似ているのに、祈りの匂いではない。砂糖の甘さがとうに抜けた、古い包み紙のような匂いだった。
「……」
瑞月は、巫女服の袖の下で指先を握った。
帰りたい。今すぐ帰りたい。せめて一度、店先の和菓子を見て心を落ち着けたい。
だが、感知できない女将は、作業場の奥を指さした。
「こっちなの。普段はあまり使わない棚なんだけどね」
作業場のさらに奥。
そこは、店先よりも薄暗い。窓はあるが、古いすりガラス越しの光は弱く、壁際には背の高い木製の棚があり、菓子型や古い箱、包装紙の束、使わなくなった道具などが整理されている。
きちんと片づけられている。それが、逆に嫌だった。
散らかっていれば、音の理由も箱が落ちた理由も、いくらでも説明できる。だがそこは、老舗らしく整然としていた。
人の手が入っていて、店の歴史が積もっていて、それでもどこか一箇所だけ空気が沈んでいる。
宗佑が一歩前へ出た。
「……確かに、少し冷えるな」
「でしょう」
女将が不安そうに頷く。
「ここだけなのよ。作業場の暖房を入れても、この棚の周りだけひんやりして」
宗佑は棚の前に立ち、壁や床を確認した。懐中電灯を取り出し、棚の下や隙間を照らす。
「鼠の痕跡は……なさそうだな」
宗佑が言う。
「業者さんも、そう言ってたわ」
「箱が落ちるのは、このあたりですか?」
「ええ。上の段。あの古い木箱の隣に置いている菓子箱が、ぽとんと」
女将が指を差した。
瑞月は、見ないようにしていた棚の上を、つられてつい見てしまった。
その瞬間だった。黒いものが――いた。
「……っ」
声が出なかった。
それは、人の形をしているわけではない。小さな子どもでも、獣でもない。 煤けた布切れのような、濡れた紙片のような、黒いものが棚の上に丸まっていた。菓子箱の端にしがみつくようにして、じっとこちらを見ている。
目があるのかどうかもわからない。けれど、見られている気がした。
瑞月の足が、本能的に一歩下がる。
そして次の瞬間には、宗佑の背後へ半分隠れていた。
白衣の袖ではなく、宗佑の背中側、腰のあたりの白衣の裾を、両手の指先でそっとつまんでいる。邪魔にならないように、という最低限の理性だけは働いていた。
腰は明らかに引けており、膝が笑っている。
翡翠色の瞳は涙で潤み、唇が何かを言おうとし、声にならないまま小さく開閉していた。
宗佑が横目でこちらを見た。
「おい。白龍様の加護を受けた巫女様が、宮司の後ろに隠れるな」
「だ、だって」
「だってじゃない!」
「見えるんです……」
瑞月の声は、ほとんど悲鳴の一歩手前だった。
女将が驚いたように棚を見る。
「見えるの?」
瑞月は、そこで慌てて背筋を伸ばそうとした。
外向きの瑞月。白龍様の加護を受けた巫女。店先で菓子に見惚れていた銀髪巫女では断じてない。そう己に言い聞かせたが、宗佑の裾をつまむ指は離れなかった。
「……はい。何か、小さな黒いものが、棚の上に」
女将の顔が少し青くなる。
宗佑は棚の上を見た。目を細める。懐中電灯の光を向ける。
しかし、彼の表情はさほど変わらなかった。
「俺には、なんか冷えるな、くらいしかわからんぞ」
「だから余計に怖いんです!」
「俺に怒るな」
「怒ってません。恐怖の向かう先が見つからないだけです」
「それは八つ当たりじゃないのか!?」
『あら、かわいい』
すぐ横で、玉藻が楽しそうに言った。
瑞月は心の中で叫んだ。
(かわいくありません!)
もちろん声には出せない。女将の前で虚空へ抗議したら、先に瑞月のほうが心配される。
宗佑は女将へ向き直った。
「女将さん、確認しますので、ここから先は、できれば作業場の入口あたりで待っていてください。危ないものではないと思いますが、念のためです」
「ええ……でも、本当に何かいるの?」
「いる、というより、何かが絡んでいるようです」
言い方がうまい。瑞月は宗佑の背中に隠れたまま、少しだけ感心した。
宗佑は、はっきり見えていない。だが、依頼人を不必要に怖がらせない程度には説明できる。そこは、やはり宮司だった。
「瑞月ちゃんは、大丈夫?」
女将が心配そうに訊ねる。
瑞月は宗佑の裾をつまんだまま、無理やり微笑んだ。
「はい。少し、驚いただけです」
「本当に?」
「……はい」
嘘だった。だいぶ驚いている。できれば今すぐ店先へ戻って、草餅を頬張り現実逃避したい。だが、女将にそう言うわけにはいかない。
女将は迷いながらも、宗佑の言葉に従って作業場の入口近くへ下がった。
足音が遠ざかるのを待ってから、宗佑は小声で言う。
「で、どこだ」
「棚の上です。上から二段目の、右の木箱の横」
「俺には見えん」
「知っています。言われなくてもわかっています」
「前にも言ったが俺は、正直そこまで視える方じゃない。強いものなら気配くらいはわかるが、こういう細かいのは苦手だ」
「それ、今言います?」
「依頼人の前で言わないだけ偉いだろ」
「偉いかどうかの基準が低いです」
「ただ、お前が見えてるなら話は早い」
「話は早いですが、私の逃げ道、塞がれてます」
宗佑は、そこで少しだけ真面目な顔になった。
「見えるなら、見届けろ。怖がるのは後でもできる」
瑞月は言葉を詰まらせた。
宗佑の声は、いつもの軽い口調ではなかった。
弱いなりに、見えないなりに、それでも神社の宮司として、様々な場に立ってきた人間の声だった。
『まず視なさい』
玉藻もまた、静かに言う。
『怖がるのは、相手を知ってからでも遅くないわ』
「……それ、見てからもっと怖くなる可能性は?」
『あるわね』
「否定してください!」
『嘘は嫌いなの』
「今だけ好きになってください」
玉藻は答えず、棚の上を見た。
瑞月も、仕方なくそちらへ視線を戻す。
黒いものは、まだいる。逃げるでもなく、襲うでもなく、ただ丸まっている。
よく見ると、悪意というより、怯えに近かった。腹を空かせた小動物が、暗く狭い隅っこで身を縮めているような気配。だが、その周りに霊気が絡み、線香に似た匂いが薄く滲んでいる。
棚そのものにも、何かが染みついていた。
長く使われた木の匂い。菓子型に残る甘い記憶。昔の包装紙。使われなくなった箱。 人の手から離れたものに、時間だけが積もっている。
「……怨霊の類、ではなさそうです」
瑞月が小さく言う。
言いながら、自分が少し落ち着いてきていることに気づいた。正体がわからない時が、一番怖い。形が見えて、気配が少し読めると、怖さはまだあるが、少なくとも頭は動き始める。
「悪意というより……迷っているというか、絡まっているというか」
『その見立てでいいわ』
玉藻が頷いた。
『古い棚に残った気配と、甘い匂いに寄ってきた小さきものが絡んでいるだけ。人を呪うほどの力はないわ』
「……見えない方面から、それほど悪いものではないとのご意見です」
瑞月が言うと、宗佑は眉を上げた。
「その見えない方面、今日は頼りになるな」
『今日は、とは何よ』
「“今日は” にご不満のようです」
「そこまで伝えなくていい」
宗佑は懐中電灯を下ろし、棚の前に立つ。
「悪いものではないとしても、ここに居座られるのは違うだろう。食べ物を扱う店だからな」
「はい」
瑞月も頷いた。それはわかる。
悪意がないからといって、そのままにしていいわけではない。冷気が漂い、箱が落ち、店の人が怖がっている。食べ物を作る場所としてもよくない。
『押し潰しては駄目よ』
玉藻が言った。
『怖いからといって、力で消そうとしないこと。これは敵ではないわ。ほどくものよ』
「……ほどく」
瑞月は、朝の小部屋で聞いた言葉を思い出す。
祓いとは殴ることではない。押し潰すことでも吹き飛ばすことでもなく、穢れをほどくこと。
黒いものは、棚の上で小さく震えた。瑞月には、その震えまで見えてしまう。怖い。だが、少しだけ、かわいそうにも見えた。
見たくなかった。見えてしまった。なら、見届けるしかない。
「宗佑さん」
「何だ」
「手順を、確認してもいいですか?」
「おう」
「柏手で場を開いて、祈りで神気を通す。力任せにはせず、白龍の気を広げ、棚に絡んだ気配をほどく」
「俺より詳しいな」
「……教えてくれる方が、妙に厳しいので」
『聞こえているわよ』
「聞こえるように言いました」
玉藻は少しだけ目を細めたが、怒ってはいないようだった。
宗佑は瑞月の手元を見た。
「できそうか?」
「できるかどうかで言えば、たぶん」
「なら、やるしかないな」
「判断が雑です」
「丁寧に言っても、やることは同じだ」
瑞月は、棚の上の黒い影を見つめた。
逃げ出したい気持ちと、女将の笑顔とが、胸の中で静かにせめぎ合っていた。




