消えた囁きを追え~オーパーツとの旅~②
消息を絶った先輩・富樫の部屋で、天城は、富樫の趣味にそぐわない、奇異なサブ・カルチャー誌を発見。そこに記されていた巨人の遺物に関する情報や、二ヶ月前の事故によって死んだ古生物学者・マクラウドの記事などにも、不可思議さを拭えなかった。更に、「俺を探すな」というマカオからの富樫のメール、それに、富樫を巡る美女や髭面の男たちの存在から、天城は、富樫が危機に直面していると断じた。富樫を救うべく日本を発った天城は、マカオで国際水泳大会に出場予定だったアルメニア選手の死亡事故の報に接する。
第二章 衝撃のマカオ
1
マカオ国際空港のターミナル・ビルを出た途端、噎せ返る熱気が天城を包んだ。夜でも、三十度近い気温と八十度を超える湿度が、洗礼のように全身に絡み付く。それでも、空港は海岸縁にあり、頬を撫でていく、じっとりとした潮風が、幾分か熱気を和らげてくれる。鼻腔を擽る汐の香りも、心地よい。
中国語とポルトガル語、それに英語で交わされるアナウンスが耳に違和感を投げ掛ける。まさに、遠方の異国にまで来た実感が湧く。
ターミナル・ビル前には、所構わずに観光客が群れていた。自分の乗るべきバスやタクシーを探す視線が、かなり鋭い。この蒸し暑さからの解放を強く望んでいるようにすら、感じられる。
マカオは、香港にも比較的近い中国南部に位置し、中国本土海岸に突き出した半島部と島から成る特別行政区だ。一九九九年までポルトガルの植民地であったために、植民地時代の遺構が今も多く残されている。歴史に彩られた東西文化の融合が色濃いユニークな存在として、マカオ半島の歴史地区は、世界文化遺産にも指定される。
一方、かつての島は、タイパ島とコロアネ島から構成されていた。だが、島に挟まれた浅瀬にコタイと呼ぶ広大な埋め立て地が造成された。現在は、高級ホテルやカジノなどのリゾート施設が、観光客を睥睨するように並び立つ。
あまりにも急な渡航のため、出発前は、いろいろと骨が折れた。
休暇は目論見通り、造作なく取得できた。それでも、上司から給料の前借りをするには、かなりの労を要した。また、同僚からは、いくら富樫との仕事だと説明しても、海外旅行を満喫しに行くのかと、嫌味を言われた。
できるだけ早い行動を目指したので、翌日に出発の便を見付けたかった。幸運にも、成田発の直行便に空きがあり、午後八時着のエア・マカオ便に滑り込めた。
富樫探索の目安は、まず、コタイの中央部に聳える《ホテル・エレガンティア・マカオ》からだ。とはいえ、貧乏旅行者の天城が、そんな高級ホテルに泊まれるはずもない。だから、身の丈に合った安ホテルに拠点を確保した上で、仕事を始めなければならなかった。
飛行機の中で目星を付けたのが、マカオ半島側にある、安ホテル群だ。世界遺産のセナド広場にも近い地区だから、観光的な立地はいい。しかし、物見遊山の旅ではなかったし、富樫救出という大命題が重く双肩に圧し掛かっているだけに、コタイとの物理的な距離が、やや恨めしかった。それでも、セナド広場から西湾大橋を経由してタクシーで二十分も走れば、コタイ地区には行ける。それくらい、マカオは、こぢんまりとした町である。
天城は、空港からタクシーに乗り込んで、まずはマカオ観光の中心、セナド広場へ向かった。そこからホテルを足で探す魂胆だ。異国の地で行う、午後九時近いホテル探しは、覚悟が要る。暖かいベッドにあり付けない挙句、見知らぬ土地で、路頭に迷うわけにもいかない。
派手なネオンで客を誘惑する高級ホテルやカジノの林立するコタイ地区を掠めると、すぐに、夜の闇にライトアップされた西湾大橋に差し掛かった。大橋の勇姿は、マカオ半島側に細くそそり立つマカオ・タワーの許へうねり行く、龍の如き光の帯に見える。
天城は、眼前の幻想的な光景が、これから待ち受ける奇異な運命を暗示しているようで、恐ろしくなってきた。しかし、未来の厄介事は、なるべく考えないようにして、不吉な思いを断ち切る他あるまい。〝なるようになる〟の精神は、窮地に追い込まれた時ほど、威力を発揮する。
結局、一時間ほど探し回った後、セナド広場から五分くらいの襤褸ホテルで旅装を解けた。《翠樹飯店》という綺麗な名前とは程遠い、壁に亀裂が入る老朽化の進んだ、埃っぽい枯倒木飯店だった。
明るい中国人のオヤジがオーナーで、質問には何でも、たどたどしい英語だが、気軽に答えてくれた。メジャーな観光スポットの行き方や通な見方を初め、外せないマカオ料理店や土産品までを、事細かに教えてくれた。
「せっかくだから、マカオの裏の顔も覗いてみたい」
天城は、富樫探索の助けにでもなればと思い、オヤジに訊ねてみた。するとオヤジは、丁寧に、しかし意味深に、答えてくれた。
「マカオ自体が渾沌の町だから、裏の顔など、あってないようなものさ。ありふれた日常の中に、ちょっとした裏社会が溶け込んでいたりするんだ。敢えて暗い路地裏を覗かなくても、人通りの多いメイン・ストリートにだって、危険がいっぱい隠れているよ」
オヤジは、そこで言葉を切って、訳知り顔に続けた。
「いや、むしろ、誰の目にも着くような所にこそ、不思議な闇が蟠っている。ほら、カジノやサウナを観察してみれば、一目瞭然だろ?」
天城は、オヤジの高説を参考に、翌日の早朝から、コタイ地区を捜し回ろうとした。まずは、富樫の唯一の痕跡が残る《ホテル・エレガンティア・マカオ》のコンピュータを特定したかった。
陽気なオヤジに見送られて、商売道具のカメラを肩に、翌朝九時にはホテルを出た。タクシーを捕まえに、大通りを目指す途中、昨夜には暗くて分からなかったマカオの素顔を垣間見た。
小さな広場を臨む堂々とした歴史的建造物、朝から蒸し暑い空気と人々のざわめき、パステル・カラーの壁が連なる家々、香辛料とスイーツの混じった独特な臭い――。
コタイのリゾート施設などとは正反対の、本当のマカオの姿を見た気がして、心が躍り立った。天城は、マカオの真のパワーを肌で感じ、すっかり虜になった。職業病のように、自ずと何度も、シャッターを切る。
セナド広場の近くでタクシーを拾い、行き先の《ホテル・エレガンティア・マカオ》の名を告げる。タクシーは、もう一度、西湾大橋を通ってタイパ島側に、順調に渡った。しかし、今度は、空港への道を逸れて、コタイの中心街へと入っていった。
コタイは、コロアネ島とタイパ島の間を埋めてできた造成地である。マカオ半島の歴史地区のような、古めかしい趣のある風情は皆無で、ホテルやカジノが林立する近代的な開発都市となっている。
コタイ地区のとば口を飾る建物群が、《ギャラクシー・マカオ》だ。地区最大級の統合型リゾートと言われ、カジノ施設はもちろん、七つの高級ホテルやショッピング・センター、プールなどが揃う。
近隣の《ザ・ヴェネチアン・マカオ》や《ザ・パリジャン・マカオ》などの高級カジノ・ホテルと、豪華さや煌びやかさを競い、一歩も引けを取らない。
《ホテル・エレガンティア・マカオ》も、そうしたリゾート施設の立ち並ぶ一角に負けじと建つ。白亜の宮殿の趣を保ちながら、黒御影石の豪奢さに眩い金の装飾を取り入れた外観は、派手なマカオのカジノ群の中でも、異彩を放つ存在である。
ガイドブックの写真を見る限り、夜の雰囲気も、《ギャラクシー・ホテル・マカオ》のどぎついネオンとは真逆で、落ち着きのある照明に上品よく仕上がっている。世界中の多くの人たちから愛される所以だ。
タクシーを降りた天城は、豪華なホテルを目の当たりにし、富樫が本当に、ここから不可思議なメールを送ってきたのかと、疑問を持った。ホテルの雰囲気が、どうしても、怪しげな巨人や不吉な死の影が絡む事件とは、結び付かなかった。
天城は、巨大で豪奢なホテルのロビーに足を踏み入れた。どことなく騒々しく感じる理由は、マカオの土地柄からだろうか?
ロビーは、ずっと上階まで吹き抜けで、一見渡しに圧倒される。白の大理石に金の象徴的なライン、それに、黒が印象的な彫像や調度品などで飾られている。
フロントが左側に、コンシェルジェのカウンターが右側に連なり、コーヒー・ラウンジの生演奏のピアノからは、優雅な調べが奏でられる。ロビーの何箇所かには、ポイントで大きな生花が置かれ、全体が幾何学的に陥らないような工夫が施されている。
また、見上げる左壁の一面には、マカオの象徴〝聖ポール天主堂跡〟の、右側の壁面には、美しく映える〝マカオ・タワーの夕景〟の大障壁画が掛かる。
ロビー内の装飾とは別に、ホテルの要所要所に、青と緑の渦巻き模様を基調とした小旗が翻っている。よく見ると、今日から始まった《国際短水路競技会 マカオ》の小旗だと分かる。参加選手でも、ホテルに滞在しているのだろう。
そういえば、昨夜の空港からの道すがらにも、大会を目当ての観光客たちが繰り出していた。手に渦巻き模様の小旗を持ち、顔に応援国のペイントを施した姿は、町全体が、一種のお祭り騒ぎだった。騒々しい感覚は、この大会故の高揚からだろうか?
会場は、タイパにある《オリンピック・スポーツセンター・游泳館》だと、ポスターにある。ここからも近い、歩いて十数分ほどの場所だ。
正面奥の面は特殊ガラスで覆われ、中央は、宿泊階層から流れ落ちる滝のように、五基のスルー・エレベーターに彩られる。
ガラスの向こう側には、庇を大きく張ったテラス席と、涼やかな木々の緑陰。木々の奥には建物が窺え、そこが二階層を打ち抜いた、広大なメイン・カジノ棟となる。
ロビー脇にある左右の廻廊を、真っ直ぐに進むと、カジノ棟に繋がる。天城は、敢えてカジノ方面に足を向けずに、壁に貼られた館内地図へ近付いた。
富樫の例のメールに、ホテルのアドレスが使われていた点から見ても、部屋から自分のパソコンを通して発信したのではない。間違いなく、ホテル内の既設のパソコンからだと分かる。
ワーク・ステーションと呼ばれる部屋に、パソコン・ブースがある、との説明書きを見付けた。エレベーターで昇った宿泊棟の三階で、会議室や宴会場のある一角だ。
辿り着いたワーク・ステーションは、宿泊客専用のビジネス・スペースのため、入口には〝検問〟が設けられ、〝セクレタリー〟と呼ばれる係員を突破せねばならなかった。
富樫がワーク・ステーションを利用したとなれば、このホテルに宿泊している証左になる。もし、忍び込んで、メールだけを天城に送ったのであれば、一層、不可解の度合が増す。
やや思案した天城は、適当な口実を思い付いた。徐に〝検問〟に近付き、セクレタリーの老人に声を掛ける。老人の体格は小柄で細身、白髪交じりのオールバック。白の制服の背筋をすっと伸ばしている。几帳面そうな性格が、仇にならなければいいのだが。
「こちらで、人と待ち合わせをしているのですが、中には入れないのですか?」
老人は、眼鏡を外して、手許のタブレット画面から目を上げ、天城に柔らかな視線を合わせた。
「待ち合わせですか……。お泊りの方とお会いするのですね?」
天城は、ポケットから富樫の写真を取り出して、老人に示した。
「富樫という人なんですけど、中にいるかどうか、確認して頂けませんか?」
写真を受け取ると、老人は、眼鏡を掛け直して即答した。ちらっと、肩の一眼レフ・カメラに目が行った。
「残念ですが、まだ、いらっしゃっていませんね。今は、年配の男性がお二人だけです」
老人は、肩を竦めて首を横に振った。だが、すぐに何かを思い出した顔付きで、言葉を継いだ。
「でも、この方でしたら、一週間くらい前に、ご利用になられましたよ。もしかしたら、まだ宿泊されているかも知れませんね」
老人は、それ以上は、話そうとしなかった。けれども、老人の言は、まず正しいと思われた。メールは、六日前の八月十八日の夜に、ここのパソコン・ブースから発信されている。富樫は、例の女性と一緒に、このホテルに今も、宿泊している可能性だってある。ロビーで待ち続ければ、富樫と出会えるチャンスは高まった。
その時、天城の視線が、老人がデスクの上に置いたタブレット端末に、ふと留まった。老人は、ネット・ニュースを、こそっと見ていたようだ。
一面に掲載されていたタイトルを見て、天城は驚いた。
短水路競技会出場のアルメニア選手 プールサイドで死亡
老人は、天城の眼差しを追って、やや恥ずかしそうに、端末を寄越した。
「プールサイドで死んだって、心臓発作でも起こしたのですかねえ。十七歳とは、まだ若いのに」
記事は、速報の第一弾として掲載されていた。今朝の八時頃に、《国際短水路競技会》に出場予定の、十七歳のアルメニアの女性選手が、練習の際、プールサイドで突然に倒れた。すぐさま病院に搬送されたものの、選手の死亡が確認された。死因などは、現在、マカオ警察が調査中。急遽、大会が明日以降に延期されたという。
「楽しみにしていたのに、最悪、大会自体が中止になりますかな」
騒々しい高揚感の正体が、この死亡事故が原因だったと、老人の溜息交じりの言葉が物語っていた。
死亡した選手や事件の詳細は、続報を俟たざるを得ない。しかし、天城は、もう一つの考え方を、採らなくてはならなかった。
――富樫が巻き込まれた事件との関連性は、ないのか?
巨人や有名研究者の死亡が絡み付く一連の事件と、今回の選手の死亡事故とを、本当に、個別の事件として捉えていいのか。タイミング的には、関連性は否定できない。むしろ、天城は、大いに関連していると信じた。悪逆な巨人の姿さえ、垣間見えた気がした。
「アルメニア選手団は、うちに宿泊していますから、これから大変でしょうねえ」
老人の話では、アルメニア選手団は、選手・コーチ・大会関係者を含め、総勢十一名という。事故関係者と富樫が同じ宿泊先なら、一層、疑いの目を向けたくもなる。
ここで天城は、富樫との接触が急務だと悟った。ただ、直接富樫の携帯に電話する軽挙を、まだ冒したくはない。また、ホテルのロビーで、じっと富樫の帰りを待つだけのマネも、したくなかった。死亡事故に関して、富樫の行きそうな場所を想像すれば、自然と富樫に行き当たるはずだ。まずは、アルメニア選手団の宿泊部屋を探ってみようか。
天城は老人に、富樫がここへ来たら、自分の来訪を伝えてくれと告げた。更に、カメラマンとしての名刺を渡して御礼を重ねてから、ワーク・ステーションを離れた。
天城は、ワーク・ステーションを出た足で、そのまま、アルメニア選手団の部屋を探し始めた。
別に、事故が部屋で発生したわけではないので、規制線が張られるはずもない。また、警官が配置されているとも思われなかった。
ただ、アルメニア選手団の宿泊階に限っては、ただならぬ騒擾と緊張が支配しているだろう。もしかしたら、ホテル・サイドの差配で該当区画が封鎖されているかも知れない。いずれにせよ、すぐに、宿泊階は特定できるはずだ。
問題は、肩からカメラをぶら提げた男が現れれば、すぐさま、取材目的のカメラマンだと認識される。相手を怒らせる事態だけは、避けたいところだ。まずは、最上階から一階ずつ、緊迫感を肌で確認していこう。
エレベーターは、宿泊客専用のカードを翳さないと動かない仕組みだった。そこで、他の宿泊客が入った隙に匣に滑り込んで、最上階のボタンを押した。
展望レストランのある最上階は飛ばして、その下の二十三階に階段で下りる。確認できたら、もう一つ下の階を目指す……。これを繰り返した結果、ホテルの十八階に、尋常ならざるピリピリとした気配を感じ取った。
階段ホールから絨毯の敷かれた廊下を覗き見ると、ガードマンらしき男一人が、行く手を塞いでいた。その奥には、右往左往する何人かの男女が見受けられた。時折、苛立ちの籠った怒声が届く。
部屋の奥の宿泊客は、ガードマンの誰何をクリアせねばならない。部屋のカード・キーを差し出してチェックが済めば、初めて部屋に入れる遣り方だ。
天城は、しばらくその場で待ってみた。だが、アルメニア選手団の部屋にも、エレベーターにも、階段ホールにも、特に、目立った動きは見られなかった。相変わらずの緊張感が漲る以外は、警察や記者が押し掛けもしない。野次馬が取り巻く事態もなく、同階の宿泊客にすら、会わず仕舞いだった。ましてや、富樫の出現や同国選手の行き来も皆無だった。ホテルや競技会スタッフが、事前に手を打った結果だろうか。
天城は、痺れを切らせて、階段を一階に下りた。次善の手として考えた策は、事故の起こった会場の視察だった。
《ホテル・エレガンティア・マカオ》を後にし、徒歩で十数分の距離にある《オリンピック・スポーツセンター・游泳館》に向かう。
《オリンピック・スポーツセンター・游泳館》は、魚の骨のような特徴的な屋根飾りに、赤と白の印象的な配色が目を引く建物だった。返還後の二〇〇三年に運用が開始され、それ以後、国内外のレース拠点となってきた。数種のスイミング・プールの他、シンクロやダイビングのプールなど、多くの施設を保有する。マカオ随一と断言していいだろう。
《国際短水路競技会》は、記事の通り、大会が延期になっていた。知らずに観戦に来た人たちは、落胆の色を隠せなかった。エントランス前には、「本日の大会は延期となりました」と、大きな急拵えの看板が立て掛けられてある。がっかりと肩を落として去る者、主催者に何故だと説明を求める者、怒りに任せて周りに文句を言い放つ者など、様々だ。
天城は、とにかく建物の中へ入ろうと考え、裏手へ回った。
しかし、裏手は、警察官によって固く封じられていた。先ほどのガードマンよりも屈強な警官が二人、何人たりとも裏の入口には近付かせまいと、睨みを利かせている。天城は、このような状況では、裏口からの強行突破はできない、と諦めた。
報道記者を装って警官に話し掛ける策が、ないわけではない。だが、怪しまれて詮無き結果にしかなり得ないと踏んだ。また、建物の壁面を攀じ登って上階から侵入する手立てもある。しかし、夜の闇に紛れてならいざ知らず、昼日中の強行は、誰かに必ず見咎められるだろう。
あとは、またホテルに引き返して、富樫の出現を待ったほうがいいと考えた。もしくは、明確にアルメニア選手が動き出すタイミングを計ろう、とも。
天城が踵を返そうとした時、会場に設置されていた大きなゴミ箱に目が留まった。大会のパンフレットが無造作に丸められて、ぐちゃぐちゃに抛り棄てられている。どうやら、大会延期に激怒した観客が、事前に購入したパンフレットを、叩き込んだらしい。
天城は、丸められたパンフレットを何気なく拾い、国別のアルメニア選手団のページを開いた。競技会に出場する選手は、女性ばかりで四人。セクレタリーの老人は、全部で十一人と言及していたから、残りは、コーチや事務スタッフとなろう。
出場選手のページには、笑顔の本人の白黒写真と個人データ、それに、これまでの戦績が掲載されている。死んだ選手は、十七歳だったので、誰が死んだか特定できそうだ。
選手の中で、十七歳は、一人だけ。国際大会への出場は、今回が初めてで、最近の国内大会では、結構なタイムを叩き出していた。残念ながら、期待のホープと謳われた人気者だった……。
――タテフ・サルグシャン。
目が綺麗に澄み、唇がぷくっとした、美人の部類に入る相貌だった。髪を後ろで束ねており、額が大きく見えた。八重歯がチャーム・ポイントの美人高校生といったところだ。
今となっては、タテフの写真の笑顔が全く虚しかった。故郷を離れた異国の地で、まさか客死するとは、思ってもいなかったろうに。
先ほど覗いた十八階でも、選手団は、混乱を来していた。残りの選手を、そのまま出場させるのか、タテフの遺体をどう扱うのか、選手団の帰趨についてはどうするのか、などの諸問題が話し合われていたと思われる。
タテフの死因も気になる。だが、他の選手の去就に関しても、デリケートな問題となり得る。タテフの不慮の死によって、選手団自体を不参加とするか否かは、よくよく考慮されるべきだ。この競技会を最大の目標としてきた選手にとっては、何物にも替え難い、人生を左右する問題となる。
一瞥すると、タテフの一歳上のカリネ・カラベシアンという選手も、このマカオ大会が国際デビュー戦となる、とある。タテフに負けず劣らずの美人であり、目が大きく、鼻が高い。口許の黒子が色っぽさを浮き立たせる。天城もどきっとするほどの美貌だった。
タテフとカリネは、よきライバル関係で、最近のアルメニア国内の大会では、どちらかが一位・二位を取るほど、力が拮抗していた。タテフの死が、カリネの泳ぎに影響を与えないわけはない。
パンフレットには、写真こそないが、コーチ陣のプロフィールも掲載されていた。オリンピックや世界選手権でのコーチ歴までが示されている。
選手・コーチの欄には、〝ノアーク〟〝アロヤン〟の文字もない。マクラウドとストロエフに繋がりそうな片鱗も、見出せなかった。
パンフレットを見た限りでは、まだ、事故死を怪しむところもない。実際に、選手間の軋轢や、コーチとの確執があるかどうかは、分からないけれども。
天城は、念のため、パンフレットのアルメニア選手団のページを破り取って、ポケットに捻じ込んだ。貴重な顔写真は、捨て置けない情報である。カメラマンだからこそ、写真の重要性や有用性は認識しているつもりだった。
消化不良なまま、《オリンピック・スポーツセンター・游泳館》を後にした天城は、再び、《ホテル・エレガンティア・マカオ》に取って返した。
2
天城は、関係者が事故後に、カジノに興じる神経はないと考えた。そこで、広い吹き抜けのロビーの一角で、アルメニア選手団か富樫の姿を待とうと決めた。ロビー全体が見渡せるラウンジの一席に陣取った。決して、怪しい動きを見落とすまいと、目を凝らす。
この席からは、十八階から下りてくるスルー・エレベーターの動きも、充分に把握できる。それに、ホテルからこそこそ出て行こうとする者の影も、しっかり捉えられる。
先ほど入手したアルメニア選手団の写真をしっかりと頭に叩き込みながら、待つこと、一時間ほど。間もなく正午を迎えようとする頃合いとなった。
その時、見上げたエレベーターの一つが、十八階に停まった。待機してから、初めての動きだった。身を乗り出して確認する。
女性らしき姿が二人、認められた。しかも、両人共、一般人より上背がある気がする。アルメニア選手団の関係者の可能性が高いと判断した。天城は席を立ち、さり気ない風を装って、エレベーター・ホールに向かった。
エレベーター・ホールは、結構な混雑だった。該当のエレベーターが到着すると、中から出てきた女性二人を確認する。
一人は、周囲の人よりも頭一つ分高い、若い女性だった。ニューヨーク・ヤンキースのキャップを被り、濃い目のサングラスを装着している。黒のポロシャツに濃紺のジーンズを身に着け、赤のリュックを背負う。明らかに変装しているが、モデルのような出で立ちは、逆効果で目立った。
もう一人は、少し年配の女性だった。白いTシャツの上に、黄色のチェック柄の上着を羽織っている。裾の広いパンツは白く、ポーチを肩から掛ける。
モデルのような女性は選手、年配の女性はコーチと思えなくもない。若いほうの口許にある黒子が、写真に載っていたカリネ・カラベシアンだと、天城に告げていた。
二人は、どことなく、こそこそと他人目を避けていた。しかも、単に、面倒な応対からの逃避や気晴らしの行動には、映らなかった。何がしかの切羽詰った理由によって、居ても立ってもいられなくなったと、天城は考えた。
富樫の一件を追い掛ける天城の勘が、二人の後を尾けよ、とざわめいている。もし、本当に事件から逃げているのなら、それに手を差し伸べる姿勢こそ、肝要である。人の波に隠れつつ先を急ぐ二人を見失わぬように、天城は、しっかりと前を見据えた。
女性たちは、そのまま《ホテル・エレガンティア・マカオ》のタクシー乗り場から、躊躇せずに、一台の客待ちの黒のタクシーに乗り込んだ。
天城は、同じように次の黄色のタクシーに乗車し、「前のタクシーを追ってくれ」と指示した。インド系の運転手は、初め訝った。だが、チップの奮発を約束すると、俄然、ヤル気を出して、アクセルを目一杯に踏み込んだ。
女性二人の乗るタクシーは、大通りを一路、東に針路を取った。このまま行けば、マカオ国際空港に到着する道程だ。二人は、選手団の先陣を切って、帰国するだけなのか? だとすれば、こそこそとホテルを出発する必要はない。群がるマスコミを嫌うにしても、もっと堂々と振る舞ってもいい。
そもそも、二人が敢えて、他の選手たちと別行動になる理由が見当たらない。そう言えば、空港への道を採るならば、スーツケースを持たない身軽な恰好も、気になる。ホテルから空港までの配送サービスを利用したのだろうか?
天城は、二人の不自然な行動に、違和感を禁じ得なかった。何かを怖れる態度に、見えなくもない。タテフの死が、目の前を行く二人と大きく関わり、その責任から逃れようとしているのか?
タクシーは、あっという間に、マカオ国際空港の敷地内に進んだ。このまま出国されては、一本の糸がぷっつりと途絶える。天城は、焦りを感じた。
すぐに、黒のタクシーが減速し、出国ロビー階の降車スペースで停車した。天城も、タクシーを手前で停め、料金の三倍のチップを弾んで渡した。ほくほく顔の運転手を残して下車し、天城は、マカオ国際空港の扇型をした出国ロビーに、後を追った。
マカオ国際空港は、タイパ地区の東端に位置し、主に、東アジアから東南アジアの主要都市を結ぶ路線を持つ。人工島にある滑走路と海の傍にあるターミナル・ビルが二本の橋で繋がる、特徴的な空港だ。
人混みの中を掻き分けて、二人の大柄なアルメニア人女性は真っ直ぐに出国ゲートに向かっていた。出発便が迫っているのか、やや足を速め始める。
そんな中、出国ゲートに向かう二人の女性の許へ迫る別の影が、天城をずいっと抜かしていった。押し退けられた時に相手の顔を窺うと、中東系の二人の顎鬚の男だった。二人共痩せ型だが、かなりの筋肉質で、ブランド物のTシャツが、はち切れんばかりに見えた。
一人目の奥目の男の頬には、特徴的な刀創様の傷跡があり、もう一人の男より威厳が増していた。一目で、堅気ではないと分かった。
もう一人の男は、視線が鋭く、ぎらぎらとしており、額が突出した彫りの深い(巨人の顔というよりは)モアイ顔だった。やや猫背だったが、俊敏そうだ。富樫のアパートで目撃された〝彫りが深くて顎鬚を蓄えた男〟の特徴とも一致する。
天城は、瞬間的に背筋が凍り付いた。富樫を追い掛けて日本にまでやって来た男たちが、今度は、天城の目の前で、アルメニア人女性を襲おうとしているのか?
そう言えば、ホテルのタクシー乗り場でも、髭面の男を見掛けた気がする。男たちのタクシーも、天城のすぐ後ろを走っていたかも知れない。意識はしていなかったが、記憶の端に刷り込まれていたのだろう。
男たちはアルメニア人女性たちの背後から、急激に接近していった。モアイ男が、カリネと思しき女性に腕を伸ばす。
この場でできる最善の策は、何だろうか? 天城は、咄嗟に周囲を見回した。
天城は、隣を移動する手荷物カートに目が留まった。愛人の女と豪遊していたような中国人の太った男が、スーツケースを満載にして、押していた。
天城は突然、問答無用で、カートを奪った。それから、中国人が大声で喚く声を無視して、全速力でモアイ男に打ち当てにいった。
モアイ男の指先が、ちょうどカリネの逞しい腕を掴み掛けるタイミングに間に合った。指先が女性の二の腕を掠めた途端、男の脇腹に、荷物用カートが高速で、真面に直撃した。モアイ男の口から、蛙のような呻き声が漏れた。と同時に、山のように積んであったスーツケースなどが勢いよく、男たちに崩れ掛かった。
コーチの女性は、驚きの悲鳴を短く上げた。ところが、不慮の出来事にも拘らず、事態をすぐに飲み込んだ表情で、大きく後退った。カリネのほうは、悲壮な表情を浮かべて、すぐに混乱した。いったい何が起こったのか、全く理解できていない感じだった。
ゲート前は、瞬く間に、周囲の人たちを巻き込んでパニックとなった。モアイ男が悶絶する横で、被害者の中国人と頬傷男が乱闘を開始した。更に、カジノで負けた輩が、腹癒せとばかりに、新たな喧嘩を始め、それらを騒ぎ立てる者も出た。
「こっちだ。走って!」
この隙に、天城は、騒乱状態のゲート前から脱出すべく、カリネの腕を取って走り出した。コーチも、戸惑いつつ、後から続いた。
女性たちは、いくら混乱の状況とはいえ、搭乗便をキャンセルしてまで、もう一度、市中に戻る事態を拒否しなかった。よほどの事情があると、天城は感じ、一連の事件との関連性を確信した。
天城は、自分から起こした大騒動に、後ろめたさを感じていた。だが、もう、後戻りはできなかった。富樫の一件が、大きな謎を孕んで膨張しつつある。その中に、どっぷりと首を突っ込んで、事件解決までは抜けられない事態が、空恐ろしかった。
天城は、とにかく、今やって来たロビーを、懸命に戻った。ロビーでの騒ぎが収束すれば、逃げた天城に追及の手が及ぶ。一刻も早く空港を離れるに、如くはなかった。
出国ロビー階の降車スペースに出る頃には、二人の男が混乱を振り切って、天城たちの追跡を始めていた。怒髪天を衝く形相で、猛然とダッシュしてくる。
「どうするのですか? すぐに追い着かれますよ」
年配の女性が、綺麗な英語で問うた。声が微かに顫えている。蒼白な表情のカリネを見るにつけ、後悔の念が胸内に逆巻く。だが、ここで嘆いている余地はない。
ところが、降車スペースには一台のタクシーも見当たらなかった。天城の脳裏を、圧倒的な絶望感が覆った。怒り狂った筋肉質の男たちから、このまま走って逃げ果せる芸当など、天城には持ち合わせていない。
「へい、旦那! 困ってらっしゃるようですね」
絶望を払うような声が聞こえ、天城は、声のほうに目を向けた。救いの声は、降車スペースにバックで突入してきた一台の黄色いタクシーから発せられた。先ほどのインド人の運転手だった。
急ブレーキで目の前に止まったタクシーのドアを、これ幸いと、勢いよく開ける。女性二人を押し込めると、まだドアも閉め切らぬまま、発進を指示した。
「また、チップを弾んで下さいよ」
軋む音を残して、タクシーは、降車スペースを猛スピードで離れた。バック・ミラーには、地団太を踏む頬傷男と、追い縋ろうとしたモアイ男の姿が映し出された。
やがて、二人の髭面が遠くなり、天城は、最大の危機からの脱出を実感した。一気に緊張感が萎み、疲労感が体中に吹き出してきた。実際に、余計なマネをしたのではないかと、不安感もどんどん膨れる。
二人の女性は、怯えた猫か兎のように、手を取り合って、互いを慰め合っていた。流れから、市中に戻る羽目になったが、これでよかったのかと、不安を隠さない。
「どこに行きましょうか、旦那?」
インド人運転手の問いに、天城は、返事に窮した。
このまま《ホテル・エレガンティア・マカオ》に戻っても、髭面の連中の手の内からは脱せない気がした。だいいち、二人の女性にはホテルに戻る気持ちはないだろう。
タクシーの背後を猛然と追い縋ってくる車輛は、現在のところ視界にはない。天城は、今のうちに狭いマカオの町に溶け込んで、態勢の立て直しを図る方策がベストだと確信した。
「セナド広場へ行って下さい。せっかくマカオに来たんだから、少しは観光もしていかないとね」
一瞬、年配の女性の体がびくっと反応した。だが、それも致し方ないとばかり、諦めを表情に上せて、天城を見据えて手を差し出す。
「先ほどは、ありがとうございました。アドイアンです。アンナ・アドイアン。アルメニア選手団のコーチをしています」
握ったアンナの手は、か細く華奢だった。皺ぶいた掌が汗ばみ、微かな顫えが感じられた。カリネの手前、気を張っているようだ。
天城は、自分を〝カメラが趣味のお節介なビジネスマン〟と紹介し、友人とマカオで会う約束をしている、とだけ告げた。
「この娘は……」
「カリネ・カラベシアン。お宅の選手でしょ。大会パンフレットで拝見しました」
アンナが驚いた以上に、カリネが反応した。表情は、まだ怯えたままだったが、体を乗り出して天城を直視した。その目は、天城を信頼に値する人間かを、吟味していた。
「私が選手だと知って、助けてくれたの?」
澄んだカリネの声が、はっきりと訴えていた。カリネの黄褐色の瞳が、興味を持って見詰めてくる。どこかぼんやりと、蛍光色を帯びている感じの虹彩が妖しげだ。
天城は、再び、どう告げるか、言い淀んだ。現時点で、富樫の話に言及しても混乱するばかりだろう。ここは、様子を窺う観点からも、最小限の話に留めおくほうがいい。
天城は、空港でカリネに襲い掛かろうとする、不埒な髭面を見咎めた。そこで、思わず救ったまでだと説明してから、付け加えた。
「タクシーに乗った後に、たまたま、見覚えのある顔だったんで、驚いたんだけどね」
カリネの半ば疑う視線を外して、天城は次に、アンナに訊ねた。富樫との兼ね合いからも、是非に問い質さねばならない質問だった。
「ところで、あいつらは、何者なんですか?」
「……分かりません」
今度は天城からの視線を外して、アンナが答えた。全く期待外れの回答だった。だが、俯いた表情からは、その言が嘘だと知れた。
「同僚のご不幸で、すっかり有名になったから、ですか?」
「そうかも知れません。結構、目立ちましたからね……。もし、危害を加えられていたらと思うと、身が竦みます」
タテフの件をぶつけた反応も、極めて薄かった。むしろ、タテフの死を忌避している感じがした。ただ、髭男たちの襲撃を、予想していた言い振りだった。だから、一刻も早く、マカオを脱出したかったのに、と天城には聞こえた。
髭男たちの狙いについては、アンナは、決して話そうとはしなかった。実際に、本当に知らない可能性もあった。しかし、少なくともアンナには、襲撃の理由は、想像が付いているのではないかと、天城は、勘繰った。いくら命の恩人とはいえ、部外者の天城に話す筋合いはないと、頑なになっているのか。
「帰りの飛行機、もう、出発ちゃったね。どうするの?」
カリネは、車窓に迫るマカオ・タワーの勇姿をうち眺めながら呟いた。それは、籠の中から自由を求める小鳥の囀りに似ていた。まだ、自分が敵の掌中にいる存在だと、嘆いている。
「……まあ、あんな事故があったものですから、一番仲の良かったこの娘を、早く帰してあげようと思ってたんですけどね」
アンナは、こうなっては、ノー・プランだと皮肉っていた。天城に、この後の計画と事態の責任を問うているも、同じだった。「あなたのような素人に、いったい何ができるの?」と嘲っているようにさえ感じられる。
「他の選手やコーチには、ちょっとした厄介事が起こったんで、別の便で帰ると伝えればいいですよ」
天城は、カリネとアンナが、選手団の他のメンバーから、こそこそと秘密裡に抜け出してきたと確信していた。その原因がタテフの死と直接に繋がっており、髭面の男たちも、同様の軸で動いていると断言できた。
「安全な場所で、もう少しお話を窺いたいんで、お付き合い下さいよ。……例えば、〝ノアークのアロヤン〟のこととか、ね」
天城は、カリネやアンナ、更にはタテフの名前について、共通項を見出していた。それは、多くのアルメニア人の苗字に付く、特徴的な〝‐ian〟もしくは〝‐yan〟の末尾である。それぞれ、〝カラベシアン〟〝アドイアン〟〝サルグシャン〟だ。
それが、例の〝ノアークのアロヤン〟という文字列にも顕著に表れているとしたら……。
天城の言葉に、アンナは、怖ろしい物でも見たかのように、天城を見詰めた。カリネも、全身の毛を逆立てたかのように、肩を聳やかして、眉を歪めた。二人共、天城が何らかの理由を元に、自分たちに近付いてきたと悟っただろう。しかも、記事目当てのカメラマンだとしても、助けてもらった手前、明確に断れないとも、理解した。
数分後にセナド広場に到着したタクシーは、強張った顔の三人を残して立ち去った。天城から二回目の破格のチップを受け取ったインド人運転手は、「何かあったら、これを」と名刺を手渡す営業も、忘れなかった。
セナド広場は、マカオの歴史地区の観光拠点となる広場だ。ポルトガル統治時代の名残を留める美しい建物に囲まれている。甃は特徴的な波模様で、広場の中央には巨大な噴水がでんと収まる。一見するとヨーロッパの街角と紛うばかりだ。
拠点の広場だけあって、笑顔の観光客の数は、多い。そんな中、天城たち三人が、俯き加減に緊張した面持ちになってはいないだろうか。他の観光客から浮いた存在になって、悪目立ちになっていないか、甚だ気になった。
天城は、現状では、一連の事件の整理と二人からの聴取に充てるべきだと考えた。聴取の結果如何によっては、富樫との直接の連絡も、考えなければならなくなる。
そこで、天城は、落ち着いて話の遣り取りのできる場所を考えた。その結果、迷わずに《グリーンウッド・ホテル》を選んだ。
他に選択の余地もなかったし、襤褸ホテルという難点を考慮すれば、盗聴の心配はない。オヤジも善良な小市民に思えたし、部屋の追加も問題なさそうだった。ただ、カリネとアンナには、多少は居心地が悪かろう。それでも、髭男たちの盲点を衝いている点は、評価してくれるはずだ。
案の定、《グリーンウッド・ホテル》を前にして、カリネが不満を口にした。だが、天城とアンナの説得により、自分の立場を、ようやく理解した。
オヤジの配慮によって、二人の部屋を天城の隣で確保できた。四階の一番奥の角部屋が二人の部屋で、その手前が天城の部屋だ。どちらの部屋も、少々狭くて小汚かった。それでも、二人の角部屋と天城の部屋は、一枚のドアで隔たれている続き部屋で、泊まるには問題なかった。
部屋の色調は、既に煤けた灰色だったけれども、寝るには関係なかった。照明の光量やシャワーの水量は物足らなかったが、それらに文句を言っても詮がない。部屋の家具は、アンティーク調というより古めかしかった。足許の絨毯は、潮垂れて、ほとんど毛足がなかった。ベッドはぎしぎしと煩く、何となく傾いていた。
だが、二部屋共、細い路地に面していたが、路地を進む人々をきっちりと見下ろせた。隣家との間は狭く、ベランダ伝いに屋根へと逃走経路も確保できそうだった。
ホテル玄関を入ると暗いロビーがあり、正面にオヤジの陣取るフロントがある。エレベーターはなく、古い階段で昇り、廊下も歩くとぎしぎしと音を立てた。
コンピュータをハッキングされかねない最先端のシステムよりは、原始的な防犯設備のほうが、この場には打って付けかも知れない。二人にとっては、危険な連中の手から安全に逃れる術を、天城に期待している。だからこそ、ここまで従いてきたと断言できる。逆を言えば、髭面の男たちの存在が、よほど危険な証左となる。タテフの死とも大きく連関すると見てよさそうだ。
天城は、全てがうまくいく策を、どうにかして見付け出したかった。それには、二人からの素直な聴取が、必要不可欠だった。
3
部屋に落ち着いてからしばらくして、部屋の間のドアがノックされた。アンナ一人だけが立っていた。
天城が座るように促すと、アンナは、証言台に着くように、ベッドの端に座った。どんな質問にも答える覚悟に満ちていた。
「カリネはどうしたんです? どこか具合でも?」
冷蔵庫から冷えた飲み物を渡しつつ、問い掛けた。てっきり、二人から話が訊けると思っていただけに、体調でも悪いのだろうか。
「別に、体調が悪いわけではないんです。今朝から色々な出来事があったもので、……少し心を落ち着かせようと思いましてね。ヒーリング音楽を聞かせています」
同僚の死、拉致未遂、見知らぬ東洋人との逃走劇と、多感な少女にとっては、心に負担が大きかったのだろう。また、落ち着いたら、別の機会にでも話を聞けばいい。
頃合いを見計らって椅子に腰を落とすと、天城は、ゆっくりと口を開いた。
「改めて、お話をお伺いしたいと思います。お互いに、聞きたい件が、山ほどあるでしょ?」
まず天城は、タクシーの中で〝ビジネスマン〟と自己紹介した点を訂正し、新聞社のカメラマンだと謝罪した。
カメラマンと聞いて、アンナの顔に、あからさまな翳が差した。信じた人間に裏切られたショックを感じ取ったが、天城は続けた。
「でも、これだけは信じて欲しいんですけど、飯のタネにしたくて、お二人に近付いたわけではないんです」
天城は、アンナの疑わしく蔑みのある表情をひたすら我慢した。真実を述べさえすれば、必ず信用を勝ち取れると、自分に言い聞かせながら。
「実は、俺がマカオに来た理由なんですが……。行方不明になっている、ある人を捜しに来たんです」
今度は、〝行方不明〟という言葉が現れて、アンナも、不可思議な表情を浮かべた。天城は、「この人に、見覚えは、ありませんか?」と、懐から富樫の写真を持ち出した。
アンナは、即座に首を横に振った。富樫は、まだ、この二人には接触していない模様だ。天城は、富樫の素性を伝え、堅実な性格だと強調した。その上で、一週間前に妙なメールをマカオから発信して以来、行方が掴めていないと告げた。
「妙なメールとは、どのような?」
「俺に対して、自分を捜すな、というメールでした。しかも、日本を発つ前に、調査・収集していた情報が、一層、疑惑を深めました」
天城は、アンナの蔑みの目が徐々に興味津々の眼差しに移る様子を楽しみつつ、ありのままの情報を話した。
人間の胚について。聖書などに記述のある巨人について。かつて発掘されたとされる巨人の骨の写真について。マクラウドとストロエフが二ヶ月前に事故死した件などなど。
アンナは、天城が言葉を連ねれば連ねるほど、謎めいた表情に変わっていった。特に、二人の科学者が落盤事故で死んだ件については、露骨に嫌な顔をした。タテフの死に接して、人の死に敏感になっているのだろう。
「富樫という方は、それらの事柄を調べていて、何事かに巻き込まれた、と仰りたいのですね?」
「更に、メモのように残されていた文言が〝ノアークのアロヤン〟でした。……ご存知なのでは?」
先ほど、〝ノアークのアロヤン〟に言及した天城に対する二人の反応は、尋常ではなかった。どうしてあなたが知っているのか、どこから聞き及んだのかと、むしろ非難する色さえ見受けられた。
「正直に申しまして、我々は、〝アロヤン〟については、存じ上げております」
富樫が〝アロヤン〟を知ったが故に、行方を絶ったとでも言いたげだった。
「しかも、富樫さんが書き残した〝アロヤン〟は、恐らく、我々が身近で知っているアロヤンと同じだと思われます」
アンナの言葉は、天城の一つの到達点だった。富樫の残した〝アロヤン〟という奇妙な言葉の意味が、語られようとしている。アンナやカリネといったアルメニア選手団に、富樫はどこまで迫っていたのだろうか?
天城は、アンナの口元に意識を集中して、次の言葉を待った。
「〝アロヤン〟について申し上げる前に、もう少し、我々について、知って頂きましょう」
アンナは、勿体ぶるように一呼吸を空けてから、話し始めた。
「我々アルメニア選手団は、総勢十一名。そのうち選手は、四名です。タテフ・サルグシャンとカリネ・カラベシアンは、民間のスポーツ振興団体の出身です」
「代表団のうち、半分の選手を輩出したエリート養成校なんですね」
アンナによれば、アルメニア国内でも、昨今のスポーツ事情は、幼いうちからスポーツ漬けにして、英才教育を施す方針が採られているという。
英才教育の民間部門をカバーするスポーツ・アカデミーは、二〇〇〇年代に創設されたスポーツ専門の国内民間団体である。ハード・ソフト両面で充実した施設や、バックアップ体制が完備しているという触れ込みだ。
サッカー・テニス・格闘技を筆頭に、陸上・水泳・ゴルフなどの人気も高い。結構高額な入所料を払ってでも、我が子を有能なスポーツ選手に育てたいという親が、後を絶たないそうだ。
「タテフもカリネも、そこで小さい時から頑張ってきたんですね。アカデミーで才能を開花させたというより、彼女たちに元々才能があったんでしょう」
「当時、タテフとカリネを見出した、アカデミーの初代所長こそが、競泳の元オリンピック代表の〝アナスタス・アロヤン〟でした」
富樫が書き留めた〝アロヤン〟は、アルメニアのスポーツ専門の民間団体の初代所長の名前だった。だが、問題は、なぜ、富樫がその〝アロヤン〟を知り得たか、である。
「アロヤンさんは、今でも第一線で、アカデミーの活動をなさっているのですか?」
天城の問いに、アンナは、残念そうに首を横に振った。
「アロヤン所長は、カリネとタテフの二人を、とっても可愛がってくれました。二〇一六年に所長を引退されてからも、結構、気に懸けて下さってたのですが……」
天城は、アロヤンが今年の四月に亡くなったと聞き、かなり落胆した。一人のキー・パーソンが舞台から降り、事件解明が遠退いた気がした。
「カリネやタテフは、ショックだったでしょうね? 才能を見出してくれた恩人だったのですから」
「そりゃあ、もう。しばらくは、立ち直れないほどに、落ち込んでいましたよ」
アンナは、二人のコーチを担当していただけに、間近で辛い様子を目の当たりにしたに違いない。
「……実は、カリネもタテフも、戦争で両親を亡くしていましてね。アロヤン所長が孤児になった二人を、どうしてもと、アカデミーに推薦したんです」
アンナは、寂しそうに呟き、「ナゴルノ・カラバフです」とだけ付け加えた。
「〝ナゴルノ・カラバフ〟って、アゼルバイジャンとの間の紛争地域ですよね?」
アルメニアと隣国アゼルバイジャンの間で起こった戦争は、領土主権を巡る地域の名から、〝ナゴルノ・カラバフ戦争〟と呼ばれる。
戦争の一応の終結は、停戦協定に調印した一九九四年とされる。ナゴルノ・カラバフが事実上の独立を果たし、その結果、アルメニアの保護色の濃いアルツァフ共和国が成立した。
しかし、アルツァフは、国際的にほとんど承認されず、周辺国の騒擾の種となり続けていた。停戦後も、アゼルバイジャン軍がアルメニア領に侵入するなど、当事国同士の小競り合いは絶えず、様々な和平交渉も奏功しなかった。ロシアの支援や仲介を受けられなかったとして、アルメニアとロシアの関係も、悪化の一途を辿っていく。
調印後、アゼルバイジャンは、カスピ海産の石油輸出を背景に、国家の近代化と軍備増強を推し進めてきた。二〇二〇年には軍事侵攻し、アルツァフの三分の二ほどを制圧した。その後、〝対テロ作戦〟の名目で、アルツァフ共和国に総攻撃を仕掛けたのが、二〇二三年のことだ。
これに耐え切れずに、アルツァフ共和国は一日にして降伏。民族浄化を懸念した住民がアルメニア領内に避難を開始し、共和国機能は、亡命政府としてアルメニアのエレバンに移った。
いつも国家間の紛争の犠牲になるのは、何の罪もない無辜の民である。迫撃砲の餌食となったり、人道危機が発生して多くの難民が発生したり、故郷を追われて強制移住をさせられたり……。カリネの出生は二〇〇八年になるが、生まれてからも、ずっと戦禍が絶えていなかったのが現状だ。
そういえば、富樫も、過去にナゴルノ・カラバフ戦争の取材をしていた時期があったと思い出した。ちょうど、富樫が《城北日報社》に勤める前の、大手新聞社の海外特派員の時期だったと思う。強制移住に遭った、故郷を追われた家族のドキュメンタリー記事だった記憶がある。富樫のその辺りの経験から、今回の一連の事件に首を突っ込んだ可能性も、なくはない。
「ただ、仰っていた〝ノアーク〟のほうは、全く分かりません。単なる綽名の可能性もあるし、出身地かも知れない」
天城は、〝ノアーク〟については、アロヤンの経歴を追う中で捉えられると確信した。
「もう少し、スポーツ・アカデミーについて、お聞かせ下さい」
「……アルメニアは、国際的に大きな信頼を得るためにも、スポーツ振興を国策の一つに据え、大々的に旗を振ってきました。金メダルの増産や世界記録の更新を目指し、スポーツ大国として名乗りを上げようとしたのです」
その甲斐あってか、昨今のアルメニア選手は、レスリングや射撃、重量挙げや体操を中心に、多くの国際大会でメダルを獲得してきている。
だが、天城は、アンナが事務的に、致し方なく、説明している感じがした。一向に、俯けた視線を上げようとはしない。嫌な予感がした。
「スポーツの振興は、想定以上に捗っていないのでしょうか?」
「国の強引過ぎる計画は、民間団体であるスポーツ・アカデミーの運営を、大きく圧迫しました。そこで、アカデミーは、より多くの栄誉と顧客を獲得するために、特殊な領域にまで手を出したのです。……新たな組織的ドーピングです」
天城の脳に、衝撃が走った。国策としてアルメニアが掲げるスポーツ大国化に、水を差す愚かな行為でしかない。
国家ぐるみで行われたとされる、ロシアのドーピング問題が、記憶に新しい。多くの有力選手が、オリンピックを初め、国際大会への出場参加が停止され、今も、混乱が続いている。
どんなに技術が発展しようが、大金で買収・籠絡を繰り返そうが、上手くいくわけはない。結局は、国の信頼を貶め、一生懸命に励んでいる選手に皺寄せが来る事態は、免れ得ない。
スポーツ・アカデミーの指導の元、アンナたちコーチ陣の公認の中で、タテフやカリネを含む選手たちがドーピングを行っている事実……。それは、天城にとって、受け入れるに難い事実だった。
「……信じられません。どうして、すぐバレるような愚策を、努力や栄誉を擲ってまで、進んで行うのですか?」
アンナは、批判を敢えて受け入れるような厳しい表情で、失望感を表した。
「ところが、アカデミーは、絶対に発覚しない〝新種の〟ドーピングを導入したのです」
富樫が、絶対に発覚しないドーピングの情報を嗅ぎ付けたが故に、アカデミー・サイドに拘束されているのだろうか? 今回、タテフの死亡でなぜか発覚し、追及を恐れたアンナとカリネが逃走したと、捉えるべきなのだろうか?
「それは、どのようなドーピングなのですか? 差し支えなければ、教えて下さい」
アンナの眼差しが曇り、一瞬だが躊躇いが表情を支配した。
「……実際に、特殊な薬品を投与するといった、通常の遣り方だけではありません。私も、詳細は分からないのですが……」
天城は、今までに見知った中で、関連のありそうな言葉が胸内に湧き上がってきた。間違いであってくれと祈りながらも、口にしてみる。富樫の部屋にあった『ニュートン』誌を思い出しながら。
「……人間の胚に手を加える方法ですか? 言うなれば、遺伝子操作では?」
遺伝子操作とは、簡単に言えば、遺伝子に人為的に手を加える作業である。遺伝子を弄った結果、本来のDNAを改変し、生物に新たな形質を齎そうとするもので、病気治療としても使用が認められている方法だ。ただ、それでも、生殖細胞や胚の遺伝子への改変は、厳に禁じられている。
アンナは、神妙な顔付きを崩さぬまま、諦めの頷きを天城に示した。恐らく、富樫が入手した情報を、一つずつ咀嚼していると判断したのだろう。
一般に、薬品使用以外の遺伝子ドーピングには、胚細胞に遺伝子操作を行って一から育てる〝生殖系列編集〟か、遺伝子操作済みのDNAを成体に組み込む〝ゲノム編集〟の方法が知られているという。
ある生物の細胞に外来の遺伝子を導入して、単に新しい性質を付け加える技術を、遺伝子組換えという。これに対し、生物が持つDNA上の特定の塩基配列を人為的に狙って変化させる技術が、後者のゲノム編集である。
もし、遺伝子操作によって身体的能力を爆発的に向上させたいなら、筋肉量・肺活量などを強化するDNAを、ゲノム編集によって遺伝子の中に組み込めばいい。簡単に言うと、オリジナルのDNAを切り取って、新しいDNAを添付する作業である。この技術を〝CRISPR/Cas9〟と呼ぶ。
ただ、ゲノム編集を行うと、切ったり添付した痕跡が必ず残る。だから、このドーピングの痕跡探しを取り入れたDNA検査が、昨今は本格化してきている。薬品などを使った検査と並行して行われ、不正は、高確率で暴かれているのが現実だ。遺伝子ドーピングの推進は、難しいと言わざるを得ない。
しかも、遺伝子操作は、発癌や機能不全を含む突然変異体が発生するなどの可能性もある。予期せぬ事態が突発する怖れも、考慮せねばならない。人命に関わる深刻な事態だ。
かつて、〝デザイナー・ベビー〟の可能性も議論された。技術的には作製可能だが、人間を遺伝的に改変するという倫理的問題もクリアする必要がある。ましてや、生殖系列編集を行って、胚や卵細胞を一から育てる場合は、個体の管理が物理的に困難だ。
少し前、中国の科学者がデザイナーズ・ベビーの誕生を発表して、世界的な議論となり、強い批判を受けたばかりだ。総体的に見ても、費用対効果の点からも、実現するには、かなりの覚悟が必要となる。
覚悟の上で実現しようとすれば、色々な場面で、無理が生じてくる。そうした無理が、堅固な極秘プロジェクトの殻を壊しかねない。富樫は、そのような綻びから出た情報を、掬い取ったのだろうか。
考えられるとしたら、富樫がナゴルノ・カラバフ戦争の強制移住の取材の中で、アロヤンと偶然に出逢ったのかも知れない。アロヤン所長は、遺伝子操作に反対で、富樫にリークを図った、と考えられまいか。
更に、その先に、富樫への所長からの情報漏洩が発覚し、四ヶ月前に、アロヤンも殺されたと考えるのは、尚早だろうか?
「アカデミーは、ある程度まで看破できそうな遺伝子ドーピングを、なぜわざわざ導入したのでしょうか? それとも、確実にばれないとされる根拠でもあったのでしょうか?」
天城は、アカデミーが何らかの根拠を以て、進んで遺伝子操作を行っているとしか思えなかった。法的・倫理的に抵触する極秘プロジェクトなら、未知の技術の確信的な裏付けがなければ、推進など不可能だ。
「私は専門家ではないので、そこまでは分かりません。ただ、研究グループは、そうした新しい応用ヴァージョンをあらゆる方法で試した結果、一度も発覚していない、と豪語していました。実際に、国内の大会では、一回も露顕していませんでしたし」
確かに、一介のコーチが、最新技術のコアな部分を知るはずもない。研究に関わる検査などを目にすることはあっても、せいぜい、練習・生活をするに当たっての注意事項や禁止項目を知らされているに過ぎないだろう。
「タテフの死も、遺伝子操作に起因するのですか?」
アンナは、困惑した顔付きで、瞳を閉じた。
「それも、これから判明するでしょう。タテフの体を解剖して、原因を特定すると言ってましたから。……ただ、タテフもカリネも、自身が遺伝子操作を施された実験体だとは、知りません。単なる通常の薬品によるドーピングの実験だとしか……」
アンナの言葉には、カリネには内密にしてくれという懇願が含まれていた。アンナが、この席にカリネを同行させなかった点が、これではっきりとした。天城も、カリネの辛い反応を想像できるから、敢えて告げるマネは、しないつもりだ。
アンナは、タテフとカリネが初めて〝CRISPR/Cas9〟と呼ぶ技術の応用ヴァージョンを用いて、実験を進めてきたと吐露した。それは、遺伝子操作済みのDNAを体内に注入する方法で、容易に露見されない方法なのだろう。
恐らく、それらは、遺伝子の切断を覆い隠すだけでなく、懸案だった痕跡一切を消去する複合的な技術、更には、不自然に見えない(故意でない)突然変異を装う(生得の才のように見せ掛ける)技術なのだろうと、天城は解釈した。〝実験体〟というアンナの言葉が、それでも、遺伝子操作の発展途上状態であると、物語っている。
本人に知らせずに遺伝子操作実験を行っていた事実は、タテフとカリネをも裏切る行為だ。スポーツ・アカデミーの罪と罰は、逃れられないだろう。
天城が、アロヤンの死も、遺伝子操作に関わっているのかと確認しようとした。
「もう一つ、申し上げておきたい事柄がございます」
ところが、アンナは、言葉を改めて、天城に向き直った。
「アルメニアの民は、昔からアララト山を聖なる山と崇めています。トルコ人に奪われて久しいですが、我々は、アララト山をアルメニアの象徴と考えています」
唐突な言葉に、天城は面喰った。想定される天城の質問を、回避する目的かも知れなかった。
アララト山は、大小二つの峰を持つ。太古の時代から、アルメニア人が住む地域の中央に、アララト山は聳えてきた。青い空をバックに美しく聳える姿は、まさに、象徴というべき霊峰であった。
富樫もアララト山については、充分に調べ込んでいた。それだけでなく、『旧約聖書』の〝ノアの方舟〟の記述やアララト山付近の地勢、アララト山麓で死亡した二人の科学者について、をも。
多くの事象が、一つ一つ絡み合って、一連の事件の一片を形作っているのではないか。それらを、富樫が解き明かしたからこそ、失踪したとは考えられまいか。
「我々の聖なるアララト山は、『旧約聖書』の〝ノアの方舟〟にも登場し、〝洪水以後の新しい世界の出発点〟を想起させます。ノアは、新しい世界への導き手と言えるでしょう」
「スポーツ・アカデミーが、新しい遺伝子操作の先鞭を付ける、とでも?」
公平たるべきスポーツの世界が歪められ、それを正当化しようとするかのようなアンナの言動に、天城は、違和感を覚えた。
「そこで、我々は、スポーツ・アカデミーを〝これからのアルメニアの象徴〟と考え、通称〝ノア〟と呼び習わしております」
富樫は、遺伝子操作を悪用するスポーツ・アカデミーが、《ノア》の別称を持つと知っていたのだろうか? その上で、『旧約聖書』やアララト山の地勢までを調べ上げたのか?
「あなたたちを襲った髭面の連中は、《ノア》の遺伝子技術を盗もうとしたと思いますか? 本当は、正体を、ご存知なんですよね?」
アンナは、複雑な面持ちで戸惑いを見せた。
「実際に、何者かは、知らないんです。奴らの目的が、技術の窃取だとしても、です」
アンナは、本当に髭面の男たちの素性を知らないと、天城は判断した。ただ、男たちは、《ノア》の違法な遺伝子操作を知悉しており、人質に供するためか、拉致を試みた。
「あなたたちが急いでマカオを去ろうとした理由は、タテフの死が齎す事態に、恐れを抱いたから、ですか?」
アンナは、突然、目に涙を溜めて、悲しげな表情を加えた。表情が天城の問いを肯定していた。
「ただ、逃れたかったのです、この地から。アルメニアに戻っても、〝裏切り者〟に平穏な場所がないことくらい、分かっていました。でも、全てが、うんざりだったんです」
まるで、心の内の澱を吐き出すようだった。
会場から逃げたアンナとカリネは、たとえ帰国しても、〝裏切り者〟や〝卑怯者〟のレッテルが剥がされるわけはない。それでもマカオを脱しようとした理由は、今までの〝実験〟に関わる人生に倦んだからだった。タテフの死は、二人の心に、冷静さを失くすほど、大きな傷跡を残していた。
天城は、アンナの心の叫びを聞き、肩を落とした態度を、目の当たりにした。すると、一気に、二人の嘆きや哀しみを、天城一人で受け入れる自信がなくなった。これ以上の、一人での対応が辛く、心に重く圧し掛かってきた。
事態が今までにないほど大きく膨れ上がり、手に負えないレヴェルにまで達してきた。カメラマンとして、感情移入を拒否してきた。だからこそ、一旦、二人の心に共鳴すると、性質が悪かった。
精神が沸騰して、頭の中が白くなってきた。次の一歩を誤ると、致命的な結果に陥る可能性もある。
ここに至って、天城は、富樫の助けを借りたい気持ちで溢れ返った。決して、逃げたり、諦めたりするわけではなかったのだが。
富樫が、《ノア》の関係者や髭面の男たちに拘束されているとは、思えなかった。富樫のことだ、今も、マカオの町で、情報収集に余念がないほど、立ち回っている姿さえ、目に浮かぶ。
もう、これ以外の選択肢がないと確信し、天城は、封じてきた携帯電話を取り出し、富樫の番号を選択した。
4
何度目かのコールで繋がった声は、懐かしくて心強い富樫の声だった。
「圭太、今、どこにいる? まさか、海外……わけじゃねえよな」
鼓膜に刺さる野太い第一声が、天城には、「早く来い」に聞こえた。
「今、マカオです。何か、手伝えれば、と思って」
天城の短い返答に、全てを理解したように、富樫は、言葉を継いだ。
「現状……、どうな……てる? どこまで理解した?」
富樫の矢継ぎ早の問い掛けに、天城は、富樫が穏やかな心持ちではない、と感じた。興奮と哀惜の綯い混ざった響きだった。事件に何がしかの進展があったのだろうか。
「今、アルメニア選手団の選手たちと、一緒に潜んでます」
ちょっと間があった。通話口を塞いで、誰かと話しているようだ。もしかしたら、相手は、例の魅惑的な女性かも知れない。
目の前のアンナをちらっと見遣ると、不安そうに心許ない表情を浮かべている。自分たちの行く末を悲観させぬよう、微笑み掛ける。
「……分かった。どこで合流す……いい?」
電波が悪いのか、音が途切れ途切れだが、気にせずに現在地を告げた。
「セナド広場近くの《グリーンウッド・ホテル》です。来て頂けませんか?」
「じっとして……よ。色々と聞きたいからな」
通話を切ると、今までの不安が、少し軽くなった気がした。富樫の大きな存在が、千の味方を得たようで、嬉しかった。
「捜すな」と送信しておいて、深入りしてきた天城に対しても、叱責の一つもなかった。やはり、あのメールは、天城への応援要請の連絡だったのでは、と気をよくした。
一方で、富樫への連絡をわざと断っていたが、もっと早く実行すればよかった、と後悔もした。別に、富樫に問題が発生していたわけでもなかったし、天城との接触を拒否されもしなかった。
「今から、心強い助っ人がやって来ます。これで大丈夫、どうにかなります」
自分に言い聞かせるように、アンナに説明する。一人でも多いほうが、一つでもいい方策を思い付く、と。ましてや、富樫は、過去にも窮地を救ってくれたヒーローだ。今回も、我々をベストな方向に導いてくれるだろう。
天城が説明を終えると、アンナは、「それにしても」と、記憶を探るように口にした。
「我々は、富樫さんとは面識もありません。恐らく、《ノア》に訪ねてきてもいないと思います」
「でも、富樫は、アロヤン所長を知っていました……。それも、単なる《ノア》の初代所長以上の情報を、掴んでいる可能性が高い。アロヤン所長は、遺伝子操作の一件をご存知だったのですよね?」
「所長を辞めてからも、終始一貫して遺伝子操作には、反対だったと聞き及んでます。タテフとカリネに実験を施すなど、以ての外だと。……ですが、結局、《ノア》の決定は覆らず、そのうち病を得て、亡くなったのです」
「アロヤン所長の死に、不審な点はなかったのでしょうか?」
客観的に考えれば、反対していたアロヤンは、《ノア》に殺されたのではないか? 《ノア》にとって、元所長のアロヤンの影響は大きかったはず。邪魔なアロヤンを殺して、遺伝子操作に、正式に舵を切ったと考えられよう。
「今となっては、闇の中です。ただ、その可能性がないとは、言い切れないかも知れません」
アンナは「お手上げだ」とばかりに、大袈裟に肩を竦めた。
富樫がアロヤンを知り得た経緯は、やはり、強制移住の取材の時に偶然に出会った、と考える。そこで、遺伝子操作反対の立場のアロヤンが、富樫に情報を直接にリークした。
そこで今回、富樫は、シベリア航路の取材を切っ掛けに、アロヤンの死を聞き及んだ。そこに不審な点を嗅ぎ取ったが故に、謎の美女と共に、具体的に動き出した……。
「現在、遺伝子操作での強化を行っている人たちは、どれくらいいるのでしょうか?」
「タテフやカリネのような〝CRISPR/Cas9〟技術による遺伝子操作を行っている選手や、胚や受精卵に直接に手を加えて、一から育て上げている選手を含めて、《ノア》では、三百人ほどがいると噂されています。詳細は、一部の者しか把握していないでしょうが」
かなりの数の選手が、遺伝子操作によって強靭な肉体を作り上げられている。だが、選手として適応できている人は、全体の一部だと、考えられる。
遺伝子操作によるリスクは、まだまだ未知な部分が多い。不確定要素として、突如、異常を発現する場合もあると聞く。副作用や実験失敗といった危険要素を、完全に排除するには至っていない。
「カリネの黄褐色の目が、やや蛍光色を帯びていた原因は、一連の遺伝子操作による副作用なんですか?」
アンナは、小首を傾げた。曖昧な反応だった。
「恐らく、副作用によるものでしょう。個々人によって、処方される量や回数も異なります。実験の程度でも、差は生じますし。カリネに限って言えば、実験を開始してからは、肉体的というより、精神的に不安定になりがちなのです」
今も、カリネは、隣室でヒーリング音楽を聞いて、心を平穏に保とうとしている。だが、同じ実験中の同僚が不審死を遂げ、髭面の男たちに拉致され掛けたのだから、精神的にハードな状態だ。カリネの心中や、察するに余りある。
通常以上にケアを施さなければならない状況は、実験の副産物である。世界大会への参戦自体も、極めて緊張を強いられる状態の中での反応実験と言ったところか。
今回の実験は、失敗に終わったが、こうしたデータも、今後の反省材料となる。恐らく、《ノア》は、より一層、様々な実験を試みると思われる。
天城が、アンナに向けて、次の質問を発そうとした時だった。突然、階下で大きな声が上がった。特徴のある声が叫んだ感じに聞こえた。ホテルのオヤジの声だ。
だが、二度目の大声は上がらず、静寂が戻った。
初めは、近所の野良犬のマーキングにキレたのかと思った。だが、叫びには、必要以上の緊急性と怒りが込められていた。
天城は、すぐに、最悪の事態が出来したと、思い直して身構えた。一気に血の気が引き、心臓も、止まりそうに感じた。
窓辺に走り寄り、路地を見下ろす。すると、一人の大柄の男が待機している姿が見えた。先ほどの髭面たちと同じ人種だった。小さな絶望が天城の心に芽生え始める。
「あいつらが来たかも知れません。カリネを」
アンナに囁いてからドアを開けにいった。廊下にはまだ人影はない。オヤジの安否も心配だが、ここは自分たちを優先する。
天城が階段を確かめに行っている間、アンナが小走りで隣のドアを開けた。すぐに事態が動き出したと告げ、カリネを叱咤激励した。
天城が階段から覗くと、階下は、まだ静かだった。だが、すぐにでも、足音を忍んで、呼吸を殺した奴らがやって来るだろう。
天城は、二人を逃がしつつ、髭面の男たちの攻撃を躱せるかを考えた。
富樫が見参してくれれば、何らかの勢力にはなる。だが、富樫の身にまで危険を及ぼすとは、痛恨のミスである。
まず、天城は、部屋にあるものを引っ張り出して、廊下にバリケードを作ろうと考えた。椅子、ベッド、冷蔵庫、テレビ、果ては、部屋のドアも壊し剥がした。廊下の部屋入口の手前に積み続け、どうにか、特殊部隊でも、すぐに突破できない程度までに塞がった。
取って返して角部屋に向かう。ドアを閉めて鍵を掛け、ありとあらゆる調度品で、今度は、ドア内にバリケードを作り上げていった。
カリネは、アンナに肩を抱かれながら、迫りつつある〝その時〟を待っていた。二人の表情は、まるで追い詰められた仔猫だった。
こちらには武器もない。バリケードがさほどの時間稼ぎにもならないとは、分かっている。カーテンやシーツでロープを作っての階下への脱出も、ホテル前の敵の歩哨には、役立たない。
となれば、できる限り侵入を塞いで、窓から隣の家伝いに脱出を試みる手しか、残っていない。
「隣の家のベランダに飛び移るの?」
カリネの怯えた声が、恐怖心を弥が上にも煽る。天城は、心中に湧いた恐怖の巣を揮い払った。
「もう、ロビーまで下りるわけには、いかなくなったからね」
ドアの隙間に耳を当てて、外の様子を窺う。階段を慎重に昇ってくる微かな足跡が、ぎしぎしと聞こえてきた。
富樫の到着には、まだ早いと感じていた。たとえ、何か無礼を働いた富樫に、オヤジが激怒しただけだったら、声にあれほどの緊迫感は孕まない。
階段の軋む音が大きくなり、やがて、「おやおや」という粗野な声が聞こえた。空港ロビーでのモアイ男の声と同じだった。
カリネは、長い脚を伸ばして、窓枠を越えようとしていた。あくまでも、静かに、丁寧に、急いで、である。
二人の運動神経には、問題はない。隣の建物のベランダに渡れたなら、屋根を伝っての脱出に期待できる。
天城は、ドアの向こうで遮蔽物が取り除かれる気配を感じ始めた。異常な焦りを覚え、喉がヒリヒリと張り付いた。
それでも、先頭のカリネに脱出の指図をした。
「屋根伝いに逃げて、適当な所で一階に下りるんだ。それから、セナド広場を目指して」
観光客の多い広場で、連中も、目に付く動きは慎むだろう。運が良ければ、人込みに紛れて煙に巻ける。
ところが、ベランダ側にジャンプしようとしていたカリネの動きが、急に止まった。窓の高さを怖れて、尻込みしたわけではなさそうだ。カリネの後ろのアンナの顔にも、苦痛の色を見て取った。……天城は、何が起こったのかを、瞬時に理解した。
逃走経路だった隣の建物のベランダに、青いシャツの男が一人、立っていた。手にサプレッサー付きの銃を持っている。男は、ベランダの手摺りに足を掛けて、逆に、こちら側に渡ろうとしていた。
天城は舌打ちし、他の逃走経路を探そうとした。隣の部屋の窓から、このホテルの屋根へと上がれないかと、考えた。
その時、廊下でドスンと重い音がした。一番大きかったベッドが取り除かれた瞬間だった。それは、取りも直さず、新しい逃走経路が、無意味になった瞬間でもあった。
カリネが後退りして窓辺を離れた。すると代わって、ひょいと青シャツの男が窓辺に取り付いてきた。部屋内を睥睨して、自分たちが圧倒的に有利だと確信する。
アンナは、男の姿に興奮して、枕、花瓶、電話、グラスなどなどを、手当たり次第に投げ出した。天城も加勢して、椅子や額縁など、よりダメージの残るものを抛り始める。
アンナの反撃に気を強くしたのか、カリネはぐいっと一歩を踏み出し、防戦一方の青シャツ男に正対した。すかさず、恐怖と不安を全てぶつけるように、大上段に回し蹴りを放った。
鋼のようなカリネの鍛え上げられた足が、青シャツ男の首筋にジャスト・ミートした。不意を喰らった男は、体をぐらっと滄浪けさせた。カリネはすかさず、ダメージの残る男の体へ、第二、第三の攻撃を繰り出していく。
それでも、青シャツ男は、カリネの攻撃を太い腕で払い除けた。ダメージが充分に残っていたが、歴戦の兵の意地か、倒れずに踏み止まった。そのまま、すぐに、攻勢に転じる。
天井に銃を放つと、続いて、威嚇の言葉を吐き捨てる。
「もう、抵抗するな。ぶっ殺すぞ」
銃の絶対的な威力に、天城は、抵抗する気が失せた。小さく首を振り、アンナとカリネにも諦念を示すと、手を頭の後ろに挙げた。
吐きそうなくらい胃が痺れ、捩れていた。倒れるほど眩暈がし、嫌な汗が首筋を伝った。面目なく、身の置き所がなかった。
アンナとカリネも、万事休すを悟っていた。互いを抱き合って、居た堪れなくベッドの端に腰を落とすしかない。
あとは、やって来る富樫に、不利な状況を打破してくれと祈った。それまでは、時間稼ぎをする必要があった。
すぐに、内と外からドアのバリケードが崩された。
ドアから現れた人物は、モアイ男だった。モアイ男は、天城の顔を見ると、嫌悪感を漲らせてぼそっと呟いた。
「くそっ、面倒を掛けやがって」
モアイ男は、青シャツ男が部屋を制圧したと確認して、労いの視線を送った。それから、背後に「グルグさん」と声を掛けた。
声に応じてゆっくりと入ってきた人影は、頬傷の男だった。長身で鍛えられた肉体が、必要以上に自らを誇示していた。肩から短機関銃を提げ、天城と視線を合わせても、余裕の態度を崩さなかった。むしろ、任務を全うして喜んでいた。
「お嬢さんたち、それに、サムライボーイ君。ご苦労だった」
「俺たちを、どうする気だ?」
頬傷男は、鼻にせせら笑いを上せて、満足そうに返す。
「どうもしないさ。お前たちは、三人共エサに過ぎない」
天城は、グルグという名の男の、〝エサ〟という言葉に戸惑った。他に本命がいて、その本命を誘き出すために、我々が使われる……。
しかし、三人の共通の本命とは、誰なのか?
遺伝子操作技術を奪うために《ノア》の幹部と〝交渉〟するなら、天城は必要ない。もし、富樫が追う情報を求めているなら、アンナとカリネは必要ないようにも思える。グルグの任務は、いったい何なのだろう?
「ところで、あんた、天城とかいうそうだな」
天城は、ぎくりと呆気に取られた。グルグたちは、空港での接触以降の小一時間以内に、もう既に、天城の情報を入手していた。
目の前の敵の恐ろしさを目の当たりにしても、グルグたちが何者かは、まだ窺えない。だが、天城は、改めて、厄介な事件に巻き込まれたと、心中、苦悶するばかりだった。
「だとしたら、どうする?」
天城は、顫える声を落ち着かせつつ、精一杯の虚勢を張った。
「お前も、運がないな。富樫とかいう先輩記者に、手伝わされた結果が、こうだ、とは」
グルグたちは、富樫の素性だけでなく、富樫と天城の関係性も、きちんと把握している。日本に来て、しっかりと富樫の周囲をも、調べ上げたと考えられる。
富樫の素性を洗い出したのならば、空港でカリネとアンナを掠め取った人間が、天城だとすぐに分かったはずだ。
それに、富樫の携帯電話の番号も、既に判明できていたのだろう。だから、先ほどの天城の電話が盗聴・逆探知されて、天城の潜伏先を割り出したと、想像できた。
天城にとって、これ以上ない愚かな行為だった。自ら墓穴を掘るような行動を激しく後悔した。
「まあ、少なくとも、俺たちは、お前に礼を言わねばならない。会いたかった富樫を、わざわざ呼び出してくれたのだからな」
モアイ男と青シャツ男が呼応して、下卑た嗤いを挙げた。
グルグたちの目的は、富樫との接触だった。恐らく、富樫がグルグたちの組織に対して不利益となる取材を敢行したためだろう。
だが、グルグたちがカリネとアンナを追っていた点から察すると、やはり富樫は、《ノア》の遺伝子操作の情報を狙っていた可能性が高い。
やはり、富樫の記事が公になって、組織が不利益を被る事態を、グルグたちは阻止しようとしている。
「ところで、奴が来る前に訊いておきたいのだが」
グルグが口調を変えると、青シャツ男がアンナの額に、銃口を向けた。
「アドイアンとカラベシアン。お前らが《ノア》の出身だとは、調べが付いている。そこで、質問だ」
グルグは、眉間に皺を寄せて、不自然に顔を傾げた。
「ヴァシリー・ストロエフという男を、知っているな?」
二ヶ月前にサイトBの落盤事故で死んだ、ロシアの古生物学者の名が唐突に現れて、天城は、違和感を拭えなかった。なぜ、《ノア》とストロエフに、繋がりが存在するのか?
アンナは、ちらっとカリネを見てから、グルグに向き合った。
「私たちは、その男性の名を、知りません。仮に、組織としての《ノア》と関わりがあるとしても、一介の選手とコーチが知り得る範囲は、自ずと限られています」
アンナの尤もな答に、グルグは、更に眉間に皺を重ねて唸った。代わって、天城に向き直る。
「お前は、どうだ? 富樫は、ストロエフの過去を調査していたんだぞ」
「ストロエフ博士は、トルコの落盤事故で、マクラウド博士と一緒に死んだんだろ。それくらいしか、知らないさ」
天城は、富樫の部屋のパソコンや、新聞の切り抜きを思い出しながら、言い切った。
「お前らも、マクラウドについては、どうだ? ストロエフと同じ発掘現場で死んだ、とされる男だ」
天城の答を受けて、グルグは、再びアンナとカリネに訊ねた。
マクラウドが〝死んだとされる男〟という、グルグの微妙な言い方が、天城は、気になった。ストロエフもマクラウドも、今以て生存しており、グルグの組織に悪影響を与えているのでは、と感じた。だが、それも、信じられなかった。死者が蘇ったとでも、言いたいのだろうか?
二人の死亡を発表したトルコ政府も含め、グルグの組織や《ノア》も、全てが、信じられなくなってきた。
「嘘を吐いても、自分のためにならないぞ」
モアイ男が、取り出したスタンガンをバチバチさせながら、凄んでくる。
「ストロエフと同様、マクラウドなどという男性も、存じ上げません。いったい、あなたたちは、そんなことを訊いて、我々をどうしようというのですか?」
グルグは目を細め、顎鬚を捻り上げた。威勢のいいアンナを、どう痛め付けるかを、考えているのだろうか。
「……それでは、何も知らないお前らには、もう、用はないな」
グルグの台詞に、アンナからすっと血の気が引いた。カリネも、倒れんばかりの表情を晒している。
「ま、待て」
咄嗟に口を出た言葉に、グルグは、天城に視線を寄越した。脅しが奏功したと北叟笑んでいる感じだった。
だが、天城は、何を続けたらいいか分からなかった。ただ、次に脳裏に映った画像が、口を衝いた。
「ストロエフとマクラウドの発掘品は、オーパーツだったんだろ? 巨人の骨さ」
天城は、言ってから、禁忌の言葉を漏らしたように思えて、背筋を冷たくした。
だが、富樫が、何の根拠もなく、あれほどの巨人の情報や巨人の骨の画像を、検索するはずがない。二人の科学者が発見したものは、恐竜の化石でもネアンデルタール人の遺骨でもなく、実際に巨人の骨だったと考えれば……。
「……夢でも見ているような話だな。巨人だと?」
モアイ男は、天城が狂ったと、感じたかも知れない。青シャツ男と目を見交わして、肩を竦めた。
アンナもカリネも、天城の突飛な言葉を理解できないように、大きく目を瞠っている。
「少なくとも、富樫は、そう考えているはずだ」
グルグも、呆れたように鼻で嗤い、また、顎鬚を弄った。
「もういい。この話は、ここまでにしよう」
グルグは顎を刳り、最終判断を下した。青シャツ男が、再び、銃を構えた。狙いは、天城だった。
天城は、抵抗しようと、色々な言い訳を考えた。だが、銃口を見据えると、喉が全く動かなくなった。喉だけでなく、全身が硬直した。眼球だけが動き、引鉄に添えられた指やグルグの口許、アンナとカリネの恐怖の表情などを、交互に見た。
この世の最期の光景が、このような壮絶なものになろうとは、よもや、考えてもいなかった。マカオに来たことは、後悔していない。ただ、富樫の役に立てず、アンナとカリネを救えなかった事実が、残念でならない。目の前が無念で昏くなり、胸奥が息苦しさで覆われていく。
天城は、唇を噛み締め、ここでもう一暴れして散るか、を考えた。
③へ続く




