消えた囁きを追え~オーパーツとの旅~③
アルメニア選手の死亡事故と富樫の一件が関係あると睨んだ天城は、死亡選手の同僚・カリネとコーチ・アンナの拉致未遂事件に遭遇した。二人を救出し潜伏した天城は、アンナの口からアルメニアの国家ぐるみの〝遺伝子ドーピング計画〟を聞いた。計画の主体は《ノア》と称するスポーツ・アカデミーで、どうやら富樫も、関係者に取材した節があった。だが、潜伏先に例の髭面の男たちが出現し、天城たちは、絶体絶命のピンチに陥った。グルグという髭面のリーダーは、マクラウドの行方を天城たちに質したが、天城は策に窮した。
第三章 富樫死す
1
青シャツ男は笑みを浮かべ、天城の額に銃口を押し当てた。西瓜か柘榴のように頭蓋を吹き飛ばせると、嬉しそうだ。
天城は、最後の力を総動員して、青シャツ男に組み掛ろうとした。
背後からグルグの銃撃を受けて絶命するかも知れない。だが、青シャツ男と諸共に窓から落下して、相討ちにしようと決めた。カリネとアンナには、申し訳なかったが、もう、これ以外の最善の方法が、考えられなかった。
天城がタックルの体勢に入った時、廊下から、ガラスの割れる大きな音がした。
遣り取りを窺っていた部屋の全員の動きが、一瞬、止まった。恐らく、バリケード用の額縁が自然に落ちてガラスが割れた、と推測できた。
しかし、グルグに目で合図を送られたモアイ男は、念のため、索敵に応じた。足を忍ばせて廊下に出ていく。
天城は、富樫が間に合ったのでは、と淡い期待を持った。
それでも、階下にはもう一人、歩哨の男がホテルの門口に立っている。全く音を立てずに歩哨を斃す芸当など、富樫にできるのか。
次の瞬間、短い銃声と共に、窓辺の青シャツ男の体勢が崩れた。ほぼ同時に、窓枠内に、大きな影が躍り入ってきた。
影は、即死の青シャツ男を踏み倒して、銃をグルグに撃ち放った。
グルグは、瞬時に影の銃撃を躱した。反対に、回転しながら、肩の短機関銃の弾丸を撃ち返す。撃ち返した勢いで、間仕切りのドアを越えて、天城の部屋へと身を翻した。
「富樫先輩!」
あっという間の形勢逆転に、天城は、心から祝福の拍手を送った。一方で、また、貸しを作った自分が情けなかった。それ以上に、無責任にも死のうとした自分を愧じた。
廊下からは、もっと大きな爆発音が上がった。音や揺れの規模から、手榴弾が投擲されたと分かった。
富樫と別働の人間(例の女性だろう)が、敵の分断と戦線の攪乱を図った結果だった。あの威力では、モアイ男が手傷を負ったはずだから、敵の総攻撃力の減殺は著しい。
その後も、銃声の応酬が何発か聞こえたが、やがて、静かになった。傷を負い、劣勢に陥ったモアイ男が斃されたのだろう。
一方のグルグは、部屋の門口から散発的に連射を試みてくる。だが、モアイ男との協同攻撃がなければ、天城の部屋に追い込まれたグルグは、もはや、身動きが取れない仔鹿も同じだった。四階の窓からの脱出も、易々とはできまい。
天城は、すぐさま、死んだ青シャツ男の銃を捥ぎ取った。それから、今までの腹いせとばかりに、富樫の応戦に加わろうとした。
ところが、今度は、カリネの叫び声が部屋中に響き渡った。
天城は、すぐにベッドに駆け寄って、異変の正体が何かを、見極めようとした。
何と、アンナがグルグの銃弾に撃ち抜かれているではないか! 右胸を朱に染めて、踠き苦しんでいる。
アンナは、抱き起したカリネの腕の中で、突然に襲い掛かった凶事に、為す術もなかった。死に抵抗するたびに、胸の血がどんどん拡大していく。
「アンナさん、しっかりしてよ」
カリネが胸の傷口を押さえるものの、指の間からは血が止まらない。流れる涙もそのままに、蒼白な顔で泣き叫ぶ。
タテフに続く身近な人間の不幸に、カリネの傷悴が気になった。遺伝子操作の副作用と合わせて、重篤な結果を憂慮した。
アンナの容態は、極めて危険だった。シーツの切れ端やタオルを当てても、すぐに血で濡れ切ってしまう。
「しっかりして下さい」
天城の声掛けにも、はっきりとは反応しない。痛みに顔を歪め、すぐに意識を失いそうになる。
グルグは、富樫との間で、散発的に銃撃を繰り返していた。だが、しばらくすると窓ガラスが打ち破られる音がした。
途端に人の気配が消えたので、富樫が意を決したように、隣の部屋へと向かった。
遅れて行った天城の目には、破壊された窓と多くの薬莢が入ってきた。割られた窓から外を覗くと、彼方の路地を、走り去るグルグの後ろ姿が窺えた。
「どうやら、あの電線を利用したらしいな」
富樫が指差す先には、枝垂れた一本の電線があった。
二階くらいの高さに張られていた電線に、短機関銃を支えに飛び移ったと予想が付いた。体重を支え切れずに落下しても、直に飛び降りるよりは、ダメージは少ない。
グルグを取り逃がした失点は大きい。マカオにいる限り、否、どこにいようと、また突然に襲撃されない保証はない。天城は、一層、憂鬱な思いに包まれた。
「三郎、来て。ロバートが!」
今度は、聞き慣れぬ女性の声が、天城の耳朶に飛び込んできた。富樫をファースト・ネームで呼んでいる点からも、富樫と行動を共にしていた、例の魅惑的な女性の声だろう。
手榴弾を派手に爆発させるなど、積極性と度胸のある体育会系女子か。もしかしたら、どこかの国のエージェントかも知れない。
天城が富樫と一緒に廊下へ出ると、背の高い女性がゆっくりと近付いてくるところにぶつかった。初老の男性の肩に手を回して、サポートしている。迷彩柄のショート・パンツに目が行く。
女性は、黒い短髪で、目がくりくりと大きかった。少々上を向いた鼻が可愛さを残していたが、艶のある美人だった。肌の色は、やや浅黒く、東南アジア系に見えた。例の『ミスター・ミステリー』に挟まっていた写真とは、年齢や雰囲気が異なっていたが、同一人物だと感じた。
「ロバート、しっかりしろ。だから言ったんだ。ここまで来るべきじゃないって」
女性から男性を受け取ると、富樫は、ひょいと腕に担ぎ上げた。アンナが伏すベッドの、隣のもう一つのベッドに男性を横たえる。
どうやら、男性は、手榴弾の爆発ではなく、その後の銃撃戦で怪我を負った模様だった。会話の内容からは、富樫の知人のようだ。富樫の制止を押し切ってここに来たが故に、最悪の事態に巻き込まれた形か。
男性も首と腹を撃たれ、もう既に、息絶え絶えだった。艶を失った顔色は、土気色を通り越して、死人のような色だった。『ミスター・ミステリー』の巨人族の末裔の写真を思い起こさせる。
天城は、瞬く間に、野戦病院と化した安ホテルを見て、もう、うんざりだった。アンナも男性も、素人目に見ても、もう、死の影が迫っていた。
今までの取材でも、何人かの死と直面してきた。だが、それらはいずれも病死や餓死であって、突然の殺意によるものではなかった。死がこれほど安易に起こってはならない、と改めて感じた。と同時に、殺戮者に激しい憤りを抱いた。
天城は、ふと、このロバートという男性に、見覚えがあると感じた。今は、苦痛で顔を歪めるが、この凛々しく誇らしい顔と、どこかで接した記憶があった。
すぐに朧気な記憶は、確信に変わった。
男は、富樫の部屋のパソコンで見掛けていた。イギリスの通信社のデジタル・ニュースに配信された記事に貼り付けてあった写真だ。
――ロバート・マクラウド。
白髪交じりの初老の男。二ヶ月前に落盤事故で死んだはずの、古生態学並びに微古生物学の権威の、イギリス人だ。
グルグたちも、ストロエフと共に、生存の確認を目指していた。二人の科学者は、一連の事件の、重要な鍵を握る人物なのか。
しかしながら、なぜ、一度は死んだ人間が、目の前にいるのか? 双子か? 本当は死んでいなかったのか? 富樫とマカオで同道している理由は? 不可思議な思考が、脳内を交錯する。
マクラウドは、意識が消え入りそうになっていた。それでも、隣のカリネを見上げて、何かを訴えるように見えた。二人は、互いに知り合い同士なのか?
もやもやした思いが天城を襲う中、一層、複雑さを増長させる事態が発生した。
「嘘よね? もしかして、アンナ、本当にアンナなの?」
東南アジア系の女性が、隣に横たわるアンナに向かって、大声を上げた。初対面のはずのアンナの名を叫ぶとは、どういうわけだ?
次から次へと展開する事態に、天城の思考回路は、飽和状態に達した。一人だけ除け者になっている感覚さえ得た。
女性は、苦しむアンナの枕頭へ進んだ。そのまま、懐かしそうに跪いて、アンナの右手を握り締める。
アンナは女性を認めると、無理に微笑もうとした。だが、苦痛と哀しみで表情を作れない。代わりに、絞った声が、喉を伝い出た。
「……よかった……。無事で……何より……」
アンナの頬に、より多くの涙が、熱い涙が流れた。苦しみの中にも、安堵の思いが滲む。
「ありがとうね、アンナ。でも、ごめんね」
女性の双眸からも、涙は溢れて止まらなかった。謝罪の言葉を口にして、何を伝えたかったのだろう?
カリネも、急に展開した不思議な光景に、口を噤んだ。アンナを知る異国の女性の登場に、ただただ、呆気に取られた。否、複雑な寂しい気持ちも、あったに違いなかった。
カリネは、アンナの血に染まる手に、アンナの死を少しでも食い止めようと、より力を込めた。
しかし、処置や祈りの甲斐もなく、アンナは、少しずつ弱っていく。死を察すると、胸に置くカリネの手に、そっと左手で触れた。
「……カリネ。決して……妙な……マネを……しちゃ……駄目よ。じ、自分を……信じて……生きて……ね……」
カリネの涙は、止め処なく流れたが、そこで、アンナの言葉が途切れた。握った手が、滑りを残して力なく離れた。
「アンナさん……。どうして死んじゃったの!」
尾を引くカリネの涙声が、部屋中に響いた。心の支柱を失い、これからどうなるのかをも、憂いた叫びだった。
女性も、感情を抑え込むようにして、咽び泣いた。唇を噛み、肩を震わせる姿は、アンナとの強い絆を思わせた。
天城は、悼ましい場面から顔を背けた。だが、もう一方の命も、まさに散華しようとしていた。
「辛気臭い……のは嫌いだが、……致し方……あるまい。……どうやら、……同行者もできた……みたいだし。……そろそろ、……逝くと……しようか」
血の枕の中のマクラウドは、やや不満そうに、顔を引き攣らせた。苦しそうに胸ポケットを弄ると、何かを取り出す。
「私の……人生を壊した、あの……頬傷野郎に……一矢を……報いて……くれ、……三郎」
マクラウドは、取り出したものを富樫に手渡した。血みどろの小型のロケットだった。形見分けの意味でもあるのか。
「分かった。何か、最期に、言い残すことは、あるか?」
富樫が訊ねると、マクラウドは白目を剥いて、何とか応じた。
「……あとは、……カヤを……頼れ……」
その後は、ほとんど声が聞こえなくなった。富樫が口許で音を拾おうと耳を近付けるも、反応は、ほぼなくなった。
「……残念だが、こちらも終焉った……」
誰に告げるともなく、無念そうに富樫が呟いた。
天城も、脱力弛緩した体を、真っ直ぐ保てるか自信はなかった。二つの命が散り、あとには、虚しさと多くの謎が残った。だが、心の整理がまだ付かなかったし、事態の重さに、慄くばかりだった。
二人の死を見届けたかのように、遠くの空に、警察のサイレンの音が聞こえてきた。呆然自失となった胸中に、活を入れる音だった。
このままでは、全員が逮捕されかねない。少なくとも、被害者として長時間に及ぶ事情聴取を受けねばならなくなる。
しかし、このままマカオの警察署に全員が連行されれば、グルグの目論見通りとなる。つまり、警察署までの道すがらを襲撃され、今度こそ、一巻の終わりだ。
「死んだ二人には申し訳ないが、一刻も早く、ここを出よう」
富樫が、無情な宣告を伝えた。告げる間にも、警察のものと思われる靴音が、路地を近付いてくるはずだ。
確かに、二人の遺体を放置しては、立ち去り難い。だが、全員の命を救うためには、已むを得ないと考えた。
初め、カリネは、同意しかねた。だが、周囲の情況と女性の説得で、ようやく認めた。離れ際に、アンナの額に、別れのキスをしてから立ち上がる。
「俺は、後始末をしてから行く。圭太は、フォンとその娘と一緒に、窓から出てくれ。後で、媽閣廟で落ち合おう」
恐らく、富樫は、天城がここに泊まった痕跡など、こちらにとって都合の悪い証拠を消してくれるのだろう。
「分かりました。では、後ほど」
天城は、居心地の悪くなった《グリーンウッド・ホテル》を後にした。オヤジの生死も気にはなるが、ここは、離れるに如くはない。
富樫と共に来た東南アジア系の女性は、フォンという名前らしい。しかしながら、挨拶もなしに、天城は、二人の女性と一緒に、窓枠からベランダに飛び移った。
2
ひたすら無言のまま、天城、カリネ、フォンの三人は、媽閣廟へ辿り着いた。目立たない裏道を足早に抜けて、およそ三十分の距離だった。腕時計を見ると、間もなく午後四時になろうとしていた。
三人は、そのまま、媽閣廟前のバラ広場の一角にあるカフェに腰を落ち着けた。ちょうど柱の陰に身を隠せる場所で、広場全体を見渡せる位置だった。
バラ広場は、セナド広場に似た波模様のモザイクが印象的だ。夏の暑さを遮る木々も、ほど良く繁り、市民の憩いの場となっている。
広場は、海事博物館にも面しており、海からも近い。時折ふっと戦ぐ潮風が、火照った体にはちょうどいい。
マカオ半島の南部に位置する媽閣廟は、バラ広場と共に、世界文化遺産に指定される、マカオ観光の目玉だ。開創が十五世紀に遡るマカオ最古の寺院でもある。〝マカオ〟の語源とも言われ、ポルトガル人が最初に上陸した場所が、隣接するバラ広場だと伝えられる。
バラ広場に開く正門は、瑠璃瓦を載せた中国風の門で、鬱蒼とした媽閣廟の杜を、どっしりと守っているようだった。
富樫は、比較的すぐにやって来た。一つの任務を遣り遂げたすっきりした顔色と、仲間の不幸がまだ信じられない落胆が混じった表情だった。
「オーナーは、駄目だったよ」
ホテルのオヤジは、フロントで銃撃されて事切れていた。激しく抵抗したようで、何発もの銃弾が体に撃ち込まれていたという。天城の耳に最後に届いたオヤジの叫びが、虚しく甦った。
富樫は、警察がホテルに踏み込む直前に天城たちの宿泊記録を消去・隠滅し、脱出した。間一髪で見咎められるところだったが、野次馬の中に紛れて、事なきを得た。
天城は念のため、富樫に訊ねてみた。
「もう一人の、モアイ顔の男は、どうでしたか?」
モアイ男は、フォンの投げた手榴弾の餌食になったはずだった。直撃したところで、肉片が残らないほどバラバラになるわけもない。だが、天城自身の目で、遺体を確認してはいなかった。傷を負ったが、そのまま不利を悟って、戦線離脱した可能性も残されていた。
「気を付けて捜したが、階段からフロントまでは、誰も倒れてはいなかったな。ホテルの入口の歩哨は、俺が斃しといたぜ」
「じゃあ、モアイ男は、まだ、生き延びているんですね」
天城たちを襲った四人のうち、グルグとモアイ男が死地を脱した。二人共、このまま大人しく引き下がる相手ではない。いずれ富樫や天城に災いを齎さんと、画策してこよう。
しかし、ここでは、あまりにも不可解過ぎる事件の流れと心の整理をする必要がある。天城がカリネを紹介し、まず、ここまでの簡単な経緯だけを、伝えた。
カリネは、興奮と憔悴の狭間に漂っている感じがした。自らの危難脱出と、アンナの死の両方共に、答を見出せていない模様だ。人の命がかくも儚いものだと、実感しているのだろう。
「こちらは、ヴェトナム人カメラマンの、レ・チ・フォン女史だ」
富樫は美人のフォンを指して、ヴェトナム人のカメラマンだと告げた。以前に、中東で世話になった、と付け加える。
フォンは、力なく「よろしく。フォンと呼んでね」とだけ、英語で呟いた。人の死に絡む事件は、心をざわつかせ、気力を奪い去る。
「訊きたい件が、いくつもあります。もう、何が何だか、分からない」
富樫は、天城の訴えに、尤もだと頷きを見せた。ニヤッと笑って口を開く。
「何も、お前に協力を求めたわけじゃないだろ? 〝捜すな〟とメールしたはずだぞ」
富樫の、精一杯の感謝の気持ちを込めた皮肉に、嬉しくなった。これからも、少しでも力になりたい、と切に思う。
「フォンも、日本に来てましたよね?」
富樫のアパートでの目撃証言が、富樫とフォンの同行を裏付けていた。その前後に現れた髭面の男たちを避けるように、富樫は、日本を後にした。
「ちょっと、三郎に助けを求めに、ね」
天城の指摘に、フォンは、肩を竦めた。仕草が艶っぽく見える。
「さっきのグルグたちに追われていたんですか? 奴らは、日本でも目撃されてましたが」
「今ほどの髭面の男たちとは、初対面だ」
とすると、グルグたちは、逃げるように発った富樫たちを追って、すぐにマカオに現れたことになる。
「グルグたちは、ストロエフとマクラウドについてを、しつこく訊ねてきましたけど? 先輩が二人の研究者を調べていたとも、知っていましたよ」
「とはいえ、グルグって奴らが、何者かは、本当に知らないさ。自分の知らない所で、素性を調べ上げられるのも、不愉快なものだな」
富樫は、本当に、グルグたちとの面識がないようだ。では、フォンの求めた〝助け〟は、いったい何が原因だろうか?
「じゃあ、フォンが助けを求めてきたって、どういう意味ですか?」
「それに答えるには、ちょっとばかり、話をしないといけないな」
富樫は、フォンに鋭い視線を投げ掛けた。フォンに説明を促す眼差しだった。一連の事件の根源が、フォンの過去に隠されているのだろうか。
天城は、カリネの眼差しにも注意を払いつつ、フォンの魅惑的な唇に、意識を集中した。
「この娘と一緒にいるんだから、《ノア》って、もう、知ってるでしょう? 私も、幼いうちから、《ノア》にお世話になっていたのよ」
初めから意外な台詞を聞いて、天城は、返す言葉を失った。
「フォンの親父さんは、ヴェトナムの著名な生化学者だった。レ・バー・フンといって、ヴェトナム戦争の際の枯葉剤被害を和らげる研究をしていたんだ。奥さんと長男が、後遺症を患っていたそうだ」
「そのうち、ヴェトナムで研究ができなくなって、父は、ソ連に亡命したの。家族と一緒にね」
フォンの表情が、明らかに翳った。禁忌に触れた感じだった。
「でも、モスクワでの研究の甲斐なく、二人共、逝ったわ。十年以上、頑張ったそうだけどね」
更に表情が、哀しみに沈んだ。父親の不幸に同情が伝わった。
「親父さんは孤独になっちまった。ただ、研究を続けるしか、生き甲斐を見出せなかったのかもな」
「そのうち、研究所にいたアルメニア人の女性助手と再婚して、アルメニアの首都エレバンに移り、私が生まれたの」
フォンは、その後、エレバンで育ち、大学ではジャーナリズム教育を学んだ。卒業後にパリとエレバンを往復して、ジャーナリストとしての実践を身に着けた。
天城は、〝アルメニア〟と聞いてピンと来た。フォンの父親が、アナスタス・アロヤンの後を継いで、《ノア》の第二代所長になった、と。著名な生化学者ならば、納得できる話だ。
「ご察しの通り、私の父、レ・バー・フンが、《ノア》の所長になったの。二〇一六年にね」
「初代所長の、アナスタス・アロヤンを継がれたんですよね?」
カリネは、〝アロヤン〟の名を聞くと、ぴくっと体を反応させた。才能を見出してくれた恩人を、片時も忘れてはいまい。
富樫は、天城がアロヤンを知っていた点にも、驚かなかった。部屋の旅行パンフレットを見た上で、アンナから聞いたと、判断したのだろう。
「アロヤンさんは、《ノア》の方針に反対して、更迭されたそうよ」
やはり、遺伝子操作による強化に反対したために、アロヤンは、《ノア》の所長を退いていた。その後は、野に下ったまま、一般人の指導を続けたという。
隣のテーブルの人が席を立った。聞かれていたわけではないが、声をやや落とす。
「先輩は、どういった経緯で、アロヤンさんを知ったのですか? 強制移住の取材をしていた時ですか?」
富樫とアロヤンの接点が、天城には一つの謎だった。これには、是非共答えてもらいたかった。
「ナゴルノ・カラバフ戦争時の強制移住について、俺はエレバンに入り、人々に取材をしていた。アロヤンとは、その時に出会った。ちょうど、《ノア》を退いてから、二年くらいだ、と言ってたな」
天城の推理通り、やはり強制移住の取材の際に、富樫はアロヤンと出会っていた。
オリンピック選手のアロヤンですら、強制移住を経験していた。自国民の戦争避難を目的としていても、強制移住は国民に却って、極限の負担を強いる。
「そこで、アロヤンは、《ノア》の方針、つまり、〝特殊なドーピング〟に反対だと、先輩に伝えたんでしょ?」
富樫は大きく頷いてから、カリネを窺った。
「アロヤンから《ノア》の愚痴をたっぷり聞かされた後で、未来のオリンピック選手だと、紹介された生徒が、カリネとタテフだった。国中を探して見付けてきた逸材だ、と自慢していたよ」
富樫の言葉に、カリネは目を丸く見開いた。富樫と既に面識があったと、未だに思い出せずにいるようだ。当時は、カリネが十歳、タテフが九歳。その後の訓練三昧の生活の中で、すっかり忘れたとしても、責められまい。
「まだ、二人は、アロヤンの私設のプールで練習に励んでいた。他の生徒と比べても、頭一つ抜きん出ていたな」
カリネは、忘れていた記憶を恥じるように、口を開けた。
「あの頃は、アロヤンさんがお父さんみたいで、とっても楽しかった。一日中ずっと泳いでいても、嫌なことはなかった。タテフも一緒だったし……」
カリネは口を尖らせて、急に項垂れた。死んだタテフとの思い出が、甦ったのだろうか。楽しい日々は、二度と帰らない、と実感したからかも知れない。
「だから、俺は、アロヤンに忠告してやったよ。この娘たちのためを思うのなら、もっといい条件の揃っている《ノア》で訓練をさせるべきだ。ただ、〝ドーピング〟の対象には、絶対しないことを条件にしたらいい、とね」
カリネとタテフに《ノア》での訓練を勧めた人物こそ、富樫だった。天城は仰天して、二の句が継げなかった。
確かに、私設のプールで練習させる方法もある。だが、素晴らしい施設の整ったアカデミーで訓練させたほうが、確実に、子供たちのためにはなる。
しかし、遺伝子操作の方針に反対で《ノア》を辞めたのに、危険を承知で、子飼いの生徒を《ノア》に送り込めはしない。
「私も、父から聞いた記憶があるの。新たに入所した生徒に、すごい逸材がいるってね。大事に大事に育てたい、とも言ってたわ。二人への〝ドーピング〟は、結局、棚上げになったみたい」
少なくともカリネとタテフについては、フォンの父親が盾となって、遺伝子操作を実施しなかった。けれども、レ・バー・フンが死ぬと、《ノア》は、二人への遺伝子操作に踏み切った……。
「俺は、結果的に、二人にとって申し訳ないことをしたな」
富樫も、暗い気分に沈み込んだ。アロヤンに推薦さえしなければ、水泳選手としての晴れ舞台は、なかった。それでも、もう少し、平穏な女の子の人生を送れたかも知れない。
風向きが変わったからか、媽閣廟からの線香の香りが鼻を衝いた。バラ広場は、相変わらず暑く、人が多いだけで、グルグたちの怪しい気配は、窺えない。
「今回、アンナさんと一緒に、マカオから出ようとした理由は?」
アンナは、「ただ、逃れたかった」と、心情を吐露した。当事者として、カリネは、どう感じていたのだろう?
「……タテフが発作を起こして、死んじゃったんです。……だから、今度は、自分も同じように死ぬんじゃないかって思ったら、居ても立っても居られなくなって……」
「タテフの死は、〝ドーピング〟の副作用だと、思ったのかい? だから、次は、自分もなるんじゃないか、って」
富樫もフォンも気遣ってくれていたが、天城も、単なる〝ドーピング〟という言葉に濁して、問うた。本人は、普通のドーピングだとしか、思っていない。まさか、特殊な遺伝子操作の処置を行っているとは、ゆめにも思っていない。
「だから、今も、すごく不安。……動揺したまま出てきたので、副作用を抑える薬も、部屋に忘れてきちゃったんです。……どうしよう、アンナさんもいなくなっちゃったし」
カリネは、膝のヤンキース・キャップの上で、拳をぎゅっと握った。瞳の蛍光色が、一層、強まった感じがした。
アンナが警告した、カリネの精神的な不安感は、副作用の抑制薬で除かれていた。
「発作が起きると、胸が苦しくなって、眩暈や吐き気に襲われるの。しばらく手足が痺れる場合もあるわ。発作が起きても薬が飲めない時には、とっても危険なの」
抑制薬が手許にない状態は、カリネにとって非常に危険だと言わざるを得ない。最悪、タテフの二の舞の可能性だってある。
「大丈夫。今度は私が、あなたを見守ってあげるわ」
不意に、フォンが名乗りを上げた。単なる、同性だという理由や、同情した結果だから、ではなさそうだった。
「……実は、私も、短い期間だったけど、《ノア》で〝ドーピング〟を施されていたの」
フォンの爆弾発言に、天城は、身が凍った。
フォンの父は、《ノア》の所長だった。なのに、我が子を、危険な遺伝子操作実験の対象にするとは、天城には、考えられなかった。
カリネは、天城以上に驚いていた。口をあんぐりと開け、敬意とも軽蔑とも取れる表情で、フォンを見返した。
「父には、〝アルメニアのためだ〟って説得されてね。父も不承不承だったみたい」
フォンの父、レ・バー・フンも、カリネとタテフの実験代替の苦肉の策として、我が子への実験を認めざるを得なかったのか。だとしたら、あまりにも哀し過ぎる。
「フォンさんも、注射を打たれたりとか、血を採られたりとか、色々な薬を飲まされたりとか、したの?」
フォンは、肩を竦めてから、指折り、いくつかの実験内容を伝えた。
「一日に、いくつもの種類の注射を打たれたり、全身に弱い電流を流され続けたりも、ね。内服や塗布の薬も、時間を決められていたし、採血なんかも、しょっちゅうだったわ。もう、薬漬けね」
ただ、フォンは、カリネに遠慮して、それが遺伝子操作の手法である〝CRISPR/Cas9〟技術の応用ヴァージョンだとは、やはり、告げなかった。
「今はもう大丈夫だけど、当時は、カリネちゃん以上に、副作用が激しくてね。アンナが世話役として、薬の処方や生活の補助の面倒を、一切、看てくれたわ」
フォンは、生活の補助を受けねばならないほど、副作用がきつかった。だから、フォンは、カリネの様々な副作用による苦しみを理解している。
「……でもね、副作用がきつかったから、見かねたアンナが、《ノア》から脱走させてくれたの」
「どうやって? 《ノア》の警備って、結構、厳しいのよ」
フォンは、下を向いたまま頷いた。
「……アンナが、私と血液型が同じ、別の女性の遺体を用意してくれて。同じように副作用がきつくて、死んだ仲間の遺体を、ね。私にとって幸運だった点は、その代わりの娘の死に顔は、私と違うって判別できないほど、腫脹や壊死が進んでいたってことかしら。何だか、遣り切れないわね。……あとは、処分業者に紛れてジョージア国境まで、走ったわ」
アンナの最期の言葉「無事で何より」が、脱出後に消息不明のままだったフォンへの、心からの安堵の言葉だったと、理解できた。
「アンナは、後々のことまで考えて、父にも私の脱出の件は、伝えなかったの。だから、父は、悲しんだと思うの。自分のせいで、娘が急変して死んだなんて。後悔し切れなかったでしょうね」
フォンが感慨深げに首を振った。それを受けて、富樫が続ける。
「残念だが、フォンの偽装死を受けて、レ・バー・フン氏は、《ノア》のドーピング政策を中止しようとした。その結果、幹部と対立して、命を落とした……」
「ジョージアのバトゥーミに逃れてから、《ノア》の公式発表で父の死を知ったの。私は、親不孝な娘だわ……」
邪魔者だったフォンの父の死で、《ノア》は遺伝子操作に、大きく舵を切った。そこで、本格的な実験体として選ばれた人物が、カリネとタテフだった。
「それから、どうすればいいか分からなくなって……。そこで、以前、お世話になった三郎を頼ったの」
フォンは、富樫を頼って、来日した。だが、富樫の部屋を訪れた姿も、髭面の連中に目撃されていた。しかし、その理由は、今一つ不明のままだ。
「別に、罪滅ぼしってわけじゃないけど、私なら、カリネちゃんの気持ちになって、サポートできると思うわ」
フォンは、今できる最高の笑みを、カリネにぶつけた。
カリネも、フォンの気持ちに応じて、ペコリと頭を垂れた。嬉しさに、もじもじと座り心地が悪そうだ。
「まだ、聞きたい話があるとは思う。だけど、まずは、ホテルに抑制薬を取りに行ったほうがいい。発作を起こされても、困るからな」
腕時計を見た富樫が、一旦の話の打ち切りを提案した。
確かに、まだ、マクラウドの話も、一切、訊けていない。だが、まず優先させるべきは、命の薬とも言えるカリネの抑制薬だ。他の話題は、別の機会にも訊けるだろう。
グルグたちも、元いた《ホテル・エレガンティア・マカオ》に、再び足を運ぶとは思えない。基本的には、安全だろう。
「圭太、一緒に来てくれ。何かと、頼りになるしな」
富樫の助けとなるのなら、何でもする覚悟だった。反対する理由が、全く見当たらない。そもそも、マカオに来た理由も、富樫の捜索と手助けだった。
「それじゃあ、ここで一度、解散して、再集合ね。どこにする?」
「空路や海路は、危険ですよ。ここは、陸路を選択したほうがいい」
マカオから陸路で珠海に出て、珠海から深圳までを高速バスにでも乗れば、深圳の国際空港に辿り着ける。近年完成した世界最長の海上橋〝港珠澳大橋〟で直接香港に行くルートもあるが、海上橋上で何かあれば、手詰まりになってしまいかねない。危険は避けたいところだ。
しかも、珠海越境ルートは、中国人の群れが集中するルートでもある。人でごった返す中では、グルグたちに見付かる危険も回避できそうだ。
「関閘口岸(検問所)のイミグレーションの辺りで再集合だな」
富樫の宣言で、一行は、席を立った。関閘までは、各自で責任を以て行動するよう、確認された。
「初めてのマカオは、最悪になっちまったな。……ともかく、今夜中には、マカオを発とう。あとは、どうにかなるもんだ」
3
天城たちはすぐに、バラ広場を後にした。天城は、先ほどのインド人ドライバーを呼び出して、フォンとカリネを、関閘の辺検大楼の前まで運ぶよう指示した。今回も破格のチップを渡したから、確実に届けてくれるだろう。
天城自身は、富樫と媽閣廟近くでタクシーを拾い、《ホテル・エレガンティア・マカオ》に針路を取った。
だが、出発してすぐに、思い付いたように、富樫が主張した。
「どうも、警察の動きが気になるな。……ちょっと、探ってこよう」
天城に相談するでもなく、運転手に経由地を告げた。
「すぐに始末を付ける。先にホテル・ロビーで待っていてくれ」
確かに、天城にも、警察の動向は気になるところだった。《グリーンウッド・ホテル》の惨劇の捜査の進捗状況や、タテフの事故のその後も、入手しておきたい情報だ。グルグとモアイ男の逃走情報も、あると助かる。
富樫が警察署で、どのような方法を用いて、情報をゲットするかは、天城には分からなかった。しかしながら、違法な遣り方を選択する可能性は高かった。それでも、富樫の自信から見て、想像もできない、何かうまい方法があるに違いない。
タクシーは、マカオ・タワーの直下を回り込んで、南湾湖畔を通った。マカオ半島の中ほどに建つマカオ警察総局までは、十分と掛からない距離だ。
「一時間は掛からないと思う。吉報を待っていてくれ」
天城を乗せたタクシーは、富樫と別れると一気に反転して、元来たマカオ・タワーを巡ってから、西湾大橋を渡った。
《ホテル・エレガンティア・マカオ》には、約十五分で到着した。白亜の宮殿様のホテルは、相変わらずの喧騒の中にあった。カジノにいそいそと向かう人の群れが、人の死とは無縁の、桃源郷に住む仙人たちのようだ。
富樫の予測では、合流に小一時間ほど掛かる。それまで、天城としても、できる限りの情報収集をしておきたかった。
すぐに浮かんだ顔は、ワーク・ステーションのセクレタリーの老人だった。
天城は、すぐさま、宿泊棟の三階にあるワーク・ステーションに向かった。まだ、勤務時間であればいいのだが。
ワーク・ステーションには、セクレタリーの老人は、幸いにも、まだ在席していた。天城の顔を見ると、にこやかに笑顔を寄越して、名を呼んだ。
「天城様、今度は、どうされましたか?」
「先ほどは、どうも。お蔭様で、富樫と会えましたので、お礼に上がった次第です。ありがとうございました」
「それは、それは、ようございました。わざわざお越しにならずとも、よかったですのに」
老人は、誇らしげに会釈を返した。礼などには及ばぬ、それが自分の職務だからと、胸を張った。
「ところで、水泳大会が中止かどうか、もう、決まったんですか?」
老人は、手許のタブレットにちょっと目を落とすと、微笑んだ。
「先ほど発表がありまして、明日から再開するそうですよ。よかった、よかった」
「でも、流石にアルメニアは、辞退するんでしょう?」
カリネの哀しげな瞳を思い出しながら、訪ねた。
「そうでしょうな。部屋は、マスコミが殺到しましたから、封鎖されたみたいですしね」
本当なら大スクープなのに、という商売根性を抑え付けて、天城は続けた。
「代表選手の死亡は、アルメニア選手団としては、結構な痛手でしょうね?」
「替わりの選手を呼び寄せるわけにもいかないでしょう。死んだ娘、えっと、サルグシャンとか仰いましたかね。ご遺体の空輸も、結構な面倒でしょう。費用もバカにならないですよ、きっと」
「警察は、死因を特定できたのでしょうか? サルグシャンさんが、不憫でなりませんよ」
「死因の発表は、まだありません。ですけど、警察も、この事故にばかり、時間を掛けてられないんじゃないですかな」
老人は、曇った表情で、肩を竦めた。天城が理由を問うと、タブレットを操作して、見せてくれた。
セナド広場近くのホテルで銃撃戦か?
タブレット画面には、「速報」の大きな見出しが躍っていた。目撃者や警察の第一報として、《グリーンウッド・ホテル》で銃撃戦が勃発した、とある。死者も複数名いるとの情報も載せられている。
天城は、まだ情報の少ないニュースではあったが、内心、強く舌打ちした。もう、これほど明らかになっているとは、マスコミの力を改めて怖れた。
「警察は、先日の違法タクシー摘発で、思うような成果が出せなかったですからね。今回の派手な事件では、決して後れを取ってはいけない、と思っているのでしょう」
「銃撃戦の犯人は、どんな奴なんでしょうかね?」
天城は、恐る恐る訊ねてみた。今のところ、外国人が絡んでいるとは、発表もない。
「分かりませんね。でも、また、カジノの利権を巡るマフィア同士の抗争なんでしょうな?」
中国返還後は、新築カジノに入札制を導入。それまでのリスボア一極だったカジノに、外国資本の参入が認められた。その結果、香港系、ラスベガス系、欧州系など二十以上もの乱立状態に陥った。
返還直後は、中国当局の睨みが効いて、マフィアの抗争は鎮静化していた。だが、中国の好景気に押される形で、最近は、抗争も〝復調〟の一途を辿っている。
しかし、《グリーンウッド・ホテル》事件の実情を知る当人の天城は、マカオ警察による真相解明に、たっぷりと時間が掛かって欲しかった。否、迷宮入りして欲しかった。
富樫の警察への探索で、もしかすると、より正確な(天城たちにとって不利な)情報が齎される可能性だって、あるのだが。
富樫のお蔭で、当事者の関与が闇に葬られたと信じつつ、天城は、肝を冷やしながら、ワーク・ステーションを後にした。
その後、天城がロビーのラウンジの一席に陣取ってから四十五分ほどで、富樫が現れた。富樫の満足そうな顔色は、潜入の成功が期待できた。
「バカな警察は、まだ、ほとんど動けていないぞ。初動捜査のミスってやつだ」
富樫は、新聞記者を名乗り、警察の幹部に接近した。その上で、大枚を叩いて賄賂を贈り、上級な情報を得た。
「ホテルのフロントは、既に野次馬によって荒らされていたし、逃げた犯人の目撃者探しも、まだ始められてなかった」
更に、初動捜査の遅れを指摘された幹部は、「記事にしないでくれ」と逆に懇願してきた。そこで、〝ウィンウィン〟な関係を説き、より高次な機密を漏らしてくれたという。
「やっぱり、圭太たちの存在までには、全然、至っていない。安心していいぜ」
「マカオのマフィアの抗争だとでも、考えているんでしょうか?」
天城は、セクレタリーの老人の顔を思い浮かべながら、訊ねた。
「警察の幹部は、マカオ・マフィアと、海外系のカジノが雇った傭兵が、ドンパチやったんだろうと、推理していた。何せ、短機関銃に手榴弾が使われたんだから、無理もないな」
天城が一番に気にした点は、アンナとマクラウドの遺体だった。
野次馬や警察にも毀損・蹂躙こそされないが、きちんとした方法で弔ってくれるかが、不安だった。遺体を放置して立ち去った後ろめたさが、身を苛んでいた。
「両者共に外国人なのが、まだ、救いですよね。中国は、外交問題を気にして、有耶無耶にできませんから」
「だが、一人が行方不明のアルメニア選手団のコーチで、もう一人が、数ヶ月前に死んでいる微古生物学の権威だと分かったら、大変な事件に発展しそうだな」
発作で死んだタテフのコーチが銃殺体で発見され、カリネも行方不明という現実が突き付けられる恰好だ。そうなれば、二人がマフィアの抗争に何らかの形で巻き込まれたとして、カリネの大捜索開始も、時間の問題だ。
天城は、もう一つの謎を、富樫に問うた。マクラウドの件だ。
「マクラウド博士と、なぜ、一緒にいたんですか? 彼は、死んだはずですが」
天城の真っ直ぐな問い掛けに、富樫は、やや怯んだ。どう、うまく説明すべきかを、頭の中で巡らせている。
「……実はな、今年三月頃に、シベリア北極海航路の問題点を取材し始めたんだが」
天城も、富樫の北極海航路についての取材が三月頃に始まったとは、知っていた。三月から今月半ばまで、富樫単独での海外取材だった。この時は、長期の取材だったので、現地のカメラマンを雇う予定となり、天城は、同行しなかった。
「ロシアとか、北欧に行かれたんですよね?」
「取材の途中で、妙な出来事に遭遇してな。それらを辿って行ったら、マクラウドに出くわしたってわけさ」
天城は、周囲の人の耳を気にしながら、声を低めた。
「妙な出来事って、何なんです? ……まさか、〝巨人〟では?」
天城は、様々な巨人のデータがオンパレードだった富樫のパソコンを思い出した。富樫の心を惹き付けたと、充分に考えられる。富樫は納得顔で、天城に尊敬の瞳を向けた。
「ロシア北西の不凍港ムルマンスクで、自然史博物館で起こった展示品窃盗の報に接してな。展示していた海獣の骨が盗まれた、という話だった」
「海獣って、トドとか、アザラシとかの骨ですよね?」
「初めは、変わった奴もいるものだと、関心は薄かったんだが……」
だが、次の取材地ノルウェー北部の港町ハンメルフェストでも、サーミ人(ラップ人)の博物館で、似たような海獣の骨の盗難事件が起こっていた。
「ちょっと地味な、国際的連続盗難事件ですか。北国の港町に沿って、犯行が重ねられていますね」
「ハンメルフェストの博物館で盗まれた海獣の骨は大きくて、〝スタロの骨〟とも呼ばれていた。〝スタロ〟はサーミ人伝承に出てくる強大な巨人の名だった」
ここで改めて、具体的な〝巨人〟の名が現れた。天城は、激しい胸の動悸を感じた。
「博物館の命名者は、単に大きいからという理由で、地元伝承由来の巨人に擬して名付けただけでしょう?」
「俺は、よもやと疑念を抱きつつも取材を続けた。しかし、ノルウェーの次の港町トロムソでも、同様の紛失事件が発生していた。今度は、〝ロスメルの大腿骨〟と別称の付いた鯨の骨だった」
「〝ロスメル〟も、地元伝承由来の巨人の名前だったんですか?」
「その通り。調べたら、〝ロスメル〟も、ノルウェーの海の巨人だった。単に大きい海獣の骨を集める変態野郎の窃盗事件だ、とは片付けられない気がしてきてな。それ以後、俺は、北極圏航路の取材を中断して、骨の窃盗事件が他にないかを、当たり出したんだ」
「ロシアや北欧以外の場所にも、行かれたんですね?」
残念ながら、骨の盗難事件は、ロシアやポーランド、戦火のウクライナやアゼルバイジャンでも発生していた。全てが、〝巨人の骨〟と別称される、獣骨や古生人類の化石だった。
「しかも、博物館からの盗難方法は酷似していて、人気のない閉館間際にヤラれていた」
科学博物館や自然史博物館といった寂れた感のある場所だった点も、窃盗がし易かったのでは、と思われた。
「最終的には、どれくらいの被害が?」
「結局、俺が調べた限りでは、盗難・紛失を含めた件数は、北欧や東欧、ロシアからコーカサスまでに、九件に及んでいた。〝ツガリンの指〟とか〝アゴグ=マゴグの腰骨〟とか、伝承にある巨人の名が、どれも冠されていたよ」
恐ろしい巨人の具体的な影が、天城の頭を過った。蘇った巨人たちが、「我が骨を返せ」と、突如現れそうな気配を感じさえした。
「犯人は、広範囲に亘って、何かを探していたのかも」
犯人の目的は、巨人に関する〝何か〟だと、天城は推測した。
「その事件を追ううち、巨人の虜になっちまったぜ、まったく」
富樫は、苦々しく肩を竦めて、高い天井を見上げた。
「もう、単なる獣骨の連続窃盗じゃないですね。犯人の真の意図は、何だと思いますか?」
「実は、トロムソでの取材中に、もう一つ、奇妙な噂を耳にしたんだ。スヴァールバルに〝巨人の遺物〟が隠されているという話だった。トロムソは、スヴァールバル諸島への玄関口の町だから、行く価値ありと思ったんだ」
「スヴァールバルって、北極圏に浮かぶノルウェー領の島々でしょ? ほぼ不毛の島だって聞いたことがあります」
「スヴァールバルは特殊な場所で、ノルウェー領にも拘わらず、スヴァールバル条約でノルウェーの法律は適用されないんだぜ」
スヴァールバルは、ノルウェーの入国管理や税関の審査を受けず、ビザなしで渡航できる。しかも、条約加盟国が等しく経済活動ができる反面、非武装地帯として、一切の軍事活動が禁じられているなど、地政学的にも重要な場所である。
「気候や生態系の稀少性から、極地科学研究の世界的な拠点にもなっていましたよね? オゾン層破壊や大気組成などの、環境に対する研究が行われているって」
天城は、一連の巨人の骨の話が、スヴァールバルで収束していくように思えた。
「ところで、圭太は、《スヴァールバル世界種子貯蔵施設》を知ってるか? スヴァールバル諸島最大の、スピッツベルゲン島にあるんだが」
「そんな施設、初めて聞きました。種子って、タネですよね?」
天城は、若干の戸惑いを覚えながら、富樫の話に耳を傾けた。
「《種子貯蔵施設》は、深刻な気候変動や自然災害、疫病の蔓延や核戦争などによる農作物種の絶滅を防ぐ目的で作られた施設なんだ。〝種子銀行〟とも呼ばれ、最大四五〇万種の種子が保存可能と言われている」
富樫によれば、貯蔵施設は、固い岩盤を刳り貫いた地下にあり、マイナス二十℃ほどに保たれた室内に保管されているという。つまり、種子は、基本的に冷凍保存される。
「電源設備が故障して、冷却不全になる可能性も、ありませんか?」
「貯蔵施設は、万が一、冷却装置が故障しても、永久凍土によって適温が確保される。また、温暖化による海面上昇にも対応できる海抜に、設置されてもいる」
「だから、わざわざ特殊なスヴァールバルが、選ばれたんですね」
ここで、この後が重要だと言わんばかりに、富樫は言葉を切った。
「……この計画は、あのビル・ゲイツが主導したんだ。通称〝現代のノアの方舟〟とも言うそうだ」
天城は、富樫がニヤリとする口許を見て、ぞっとした。ここにも、また〝ノア〟である。
「種子貯蔵施設に、タネに混じって〝巨人の遺物〟が隠されているってオチですか? 施設は、あくまでも、農作物の種子保存が目的なんでしょう?」
富樫は、天城の不審を楽しむように、物知り顔で言葉を継いだ。
「種子保存は、あくまでも表向きの目的さ。世界最高水準の保存施設なのに、農作物の種子だけを保存するなんて、勿体ない話だろ? 島民は、皆、もっと凄いものが収められていると、信じているさ」
『旧約聖書』の〝ノアの方舟〟は、そもそも、地球規模の動植物種の保存が目的だったと、考えられる。〝現代のノアの方舟〟と称される施設が、本来の意味で、動物種の保存をも秘密裡に実践していると考えても、なるほど、不思議ではない。
「優秀な人間や有名人の精子や卵子、豪傑や英雄の胚もが、冷凍保存されているらしいんだ。一部の金持ちによって、様々なものが持ち込まれている。珍しいものや希少価値の高いものも。それが、オーパーツでも、な」
オーパーツが保存されているとなると、富樫のパソコンの怪しげな巨人の骨の写真も、信憑性を帯びてくる。〝胚〟という言葉と相俟って、天城は、一つの確信を抱かざるを得なかった。
「〝巨人の骨〟の窃盗犯は、《種子貯蔵施設》に保存されている〝巨人の胚〟の一つをも狙ったんですね? まあ、それをどこから持ち込んだかは、措くとしても。……しかも、一連の窃盗事件の犯人が、マクラウド博士なんでしょう? どこで会えたんですか?」
富樫は、天城の推理が正しいと、質問に答えた。
「《世界種子貯蔵施設》から、奴が仕事を成功させて出てきた直後だ。向こうの空港で捕まえた」
「ただ、窃盗なんて可能なんですか? 結構な防犯システムが働いているのでは?」
素人が訪ねていっても、門前で逮捕されるのがオチだろう。地方の自然史博物館とは違い、最高ランクのセキュリティーが施されている。窃盗など不可能のはずだ。
「マクラウド曰く、システムは、強行突破できそうになかったから、かなりの金で職員を釣ったそうだ。驚くほど簡単に入手できたと、喜んでいたぜ」
「それにしても、マクラウドは、なぜ、そんな特殊なものが、施設にあると知っていたんでしょう?」
「施設の存在さえ知っていれば、植物だけでなく、動物の〝種子〟も保管されているのでは、という発想は、誰でも思い付く。あとは、実際に島に渡って訊ねれば、島民が噂を披露してくれるさ」
それまで、あちこちの博物館を荒らし回った男の行動力を考えれば、充分に頷ける。ただ、天城は、マクラウドが、特殊な保存施設を初め、各地の博物館から危険を冒しても、窃盗を繰り返した理由を知りたかった。
「マクラウド博士は、どうして、〝巨人の遺物〟を狙っていたんでしょう? まさか、トルコでの発掘で、本当に巨人の骨を発掘した事件が切っ掛けなのですか?」
富樫は、天城の言葉に、勿体ぶった表情を覗かせた。ちょっとだけ間を空けて、効果を演出した感じだった。
「二ヶ月前にマクラウドがトルコで発掘した品は、まさに巨人の大腿骨だった。俺も、初めは疑った。だが、発掘品の研究画像を見せられて、考えを改めたよ」
衝撃的な発言だったが、天城には、意外に思わなかった。マクラウドの今までの実績を考えれば、敢えて偽造する必要もない。それに、富樫が確認した結果は、充分に信ずるに値する。滅んだ巨人の驚々しい遠吠えが、どこからか聞こえてきそうだった。
「発掘品は、全て、落盤事故で失われたんじゃ?」
「圭太、お前本当に、落盤事故があったと思ってるのか? マクラウドも、実際に生きていたんだぞ」
すると、マクラウドに関わる事象は、全て、嘘に塗れた作り話と考えたほうがいい。已むに已まれぬ事情で、死を偽装しなければならなくなったか。さもなくば、自分が死んだままのほうが、都合がよかったのか。
マクラウドの最期の言葉「俺の人生を壊したあの頬傷野郎に、一矢を報いてくれ」は、グルグがマクラウドの人生を狂わせた当人だと、物語っていた。
発掘現場周辺は、クルド人の武装勢力も伸張している地域だ。武装勢力そのものが抹殺を謀った可能性は高い。むしろ、トルコ政府は、動かし難い国際情勢の中、世界から批判されないように、抹殺事件自体を隠蔽したのではないか。
「俺も、現場に行ってみたんだが、一帯は、封鎖されていたよ。簡単には、侵入できそうになかった」
「クルド人の武装勢力もいる地域でしょう?」
「帰国後に調べたんだが、クルド人の武装勢力の中でも、最も過激な思想を持つ、《AD》と名乗る連中だった。さっきの頬傷男を見れば、火を見るより明らかだな。解散したPKKを弱腰と見做し、密かに地下に潜行したグループのようだ」
天城は、《アフター・デルジュ》と聞いて、グルグたちに対する憤りや憎しみとは別に、複雑な思いを感じた。
〝大洪水〟とは、〝ノアの方舟〟が伝える洪水を指す。《AD》が跋扈する地域は、まさに、方舟が到達したアララト山麓の一帯。その一角で、マクラウドが〝巨人の骨〟を発掘した事実をどう捉えるか……。
「スヴァールバルで出会った時、マクラウドは、初め怯えていた。だが、俺が記者だと分かると、発掘から襲撃までを丁寧に、俺に話してくれた。九死に一生を得て生き延びた冒険譚も聞かされた。世間に《AD》の悪行を訴えて欲しかったんだな」
「各地で〝巨人の遺物〟を盗んで、マクラウドは、何をしようとしていたんですか?」
「マクラウドは、自分が唯一現場から持ち出せた大腿骨のDNAと比較したかった、と言っていた。世界に巨人の存在だけでなく、現生人類との関わりを発表したいと願ったんだ」
研究成果を発表するには、自ずと《AD》の悪行も、《ノア》の実験をも、世の中に公表する結果となる。マクラウドも、富樫も、一連の事件の真相を、世間に知らしめたいと思っているわけだ。
富樫は、マクラウドの冒険譚を素直に信じたのか、非常な興味を持った。それで、スヴァールバルまで行った本来の目的を見失った。
マクラウドは、豪語して、富樫を揺さ振ってきたという。「私のちっぽけな犯罪を記事にするなら、してもいい。だが、私を襲った連中の破廉恥行為をニュースにしたほうが、世界的な陰謀を暴けるチャンスになる」と。
続けて、「いったい、世界中の誰が、未研究の〝巨人の遺物〟の存在など、信じるものか。記事にしたところで、あんたの記者人生には、マイナスになりこそすれ、プラスには決してならないさ。イカサマ記者のレッテルが貼られるだけだ」とも。
「マクラウドの言葉は、俺の記者魂に火を点けるに、充分だった。奴の窃盗が小さく、どうでもいいような、些細なものに思えてきた。《AD》の〝秘め事〟の詳細を、調べる気にさえなった」
富樫は、深入りする自分を止められなかった。まるで、手招きする巨人に誘われているかのように。
「それで、マクラウドに協力しようと思ったんですね?」
「スヴァールバルで別れる時、俺は、もう、マクラウドに同情を覚えていた。華やかな人生を駄目にされた一人の研究者を応援したいと願っていた。まあ、俺にも、思うところがあったんだがな……」
富樫は、遠くを見るような眼差しで、宙を見上げた。
「マカオには、どうして?」
「帰国後、《AD》について調べていた時に、たまたまフォンが俺を訪ねてきた」
フォンは、アンナによって、《ノア》の遺伝子操作の魔の手から逃れ、以前に世話になった富樫に助けを求めてきた。
「俺は、マクラウドの襲撃とフォンの逃走が、間違いなくリンクする事象だと判断した。隣り合う場所もそうだが、〝巨人の遺物〟と〝遺伝子操作〟というワードが、俺を刺激したからな」
「《ノア》が次に行う一手は、新たな実験体を国際大会に送り込むことだ、と?」
「アルメニア選手団と《ノア》の関係性は、相互依存だ。選手団を利用して、《ノア》が次の実験の場を選ぶとしたら、最も至近なマカオの短水路選手権を措いて他に、あるまい?」
天城は、もう一つの気になる点を、富樫にぶつけてみた。恐らく、避けて通れぬ事柄だった。
「マクラウドが最期の最期に遺した言葉が、どうしても気になりまして。先輩は、ご存知ですか?」
富樫は、記憶の中を探して、すぐに行き拾った言葉に、眉根を寄せた。
「確か、〝あとはカヤを頼れ〟だったな」
〝カヤ〟とは何だろう。頼るのであるから、人物名だと思われる。アロヤンのように、富樫の取材対象者である確率が高いと思ったのだが……。
「先輩、是非、思い出して下さい。これまでの取材の中で出会った方々に、絶対いるはずですよ」
「そうだな……。だが、〝カヤ〟って人や場所など、記憶にないな。もしかすると、マクラウドの人生に関わった特別な人物かも知れないが、現時点では、思い至らない」
富樫は、首を傾げつつも、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと、お喋りが過ぎたな。それより、もう一仕事を、さっさと終わらせちまおうぜ」
確かに、ここでゆっくりと議論している暇はない。議論は、遣るべき行動を済ませた後にでも、カリネとフォンを交えてできる。
天城も、まずはカリネの部屋から抑制薬を入手する件を、優先すべきだと改めた。今夜中にマカオを発つには、少々、急がねばならない、と感じながら。
4
天城と富樫は、ホテルのスルー・エレベーターに乗り込んで、十八階を目指した。
今回は、アルメニア選手団の宿泊階も分かっているので、直接に行くつもりだった。こそこそとせず、正面から正々堂々と、記者とカメラマンを名乗ろうと決めていた。
午前中には、ガードマンが廊下を塞ぐ姿を確認できた。だが、度胸と金子と粘り強さで、この場を乗り切れると疑わなかった。
エレベーターを降りると、分厚い絨毯が敷かれた廊下が待っていた。しかし、ガードマンの影は見当たらず、廊下にも、ピリピリとした雰囲気はなかった。時刻は、午後八時を回っている。混乱も収束したので、既に撤収した、と解釈した。
アルメニア選手団の部屋は、十八階の中ほどに集中していた。目指す部屋は1812号室だと、カリネからカード・キーを預かってきていた。
廊下を進んでも、通常通りの静けさが続いた。シンプルな白の壁に焦茶色のドアが等間隔に並び、間接照明が柔らかい光を投げ掛けている。
「死亡事故から、さほど時間が経っていないから、まだ、選手団は、ホテルを引き払っていないはずだ」
「世間体もありますから、行方不明の選手とコーチの部屋だけを、返すわけもないですし」
二人が1812号室の前に到着しても、一向に静寂が辺りを支配したままだった。隣室の中を窺っても、人の気配は、感じられない。夕食からまだ戻って来ていないのだろうか?
「面倒になる前に、とっとと、済ませちまおうぜ」
室内に気配がない状態を確認してから、カード・キーをセンサーに翳して開錠する。
しかしながら、ドアをぐいっと押し込むと、むっとした空気が漏れ返ってきた。
ドアを押し留めよ、と第六感が袖を引いた気がした。
しかし、そのまま開き切ったドアの反対側から、腕を掴まれた。固いものが蟀谷に押し当てられ、抵抗するチャンスも奪われた。
二人はそのまま、強力で部屋の中へと引き込まれた。怪力の男たちによって腕がロックされ、自由が封じられる。
天城の目に、まず入ってきた光景は、床に横たわるガードマンの遺体だった。首があらぬ方角に折れ曲がっている。
この期に及んで、天城は、全てを理解した。目の前が昏くなり、立っているのが精一杯だった。
簡単な仕事だと思って、軽く考えていた。しかし、そこに陥穽が、大きな口を開けて待ち構えていようとは。何たる不覚か。
「待っていたぞ、富樫。それに、サムライボーイ君も、ごきげんよう」
部屋の正面から、極めて落ち着いた声が聞こえた。グルグだった。でんとソファに腰掛けて、満足そうにこちらを見詰めている。
モアイ男も、頭や腕などを包帯でぐるぐる巻きにされながら、ソファ脇に覚束なく侍していた。手榴弾の直撃を僅かのところで躱したが、かなりのダメージを蒙ったようだった。
グルグたちは、一度は手の中を逃れた富樫たちが、アルメニア選手団と接触すると予測して、ホテルで待ち受けていた。
ホテルには戻らない、と高を括っていただけに、自分に腹が立った。後悔は先に立たなかったが、危地を脱する策は、皆無だった。
「まさか、本当に、お前たちがのこのこと、ここに来るとはな」
「裏を掻いたつもりが、見事に嵌っちまったか……」
富樫は、唇をきつく噛んで、悔しさを露わにした。万事休すが、顔に滲み出ている。
「安心しろ。ここでのことは、もう、誰にも知られないぜ」
グルグが背中を蹴り押すと、力なくガードマンの遺体が転がった。瞳孔の開いた目が、とろんと宙空を見上げている。
「他の選手たちは、どうしたんだ?」
「他の部屋で、全員、先に旅立ったよ。弾を無駄に使ったがね」
無差別に選手団全員を殺害するとは、正気の沙汰とも思えない。怒りの焔が、天城の胸内を焦がしていった。
「グルグさん、ここで、二人共ヤっちまいましょう。俺に、こんな傷を負わせた奴らを、許しておけませんぜ」
憎しみに燃える目をぎらつかせながら、モアイ男が吠えた。雑に巻かれた頭部の包帯が、より痛々しい。朽ち行く巨人の容姿にさえ思える。
「早くケリを付けて、むさ苦しい町と、オサラバするのもいいか」
グルグが許可すると、モアイ男がそれでも不満そうに、一歩前に出た。懐からサプレッサー付きの銃を取り出して、富樫に正対する。
「一気に脳を吹き飛ばしてもいい。だが、じわじわと死ぬように、肚を撃ってもいいな」
「やるなら、一思いにやってくれ。……と言っても、願いは叶いそうもないか」
富樫は、神妙な顔を晒し、もはや、諦めたように見えた。ただ、眼光だけは、グルグとモアイ男を牽制するように交互に射ている。
「ふざけるな。誰がお前たちみたいな外道に、やられるか!」
天城は、腕を掴まれたまま抵抗を試みた。だが、腕は、確実に強力でロックされ、抵抗も無効化されていた。
頭が真っ白になった。今度こそ、人生の最期を迎えるのか。頼みの綱の富樫も、抵抗を諦めた。残された方法は、本当に潰えたのだろうか。
「せいぜい苦しんで死ぬんだな」
モアイ男が宣言すると、銃を構えた。苛々するほどゆっくりと引鉄を引く。
鋭く低い銃声が聞こえて、銃弾が富樫の肚を襲った。
「富樫先輩!」
富樫の体が小さく跳ね、獣のように唸った。激痛で頬が紅潮し、惨苦で顔が歪んだ。富樫は、そのまま床に頽れた。痙攣が全身に拡がり、呻きが叫びに昇華した。
「人は誰でも、死ぬと無様になる。見てみろ、この生への足掻きを」
グルグは、面白おかしく、手を叩いて笑った。
「貴様、舐めるな!」
天城は、血管が切れるほどの激昂で、我を忘れた。死を冒涜され、不愉快に胃が捩れた。その怒りが、男の強力を振り解く力を生んだ。
男の不意を突いて強力を脱した天城は、富樫の許に走り寄った。モアイ男の銃口も気にせずに、瀕死の英雄に励ましの声を掛ける。
「先輩、しっかりして下さい!」
富樫の肚は、赤黒く染まっていった。それでも、天城を支えに、生まれたばかりの仔鹿のように、懸命に立ち上がろうとしている。
「しぶとい野郎だ。今度は、額の真ん中を撃ち抜くぞ!」
「まあ、こいつの死の舞踏を、せいぜい楽しめ。サムライボーイも、待っておけよ。次は、お前だからな」
恥ずべき戯言の中、富樫は、全身の顫えを抑えつつ、どうにか立ち上がった。目を瞠って、死の到来をどうにか耐えていた。
「……圭太、俺を……見ろ……」
微かな呟きと同時に、富樫の視線が天城で止まった。半面を痙攣が覆っていたが、天城には、富樫の懸命な訴えに感じた。
富樫の眼球が、不安定に左に動いた。促されるように左を見ると、白い部屋の壁にぶつかった。
天城が疑義を以て富樫を見返すと、富樫は、微かに笑って応えた。
次の瞬間、富樫が、先ほどまで天城を押さえ込んでいた男に、体当たりをかました。どこにこれほどのパワーを溜めていたかと思うほどの力で。
不意を突かれた男は、体勢を崩して倒れた。モアイ男の銃口が、僅かながらぶれた。
天城は、瞬間的に富樫の最期のジェスチャーを悟り、左方向にダッシュした。「男にぶち当たるから、その隙に逃げろ」と、理解した。
グルグもモアイ男も唖然として、対応がワンテンポ遅れた。
天城は、全身の力を鼓舞して、無我夢中で部屋のドアに殺到した。
モアイ男の罵声と、グルグの意味不明の命令が飛び交った。それでも、一切を考えずに走り続けた。
ただ、富樫の指示とはいえ、見殺しにしての脱出に、気後れしそうになった。だが、富樫は、身を挺して天城を救ってくれた。その犠牲と恩義には、酬いなければならない。
「逃げろ……圭太! すぐに……日本に戻れ。皆を……頼むぞ」
背後で富樫の叫びに重なって、何発もの銃声が耳に届いた。
しかし、天城は、もう、振り返りはしなかった。心で慟哭し、涙が止まらなかった。生き残る執念だけが、背中を押し続けてくれた。
あとは、全く訳が分からなくなった。ただ、耳にこびり付いた富樫の最期の声に従って、ひたすらに足を動かし続けた。それが、唯一の正しい行為だと信じて。
気が付くと、天城は、西湾大橋への道を、泣きながら歩いていた。
自分が逃げ延びた安堵感よりも、富樫喪失に対する憤怒や傷嘆の情が、止め処なく湧き上がってくるばかり。富樫を支えていた左手には、べっとりと血痕が残っている。
心は落ち着かず、不安と焦燥が、冷静な判断を覆い込む。もっと準備と警戒を怠らなかったら、と大きな後悔と自責の念が渦を巻いて、襲い掛かる。〝絶望〟の二文字が脳内をぐるぐると回り、嗚咽と嘔吐きが交互に押し寄せる。全身を筋肉痛と倦怠感が包み込み、西湾大橋の龍の如き光の帯が涙で滲んだ。
西湾大橋を初めて見た時に予感した、奇異な運命の暗示を、天城は思い出した。かくも哀しい富樫の死が、運命だと分かっていたなら、もっと別の方策も採れただろうに。
だが、哀しみに暮れる姿勢は、富樫の本意ではない。むしろ、哀しみを乗り越えて、事件を解決に導く努力こそが、富樫の大望である。哭いているだけでは、何も解決されない。
天城は、涙と哀しみを手の甲で拭って、前を見据えた。対岸に凛と建つマカオ・タワーに、〝オ・ケセラ・セラ〟と、励まされた気がした。
さて、それでは、この状況下においてするべき次善の行動は、何だろうか?
まずは、関閘で待つカリネたちと合流するべきだ。富樫の悲運を説明した上で、今後の対策を練るに、如くはない。一刻も早くマカオから離れ、グルグたちの翼下から脱さないといけない。
幸いにも、グルグたちの尾行は、受けていない。このまま合流地点へ向かっても、問題はないと思われた。
天城は、近くの通りで流しのタクシーを捕まえ、関閘のイミグレーションを、力強く告げた。もう、後ろは振り返らないと、決めた。
5
十五分ほどで、マカオ最北端の国境の地、関閘の辺検大楼前の広場に到着した。この建物を過ぎれば、中国側の町珠海の拱北地区へ抜けられる。
イミグレーションの建物は見上げるほど巨大で、近代的なコンベンション・ホールのような外観だ。異なる大きさの三つの建造物が繋がっているように見える。連続する蒲鉾屋根も、印象的である。
カリネとフォンとは、巨大な建物の前に、こぢんまりと佇む黄色い門の下で待ち合わせをしていた。
この門こそが、一八四九年のポルトガル統治時代に建てられた〝関閘〟と呼ばれるアーチ状の石造の門だ。かつては、中国本土との唯一のゲートだった。今は、地区名に残り、モニュメント的な建造物として、広場にぽつんと建つだけだ。背後の巨大な建造物と比べると、時の流れを感じずにはいられない。
「お待たせしました。待ちましたか?」
暇そうにスマホを弄るカリネに対し、対照的に、辺りを警戒するフォンに、声を掛けた。
フォンは、天城の顔を見付けると、若干、警戒心を緩めた。しかし、天城が一人で、物言いたげな顔をしていたからか、眉間に皺を寄せた。不吉な何かを察したのだろうか?
「……あら? 三郎は、一緒じゃないの?」
天城は、一瞬、どう説明するか、返答に困った。だが、ここは、包み隠さず話さなければならない。嘘を言っても意味がないし、死んだ富樫に申し訳が立たない。
「……実は……富樫先輩は、もう、来ません」
カリネの視線が、スマホから上がった。不安の混じった視線が恨めしかった。
「……どういうこと? 彼は……」
「死んだ。死んでしまった」
フォンの言葉に被せ気味に、答えた。恐らく、フォンには、投げ遣りに聞こえただろう。
しばし、沈黙が支配した。周囲からは、この一角だけが、異質に見えたに違いなかった。
フォンは、言葉が出てこなかった。唇が顫えているように見える。
「部屋に入ったら、奴らが待ち伏せしていたんです。……どうしようも、ありませんでした。痛恨の極みです」
天城は、富樫の最期を、丁寧に、落ち着いて、話して聞かせた。最期に耳に残った〝日本に戻れ。皆を頼む〟という遺言を語り、是非共、実行させたいと願った。
フォンもカリネも、何も応えなかった。富樫の死を、現実の結果として受け入れようとしているのか。それとも、頼りになる戦力を欠いた意味を、深刻に捉えているのか。
「それじゃあ、お薬も、駄目だったの?」
天城が無念を口にすると、カリネは、悲しい表情を更に曇らせた。
「すまない。今のところ、抑制薬の入手ができない。我慢してもらう他……」
今度、カリネを発作が襲ったら、タテフのように、命の保証はないかも知れない。だが、希望を繋ぐとすれば、発作の確率が、個々人の体質に依る点だ。
詳細は不明だが、アンナの言によれば、少なくとも、カリネとタテフの処方量が微妙に異なっていた。年齢の違うフォンの場合も、処方を止めた現在は、副作用や発作は、影を潜めている。
また、今後、日本でも、発作を止める処置が医療的に可能かも知れない。それには直ちにマカオを発って、日本に向かう必要がある。
「ともかく、マカオを出て、日本に行きましょう。……それが、先輩の遺志でもあります」
「私、うまく出国できるかな? アンナさんと抜け出してきたのに」
カリネが心配そうに、フォンを見詰めた。俯いた瞳の色が、決断しかねている。
「恐らく、大丈夫さ。まだ、君たちが失踪したとは、誰も、把握していないよ」
アルメニア選手団は、死んだタテフの処置や競技会への報告、本国への確認作業などに追われて、大わらわだったはずだ。カリネとアンナが気晴らしにどこかへ出掛けたと考えていれば、夜までに帰ってくると踏んでいた。
しかし、その後に、グルグたちによって、選手団が鏖の憂き目に遭ったのだから、二人の捜索願は、まだ、出されていない可能性が高い。よって、マカオをカリネ本人のパスポートで越境しても、問題はない。
ただ、今後の行動がどうあれ、ここからの挙措は、隠密を旨とすべきだ。目立つ行動は避け、変装にも意を割かねばならない。
「私、決めたわ」フォンが突然、声を上げた。「私、日本に行かない」
フォンの突拍子もない発言に、天城は面喰らった。真意が読めなかった。
「どういう意味ですか? 日本に来ないなんて」
「じゃあ、どこへ行くの? マカオから出ないつもり?」
カリネは、ここに留まっても、何もプラスにはならないと嘆いた。
「三郎が日本に行け、と遺言したかも知れない。でも、このままじゃ、駄目なのよ。いったい、何人が死んだと思ってるの?」
「マカオで、遣り残した何かでも、あるの?」
カリネも、日本に行く以外に、次善の策がない、と憂いている。
「ここで日本に行っても、誰も、逃げたとは思わないですよ。一旦、仕切り直しましょう」
フォンは、一転、宥める口調で、天城に向き直った。
「じゃあ、君は、このまま日本に戻って、それから先、どうするつもりなの、ケイタ?」
フォンに問われて、天城は、答に窮した。まだ、富樫の死さえ受け止めかねているのに、これから先の話を、具体的には考えていなかった。
「グルグたち《AD》が、〝巨人の遺物〟を巡って、激しく動いている。これ以上、連中をのさばらしておくわけにはいかないわよね?」
「だけど、今、俺たちには、何も揃っていません。詳しい情報も、資金も、武器も。そんな状況で、組織立った最悪の集団に、立ち向かえるとは、思えません」
フォンは、《AD》を討ち果たそうと主張しているのか? 富樫を失った今、《ノア》の実験計画にも対応できないでいる現状がある。この上、《AD》の野望を撃ち砕く余力など、残ってはいまい。
「それなら、聞くけど。日本に戻ったら、詳しい情報や、満足な資金や、充分な武器が揃えられるとでも?」
ここは、フォンの言が正しいと感じた。いつもの「どうにかなる」という賭けは、無謀に過ぎる。
「確かに、タテフの死とカリネの失踪で、《ノア》は、貴重な実験体を二つも失いました。それだけに、しばらくは、強引な動きができませんね……」
この後は、カリネの行方を探すと同時に、タテフの遺体を引き取るだろう。その上で、なぜ実験が失敗したかの理由を、特定しようとするはずだ。少なくとも、数日の差が発生しよう。
富樫も望んでいただろう、《ノア》や《AD》の策略の公表も、まだ、現段階では、不確実な要素が多いため、実行できない。公表に公平を期すためにも、両者の計略を詳らかに示さねばならない。
日本に行く間にも、無駄な時間を過ごすような気がしてきた。速攻を試みれば、それだけ、敵の不意も衝ける。フォンの説得は、図に当たっていた。
「そうよ。こっちが早く動けば動くほど、敵の優位性が、低くなるわ。今がチャンスでもあるのよ」
「でも、でも。……他に手立ては、ないの?」
《ノア》と《AD》は、これまでの情況からは、共闘しているわけではない。むしろ、敵対しているといっていい。
相反する二つの敵と戦うには、互いを利用するべきだ。その上で、こちらが利する計画を活用したい。それには、敵を充分に知らなければならない。
《ノア》については、カリネもフォンも、内部事情を充分に知悉している。一方で、《AD》がどのような組織かは、クルド人の過激な武装組織という以外は、ほとんど知らない。領袖の名すら分からない。
「それなら、《AD》の計画を、先に探るほうがいいですね」
「じゃあ、決まりだね。目指せ、アララト山ね」
カリネの言葉を出発の合図として、フォンは、イミグレーションの巨大な建物の方角へ、足を向けた。
「でも、相当の覚悟が要りますよ。相手は、情け容赦ない連中だ」
もう出発しなければならない時間になる。天城も、追い掛けるように、歩みを始めた。
「関係ないわ。三郎の弔い合戦よ。まずは、マカオを出て……」
勢い込むフォンに、カリネが少し言い難そうに、言葉を遮った。
「フォンさんて、富樫さんと恋人同士……だったんでしょ?」
富樫の復讐を力説するフォンの勢いが、そこで途切れた。魅惑的な足が止まる。
フォンがここまで積極的に〝主戦論〟を展開する理由の一つが、示された形だった。若い娘ほどピンと来るのか、天城が鈍感に過ぎるのか……。いずれにせよ、図星だったようだ。
〝昔、世話になった〟という言葉は、男女関係の控えめな表現だった。互いに照れていたのか、さもなくば、既に終わった関係を指していたのか。
「……まあ、昔の話よ。今は、普通に尊敬してた。《ノア》の実験暴走について頼れる人は、三郎しかいないと思ったまでよ」
「どうやって、知り合ったの? こういうことって、皆で共通認識として共有してたほうがいいと思うんだけど」
カリネが興味深そうに提案した。これほど深く、人のプライベートを突く必要があるのか、とも思ったのだが。
フォンは、迷惑そうに拒否するかと思った。しかし、降参したように、肩を竦めて応じた。
「……実は、一連の事件と関わりがあるから。ゲートに向かいながら、話すわね」
まるで、富樫との恋愛の経緯が、事件解決の一助にもなると、告げたように聞こえた。
関閘の旧門を離れ、周囲の観光客たちと一緒に、近代的な建物へと進む。そのまま長いエスカレーターに乗り込んで、先を急いだ。
因みに、地元の人たちや中国人は、関閘口岸のイミグレーションではなく、少し西にある、青茂口岸のイミグレーションを利用する。ここは、二〇二一年に完成したばかりで、通過が自動化された、二十四時間運用の建物らしい。
「私たちが出逢った時期は、二〇二二年の年明けよ。私が世界的なジャーナリストを目指して、パリとエレバンを往復していた頃ね」
「俺と同業者でしたよね。プロのカメラマンだと」
天城は、肩から提げた一眼レフ・カメラを指して訊ねた。
「父の枯葉剤研究の影響があってね。世界に被害者の苦しみを伝えられたら、って思って」
「それで、出逢った切っ掛けって、何?」
催促するように、カリネが問うた。目がきらきらと輝いている。
「実は、その頃、ある人物が《ノア》を訪ねてきていたの。ヴァシリー・ストロエフよ」
ストロエフは、マクラウドと共に二ヶ月前の落盤事故で死んだとされるロシアの考古生物学者だ。グルグたちも、ストロエフについて執拗に問い質してきた。
意外な人物の登場に、天城は、フォンを見詰め返した。
「ストロエフは、何をしに《ノア》なんかに?」
「父の話では、二〇二一年の冬に、〝巨人の胚〟を入手したそうよ。それで、当時、生化学者として名の知れていた父の所に、人体強壮のための共同実験を申し込んだの」
五年前のサイトAでは、本物かどうかの議論は措くとして、やはり、〝巨人の遺物〟が発掘されていた。しかも、〝巨人の胚〟が。
サイトAは、ストロエフの《ノア》来訪直前に、雪崩で壊滅している。しかし、ストロエフは、雪崩に潰れる前に〝巨人の胚〟を、きっちりと持ち出していた。マクラウドも二ヶ月前、近傍のサイトBで、〝巨人の大腿骨〟を発見している。
「〝巨人の胚〟に実験を施すって、国家的ドーピングにも繋がる話でしょ?」
「父は、その時、ストロエフの申し出を受けたの。それが、悲劇の始まりだった。父の殺害の後、自分が《ノア》所長の後釜にも座ったしね」
フォンは、憎々しげな表情を浮かべて、唇を噛んだ。
矢印に沿って進むと、すぐに、イミグレーションの巨大な空間が現れた。真夜中に向かう頃合いは、中国本土に戻る日帰り観光客のラッシュ時間とも重なる。巨大な空間は、結構な込み具合で、グルグたちに発見される危険性は、少なかろう。
「――巨人の胚を使って、強壮な人間を作る。そんな無謀で、空想のような提案に、私は疑問を感じたの」
「確かに、途方もない実験ですね。財政的、倫理的にも難しい」
「それで、富樫さんは、いつ出てくるの?」
カリネの関心事は、富樫とフォンの恋愛についてだ。一連の事件との関係性には、あまり興味がないようだった。フォンは、苦笑いで続けた。
「私は、その時、巨人の末裔について書かれた、興味深い記事を見付けたの。三郎の書いた英語の記事だった。二〇一八年のものよ」
天城は、富樫の書いた記事は、たいてい読んでいた。だが、日本語以外の記事までは、目を通せていなかった。
「巨人の末裔だなんて、不思議なテーマですね。どんな内容だったんですか?」
およそ、富樫が書きそうもないテーマだったので、天城は、気になった。二〇一八年と言えば、富樫がアロヤンと会った頃だ。アロヤンとの邂逅が契機とは、考えられないだろうか?
「私も初めは、比喩的に巨人を扱った内容だと思ったんだけど、違ったのよね」
フォンによれば、富樫の記事の概略は、以下の通り。
①世界各地の巨人の伝承と、稀に発掘される巨人の〝証拠〟から考えて、少なくとも、かつては、〝巨人〟の一族が存在していた。その後、環境適用や自浄作用によって、一般的な人類と、外見上は変わらなくなっていった。
②ただ、巨人としての資質は、遺伝子の中に確然と残り、時に逞しい体躯や優れた運動能力として、はっきりと顕現する。一部の例として、〝巨人病〟として誤解されてきた点もある。だが、それは病ではなく、巨人遺伝子の人類に対する優勢伝存と、捉えるべきだ。
③ところが、遺伝子への巨人資質の優勢伝存は、昨今のゲノム解析でも明らかになってはいない。それは、関連する遺伝子ごとの相関関係が整った時にのみ身体的特徴として顕現する。言わば、〝不可視の遺伝子〟とでも名付けられるべきものだ。決して、ゲノムの特定部分に〝巨人遺伝子〟が存在し、誘引するからではない。だから、遺伝子ドーピングにも決して現れない。
④ただ、一つだけ、各個人が巨人か否かの判定が可能な方法があると言われる。それは、〝赤い粒〟と呼ばれる微生物の水溶液を試薬として用いる方法である。その特殊な微生物は、発掘された巨人の遺物に付着して検出される機会が多い。
⑤これは、〝フルメンティ・ルブルム〟が巨人と何らかの形で、相互依存している結果だと、主張する者もいる。だとしたら、環境の変化による微生物の廃頽が、巨人の外見的特異性を減退させた大きな一因だと、言えるかも知れない。そこに研究の余地はある。
⑥あなたの隣人も、もしかしたら、巨人の遺伝子を引き継いでいるかも知れない。いや、あなた自身が、かつて地球上を支配した巨人族の末裔だとしても、おかしくはない。
「〝巨人の実在〟が前提で書かれた内容ですね。何か、確証でもあったんでしょうか?」
「もしかしたら、アロヤンが示唆したのかも知れないわ。〝フルメンティ・ルブルム〟の介在にも言及しているから、よほどの具体例を聞いたのかも」
「ストロエフは、トルコでの一回目の〝巨人発掘〟の直後、《ノア》への提案を行いました。発掘から提案までの時間が数ヶ月しかない点を考慮すると、ストロエフは、発掘以前にも、どこかで〝巨人の遺物〟を目にした可能性が高いですね」
ストロエフも、《ノア》に提案した事実からは、〝フルメンティ・ルブルム〟の存在だけでなく、巨人そのものの存在を確信していた、と考えなくてはならない。
ストロエフの提案が、科学的にも問題ないと判断したからこそ、レ・バー・フンは、共同実験を許可したのだろう。
ストロエフも、事前に富樫の記事を知っていたと考えられないだろうか。〝不可視の遺伝子〟という言葉が、ストロエフにとって魅力的に映り、遺伝子ドーピングやその先の強壮実験をしっかり見据えて、《ノア》に提案した可能性もある。
「それで、記事の執筆者が、トルコのヌーファンという村にいるというから、行くことにしたの。何かの参考になるかも知れないと思ってね。アララト山の北麓の村よ」
「それが、富樫さんだったんですねえ」
フォンは、懐かしそうな眼差しを覗かせた。けれども、すぐに、表情を引き締めた。
「ヌーファンは、小さかったので、三郎にはほどなく会えたの。記事の件で話を訊いたんだけど、様子がおかしいと気付いたわ。……前年末に、奥さんが雪崩で亡くなっていたの」
天城は、フォンの言葉に、我が耳を疑った。富樫が既婚者だったとは、初めて知った。しかも、祖国を離れた異国の地で、暮らしていようとは。
「先輩が結婚していたなんて? 誰とですか?」
フォンは、余計な発言をしたかと、意外そうに口を尖らせた。カリネは、驚きの視線を天城に寄越した。
富樫は、自身が既婚者だったと話さなかった。昔からある意味、謎多き人物だとは感じていたが、さすがにバディの天城にも、そんな重大な隠し事を貫いていたとは……。
逆を言えば、天城にさえ隠さねばならぬほどの、重大な事件に繋がると、黙っていたのかも知れなかった。
「私も、名前までは知らないの。亡くなられてから、三ヶ月以上は、経っていたわね。三郎は、相当に落ち込んでいたわ」
「そうですよね。愛する人を亡くされたんですもの、辛いですよ」
イミグレーションの先頭に並ぶ天城の順番になったので、そこで一旦、話が途切れた。
出入国は、警察の捜査が滞ったままなら、何の問題もないはずだった。仮に、《グリーンウッド・ホテル》の部屋から指紋が検出されても、前科なしの天城なら、問題なくスルーできる。
ただ、カリネは、《グリーンウッド・ホテル》の遺体の一つがアンナだと分かった時点で、出国を拒否されるだろう。
それでも、天城は、まだ、警察は、あの二つの遺体が、何者かは特定できていない、と、高を括っていた。遺体が外国人という点と、まずテロや抗争事件との関連から調べ始めるからだ。別に、国際指名手配を受けているわけでもないし。
天城は、複雑な心境のまま管理官に向き合い、手続きを済ませた。並んだ割には、あっという間の出国だった。
予想通り、カリネもフォンも引き留められずに、マカオを出国できた。むしろ、二人の美しい容姿に気を取られて、管理官が業務を怠った可能性もあったのだが。
出国審査を終えると、幅の広い通路を長々と移動する。そのまま、中国の入国審査を受けて、こちらも事務的に、簡単に終了した。
順路通りに進むと、中国側の巨大な拱北口岸(検問所)のイミグレーション施設を抜けられた。これで、中国の珠海側にようやく身を置けた。あとは、深圳への高速バスに乗り込めば、一安心だ。
深圳行きのバス乗り場を目で探しながら、話を元に戻す。
「さっき、奥さんが雪崩で亡くなったって、言ってましたけど?」
〝雪崩〟というシチュエーションは、どこかで聞いた話である。ストロエフの掘り当てたサイトAも、雪崩で壊滅していた。
「……そうなの。サイトAを襲った雪崩と同じものよ。サイトAとヌーファンが隣接していたの」
ヌーファンの村は、雪崩に巻き込まれ、富樫の家が直撃を受けた。だが、たまたま富樫本人は、外出しており、難を逃れたという。
「帰宅したら、村が半分ほど雪に埋まっていたそうよ。村人全員で対応したけど、自ずと限界があるわよね……」
アララト山麓の一帯は、地盤が軟弱だとデジタル・ニュースにも載っていた。冬場には落盤が原因の雪崩が、いつ発生してもおかしくはない。マクラウドとストロエフが死んだと言われた、二ヶ月前の落盤事故は、夏場で雪がなかっただけだ。
「そこで、話を聞くうちに、同情から恋愛感情が芽生えたんですね?」
カリネは、夢想するように宙を仰いだ。
「その後も、定期的に話を訊きに行ったわ。それから、互いの許を行き来して、しばしば逢瀬を重ねるようになったの……」
富樫は、妻を失った悲しみを紛らわせるためか、フォンを意識するようになったらしい。
関係は一年ほど続いたが、それ以上発展せずに、終焉を迎えた。互いの特殊な立場を尊重した結果かも知れない、と天城は思った。
富樫は、フォンとの恋が終わった後に帰国した。それで、その年の四月に《城北日報社》に入社した計算となる。
深圳行きの高速バスは、間もなく、最終便が出発となる時刻だった。今からだと、午前三時頃には、深圳市内に辿り着けよう。
「ねえ、ねえ。それで、富樫さんと奥さんのほうは、どうやって知り合ったの?」
天城も、未知の女性と富樫がどのようにして知り合えたのかが、気になった。
「三郎と奥さんの出会いも、同様の軟弱地盤のせいだったらしいの。取材のために、ヌーファン村を目指していた三郎が、土砂の崩落による滑落で瀕死の怪我を負ってね……」
そこをたまたま通り掛かった女性に、富樫は命を救われた。数週間、身動きできない中で、献身的に女性が富樫の世話をしたという。
あとは想像に任せる、とばかりに、フォンは、また肩を竦めた。
三人は、深圳行きの高速バスに乗ってマカオを離れた。生涯ずっと忘れられない、嫌な思い出の地となったマカオの灯が、次第に遠くなっていく。揺れる窓景をうち眺めつつ、終わろうとする一日を振り返った。
カリネとフォンとの出会い、アンナとマクラウドの死、巨人の遺物の実在、《ノア》と《AD》の存在、富樫の秘密の過去と別れ……。
これから行く場所は、天国か地獄か。最善の結果を最大限に獲得するには、いったいどうしたらいいのだろう。
天城は、衝撃的な事件の連続だったにも拘わらず、すぐに睡魔に襲われた。抵抗も空しく、やがて、短いが深い微睡に落ちていった。
④へ続く




