1、喫茶店アリス
庭の桜は、早くも散り始めた。桜吹雪は美しいけれど、掃除をするのはなかなか大変だ。
「俊也。お母ちゃん、ちょっと買い物行ってくるからね」
相変わらず返事もしないオレのことを気にする様子もなく、玄関に向かう。オレはその背中を見送ってから、縁側に立ち桜を見た。今年も立派に咲いてくれた。ありがとう、という気持ちになった。サンダルをはいて庭に下りると、隅に置いてある箒を手にした。大変だが、放置は出来ない。
どれくらいの間そうしていたのだろう。いつのまにか母が帰宅していて、「俊也。ありがとね」と声を掛けてくれる。振り返って、口元だけ微笑むと、母は目を見開いた。ここに帰って来てからほとんど表情らしいものを見せなかったオレがそんな顔をしたのだから、驚くのも無理なかった。
「母ちゃん、ごめん」
謝罪の言葉が口をついて出て来た。母が首を傾げる。
「俊也。何を謝ってるの。お母ちゃんはね、ありがとねって言ったんだよ」
昔と変わらない笑顔。でも、皺は増えた。オレがこうやって苦労をかけるからだな、と自分を責めた。
「俊也。お母ちゃん、お腹空いたんだけど、俊也は? 何か食べたいものある?」
「……ちょっと出かけてくる」
「え? 出かけるの? そう。じゃ、気を付けて行ってきなさいね」
「ああ」
縁側に上がって自分の部屋に戻った。一応着替えて、財布を持って外に出た。実家に帰って来てから、初めての外出だ。帰って来た時は三月の終わりの方だったから、まだ風が冷たかった。今日は本当に暖かで、外出するのにはちょうど良かった。
駅で電車を待ちながら、本当に行く気なのかと自問する。行く気なのか。或いは、行けるのか。逡巡するオレの迷いを断ち切るように、電車が入ってきた。もう逃げられない。覚悟を決めかねながらも、オレは開かれたドアの中に入って行った。
最寄駅から二つ目の駅。この前まで勤めていた学校の最寄りの駅だ。駅から出て、足が止まる。ここまで来て、自分はどうしようと思ったのだろう。またわからなくなった。
「とりあえず……」
オレは、教師時代によく通った喫茶店に行ってみることにした。
幸いと言うべきか、そこに辿り着くまでに知り合いには会わなかった。喫茶店のドアを開けると、マスターがこちらを見て、
「先生……」
「お久し振りです」
挨拶の後、軽く頭を下げていつものテーブルへ向かった。カウンターの方から、ガラスの割れる音が聞こえて、「あ。パパ、ごめん」と、昔の教え子の声が聞こえて来た。
こちらに人の来る気配があって、顔を上げるとやはり元教え子の斉藤美代子さんだった。コップを割った人だ。彼女はオレの顔をじっと見ると、
「久し振りですね。お元気ですか」
「どうかな。そんなに元気ではないかな」
オレが小さく笑うと彼女も笑い、
「じゃあ、そんな先生……先生じゃないか。えっと……桜内さんには、さくらのケーキと紅茶をお勧めします」
「桜内さん、か。新鮮だな。元教え子にそんな風に呼ばれるなんて」
「え、だって。じゃあ、普通に『お客様』って言えば良かったね」
「好きな方でいいよ。桜内さんなのは間違いないから」
そんなやりとりをした後、唐突に気が付いた。いるべき人がいない。オレは彼女を見ながら、
「そういえば、中田くんがいないね」
この曜日は、確かいつもアルバイトをしていたはず。オレの問いかけに、斉藤さんが目を伏せる。何かまずいことを言ってしまったらしい。オレは彼女から視線を外すと、
「えっと……」
「もう……いないんです。ここには、いないんだよ、先生」
「いない?」
鼻をすすった音がした後、
「東京進出した」
それが何を意味するのかは、長年の付き合いなのでわかった。勝負に出た、ということか。
「すごいね。そうだったのか」
そう言いながらも、ここに来ればいつもいてくれた存在の欠落は、やはり寂しい。
「まだ、デビューとか具体的なことは何も……。でも、行くって決めたんだ。私、ここにいてって言えなかったよ。ずっとここにいてほしかったけど、そんなの無理だってわかってるから。私が一番わかってるから」
高校時代から彼らをずっと支えて来た彼女の自負だ。改めて、彼女のことをかっこいいと思った。かっこいいという語が、誉め言葉になるかはわからないけれど。
「先生、ごめん。今、注文伝えて来るね」
オレが選んだわけじゃないけどな、と思ったが、何も言わずに彼女を見送った。
──東京進出、か。
心の中に、いろんな感情が湧き上がって来ていた。




