【#30】銀灰色の仔狼と二色(ふたいろ)の『責任』:しるべの神様と云う、先生の喩(たと)え話
泣き虫のレベッカに手当てを受けさせるなら、俺が我慢した方がことが早く済む。
彼女の痛覚を俺が丸抱えしたのは、そんな打算に拠るものだけでは、けしてなかった。
リニア姉さまに飛びかかろうとしたタイミングで、俺が止めに入らなければ、この子が負傷すること自体、無かったはずだ。
いや、それ以前に、俺が一階へ降りようとしたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない――。
だからこそ、仔狼の身体の主である、五歳の女の子に対してきちんと埋め合わせをしなければならない。妙に感傷的な、そんな思惑の方が、理由としてはずっと大きかった。
「すぐ終わるから、ポーリャちゃんは、じっとしててあげてね」
「はあい、ショウ兄ちゃま」
シーリングライトの白い灯りを背負ったまま、レベッカに念押しをした少年が、左手の脱脂綿を、右前足の傷口へと押し当ててきた。
浸されている消毒薬が寄越した、チルそっくりな冷涼感に続いて、抉るような痛みが、背筋まで一気に駆け上ってくる。
思わずぎゅっと右目を瞑った俺に、心の中から彼女が話しかけてきた。
(冷たかったね。スヴァルくんは、大丈夫だった?)
もちろん。俺、AIだしね。ちょっとぐらいなら平気にできてるんだ。
⋯⋯本当のことを言えば、ビリビリするような痛みはまだ尾を引いていた。でも、我慢できないほどじゃない。これなら大丈夫そう――。
レベッカに返事をしながら、そう思いかけた、次の瞬間。
左前足に開いていた、別の傷へともたらされたのは、そりゃあもう、強烈な一撃だった。
背骨どころか、リラックスしかけた彼女がリネン生地のワンピースの下で、わずかに振っていた尻尾の先、銀灰色の毛並みの末端まで一息に痺れさすくらいの、貫くような痛み。
再び固く閉じてしまった目尻が、じわりと湿り気のある熱を帯びた。
生理的反応。そう言い張るには余るほどの涙が、瞼の下の眼球をなみなみと満たしてくる。
――右目以外の反応を、ベッカちゃんに返していて、ホントによかったあ。
借りっ放しでいたら、きっと呻くぐらいじゃあ済まなかったろうし。
そういや、前にも似たような怪我を膝小僧に拵えさせちゃったっけ。
あの時は、俺が大騒ぎして、小さかったアイツを散々泣かせてしまったけれど、今回は全然上手く振る舞えてるじゃん。さすがだな、俺――。
「――――しっかりしなよ、昴?」
レベッカに伝播させない代わりに、殆ど逃せずにいた痛みで、くらくらしていた俺は、先生から突然、呼び止められた。
「……少し深かったみたいだね、左足の傷。いきなり『読み』が弾かれなくなったから、すぐに分かったよ」
案ずるような彼の声音に、はっとなる。情けないことに、俺の方が、平気じゃなくなっていたらしい。
あの子に、痛みが戻っては居やしないだろうか。
意識とともに手放してしまっていたチル魔法のうち、《ドヴォルザーク》の制御を、亥の一番で掌中に収め直す。それと同時に、俺を取り囲んでいるレベッカの心へ向けて、大慌てで声を張り上げた。
ベッカちゃん、ごめん! ねえっ、大丈夫だった!?
"Aw wight. Not huwt anymowe…⋯, ベッカは、へーき……」
乱れて遅延気味になった翻訳でも伝わるくらい、痛々しげに掠れてしまったベッカちゃんの返答に、心がズシンとなる。
生来と人工の隔てなく、魔力の類を殆ど通さない彼女のもう一つの身体で、俺が担っていたチルの供給を止めたら、こうなるのは当然だった。
彼女の魔法をフリーにして、この子を変身させちゃったくせに、俺の方が耐えきれなかったせいで……。
「だったらさ、昴を焚きつけたボクがもっと悪いってことになるよね。あーあ、『そろそろ頃合いだ』なあんて挑発、リン姉にしなきゃよかった。それとも、悪いのはリン姉かな? 確かに、凶暴な『読み』だったしね。ううん、そもそも一番悪いのは、やっぱりボクだね。だって、ポーリャちゃんがここにいるのは――」
嫌悪に沈みかけていた俺の思考を、レベッカの右目越しに丸ごと「読み」解いたらしい。
十数年後の未来で俺の先生になるはずの十四歳の少年は、俺を真似てか、言い訳の途中でわざとらしく口を噤んでみせた。
「ね? 今のボク、ダサかったでしょ? 昴ほどじゃあないにしてもさ。だからさ、こういうのは、無しにしようぜ?」
一転して、あっけらかんと言ってのけながら、新たな脱脂綿を手にした彼は、仔狼の身体にはブカブカ過ぎる襟口を拡げて、レベッカの脇腹を覗き込んできた。
乾いた血や毛並みとともに生地に貼り付いていた傷口が、引き攣れたように、ピリリと少しだけ痛む。
「次もきっと沁みるだろうから、ちゃんと暴れられるように、昴も手足と口の準備くらいしときなよ」
不安を感じさせないような茶目っ気を帯びた口調が、いかにも不吉そうな予言を俺に告げる。
「…………ポーリャちゃんの方は、もう平気そうだね。すごく偉いよ」
「違うの、ショウ兄ちゃま。えらいのは、スヴァルくんなんだから! だって、ポーリャをいたくしないように、ちゃんと頑張ってるんだもん」
《ドヴォルザーク》によって、痛覚と再び繋がった口の端が、三度目の消毒薬の威力にこらえ切れずに、苦悶の声を溢れさせた。そんな俺の無様さを上書きするかのように、自分のことをポーリャと呼んだ五歳の女の子が、痛みから切り離されだけあって、何とも頼もしい反論をしてみせてくれる。
こそばゆくてたまらないレベッカからのフォローに、俺が震わせてしまった仔狼の鼻筋から頭を、先生の右手でわしりと一撫でされる。
手のひらを介して、俺と彼女を綺麗に「読み」分けたらしい先生が、口振りと同じように目元を和らげると、俺に向かってゆっくりと言い連ねてきた。
「ねえ、昴。『自分の魔法の責任を自分で持つこと』に固執するのもいいけどさ、それって、どうせ大人になったボクの受け売りなんでしょう?」
図星を突かれた俺は、言い返すための一言を探し出そうと、思わず視線を泳がせる。そんな隙を見せた俺に、先回りするかのように彼は次の句を繋いでみせた。
「ボクも師匠からやたらと言われたから、昴さんの気持ちも分かるけどね。でもさ、キミが潰れちゃうくらいなら、そんなフレーズなんて、くそくらえじゃない? ボクはそうも思うんだよね」
いささか過激な彼の発言に、俺は戸惑う。どうしていいか、いよいよ分からなくなってしまった俺は、仕方なしに、銀灰色の毛皮を纏ったレベッカの耳をぴくりと動かしてみた。
すると、
「これはね、師匠じゃなくって、あの人の押し売りなんだけど――ボクが弟子を取れるようになったら絶対教えてやろうって、ずうっと決めてたんだ。責任ってのはね、次に間違えないための道祖神みたいなものなんだよって」
「ショウ兄ちゃま。どうぞじんって、なあに?」
「道祖神ってのはね、日本の昔ながらの神様のひとつ、かな。道ばたなんかにある石の目印のことなんだけど、道標って言い方、ポーリャちゃんは聞いたことある?」
ガキの頃から、先生に「果たすべき責務」だと幾度となく聞かされ続けたせいで、俺の規範意識に信条として固く根を張った単語。
責任というその言葉に対して、少年の頃の先生が全然違う捉え方を持っていただなんて、正直、想定外もいいところだった。
分からなさそうに仔狼の首を横に振ったレベッカと、彼への上手い切り返し方も見出せずに、黙りを決め込んだ風な俺の両方に向けて、先生は消毒薬を片付ける手元を止めないまま、穏やかな笑声で出来たボールを投げ込んできた。
「ま、こんなに早く弟子に教えることになるなんて、さすがのボクだって思っても見なかったけどね」




