3、良子
「桜内くん。ちょっと、いい?」
放課後、クラスメートの嶋田良子に声を掛けられた。それまで、ほとんど話した記憶がなかったから驚いた。
「オレ? えっと……何?」
良子はオレに一歩近付くと、「一緒に帰ろう?」と、小首を傾げながら甘い声で言った。その可愛い仕草に、鼓動が急に速くなった。微笑みの浮んだ顔。少し赤みの差した柔らかそうなその頬に、触れてみたくなった。
「……いいけど」
何でオレ? そう訊きそうになったが、やめておいた。この子はオレを好きでいてくれるんだろう。何だかすごくいい気分だった。オレの周りにいた友人は、「おお、やるじゃん」とかそんな感じでオレたちをからかう。それすらも、オレに優越感を持たせた。
それが始まりだった。オレと良子は、毎日途中まで一緒に帰った。何気ない話ばかりをしたけれど、それが楽しかったし、オレのいけない思いはどんどん盛り上がっていた。夏休みが近かったせいもあって、何だか解放的な気分になっていたのかもしれない。
夏休みに入ってから、二人であちこち出かけた。そして、深い仲になるのも本当にあっというまだった。良子は嫌がらずにオレを受け入れてくれた。終わると、「俊也、だーい好き」と可愛い声で言う。
冬になって、ものすごく寒い日に、彼女は命を終えた。それが自分のせいだったなんて、思いもしなかった。何て子供なんだ、と後悔しても彼女は帰って来ない。
それからオレは、人に嫌われて馬鹿にされるような人間になろうとした。自分を全く変えた。初めは周りもびっくりしていたけれど、そのうちそういう奴だと認識されたらしい。そうやって自分を偽るようになって、十年も経った。
この、良子にそっくりの深谷野さんと出会わなかったら、きっと今もオレは変われなかった。感謝している。
「オレと出会ってくれて、ありがとう」
唐突にお礼を言う。深谷野さんは顔を上げて、「は?」と言った。
「だってさ、そうだろ。君がオレを助けてくれた。もう一度自分らしく生きてみようと思わせてくれた。ありがとな」
「よっちゃんに呼ばれたんだよ、たぶん」
「そうか。良子が呼んだのか」
また良子の笑顔が浮かんできた。
「俊也。これから、どうやって生きていく予定?」
もうすっかり『俊也』という呼び名になっている。別に構わないが、何だか良子に呼ばれているみたいで変な気分だ。良子の方が少し高い声をしていて、そんなに似ていないはずだ。それなのに、何故か彼女を思い出させる。
「何も思いつかないんだ」
「そうなんだ。えっと……俊也。ご趣味は?」
ここはお見合いの席か? ちょっとふざけたような口調で言う深谷野さんに、そんなことを想像させられた。
「趣味? 何だろうな」
「考えないとわかんないんだ。そっか。俊也の趣味、教師?」
「違う」
「んー……じゃあ、読書? 音楽鑑賞? 映画鑑賞? 何?」
言われたどれも、あまりヒットしなかった。一体オレは、何をするのが好きなんだろう。
深谷野さんは、ハーッと大きく息を吐き出すと、
「別に急がなくてもいいけどさ。先生が……あ、違った。俊也が辛そうでさ。何か楽しいことでもあれば、その眉間の皺がなくなるかなと思って。その顔、よっちゃん好きじゃないと思うよ」
「……十年経ってるから、歳を取ったんだろ」
「じゃなくて。俊也。心から笑えるようになってほしいって私も思うよ。俊也が心配だよ」
深谷野さんの言葉尻が揺れたように思ったのは気のせいだろうか。
「私はさ、俊也の本当の笑顔を見てみたいなって思うよ」
「……ありがとう」
それしか言えない。
「そうだ。お茶飲まなきゃ。あーあ。冷めちゃったな。私、何で力説なんかしてんだろ。馬鹿みたいだな」
自嘲するように言う深谷野さんを、じっと見ていた。




