消えた囁きを追え~オーパーツとの旅~①
古生物学者のマクラウドは、幸福の絶頂から地獄の奈落へと叩き落とされた。新たな発掘品は人類史を覆す大発見だったが、一転、命を失いかねない事態に、追い詰められた。
一方、中堅新聞社のカメラマンとして働く天城圭太は、先輩の富樫三郎の無断欠勤に違和感を覚える。富樫は博学多才な熱血漢で、かつて自堕落なパパラッチの生業から天城を救ってくれた大恩人だった。富樫の部屋を訪れた天城は、富樫が一貫性のない不可思議な情報を調べ上げていた事実に、違和感を強める。
葦の壁よ、私の言葉全てに注意を向けよ。
家を壊して、舟をつくれ。
財産を捨てて、命を保て。
お前がつくる舟(中略)にアプスーのように覆いをせよ。(中略)
私はその間にお前たちの上に雨を降らせよう。
(『アトラ・ハシース物語』「第三の書板」21~34行)
シュルッパクの人、ウバラ・トゥトゥの息子よ。
家をうち壊し、舟をつくれ。
富を捨て、生命を求めよ。
財産を投げ捨て、命を救え。
あらゆる生き物の種を舟に積み込め。
(『ギルガメシュ叙事詩』「第十一の書板」23~27行)
そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちの所に入って、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。
(『旧約聖書』「創世記」第六章‐4)
私たちはまたそこで(中略)ネピリムを見ました。私たちには自分が、イナゴのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません。
(『旧約聖書』「民数記」第十三章‐33)
その後人々は姦淫を行い、道を踏み外し腐敗した。彼女たちはネピリムを生んだ。これがみな仲違いをして共食いをし、エルハバはネピルを、ネピルはエルヨを、エルヨは人類を、人類はお互いを殺し合った。
(『旧約聖書外典』「ヨベル書」第七章‐22~23)
お前たちは聖なる霊的な存在であって、永遠の命をもっているにもかかわらず、女の血で自分の身をけがし、肉なる者の血によって子供を生んだ。そして、人間の子らとしての巨人たちは、あの死んでほろびる者らと同様に血肉の欲にあこがれた。
(『旧約聖書外典』「エノク書」第十五章‐4)
序 章 栄光への道
1
「この上ない奇跡だ。神は私を、至高の極みへと導いて下された」
ロバート・マクラウドは、最高の幸運を目の前にして、心から神に感謝した。今までの研究者人生でさえ、これほどの喜びはなかった。まさに、研究者冥利に尽きる成果だ。
溢れ出したアドレナリンは、一向に止まる気配がなく、体中で沸々と滾っている。貧血に似た眩暈が、夢心地の感覚を優しく弄ぶ。
マクラウドたち、英露合同の発掘チームの目を釘付けにする成果は、先史人類のものと考えられる人骨だった。しかも、骨格標本のような完全体である。初めこそ驚きに目を疑った。だが、眼前の厳然たる事実を徐々に受け入れざるを得なくなった。
かつてのネアンデルタール人やジャワ原人などが、頭骨や大腿骨などの骨格の一部で〝発見・認識〟された場合とは、雲泥の差だ。
最初の発見は、地元の子供が見付けた大きい踵骨だった。最も近い村からでも八キロ以上離れた、ほぼ孤立した、トルコ東部の山中からである。
周辺は、叢林などはほとんどない、荒地に近い土地だ。裾を長く曳く神聖なアララト山に連なる、剥き出しになった山稜の露岩帯。そこは、まるで地球外の異世界にも映った。
乾いた無機質の山稜は、海抜千メートルを越える。うねうねとした岩塊の狭間には、大小の湿地帯が鏤められる。
そんな湿地帯の畔の一つが、今回の発掘現場である。窪地に守られた足許は、赤茶色の泥濘んだ泥土。人骨は、その下の褐色泥岩の中で奇跡的に保存されていた。半年前の豪雨で窪地の一部が地滑りを起こした結果、人骨が露頭したものと推測された。
「丁寧に運んでくれ。本当に脆弱な代物だからな」
これほどの大規模な発掘量は、珍しい。しかも、全身骨格には歯や髪だけでなく、肌や臓器の一部すら、明確に残っている。恐竜の骨の発掘とは異なる慎重性が必要だった。
頭蓋骨は、大量の髪や皺ぶいた皮膚が残存しているし、特に、下腹部から大腿骨に至る部位には、しっかりと臓器の痕跡も見て取れる。発見した子供は、事件性を訴え、警察に駆け込んだほどだった。
しかし、今回の現場の一キロ圏内の地点で、五年前にも同様の種と思われる人骨が発見されていた。それ故、調査は、すぐに警察から観光文化省の手に委ねられた。トルコ政府も、すぐさま国際的な発掘スタッフを手配した。
五年前の発掘を全面委任されたロシアのチームだけでなく、今回は、マクラウドを責任者とするイギリスの考古チームの参加も決められた。
マクラウドは、部位ごとに運ばれていく未知なる人骨を見て、熱い胸を一層、高鳴らせた。今までに発見されたどの骨よりも異質に思われる。まさに、未知なる先史人類――ネアンデルタール人の亜種の発見が期待された。
亜種が確認されれば、周囲の化石化した菌類から、先史人類を取り巻く生態系の把握にも大きく寄与できる。ネアンデルタール人の絶滅理由や現生人類との関わりにも、一つの結論が見出せるかも知れない。そうなれば、古生態学的にも、人類史的にも、大きな転換点となる偉大な一歩になる。
これまでに経験した興奮とは、比べ物にならないほどの高揚感が、マクラウドの体中に纏わり付いていた。これから先、研究者として最高の人生が待ち受けている、と豪語しても的外れではなかろう。
受験の時も、困難な仕事を克服する時も、結婚生活ですら、これまでのマクラウドは、順風満帆を絵に描いたように進んできた。
郷里スコットランドのエディンバラ大学に進むと、古生物学、その中でも古生態学や微古生物学を学んだ。大学を首席で卒業すると、やがて、ロンドン大学の古生物研究室に招聘された。
徐々に研究室でも頭角を現し、イギリス国内はもとより、シリアのデデリエやトルコのアンタキヤといった、国外の発掘調査隊に加わる僥倖に何度も恵まれた。そうした場面で、人生の師と仰ぐ研究者にも巡り合って、一層の研鑽を深めた。自らの研究者人生を、より豊かで濃いものに昇華させていったのだ。
教授の娘とも、めでたく結婚を果たした。美人の妻との仲も極めて良好で、三人の子供を無事に育て上げた。子供たちも、マクラウドに似て優秀で、各分野の一流を目指せる位置に就いた。
マクラウドは、各研究員からの信頼と尊敬を勝ち得ると、あっという間に主任から教授となり、室長にまで昇り詰めた。一方で、研究の成果が認められて、諸々の賞を受けた。大学内での噂では、間もなく叙勲される、と持ち切りになっていた。
そんな折、ロンドン大学へ舞い込んだロシアの学術隊との共同の発掘チームに選抜され、イギリス側の責任者に指名された。友人からは、叙勲の餞になるだろうと聞き、気をよくしてもいる。
今回の調査も、マクラウドの五十九年の華やかな人生を更に輝かせるための、一つの通過点でしかないと思われた。
「だから言ったろ? ここは、奇跡を生む山なんだよ、糞ったれめ」
マクラウドは、背後から掠れた声を掛けられた。細身の上背にウインド・ブレーカーを羽織った、同僚のロシア人研究責任者ヴァシリー・ストロエフだった。
白い顎鬚を神経質そうに撫でるこの男の口汚い物言いには、もう慣れっこだった。しかし、呼吸がやけに荒く、異様にぎらぎらと血走った目には、尋常ではないストロエフの執念が感じ取れた。
ストロエフは、五年前の発掘でも指揮を執った。だが、最終的に満足のいく結果が得られなかったため、二度目の発掘にリベンジの焔を燃やしていた。
五年前は、逃げた羊を追った羊飼いが崖下で発見した洞窟から、全てが始まった。洞窟内部の壁に描かれた赤い家畜の岩面陰刻が国内で話題となり、考古学の専門チームが派遣された。
その時にロシアのチームが、洞窟近くの窪地で埋葬された人骨を発見し、その埋葬場所を〝サイトA〟と名付けた。今回の地形とも酷似する場所だった。
「前回の発見の時にも、俺は最も幸せな人間だと感じて、神に感謝した。だが、今回は、それを上回る幸運だ。この後の人生の運を、全部すっかり使い切ったと感じ、戸惑ってもいるよ」
ストロエフは、天に向かって十字を切ると、何事か呪いの言葉を呟いた。
五年前、ストロエフがサイトAから発見した先史人類の骨も、稀有な全身骨格だったという。だが、その年の冬に、発掘現場を雪崩が襲い、サイトAの発掘品諸共、ほとんどの成果が無に帰していた。
ストロエフは、異常なほどに悔しがったという。だからこそ、今回こそはと、気合いを入れて臨んでいた。「この山は奇跡を生むんだよ」と、再発見の可能性が高いと、出会った当初から何度もマクラウドに語って聞かせていたほどに。
ストロエフの過去の事情を慮れば、今回の発掘状況は、絶望から這い上がった研究者として、至福の時を味わわせてくれているに違いない。
新たに〝サイトB〟と名付けられた今回の発掘現場では、誰もが、五年前以上の発見を期待して疑わなかった。
今日の発掘作業が始まってから六時間余り。間もなく夕暮れを迎えようとする頃、全身骨格の半分ほどを、仮設の保管用のプレハブ小屋に移した時だった。
発掘現場の嬉々とした雰囲気は、忽然と現れた人間たちによって、一気に萎み込んだ。一丸となっていた和を問答無用で乱す、全くの無礼千万な登場だった。
最寄りの村から険しい細道を辿って現れた不躾な連中は、〝当局の執行官〟を名乗った。数にして二十から三十名の、見るからに統率の取れた筋肉隆々の一群だ。
執行官とは称したが、事務方というよりは、どうにも、軍関係の人間にしか見えない。事務書類ではなく、カラシニコフ銃を携えた姿も、威嚇による排除が目的だと知れた。
「何なんだ? 礼儀も弁えない物騒なこの連中は、よ。鬱陶しいぜ」
ストロエフは、神聖な発掘現場に展開する男たちを、仁王立ちで見守っている。強烈な嫌悪感と不安感を表情に上せたまま。
マクラウドも、花壇を土足で踏み荒らされるような不快感に襲われた。身の危険を犇々と感じつつ、嫌な予感を心にどうにか抑え込んだ。
しかし、マクラウドは、アララト山一帯には、最近、クルド人の武装組織が勢力を伸ばしていると聞いていた。もし、それが事実なら、これからの展開には、淡い期待も抱けなくなるかも知れない。
トルコ国内のクルド人武装組織〝クルディスタン労働者党(PKK)〟の武装解除と解散の発表は、記憶に新しい。それは、武力闘争から平和的手法によって、クルド人の権利獲得を目指す方向転換だったようだ。
しかし、そうした〝和解〟に反発し、あくまでも武力闘争を志す一部の者がより尖鋭化して、地下潜行したとしても、不思議はないだろう。目の前の不愉快な連中がそんな輩ではないとは、否定できまい。
発掘現場のスタッフたちも、何事が起こったのかと、手を休めて状況を窺っている。急激な状況の変化に、誰しもが、不安いっぱいの表情を隠そうとしていない。
一群を率いている人間は、右頬に大きな刃創が残る、士官風の男だった。男は、現場に到着して早々、責任者であるマクラウドとストロエフを強引に呼び付けた。
「ここの責任者は誰だ? すぐ出てこい」
頬傷男のドスの効いた声と、肩から下がる銃の存在に、二人共、否が応にも従わざるを得なかった。互いの覚悟を無言で確認した後、足取り重く、頬傷男の面前に歩を進めた。
「いったい、何があったのです? 事前の連絡もなしに、何のご用でしょうか」
マクラウドは、言葉に批判と厭味を込めて訊ねた。銃把で殴られるのも覚悟の上で、せめてもの抵抗だった。
だが、頬傷男は、マクラウドの思惑に対して、嘲笑いを返した。些末な言葉など、力尽くで捻じ伏せられると、思っているのだろう。
「これより、サイトBでの発掘は中止となった。関係者は全員、即刻、下山し、この地域より退避せねばならない」
マクラウドは、初め、男が何を命じたか分からなかった。やがて、〝中止〟という言葉だけが、重く、鋭く、胸内に爪を立てていった。
「貴様、正気で言っているのか? 人類史を大きく変える大発見を、このまま放棄するなんて、できやしないぞ、この野郎。だいいち、〝当局の執行官〟って、どこの〝当局〟だ?」
ストロエフは、我が身を顧みず、頬傷男にぐっと詰め寄った。目を大きく剥き、怒気を含んだ声で、信じられない戯言の撤回を迫った。再び襲ってきた絶望を振り払おうと、必死に見えた。
「なぜなんですか。歴史を変えるほどの大成果を無駄にして、手ぶらで山を下りるなんて、できやしませんよ」
有無を言わせぬ、これほど馬鹿げた決定など、承服できるわけもない。マクラウドは、ストロエフの言葉に力を得て、正論を堂々と言い放った。
「お前らがどう思おうが、知ったことではない。とにかく、ここからは退避してもらう。二度と、同じ言葉を言わせるな」
しかし、頬傷の執行官は、面倒臭そうに、鼻先の蠅を追うような仕草をするだけだ。二人の訴えを端から聞く気などない。
代わりに、脇に控える副官の男が、カラシニコフの銃口をマクラウドの眉間に押し付け、抵抗が無意味だと知らしめる。
マクラウドは、眉間に強烈な恐怖の疼きを覚え、男たちの考えが一ミリも変えられないと悟った。
連中にとって一科学者など、この場で脳味噌をぶちまけて死んでも困る相手ではないらしい。強い訴えは、いとも簡単に退けられた。
「十分だけやる。山を下りる用意をしろ」
頬傷男が吐き捨ててくるりと後ろを向くと、そこで初めて、副官の銃口が眉間から逸れた。腰が抜けるほどの恐怖から解放されて、悔しさと怒りが一層強まった。
連中は、発見が人類史への挑戦や宗教界への冒涜だと感じたのだろうか。世紀の大発見自体を否定したいのかも知れない。
「どうしたらいいんだ? もう為す術がないのか……」
これほどまでに、絶望が辺りを覆い尽くす状況に陥っては、奴らに従う他、もう道はないかも知れない。
地元に戻って、英露共同で、この連中の愚挙を非難したところで、トルコ政府は真面な対応をしないだろう。ましてや、相手がクルド人武装勢力だとすれば、トルコ政府は、政治的な揉め事を嫌がろう。
「まだ十分も残されている。結構な仕事ができるはずだ。考えろ」
マクラウドが俯き加減で呟く背に、ストロエフが小さく声を掛けた。マクラウドが振り向くと、ストロエフの目には、大きな自信が宿っていた。
「俺は、この屈辱を認めない。一部のアホが、俺の輝かしい将来と、人類の明るい未来を奪えるはずもない。今までどれほど多くの犠牲を払ってきたか……」
マクラウドは、不敵にもにやっと笑うストロエフの真意を悟り、研究者としての自分の消極性を恥じた。恥じたと同時に、委縮していた興奮が、体中に再び広がる感覚を得た。
再び溢れ出した興奮は、マクラウドの熱き心を焚き付けた。最悪の事態を回避するため、発見された栄えある発掘品を、命に代えても、こっそり持ち出そうと心に決めた。
2
最後に与えられた十分間を最大限に活用しようと、二人は保管用のプレハブ小屋に走り、慎重にドアを閉めた。
不安と恐怖の入り混じった外の喧騒を余所に、マクラウドは、発掘品の保管棚の前に立った。ストロエフも、早速、別の保管箱を漁り始める。
研究者魂とでもいうべき熱い思いに無性に駆られた。持ち出し易さから考え、棚の下段に保管されていた、赤茶色の泥が多くこびり付いたままの大腿骨を一本だけ取り出した。
それを、手近にあった靴の泥落とし用のボロ裂や写真資料で丁寧に包んだ。更に、包まれた骨を、発掘の際に常に持ち歩く、私用の道具箱の奥底に密かに抛り込んだ。
これで、貴重な大腿骨が、発掘用の刷毛やハンマー、各種の薬品や洗浄液の瓶類、小型の計測器やルーペなどとゴチャ混ぜになった。時間を掛けて一つ一つを確認されない限りは、看破される心配はない。
振り返ると、ストロエフも〝擬装〟を完成させていた。同じようにジュラルミンの道具箱を大事そうに抱え、満足気に佇立している。
「万が一に備えて、これをポケットに入れておこう」
マクラウドは、棚の一部に纏め置かれていた何枚かのデッサン画を手に取った。発掘当初に資料として発掘品を描き留めておいたものだ。
これをダミーとして用意しておけば、道具箱の中身から連中の気を逸らす手段にもなるだろう。確かに、資料として手元に残ればありがたい。だが、現物を守るための苦肉の策ともなるはずだ。
保管棚に残されたその他の骨々を恨めしく眺め終えると、マクラウドは、「行きましょう。大丈夫、成功しますよ」と、自らにも言い聞かせてから、ストロエフと共にプレハブ小屋を出た。
外の世界は、銃を持った連中によって強引に、混沌を終息させられていた。
自分の荷物だけを持った数十人のスタッフは、全員が既に列を作らされており、先頭では持ち物検査が始まっていた。
発掘現場には、無遠慮な男たちがずかずかと踏み込み、発掘途中の人骨などを、引き剥がして持ち去っていく。また、マクラウドたちが小屋を出たのと入れ替えに、男たちの何人かが小屋に入っていった。
恐らく、発掘品は全て没収され、どこかに持ち去られるのだろう。トルコ政府か、武装組織か、その他の機関かは分からなかった。とにかく、廃棄される運命だけからは、逃れて欲しいと切に願った。
マクラウドとストロエフが列の最後尾に着いてからは、待つ時間が無限のように感じられた。次第に、失敗したらどうなるかという恐れが、心の中で頭を擡げてきた。
道具箱の奥底まで、連中の目が届くだろうか? 発覚した場合は、その場で銃撃を受けるのだろうか?
そんな良からぬ思いが、胸をじりじりと締め上げる。見付かれば、自らの研究者人生、否、実際の人生の最期すら意味しかねない。
マクラウドは、乱れる呼吸と顫える指先を落ち着かせようと、必死だった。あくまでも冷静さを保ち、こちらの胸内を、決して悟られてはいけなかった。これほどまでに生命の危険に晒され、異常な緊張を強いられた経験は、過去にない。
やがて、マクラウドの番になった。持ち物検査は、武装した二人の男が行っていた。男たちの背後には、例の頬傷男が控えて、何物も見逃すまいと、ぎろりと目を凝らしている。
マクラウドが道具箱を下して眼前に立つと、検査の男の太い指がマクラウドの胸元を、まず検めていく。
胸ポケットに入っていたボールペンは抜き取られたが、お咎めはなかった。だが、ズボンのポケットに指が及ぶと、男は、険しく眉を顰めて動きを止めた。
「これは何だ?」
男は、わざと忍ばせておいたダミーのデッサン画に喰い付いた。取り上げてまじまじと窺い、後ろの頬傷男に手渡してから、マクラウドに説明を求めた。
マクラウドは、心中が様々な思いを巡って、卒倒しそうだった。きっと、顔色が青白くなっているだろう。それでも、自分が演技派の俳優然とした態度を貫こうと、必死だった。
「発掘品のデッサン画ですよ。現物ではないのだから、これくらいは持ち帰ってもいいでしょう?」
嚥下を一つしてから、おどおどと見えるように説明する。
「これも持ち出せんな。諦めろ」と、頬傷男のドスの効いた声が返ってきた。頬傷男は、サディスティックにマクラウドの目の前でデッサン画を破り捨てた。
「何をするんですか! これも駄目なのですか……」
絶望の苦悶を表情に出して抵抗を試したものの、決定は覆るはずもなかった。もう一人の男が、カラシニコフをチラつかせながら、首を横に振っている。
マクラウドは、下唇を大仰に突き出し、大袈裟に肩を竦めてみせた。あからさまな演技は、果たして予定通りに、本体の見逃しに功を奏するだろうか。
袖口や内腿に探索の手が及んだ後、男は、下ろしていた道具箱にようやく目が行った。
「他は、ないだろうな。次はないぞ。……見せてみろ」
マクラウドが「いつも使っている道具類ですよ」と、ぶっきら棒に口にして、わざと乱暴に足で押し渡した。
男は、箱の蓋を力強く開けると、ざっと中身を見渡した。諸々の汚れたり錆びたりした道具類が、顔を覗かせている。
男の手がにゅっと伸び、道具箱の縁に掛かった時には、マクラウドは、その場で吐きそうになった。ここで一つ一つを検められては、万事休すだ。
だが、男は、道具箱の中を気休め程度に掻き回しただけだった。汚らしい裂に触れるを憚ったか、裂自体に調べる価値なしと判断したからか、幸運にも、それ以上の追及はなかった。
武装した執行官たちに悟られずに、持ち物検査をクリアした安堵感は、言い得ようもないほど嬉しかった。全身の筋肉が一気に弛緩し、抑え込んでいた汗が、体中から噴き出してきた。渇き切った唇を舐めながら振り返る。
ストロエフも、無事に、持ち物検査の関門を突破していた。マクラウドに軽く肩を竦める余裕すら見せてくる。
肩に負う道具箱が、やたらと軽く感じられた。鼻歌の一つでも出かねないほどの、上々の機嫌だ。後は、一刻も早くこの地を去って自らの研究施設へ戻り、持ち出した貴重な発掘品の検証を始めねばならない。
持ち物検査が済むと、全ての研究者や発掘補助の作業員が、列を成して現場の露岩帯を離れていった。列の前後は、まるで罪人のように、カラシニコフで武装した連中に、ずっと見張られたままだった。
麓の村外れの空き地には、大型バスが三台ほど停められていた。人数を数えられて、三十人ほどずつに分けられた。マクラウドとストロエフも、そのまま最後尾のバスに押し込められる。
着席したタイミングで、ここで起こった出来事を他言しないという誓約書まで、一枚ずつ手渡された。
「やけに用意周到だな。……何か、気になるぜ」
道具箱を抱えたまま、隣のストロエフが呟いた。だが、待てよ、とマクラウドも、一つの引っ掛かりを心中で指摘した。
確かに、これほどの短時間での現場からの撤収は、気にはなる。しかし、それ以上に、軍隊のように武装した執行官の大柄な態度や、人類史を覆しかねない大発見の意味を考えると、このまま一塊にどこへ送られるのか、と不安が涌き出てきた。
「これは、かなりヤバいのでは?」
車内の喧騒に隠れて耳元で囁くと、ストロエフも、眉間に過度な皺を刻んで、大きく頷いた。
窓外を窺うと、間もなく三台のバスの発車準備が整うところだった。多くの男たちが、冷ややかで哀れみのある視線を寄越してくる。
村の水車小屋脇では、頬傷男が指示を出して、大きな荷物を運ばせていた。金属製と思われる角張った細長いトランクのような形だ。長さは、二メートルくらいか。初めは、早速、発掘品のいくつかを運び移すのかと思った。
しかし、発掘品を車輛に運び移すのではなく、何かを中から取り出している感じに見えた。せっかく麓まで運んできた発掘品を、こんな場所で取り出すとは、全く以て不自然だ。
ストロエフもこの不可思議な動きを見咎めた。それで、不可思議な動きを見切ったように、憎々しげに舌打ちした。
「こりゃ、本当に、神に召されちまうぜ。……あれは、ロケット・ランチャーだ、クソっ」
マクラウドは、頭から血の気がすーっと引いていった。連中は、口封じにバスごと我々発掘チーム全員を抹殺する気だ。
その時、バスのエンジンが掛かり、ドアが閉められた。今生最期の絶望の音に聞こえて、心臓が潰れそうになる。
マクラウドは、栄光に満ちた自分の人生が、いきなり終焉を迎えようとは、思っても見なかった。これから先も、今回の発見が後押しをして、更なる高みへ押し上げてくれると期待していたのに……。
しかしながら、ここで死ぬわけにはいかないと、思い直した。運のいいことに、連中が抹殺の引鉄を引く前に、正確な真の意図を理解できた。この死の淵から抜け出せるチャンスを、僅かながらも、見出せた。きっと、まだ、間に合う。
大型バスは、広場をぐるっと回り、帰途へ向かうはずだった道を辿り始めた。
一本道は、広大な荒れ地をくねくねと行く。舗装もない道を、三台のバスがゆっくりと進む中、背後からロケット・ランチャーを撃ち込まれると、想像が付いた。
窓を破って脱出するにせよ、直進の箇所では脱出に気付かれる可能性は高い。そこで、最初の大きなカーブを回り込む位置まで、辛抱しようと決めた。
バスは、路面に合わせて上下に揺れるため、さほどスピードが出ない。その点は、脱出に有利に働きそうだった。
車内は、先ほどまでの不安感から幾分は解放された、和やかな雰囲気になっていた。予定外に、久し振りに家族の許へ帰れる安堵感が、皆の心を穏やかにさせている。
マクラウドは、周囲の雰囲気を羨ましく思いながらも、常に外へ目を向け、脱出開始のタイミングを計り続けた。
先頭のバスがゆっくりと弧を描きながら、第一のカーブを曲がり始めると、マクラウドは、窓ガラスにびったりと顔を押し付けて背後を窺った。
その時、バスの連なりを追う後続のジープに、一閃が上がった。
「来るぞ! 掴まれ!」
だが、衝撃に備えて身構える暇もなく、バスの窓外を白煙が高速で横切って行った。
次の瞬間、真ん中を走るバスに弾頭が命中した。衝撃で車体が大きく揺す振られる。同時に、赤黒い火炎が車体から吹き出した。耳を聾する爆発音が辺りを覆う。
こちらの車内は、次の獲物が自分たちだと悟って、収拾が付かないほどの混乱に陥った。
「時間がない。次は、このバスだぜ、こんちくしょう!」
ストロエフがジュラルミンの道具箱を揮って、窓ガラスを勢いよく強打し始めた。一瞬の躊躇が、命の行方を左右する事態となる。
窓は、すぐに打ち破られた。しかし、カラシニコフの連続した銃撃音の重なりが、耳に届いた。どうやら、砲撃で討ち漏らして車外に脱出した人間に対して、掃討射撃を加えている。マクラウドの体は、恐怖で硬直した。
「何てことだ!」
バスのドライバーも、自分の置かれた絶望的な立場に気付いた。強く舌打ちすると、アクセルを全開にして、逃走を試みる。
恐らく、近隣の町までの送迎を高賃で雇われただけだろう。それが、自らの死を早める結果になるとは、今の今まで、考えても見なかったはずだ。
バスは、上下動を更に激しくさせ、急激に速度を上げた。傾斜が緩いが急激なカーブを、大きく車体を傾けて曲がっていく。途中までよく堪えたが、後輪がスリップした途端、潺のある泥濘に落ち込んだ。そのままガクンと嵌って、左を下にして横転した。
衝撃で天地が引っ繰り返った。体を張って踏み留まろうにも、筋肉が我慢できずに、天井や床に何度も体をぶつけた。
車内は同様に、随所で激突と絶望が撹拌された。悲鳴と怒号が混じって、凄惨な様相を呈す。互いが打ち付け合い、天井や床などに叩き付けられた。それでも、マクラウドは、決して諦めなかった。バスの回転が収まると、下側で止まった破れた窓から、泥濘の中を這い出そうとした。
ちょうど、人一人くらいの隙間があった。必死で泥を掻き続け、全身べっとりと泥に塗れながらも、バスの外へと踠き出た。忘れずに、道具箱も引き摺り出す。
呼吸を小刻みにして辺りを見回すと、同じ泥濘の中に動く影があった。ストロエフだった。窓ガラスを直前に割ったお蔭で、車外へ抛り出されたらしい。
「お前も、脱出しちまったか……。この死に損ないめ」
近付くマクラウドに、ストロエフが力ない笑みを見せた時だった。
再び轟音と閃光が走り、今まで乗っていたバスが爆発した。途端に、劫火が車体を突き破り、衝撃波と熱波がマクラウドを貫いた。
反射的に泥濘の中に伏せたが、間近で起こった激しい爆発は、正気を失わせるのには、充分だった。
3
マクラウドは、強烈な焼け焦げた臭いで目が覚めた。辺りは真っ暗で、騒ぎ立てる人影は感じられない。ただ、見上げる星々は、今まで見た経験のないほど、大きく美しかった。
とんでもない頭痛がし、初めは、全身が動かせなかった。少しでも動かそうとすると、激痛が走った。腕の一本でも、折れていそうだ。眩暈や悪寒はなかったが、胃が痺れるように不快だった。
あの悪夢の砲撃から、どのくらいの時が過ぎたのか。体の傷み具合から鑑みれば、荒野の泥濘の只中で、何日も気を失っていたとは、考え難かった。それでも、四、五時間くらい経っているだろうが。
改めて、周囲に神経を張り巡らせた。辺りを捜索する物騒な連中の気配はおろか、野生動物の息遣いも皆無だった。流石に、泥濘の中まで捜索したり、一人一人の死体照合はしなかったと見られる。
安堵したことに、右手にはしっかりと、道具箱が握られていた。道具箱全体にも泥が被り、マクラウドの体同様に、敵の目から存在を覆い隠したと推察できた。一見、道具箱自体には、損傷はない。今は、中身の確認はできないので、ただ神に祈るだけにしておいた。
ここで懐中電灯でも点けようものなら、遠くからっ生存者の存在を敵の目に触れさせてしまいかねない。用心に用心を重ねるに、如くはない。何せ、時間はたっぷりとありそうだ。
次に、首をゆっくりと巡らせた。
黒い残骸だけになった大型バスが、足許の五メートルくらいの所に横たわっていた。暗闇の中に、浮かび上がる姿は何とも不気味で、不吉な死の影を直感させる。
全身の打撲が強烈にやる気を削いでいくが、現状把握のために、静かに上半身を起こした。慣れてきた目で、暗闇を凝視する。
辺りには、所々に、大きな石の塊が点在していた。だが、それらが、命を失ったスタッフたちの骸だと気付いて、吐き気に襲われた。
しばらくして気分が落ち着いてくると、ストロエフの行方が気になった。小声で名を呼ぶが、何の返事もないし、反応もない。たまに聞こえるのは、風の囁きと泥濘に滲み通る水の流れのみだ。
バスから脱出した時点では、どうにか命を繋いでいた。爆風で彼方に吹き飛ばされるわけもない。とすれば、脱出に気付かれて連中に銃撃されたのか?
マクラウドは、周囲五メートルの範囲の遺体三体を検索した。だが鬚がなく、ストロエフだとは確認できなかった。
マクラウドは、ストロエフが銃撃されたり、捕縛されたりするようなタマだとは思っていない。ストロエフは、きっと、目を覚ますと、そのまま近隣の町へと一人で立ち去ったのだと、結論付けた。
「生きていれば、また、再会もできよう」
マクラウドは、頭を切り替えて、この地からの脱出方法を考え始めた。何はともあれ、発掘品を持ち帰って研究を開始しなければ、全く、意味がない。
ロンドン大学の研究室は、十中八九、封鎖されるだろう。現地の事故か何かで、全員が死亡したとする嘘の発表で、皆を信用させるはずだ。発表を無視して、マクラウドがひょっこり現れようものなら、研究室の仲間や家族にまで危険が及ぶ可能性が高い。
取り敢えずは、この発掘品を無事に研究できる場所まで運ばねばならない。そこで、研究を始め、一定の成果を上げる必要がある。それまでは、真実を封印して、孤独な戦いを覚悟すべきだ。
いずれは、頬傷男たちの存在を白日の下に晒して、この悪夢の復讐を果たすつもりだ。だが、しばらくは、時間が必要だ。
この殺戮が風化する前にも、やるべき行動はごまんとある。今は、心と体のケアをしつつ、しばしの安らげる場所が欲しい。
――そうだ、まずは、熱く濃い紅茶が飲みたいものだ。
第一章 不可解な失踪
1
天城圭太は、東京・池袋の中堅新聞社《城北日報社》のプロの専属カメラマンだ。二十八歳で、ようやく、生き甲斐の天職を見付けたと、肌で感じている。
今日のように、報道部の記者と一緒にデモを撮りに行く機会も、決して少なくはない。毎日が忙しなく、疲れやストレスも、体中に溜まっている。だが、それも、自分の性に合っていると思う。
以前は、所謂〝パパラッチ〟という生業だった。芸能人や政治家の私生活を暴くような、ある意味、卑怯な商売で生きてきた。それだけに、今は、正々堂々とした、他人様に後ろ指を差されない商売が、潔く心地いい。
「……政府は、恥ずかしくないのか! 越えてはいけない一線を、越えるつもりなのか!」
必死の形相の人たちが、強烈なシュプレヒコールを繰り返し、プラカードの狭間から怒りの拳を振り上げる。悲壮とも取れる表情は、まるで自分たちの双肩に全てが懸っていると信じるかのようだ。
懸命に叫びを上げる人たちの訴えは、痛切に天城の心に、直接、伝わってくる。カメラのレンズ越しとはいえ、熱い思いの息遣いは、的確に胸に届く。
医療分野に限定とはいえ、クローン技術のヒトへの使用容認と解釈できる政府高官の発言に対して、医療団体や一部のNGO団体の呼び掛けで、今回のデモが実現したという。
禁忌を犯すな、倫理に反する行為は止めろ、と銀座から国会議事堂までを、警察官に囲まれながらゆっくりと行進する人たち。
しかしながら、周囲は、好奇な目で覗いてみたり、迷惑そうに背を向けたりと、反応は様々だった。
天城が同行した先輩の報道記者も、数人のデモ当事者の話を聞いただけだった。あとは、周囲で窺う人たちの反応を訊ねただけで、あまり関心を示さなかった。そのまま、早々と取材を切り上げた。
「これで、何か進展があるとは思えねえな。お前はどう思う、天城?」
「日本は、平和な国なんでしょうね。国の行く末を左右する問題を一方的に決めたり、無関心に靡いたり。ほとんどの国民が、重大性に気付く時には、手遅れになっていたりして……」
先輩記者からの問い掛けに、天城は、ぼそっと呟いた。反射的にデモ隊を振り返ってから、停車したタクシーに乗り込む。
確かに、こうしたデモでの訴えには、心に響く内容も多い。だから、訴える側の言い分に、じっくりと耳を傾ける必要がある。どのような角度で捉えれば、より肉薄した場の雰囲気を届けられるか。それを、瞬時に判断してシャッターを切らねばならない。
だが、こういう場面では、常に感じる。単調に繰り返される文言と、横断幕や旗・幟などを使ったデモの列に、一般民衆の抵抗の限界が見える、と。
他の温和で有効な手立てがないだけでなく、一種のパフォーマンスを演じているだけのようにさえ、天城には思える。
取材には、感情移入はご法度だ。報道マンは、現実の出来事を、忠実に大衆に伝える役目がある。それが本懐でもある。
現実の出来事は、恣意的に歪曲させたり、意図的に改竄したりしてはならない。現実をストレートに伝え、それをどう評価するかは、受け手側が決める。特に、報道写真は、それが顕著だ。
あくまでも公平な立場に立つが、被写体が何を訴えているかを、撮る人間が把握していなければ、報道写真ではなく、単なる記念写真に過ぎなくなる。
だから、被写体の気持ちを素直に、最も直接的に受け止められる技法の駆使や、最適なアングルが必要だと、いつも思う。
遠離かる叫びの余韻を耳に残しながら、手許で数十枚撮った画像のチェックを行う。デモの全体像が分かる一枚と、個人の胸中が分かる一枚を選んでみた。
全体像が分かる写真は、デモの規模や参加者層などの客観的な情報を見る側に伝えられる。それは、デモが重大で火急な案件であると、認識させられるかも知れない。延々と続くかのような人の群れと、それらを取り巻いて見るだけの無関心な傍観者たちの対比が、現実を浮かび上がらせる。
個人をアップにしたほうは、個々人の心情を写真から読み取れる。次世代に誤った政策を残してはならないという不屈の決意が、真剣な表情から余すところなく、伝わってくる。握った拳や嗄れんばかりに張り上げる声が、近未来に待ち受ける後悔を拒否しているようだ。
パパラッチ時代は、単に、大衆が喜びそうな芸能人の不倫写真や、政権運営に影響を与えるような政治家の交友関係ばかりを狙っていた。モノによっては、結構な高値で売れたので、商売として成り立つ事情が、自分でも怖かった。
そこには、被写体の気持ちも、心に響く内容も、存在しない。存在するのは、カメラマンと出版社のエゴばかりだった。
やがて、そのような仕事が続くと、金のため、生活のためとはいえ、「こんな仕事を続けていて、本当にいいのか?」と、空虚感を味わいながら生きるようになっていった。
「そう言えば、富樫の奴、休暇からまだ戻って来てなかったよな? 何してんだ?」
天城は、先輩の言葉に、昔の記憶に蓋をして、我に返った。
富樫三郎は、天城の三つ年上で、大学の先輩であった。高校生の頃から報道に携わりたいと強く願い、大学入学と同時に取材や研究を始めた。そこで、個人的にSNSなどに社会・政治の評論を掲載してきた。
そんな活動が新聞社の目に留まり、卒業後に、東京の大手新聞社に就職。以来、海外特派員など、報道畑一筋を歩んできた。
しかし、大手故の窮屈さが合わずに辞職。現在は、小回りの利く中堅新聞社《城北日報社》で、精力的に報道記者として活躍中だ。
天城にとって富樫は、報道に対して真摯で情熱的、しっかりとした芯を持った、記者の鑑だ。同時に、報道カメラマンになる道を開いてくれた人物でもあった。
大学時代にも気さくに声を掛けてくれ、多くのアドヴァイスを貰っていた。いつかは、二人でペアを組んで、大スクープを挙げたいと、心に誓った。
パパラッチ生活に嫌気が差していた天城を救った人物こそ、富樫だった。気晴らしで架けた電話に、富樫はやはり丁寧に応じてくれ、普段の愚痴や相談にも乗ってくれた。
それで、「今、ちょうど専属のカメラマンに辞められて困っている」と切り返され、天城を《城北日報社》に引き抜いてくれた。富樫のお蔭で天城が天職に就けたことは、富樫への尊敬の念を、一層篤くした。
富樫とのペアの実現という望みの一部が、晴れて叶った。それから一年半近く、天城は、富樫の取材に付き従い、富樫が求める画像を撮り続けてきた。だが、今は、〝大スクープを挙げる〟という次の目標に向かって、邁進している最中である。
「……そうですね。本当は、昨日から出社予定だったんですけど。休暇先で、何かあったんでしょうか?」
富樫は、五日前から珍しく休暇を取って、出社していなかった。当人は、「少しやってみたいことがあってな。バカンスを楽しんでくるだけさ」と、言い残していたが。
「バディのお前も、分からないのか……。どこに出掛けたかくらいも、知らないのかよ」
「……ただ、バカンスで海外に、だとしか」
天城は、富樫の性格上、単なるバカンスで羽を伸ばしているわけではないと、確信していた。もしかしたら、気になっていた事件を、単独で追い掛けようとしていたのでは、という思いが拭い切れない。
ただ、相方の天城にも告げない富樫の隠密行動は、今回が初めてだった。まだ、確信が持てない事件だから秘匿しておきたいだけなのか。それとも、天城の勘違いで、本当にバカンスを楽しんでいるだけなのか?
まさか、富樫に限って、追っていた事件に巻き込まれて帰国できないとは、考えたくはなかった。
かつて、中国の闇組織への取材でピンチに陥った際でも、機転と度胸と運の良さ、それに少々の腕っ節と賄賂で乗り切った経験があった。簡単には相手に屈しない度量が、富樫の持ち味だ。
「これから帰社したら、涼しい顔で待ち受けているかも知れませんよ。そうでなかったら、調べてみます」
富樫は、天城にとって、空虚な泥沼から救ってくれた恩人である。一種のヒーローでもあり、完全無欠のスーパーマンとさえ思う。
ヒーローにはピンチが付き物だが、困難に打ち勝って必ず悪を倒すと、相場が決まっている。だから、さほど心配はしていない。
とはいえ、天城は、蒼天に湧き始めた雲の如く、身近に寄せてくる一抹の不安を、意識し始めた。この後、雲が霧消するのか、豪雨となって害を及ぼすかは、正直、分からない。
しかし、帰社した天城を待ち受けていたものは、富樫の元気な顔ではなかった。むしろ、未だ帰らない富樫の身の上を案じる同じデスクの同僚たちの、執拗な質問攻めだった。
「お前、相棒なんだから、何か聞いてないのかよ」
「海外で日本人が、事故に遭った情報は、ないみたいだけど……。何か連絡はないの?」
「今まで無断欠勤なんかしたことない富樫がなあ。全く、不可解だとは思わないのか」
富樫の人望の厚ささえ窺える情況に、天城の不安の雲が、一気に濃く大きく膨らんでいった。事件に巻き込まれずとも、戦禍で負傷したのか、現地で交通事故に遭ったのか、といった妄想が天城の心を締め上げる。
「天城、どうせやる仕事なんて、ないんだろ? 富樫の家に行って、調べてきてくれよ」
天城は、先輩の言葉を待つまでもなく、富樫宅を訪問しようと思っていた。だいいち、ここまで不安を煽られては、仕事が手に付かない。天城の訪問結果次第では、警察に行方不明者届も出さなくてはなるまい。
天城としては、決して楽観視できなくなってきた。そこで、逸る心を落ち着けつつ、すぐに《城北日報社》を後にした。
富樫のアパートは、中野区の閑静な住宅地にある。富樫は今でも独り身だったが、独身貴族を謳歌するでもなく、見るからに質素な生活を心掛けていた。
天城は、JR線と東京メトロ東西線を乗り継いで中野駅に出た。駅から二十分ほど歩いて、学生が多く住むマンションやアパートが多い一帯に至る。
大通りから一本入った路地に面した《コーポ白鷺》という名の、小ぢんまりした木造の二階建てアパートの一室が、富樫の城だった。
築五十年は経つような、見るからに古い趣だ。モルタルの壁はあちこち罅割れ、部屋の前の通路には、住人の勝手放題に、自転車や洗濯機などが雑多に置かれる。昼間だからか、住人の気配はほとんどない。心細い鉄製の階段をカンカンと音を立てて、二階の富樫の部屋へと向かう。
階段を昇り切った二軒目の角部屋のドアに、厚紙に〝富樫〟とだけ書かれた表札が貼ってある。天城は、仕事の打ち合わせで、この部屋を三度訪れていた。その度に、引っ越す気はないのかと訊ねたのだが、「俺の性に合ってるし、住めば都だ」と笑って往なされた。
薄いドアの前に立って、耳を澄ませる。しばし神経を集中させるが、ドアの向こう側には、生きた人の気配がない。
そこで、敢えて声を掛けずに、胸をどきどきさせながら、以前に渡された合鍵を鍵穴に差し込んだ。錆びたような苦しい音を上げて鍵が開く。天城は、中からの反応を待ったが、それでも気配は途絶えたままだ。
意を決して静かにノブを回す。軋んだ音を立ててドアを引くと、玉暖簾がぱちぱちぶつかって音を立てた。
「……先輩。富樫先輩、いらっしゃいますか?」
遠慮がちに小声で告げ、邪魔な玉暖簾を押し上げて奥を覗き込む。
1Kの部屋の内部は薄暗く、物音一つ聞こえてこない。部屋は雨戸で閉ざされ、隙間から入る陽の光条が、薄気味悪く見えた。
光の届く玄関周りには靴もなく、やはり、外出していると見てよかった。鼻を利かせるが、腐乱臭や血腥さはないし、返事も気配もないので、靴を脱ぎ、部屋に踏み込んだ。
2
天城を迎え入れた薄暗い部屋は、富樫の遺体が横たわるでもなく、やはり、誰もいなかった。早速、照明を点ける。
以前に訪れた時とさほど変わらぬ、雑然とした部屋は、荒らされた形跡も見当たらなかった。一見、異様な箇所もなく、先週に富樫が出掛けた状態のままだと思われた。
八畳一間に、ちょっとした台所が付いた部屋で、独身の富樫が暮らすには、不自由ではない大きさだった。
入って右手には古びた箪笥が一棹と、その上に小型のテレビが一台あった。左サイドには、部屋に不似合いな大きな本棚があり、中には、ぎっしりと様々な本や雑誌が並ぶ。
哲学書や政治家の金言集、六法全書や地政学の書物まで窺える。奥の壁際にあるベッドの上には、雑誌や新聞が、重ねられている。
正面の窓は雨戸で閉ざされ、本来の視界はない。窓の手前には小さめの机があって、机上のパソコンは、資料類の中に埋もれていた。
台所周辺には、酒瓶やビールの空缶に混じって、生活臭のある雑貨や食品などがごちゃごちゃと置かれているだけだ。全体的に、富樫がコンビニから今すぐにでも帰って来そうな気配だった。
天城は、部屋のどこかに、富樫が休暇で訪れた場所のヒントや、出社が遅れている理由がないかを、捜してみようと決めていた。
まず、丁寧に整えられたベッドの上に目を遣る。ベッドの上のものなら、最も直前まで目にしていた可能性が高い。
ベッドの端に腰掛け、雑誌の一つに手を伸ばす。科学雑誌『ニュートン』で、〝人体の秘密〟とサブタイトルが附された号だ。
だが、明らかに、富樫には科学系の趣味はなかった。むしろ、苦手の部類に属した。とすれば、人体に関わる取材のために、基礎知識を得ようとしていた、とも考えられる。
パラパラとページを捲っても、付箋を貼ったり、栞を挟んだりはしていなかった。ただ、一か所だけ、ページの端を折っている箇所があった。〝人間の胚について〟とある。
偶然に折り込まれた場合も、あり得なくはない。しかし、天城の目には、爪で強く扱かれた跡が折り目に付いているように映った。
胚とは、多細胞生物の発生初期段階の個体を指す。初期の細胞は、細胞分裂を繰り返し、次第に生物種の構造が生成されていくが、動物の種によって〝胚〟と呼ぶ時期は異なるという。因みに、ヒトの場合、受精後九週目までが、胚と呼ばれる。
天城には全く疎い理系の事象であるが、富樫は、胚の何を知ろうとしていたのか? 天城は、首を捻らざるを得なかった。
取り敢えず『ニュートン』誌を脇に置いて、次にベッド上の畳まれた新聞を手に取った。《城北日報社》のものではなく、大手の《東京大朝新聞》だった。
昨年の五月二十日の日付である。なぜ、富樫は、一年以上も前の新聞が必要だったのだろう? 天城は、新聞に残された富樫の痕跡を探しながら、胚と関連する記事がないかを見ていった。
すると、記事が丁寧に切り抜かれた跡を発見した。国際欄のページで、比較的小さな記事だ。切り抜かれた記事の内容は、新聞社に問い合わせるまでもなく、近くの図書館に行けば、保管されている当日の新聞をすぐにでも見付けられる。天城は、日付とページを携帯電話で撮影してから、新聞を畳み直した。
次に天城は、ベッドを離れて、本棚に視線を向けた。
そこで、多くの書物の中に混じって、奇妙な文庫本を発見した。『旧約聖書』だった。違和感と衝動に駆られて、急いで手に取る。
『旧約聖書』の文庫本は、比較的最近購入されていた。まだ手垢も、ほとんど付いていないし、挟んであった栞に、数ヶ月前に公開された映画の宣伝広告が掲載されていた。
それでも、僅かにページを捲った痕跡を探られようか。そうすれば、富樫がどのページに興味を持ったのかを、突き止められる。
『旧約聖書』は、キリスト教徒の正典の一つで、『新約聖書』に対しての〝旧約(旧い契約)〟の意味がある。ユダヤ教では、『旧約聖書』とは呼ばずに、唯一の〝聖書〟として『タナハ』と呼ぶ。また、イスラム教においても、『旧約聖書』の一部が啓典(神から預言者に下された書物)に含まれてもいる。
『旧約聖書』の冒頭部分は、有名な「創世記」である。神が七日間で世界を創り、楽園にアダムとイヴを住まわせた。だが、蛇の誘惑により禁忌を犯したので楽園を追放となった、という天地創造と楽園追放の話がある。
他には、日本人でも知られている物語に、世界初の殺人事件であるカインとアベル兄弟の話、天にまで届く塔を建設しようとした傲慢な人間に対して、神罰として言語をばらばらにされたバベルの塔の話、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民の艱難辛苦の旅と十戒の話などがある。
天城は、うっすら付いた痕跡を辿りつつ、特に濃く捲れて、何度も開いていると思われるページを、いくつか特定できた。
「創世記」第六章に記載のノアの方舟。「サムエル記上」の第十七章にあるダヴィデとペリシテ人との戦い。『旧約聖書』の初めの五つの書〝モーセ五書〟の一つ「民数記」の第十三章の約束の地カナンの探索について……。
一見、共通点もないと思われる逸話に、疑問符が脳内を駆け巡る。
ノアの方舟も『旧約聖書』に出てくる物語で、日本でもかなりポピュラーな逸話である。
人間の堕落に対して怒った神が、唯一人だけ信心深かったノアに、大洪水を起こして人間を一掃する決意を示した。ノアと家族だけが生き残りを許され、世の中の全ての動物の一番ずつを、共に乗せられる大きな方舟を造れ、と命じられた。
いよいよ神によって大雨が七日七晩に亘って降り続き、大地は悉く水没した。その後、方舟は、嵐の中を漂流して、アララト山の頂に留まった。
四十日後にノアは、烏を放ったが陸地が認められず、すぐに戻ってきた。七日後に、今度は鳩を放つと、オリーブの葉を銜えて戻り、更に七日が経って、もう一度、鳩を放つと、鳩は戻って来なかった。
ノアは、水が引いたと確信し、家族と動物たちと一緒に方舟から出た。その場で神に感謝し、祈りを捧げたという。
この大洪水に纏わる話は、世界中に三百ほどの類似の伝承として受け継がれている。古くは、古バビロニアの『アトラ・ハシース(ノアに当たる人物)物語』や、あの『ギルガメシュ叙事詩』などの粘土板にも記載がある定番の物語だ。
一方、ダヴィデは、イスラエル王国の初代王サウルに仕えた元羊飼い。北方の強国ペリシテ人との戦いで勝利を収め、その後、自らが即位してイスラエル王となった英雄である。
ペリシテ人との戦いにおいては、ペリシテ人の屈強な強力無双の兵士ゴリアテを斃し、神憑り的な連勝で、戦いを有利に導いた。
カナンは、〝乳と蜜の流れる場所〟とされた。神がノアの直系アブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、〝約束の地〟と呼ばれる。
イスラエルの人々が荒野を旅してようやく辿り着いたカナンの地を、神がモーセに、自らの目で見聞し、偵察させるように命じたシーンがある。
ノアの方舟やダヴィデの英雄譚なら、まだ分かる。だが、あまり知られていないカナン探索のシーンを、富樫が注目していた理由が、天城には不明だった。
普段、見慣れない『旧約聖書』に、苛立ちの眩暈が襲ってきた。大学の宗教学の授業で、退屈な講義を聞いただけの天城は、初歩的な基礎知識しか持ち合わせていない自分を大いに嘆いた。
どう考えても、人間の胚にしても、『旧約聖書』にしても、絶対に富樫の趣味ではあり得ない。富樫が取材対象の基礎知識として、会得を目指したと考えて間違いなかろう。
天城は、鬱々たる思いで『旧約聖書』を本棚に戻し、他の目ぼしい物がないかを、漁り始めた。
酒蔵巡りや世界旅行といった本は、富樫の趣味そのものだったし、モーター・スポーツの雑誌に至っては、相当な興味があったらしく、定期購読していた。
他方、政治や法律の本なら、何度でも富樫は、読み込んでいた。また、哲学書や地政学の書物であれば、富樫の豊富な知識の一ページを飾っていたとしても、抵抗はない。
本棚の隅々にまで目を渡すと、一番上の段に平置きになっている大きな茶封筒に気付いた。若干の厚みがあるが、何が入っているのだろう?
茶封筒には、二つ折りの紙束がごっそりと入っていた。三十枚以上はあろうか。何かを、纏めてコピーしたもののようだ。
裏面に富樫の筆跡で、「G&P」とだけ書かれている。
「金とプラチナの積み立てパンフレットか? サヴァイヴァル・ゲームのブランド銃か?」
天城が〝G&P〟の意味を捻りながら、紙束を見開くと、「G&P」の意味は、瞬く間に知れた。――『ガルガンテュアとパンタグリュエルの物語』と題された書物のコピーだった。主人公の名であるガルガンテュアとパンタグリュエルの名前が、開けた一枚目のあちこちに記されている。
『ガルガンテュアとパンタグリュエルの物語』は、ルネサンス期のフランス人作家フランソワ・ラブレーが著した物語だ。宗教的な権力者を風刺する内容のため、発禁処分を受けた曰く付きの書だ。
内容は、伝説上の巨人、ガルガンテュアとその子パンタグリュエルを巡る破天荒な物語である。しかし、文章は難解だが奔放、抱腹絶倒で卑猥にも拘らず、カトリック教会や修道院、更には清教徒批判までも含めて笑い飛ばしている。主人公たちの心躍る活躍には、一種の爽快感さえ覚えるほどだ。
天城は、数ページを読み流したが、富樫が喜んで読み耽ったとは、想像できなかった。ましてや、この書物の内容が胚や『旧約聖書』と関連があるとは、とうてい、思えない。むしろ、三者は、全くバラバラの印象だ。
しかし、富樫は、意図的にコピーを取っている。しかも、『G&P』は、どちらかというと〝キワモノ〟の類に属する内容だ。富樫の意志が大きく反映されているに違いない。
これらの特殊な品々の共通項を求めて、天城は、机に拡がる資料類を攻めようと思った。
資料は、先日まで富樫が調べ上げていた〝ロシアの北極海航路の実態と問題点〟を中心に集められた紙類だった。
ロシアや周辺国の港湾の発展具合や地球温暖化を顕著に現すグラフ、中国の北極海域での、軍事的・資源的目論見に関する論文、国連海洋法条約の英語文などが、クリア・ファイルに整理されていたり、ホッチキスで纏められている。
何行にも亘って蛍光ペンでチェックされている箇所もあるので、よほど読み込んでいたと分かる。特に、ロシアの不凍港ムルマンスクやかつての核実験場ノバヤゼムリャ、ノルウェーのスヴァールバル諸島に関する記述は、他よりも多い下線が引かれていた。
ところが、紙資料の一番下に、富樫の所有物の中で、一番不可解な雑誌が顔を露わした。
――『ミスター・ミステリー』
UFO(未確認飛行物体)やUMA(未確認生物)、心霊現象などの非科学的な事象を取り扱った、サブ・カルチャーの専門誌だ。先ほどの科学雑誌『ニュートン』とは正反対に位置する。
表紙には、〝万物を知る目〟のイラスト、ナスカの地上絵、六芒星に似たロゴ・マークなど、胡散臭い派手なものが盛り沢山だ。陰謀論を煽るコーナーや世界各地のUFO写真を集めた企画など、特定の熱狂ファンには垂涎の話題ばかりである。
天城は、雑誌自体を問答無用で斬り捨てようとした。だが、〝巨人は本当に実在するのか?〟という、陳腐で奇天烈な特集見出しが、手放そうとする思いを留まらせた。
天城がカラー特集のページを開けると、褪色した男の顔のアップ写真が、目に飛び込んできた。目が虚ろで薄気味悪い。
写真の脇には、特集のタイトル〝巨人は本当に実在するのか?〟の文字が、印象的な赤い目立つフォントを使って、縦組みで配置されている。写真の下には注釈で、〝十九世紀において、世界で一番背が高い男と言われた人物の写真〟と附されている。
ページを捲った見開きには、先ほどのアップ写真の全体写真が、でかでかと載っていた。また、どこかの二流雑誌で拾ってきたようなイラストや、怪しげな笑みを返す〝評論家〟とか〝研究者〟の写真が、満載だった。最初の見出しには、〝あなたが知らない巨人の秘密〟といった衝撃的な言葉もある。
読むうちに、先ほどのアップの男が、二十世紀初頭のロシアのチェチェンにいた巨人族の末裔で、身長が二メートルを超えていた、と記されている。
しかも、この男だけではなく、世界各地に今も巨人は密かに生きていて、数十年に一度くらいの割合で、発見されているとも告げる。
最近では、「中国の四川省で発見された巨人」と称する写真も載せられていた。ボロボロの服装に、痣だらけの皮膚、眼光だけが鋭く、見るからに妖しい雰囲気だ。
天城は、やはり眉唾物だと、一笑に付そうとした。しかし、次のページで見付けた、意外な『旧約聖書』の文字に、視線を止めた。
『旧約聖書』には、数多くの巨人種族が描かれており、それらの多くが、ノアの大洪水で滅んだ。中でも、約束の地カナンに棲んでいたとされる〝ネピリム〟という種族が著名だという。
他にも〝アナキム〟〝エミム〟〝ザムズミ〟など、『申命記』や『民数記』に記述が残る巨人が多くおり、ノアに方舟に跨る許可を得て、大洪水を唯一生き残った〝オグ〟と呼ばれた巨人も存在した。
更には、これこそ怪しげな言説ではあるが、一説によると、方舟を造ったノア本人も、実は善良な巨人だったと、信じられぬ記載もあった。ノアは九百五十年も生き、ノアの子孫はヨーロッパ中に広がって、各国王家の祖になったともいう。
ダヴィデに斃されたペリシテ人の兵士〝ゴリアテ〟も、身長が三メートルを超える巨人だった。小柄な羊飼いダヴィデが、投石具を使ってゴリアテの額を撃ち横倒しにすると、ゴリアテから剣を奪い、首を掻き切って勝利した……。
この時の模様を描いた絵画、カラヴァッジョの『ゴリアテの首を持つダヴィデ』を、天城は思い出した。ダヴィデの満足気な表情に対して、血を滴らせたゴリアテの無残で哀れな生首には、同情を禁じ得ない。
天城は、富樫の行動に、よもやと感じながらも、次から次へと文章を読んでいった。
巨人は、『旧約聖書』だけに止まらず、世界各地に足跡を残していると続く。有名なギリシア神話の他にも、北欧神話、インドや中国の神話、日本の伝承においても顔を出す。
ギリシア神話では、オリュンポスの神以前に覇を唱えた〝ティターン〟と呼ばれる神々や、五十の頭・百の手を持つとされる、えげつない姿の〝ヘカトンケイル〟、単眼の鍛冶屋の巨人〝キュクロプス〟、神々との戦で敗れ、世界の果てで天空を背負う羽目になった巨神〝アトラス〟など、登場は枚挙に暇もない。
北欧神話では、原初の巨人として〝ユミル〟が著名だ。インドの神話には〝プルシャ〟と呼ばれる、中国の神話には〝盤古〟と呼ばれる、世界の基となった巨人が登場する。日本の伝承にも、各地の山や湖を作ったとされる〝ダイダラボッチ〟が知られる。
ルーベンスやゴヤの作品に、『我が子を食らうサトゥルヌス』という衝撃的な絵画がある。我が子に殺される予言を受けた巨人サトゥルヌス(ギリシア神話におけるティターン族の長・クロノス)が、狂気に満ちた表情で凶行に及ぶ姿は、悪夢としか言いようがない。
巨人は、非人間的な強大さや恐怖性の象徴として、語り継がれている。時に大袈裟に、時に絶対的存在として、時に間の抜けた存在として、人間に対峙する役が与えられている。
天城は、ざっと文章を斜め読みしたが、どうにも、昔のお伽噺や作り話の類という印象を、拭い切れなかった。〝物語〟としては秀逸かも知れないが、〝現実〟として受け止められようはずもない。
実際には〝巨人〟という概念は、地域で最も力のあった王を、神格化するに当たって必要だったと、天城は考えた。だが、本当の巨人などは、存在するはずがないと信じている。
王の権力を誇張し偉大さを強調した結果、最もインパクトを与えられる、見た目の体格が大きくなったに過ぎない。もしくは、対抗馬として打ち負かされる存在は、より大きいほうが、強い王の偉大さに繋がるという考えに基づいているだけだ、と。
興味を徐々に失いつつ、天城がページを捲ろうとした時だった。次のページの間に挟まっていた何かが、ひらひらと落ちていった。
ひらひらの正体は、一枚の写真だった。やや彫りの深い、南方系の若い女性の笑顔が、こちらを見返していた。背後には、綺麗な円錐形をした山の雄姿が認められる。
黒髪は長く、大きな黒目が魅力的だ。少々上を向いた鼻が、美しさだけでなく、可愛らしさをも伝えている。齢の頃は二十代半ばに見える。東南アジア系か。
この女性の写真が『ミスター・ミステリー』に挟まっていた理由は、何だろう? 単なる栞ではない。富樫が何の理由もなく、挟み込むわけもない。富樫にとって、特別な人物なのだろうか?
写真が挟まっていたページには、何が書かれていたのだろう?
天城が覗いた次のページには、衝撃的な写真の数々が掲載されていた。一見、どこかの国の恐竜の化石とか土器類の発掘現場にしか見えない写真だった。
ところが、発掘の対象は、どの写真も人骨だった。雑誌の趣旨からいって、殺人事件の検証ではないから、ネアンデルタール人や北京原人と同様な、古生人類の発掘と分かる。説明には、サウジアラビアやブルガリア、アメリカやジョージアなどの発掘現場だとある。
しかし、発掘人夫の大きさと比べて、縮尺が違い過ぎた。地層の中から半ば出ている頭蓋骨は、桁外れた大きさだった。人夫の上半身ほどの規模がある。
刷毛で土を取り除いている写真には、人の拳と同じくらいの大きさの前歯が映る。背競べをして横たわる男性の隣には、大腿骨だけで肩ほどまでの長大なものが映っている。
また、別の写真には、猫車に載せられていく発掘品の一つが、人のものを大きく凌ぐ頭蓋骨だったり、土砂崩れの中から現れた人骨が、明らかに横の杉の大木に匹敵する大きさだったりと、常識を超えたものばかりだ。
天城は、ゴリアテの生首やサトゥルヌスの狂気とダブる感覚が沸き、どこか恐ろしさを感じずにはいられなかった。
まさに、これらは、所謂〝オーパーツ(場違いな工芸品もしくは発掘物)〟と言えるものかも知れない。つまり、それらが発見された場所や時代とは全くそぐわないと考えられる出土品だ。発掘された人骨が、現生人類のものよりも格段に巨大で、存在し得ない遺物と考えられる。
雑誌としては、巨人の傍証の品と言いたいのだろう。だが、どの発掘写真も、背筋がぞくっとする感覚はあるものの、全体的に馴染めずに違和感がある。
どうせ紛い物、パソコンで修正したニセモノ写真だ。これらは、悪意を持った捏造物であり、作成者の意図は、ニセモノを売り込んで金を得る卑怯者か、騒動を引き起こして悦に入る愚かしい愉快犯かだ。ただ、世の中には、捏造写真の国際コンテストもあるというから、そんな冗談紛いの、ふざけた出品作かも知れないが。
写真の女性は、ニセモノ写真を作るプロなのか、雑誌社に売り込んだ人物なのか? はたまた、これらの奇妙な写真を、目の前でカメラに実際に収めた当人なのだろうか?
ともかく、富樫が目を通していた『旧約聖書』やラブレーの著作と、このマニアックな雑誌の共通項は、〝巨人〟だと思われる。
問題は、冷静で科学的思考の持ち主の富樫が、なぜ、巨人についての資料を、これほど収集していたか、だった。
天城は、部屋を一見渡ししてから、最後の牙城と思われるパソコンに向き合おうとした。
パソコンならば、富樫が検索して調べた内容が、時系列で分かる。より具体的に、富樫が何を求めていたかが、判明するはずだ。
天城は、謎の女性の写真を凝視しつつ、パソコンの電源を入れた。
3
富樫がお気に入りの山形の銘酒「十四代」から採ってパスワードにしたと、天城は、以前に教えてもらっていた。〝juuyonndai〟とパスワードを入力して、接続を完了させてから画面を開くと、富樫のパソコンには、多くの検索結果が残されていた。
話題の時事ニュースや趣味のモーター・スポーツの特集、酒の売れ筋情報を除くと、凡その直近の傾向が分かってきた。
まず、巨人に関する情報があった。ウィキペディアなどの情報サイトや、過去に投稿されたキワモノ・ニュースを、よく調べていた。
アメリカ各地からの、三メートルを超える骸骨やミイラの情報、南アフリカでの巨人の足跡や南米の巨人の頭蓋骨発見の画像、また、オーストラリアの学者の巨人族に関する論文も、富樫は、何度も何度も繰り返して見ていた。
嘘か本当かは分からぬが、太古の地球は、酸素や水蒸気の濃度が高かったり、地球の自転速度が速かったために重力が軽く、生物は現代よりも巨大だった、という仮説なども、富樫は、時間を掛けて読み込んでいた。
あるいは、富樫は、先ほどの『旧約聖書』やラブレーの著作の他にも、古代オリエントの神話や古代インドの叙事詩『リグ・ベーダ』、エチオピア教会の正典『ヨベル書』や『エノク書』など、巨人の記述のある書籍にも、しっかりと目を通していた。
特に、ノアに関しての記述には、かなりの時間を割いていた。つまり、ノアの『旧約聖書』における役割やノアと方舟の真実、方舟が辿り着いたとされるアララト山の現状や、アララト山近辺のコーカサス山脈についてなどを、具に捉えていた。
ある休日の履歴を確認すると、ほぼ丸一日を掛けて、ずっとパソコンの前に座りっ放しで、データを閲覧していた。
巨人以外に目立った情報としては、ある一人の科学者に関するデータを、執拗に検索していた痕跡があった。
科学者の名は、ロバート・マクラウド。古生態学や微古生物学の第一人者と言われたイギリス人だったが、二ヶ月前に死亡している。
古生態学は、恐竜などの古生物の生活と環境の関係を調べる学問。微古生物学は、太古の地層中の微小な化石(花粉や胞子といった、顕微鏡を使うほどの大きさ)の構造・生態などを研究する学問だ。
いきなり現れ出た科学者に、天城は非常に興味をそそられた。富樫の奇妙な行動の元凶と考えていいのではないか。
天城は、富樫が探っていたロバート・マクラウドという科学者の素性を無性に知りたくなった。例えば、実際に巨人の発掘に携わっていたか、二ヶ月前、何故、どこで死んだのか、などなどだ。
それらの回答は、富樫が実際に探り当てた可能性が高い。その結果として、休みを取得して、マクラウドの痕跡を探しに行ったとは、考えられまいか?
天城は、溢れ来る興味を抑え切れずに、まずは、富樫の残したマクラウドの次の情報をクリックした。
富樫がマクラウドについて検索していた情報は、イギリスの通信社のデジタル・ニュースで配信されたものだった。二ヶ月ほど前の英字の記事で、誇らしい顔でこちらを見つめる白髪交じりの男性の写真が附されている。
『古生物学の権威 発掘現場で事故死』
トルコ観光文化省によると、去る六月二十七日、トルコ東部のアララト山麓で岩盤崩落事故が発生し、多くの死者が出たと発表した。崩落事故は、恐竜化石の発掘現場で起こり、発掘に携わっていたイギリスの古生態学・微古生物学の第一人者であるロバート・マクラウド博士ら、ロシアとの合同発掘チームのうち四十八人が犠牲になったという。
現場近くでは、五年前の冬にも、同様の岩盤崩落による雪崩の事故が発生しており、元々地盤の緩い土地だとされているため、同省は、現場の安全性が充分に採られていなかった可能性もあると見て、調査チームを立ち上げていた。このたび、発掘現場の堅穴の中から複数の遺体を発見し、博士らのDNAと一致したため、発表に踏み切った。
記事を読んだ天城は、まず、三つの単語に、ピンと来た。〝古生物学〟〝アララト山〟〝恐竜化石〟だ。ここまで、富樫の部屋を物色してきた結果と結び付く言葉だった。
マクラウドの研究と、富樫の閲覧していた〝胚〟とは、結び付きがないように思われた。だが、むしろ、古代に〝巨人〟が生存していた可能性をマクラウドが探っていたとは、考えられまいか。
〝古生物学〟の語は、かつて巨人が存在した点を暗示できるし、〝アララト山〟についても、ノアの方舟の逸話とも濃密な接点があると考えられる。
それらの考え方が正しいとすれば、残りの〝恐竜化石〟が、どうしても意味深な言葉として浮かび上がってくる。陰謀論に基づけば、巨人を〝恐竜〟と書き替えて発表したとも捉えられる。
もっと穿った見方をすれば、岩盤崩落事故自体も、疑い深く見えてくる。少なくとも、富樫がマクラウドの事故死について疑義を持った可能性は、決して低くはない。
天城は、マクラウドの二つ目の情報を、CPU画面に映し出した。
先ほどの崩落事故の数日後の記事が載っていた。しかし、そこには一向に事故究明の進展がないと書かれ、代わりに、マクラウドの生い立ちや言動、周囲の者たちの遺憾の辞などが集められていた。
マクラウドがスコットランドの出身で、エディンバラ大学を首席で卒業した偉才であったとか、招聘されたロンドン大学でも優秀で、教授の娘と結婚し、子供たちも優秀な研究者や官僚になったなど、華々しい経歴で埋め尽くされていた。
同僚の話によれば、今回のトルコでの発掘作業で成功を収められたなら、爵位も与えられただろうという。亡くなったとはいえ、マクラウドの今までの業績には目を瞠るものがあり、大学を挙げて、爵位の追贈を推薦していくとも述べられていた。
記事には、マクラウドの素晴らしい業績も列挙されていた。微化石による恐竜死滅後の環境再構築の研究、古微生物が諸環境に与えた影響についての研究、微化石を用いた効率的な石油探査方法の開発など、画期的な成果がいくつも連なっている。
先ほどの写真の女性が、マクラウドの妻か娘かも知れないという仮説や、背後の山がアララト山である可能性を封じて、天城は、先を続けた。
数年前のマクラウドの言葉として、次の言葉も引用されていた。
「最近は、神話や伝説の中の夢のような物語に、科学的なアプローチを進める研究が盛んである。『旧約聖書』も、例外ではない。〝エデンの園〟の場所を特定するに当たって、環境考古学を活用するとか、神に滅ぼされた〝ソドムとゴモラ〟の町や「出エジプト」の〝割れる海〟が、隕石や彗星の軌道の割り出しなどで解明される時が、来るかも知れない」
また、マクラウドは別の項目でも断言している。
「例えば、〝バベルの塔〟や〝ノアの方舟〟の実存性を、地道な発掘作業だけでなく、最新のコンピュータ技術によって割り出す日も、そう遠くはないと言えよう」と――。
天城は、全ての文脈、あちこちの一語一句が、意味深な言葉に思えて、身を竦めた。
それにしても、富樫がマクラウドについて調べようと思った動機や契機が、天城には分からなかった。
優秀な学者とはいえ、なぜ富樫が異国の人間を知り得たのか? マクラウドの巨人研究の情報が、耳に届いたからなのか。逆に、直接的に面識があったとは、考えられまいか?
一方で、著名な学者が、巨人の研究などという特殊な分野に及ぶとは、容易には考えられなかった。巨人の研究が、現在の研究の副産物として始まったとしても。叙勲者やノーベル賞受賞者が突如、UFOの研究を始めるようなものだ。変節もしくは狂愚と非難されても致し方ない。
それ以上に、天城が強烈に興味を抱いた点が、マクラウドのチームが発掘をしていた場所に、富樫が異常に拘っていたところだ。
天城は、富樫がアララト山周辺の地質や五年前にも発生した雪崩の事故、マクラウドたちと共同発掘を組んでいたロシアのチームの内容までを確認していた点が気になった。それだけでなく、範囲を広げてコーカサス山脈の地理・行政にまで調査の手を伸ばしていた点にも、非常な違和感を覚えた。
特に、ノアの方舟に関する情報を念入りに蒐集していたと捉えられる行為は、『旧約聖書』のエピソード内容からいっても、興味深い。
マクラウドと共同発掘を行っていたロシアのチームは、記事によれば、サンクトペテルブルクの研究施設を拠点に活躍する、ヴァシリー・ストロエフという考古生物学者に率いられていた。こちらも、ロシアでも注目される、一流学者だ。
しかも、ストロエフは、前回の雪崩事故の際にも、発掘チームを率いていた。今回の発掘に懸ける思いは、相当に強かっただろう。
別の記事では、ストロエフもマクラウドと同様に、落盤事故で命を落とした、とあるから、リベンジどころか、返り討ちに遭った恰好となる。
トルコ領内のアララト山麓で行っていた発掘の内容については、トルコ政府に確認を取っても、記事以上の発見はないだろう。
もしも恐竜の化石ではなく、〝巨人の遺物〟が本当に発見されていたとすれば、政府として面倒な事態を避けるためにも、無難な回答しかできないと予測できる。
そんな地域には、厳戒態勢が敷かれると思われる。そこへ、富樫は、のこのこと向かったのか? 招かれざる客に対しては、政府が強硬手段に訴えたとしても、不思議はない。
ましてや、トルコ東部は、クルド武装組織の勢力範囲だとも聞く。富樫が現地の争いに巻き込まれたのなら、今も監禁されて厳しい責めを受けているとも考えられる。だとすれば、無断欠勤の理由にはなる。
しかし、天城は、賢明な富樫がそんな愚かな行動を自ら進んで冒すとは、思えなかった。否、思いたくはなかった。
富樫は、相棒の天城に対しても、奇妙な事件を追っている素振りすら見せなかった。喜怒哀楽を露わにしたり、悩んでいる様子さえも、全く感じさせなかった。
だからこそ、富樫には、何がしかの深慮遠謀があったと信じている。それが、ただ無謀な計画でなければいいと、願うばかりだ。
この部屋の中に、富樫が赴いた場所のヒントは、ないだろうか?
まずは、航空券や宿泊の手配を、パソコンから行っていないかの確認である。パソコンから手配したのであれば、一目瞭然、手配先に確認を取って、富樫の最近の状況を窺い知れよう。
しかし、残念ながら、航空券や宿泊の手配は、手許の携帯電話などから予約を入れたらしい。パソコンには一切の痕跡はなかった。
それでも、航空会社や宿泊先からの確認メールは、届いている可能性があった。早速、メール画面を開けてみる。
天城は、富樫宛に来たメールの中で、出発日当日の八月十八日の夜に届いたメールの一つに目を止めた。
送信元は、アドレスに〝Hotel Elegantia Macau〟とあるので、マカオのホテルから入ったものだと想像できた。
ただ、一見するとトルコとは関係なさそうな場所だという点と、到着直後くらいのメールだという点に疑問を抱きながら、富樫の滞在先だと信じて、天城はクリックした。
すると、画面には予想に反して、奇妙な日本語が連ねてあった。
圭太、決して、俺を探すんじゃないぞ 富樫
文言を目で追って、天城は、仰天した。てっきり、マカオのホテルからの富樫へのメールだと思ってばかりいたが、天城自身への警告だったとは。
確実な点は、八月十八日に〝富樫と名乗る人物〟が、マカオのホテルから日本語で富樫のパソコンに、天城宛のメールを送信した事実だけだ。
だが、客観的に考えれば、富樫本人が自分のパソコンにメッセージを送ったと考えていい。富樫のメールアドレスや天城の存在を、赤の他人が知る由もない。
それでは、どうして富樫は、天城が自分のパソコンの中を覗き込むと予見していたのか? 富樫は、どのような状況を想定して、妙なメールを自身のパソコンに送ったのか?
富樫は、パスワードを知る相棒の天城が、自宅のパソコンを調べると見越していた。つまり、富樫自らが欠勤した結果、自宅に天城がやって来るとまで踏んでおり、自分の身が欠勤しなければならないほどの事態になっていると予測していた……。
しかも、〝俺を探すな〟と奇妙なメッセージを送ってくるとは。これは、天城に〝俺を探せ〟という逆の意味の伝言にも、思える。
天城は乱れる感情を抑え、そのまま富樫のパソコンで、〝Hotel Elegantia Macau〟を検索してみた。
《ホテル・エレガンティア・マカオ》は、全世界に展開する高級リゾート系ホテルの一つで、マカオのコタイ地区にある。
ホテルのホームページによれば、豪華さや派手さでは周辺のホテルに勝るとも劣らないとある。それに、床面積が地区のトップクラスを誇るカジノが、人気のホテルだとも。
ここで天城は、ホテルにどうにか連絡を取って、富樫の滞在を確認しようかと思った。しかし、優良な高級ホテルが個人情報を容易に教えるとは思えない。
しかも、万が一、富樫が何らかの事件に巻き込まれているのなら、より危険を深める行為となる。天城は、今のところ、連絡を諦めざるを得なかった。
その後も、天城がパソコンの中身を、時間を掛けて調べた結果、他に目ぼしい物証は現れなかった。
ただ、部屋の隅々まで探索を拡げたところ、廃品回収用の古新聞の束の中から、《中野グローバル社》という旅行会社の判が押された旅行パンフレットが見付かった。〝中国 香港・澳門〟のパンフレットだった。
これは、少なくとも富樫が、マカオに興味を示していたと、考えられる証左だ。
念のため、マカオのページを捲ってみる。すると、マカオの風景写真の余白に、下線を伴って殴り書きされた、〝ノアークのアロヤン〟という文字を発見した。文字は、完全に富樫の筆跡であり、天城の思考は沸騰した。
マカオのページに富樫が強調して書き留めた、聞き覚えのない言葉〝ノアークのアロヤン〟とは、いったい何なのだろう?
マカオで訪ねるべき場所や人物なのか、古文書に記載のあるキーワードなのか、それとも単に、マカオでの現地ガイドの名前なのか? はたまた、巨人の真実を知る者の名前なのか? 富樫がパンフレットの余白に書き込んだ実際の理由も、分からない。
では、この場合、天城が次に採る手段は、何がベストだろうか?
まだ確実な事件が発生したとは断定できない現段階では、迂闊に動かないほうが賢明だ。ここは、富樫の生き抜くセンスを信じて、まずは、外堀を埋めていこうと思った。
マクラウドやストロエフについての、より詳細な情報を収集して整理する必要もある。アララト山の発掘現場で実際には何が掘られていたのかにも興味は湧く。また、巨人の伝承を突き詰めてみるのも、いいだろう。
それから、パンフレットの裏面に捺されている中野の旅行代理店も、訪ねておきたい。図書館に行って、例の新聞の切り抜きの内容確認も忘れてはならない。
天城は、部屋の主の異常な存念を感じないかと、雑然とした富樫の部屋をもう一度、見渡した。
しかし、何も、感じ得られなかったばかりか、不安の雲が、一層大きくなった気がした。謎を孕んで混沌とする姿を垣間見せながら。
4
複雑に絡み合う思いを胸に、天城は、富樫の部屋を出た。階段を下りてアパートを退去しようとした時、背後から遠慮がちに声が掛けられた。
振り返ると、一階の住人がドアの隙間から、天城を覗いていた。派手なワンピースを着た、小太りの中年女だった。不審に思いつつも、足を止めて近付いてみる。
女は周囲を気にしながら、恐ろしいものを見るような目で、天城を見詰めている。
「富樫さんの件なんでしょ?」
自分の部屋の中で、天城が富樫の部屋に入ったのを確認していたようだ。最近の富樫について怪しい情報でもあると言いたげな表情に、天城は、興味を覚えた。
「そうですけど、何か?」
もしかしたら、女は、天城を警察関係者だと勘違いしているのかも知れない。天城は、テレビなどで見る刑事を思い出して、ちょっと横柄な口調をマネしてみた。
「富樫さんについて、何かご存知なら、承っておきますけど……」
途端に女は、目を輝かせ、口を滑らかにさせた。
「実は、先週ね、富樫さんの部屋を覗き込む男が何人か、いたんですよ。確か、十六日だったわ」
天城は、意外な証言に戸惑った。十六日と言えば、富樫が数日前に北極海航路の取材から戻ったタイミングだ。バディの天城にも告げられないトラブルを、取材先から抱え込んできたのだろうか?
天城は、どんな男たちだったのか、先を促した。
「まさかとは思うけど、皆、彫りが深くて顎鬚を蓄えた外国人だったもんだから、中東の怪しい連中かと思ってね。ほら、富樫さんって、そっちのほうにも取材に行くでしょ?」
確かに、富樫は、中東方面にも取材をしていた過去がある。富樫の仕事の舞台は全世界であり、紛争地や問題発生地があれば、自分の目や肌で確かめるのが常だ。
天城の思考が、戻ってきて以降の富樫の行動や発言を追い始めた。さり気ない一言の中に、悩みや苛立ちが紛れ込んでいなかったかを、確かめようとする。
「……それからね、富樫さんの部屋に女性がやって来てね。えらい別嬪さんだったもんで、覚えているのよ」
続けた女の言葉に、天城の思考は引き戻された。
「それは、いつ頃ですか?」
「次の日の、八月十七日だったかしらね。女性が訪ねてきた次の日くらいから、また富樫さん、いなくなっちゃったから、ちょっと心配しているのよ。取材の打ち合わせだったらいいんだけどね……」
翌日の八月十八日に、富樫は、休暇を取って〝バカンス〟に出掛けた。本当に打ち合わせなら、相方の天城も交えて行うはずだ。翌日からの〝バカンス〟を考慮に入れると、その女性と共に出掛けた可能性は高い。
独り身の富樫が女性と何をしようと構わないし、驚かない。だが、顎鬚の連中の行動が事実なら、部屋の不可思議な痕跡との兼ね合いも含めて、無視するわけにはいかない。
「何か、特徴のある女性でしたか?」
「……そうねえ、ちょっと日本人には見えなかったわね。黒髪で、目がくりっとしてたかしら」
天城は、女の言う特徴にピンと来た。『ミスター・ミステリー』に挟まっていた写真の女性と、特徴が一致していた。すかさず、入手した写真を取り出して、女に見せる。長い黒髪に、大きな黒目。少し上を向いた鼻が魅力的な二十代前半の女性だ。
だが、女の反応は、今一つだった。
「そうねえ……。でも、こんな感じじゃなかったような……。もっと艶のあるっていうか、魅惑的な感じだったかしらね」
天城は、女の証言に、富樫への不安を増大させた。
彫りの深い男たちは、富樫が取材で面倒を起こした因縁の相手で、富樫に復讐するためにやって来たのだろうか? それとも、富樫の注目した巨人との関係で現れたのか?
また、〝ノアークのアロヤン〟と関係のある連中なのだろうか? 富樫を訪れた魅惑的な女性とは、いったい誰なのか?
富樫は、触れてはならない禁忌に関わり、危ない人々の関心を得たとしたら。富樫が危険を察知して、日本を脱出したと考えてもおかしくはない。
それでも、天城は、背筋を這う悪寒を振り払って、次に進もうとした。中年女に礼を言って、富樫のアパートを出る。出た足で、まずは、例の新聞の切り抜きを追って、最寄りの中野区中央図書館へと向かう。
中央図書館は、中野駅近くの、もみじ山通り沿いにある。蔵書数五十万冊を超える、落ち着いたベージュ色の四階建ての、近代的な建物だった。
《東京大朝新聞》の縮刷版を借り出して閲覧席に座る。昨年の五月二十日の日付を探してから、期待感を胸に、机に大きく広げた。携帯電話で撮った写真と見比べながら国際欄の下方に目を向け、小さな記事を探す。すると、切り抜きと同じ面積の記事は、すぐに見付けられた。
『アララト山麓で先史人類の骨格発見か?』
五月十九日、トルコ観光文化省は、トルコ東部のアララト山麓で、先史人類のものと考えられる化石が発見されたと発表した。現在、発掘現場は〝サイトB〟と名付けられて詳しい調査を継続中だが、発掘に携わったイギリスとロシアの共同発掘チームは、ネアンデルタール人の亜種の可能性もあると見て、慎重に調査を進めている。もし、本当に先史人類の遺物が発見されたとなれば、人類史的にも大きな発見になると、関係者は、期待に胸を大きく膨らませている。
天城には、あまり目新しい情報でないために、全く気落ちした。調査を慎重に進める発掘チームや、期待に胸を膨らませている関係者が、マクラウドやストロエフだ。
ただ、イギリスの通信社のデジタル・ニュースの〝恐竜化石〟との異同が、興味深い。むしろ、こちらの情報のほうが、より真実を語っている気がした。
また、今回の発掘現場が〝サイトB〟と名付けられた点からは、〝サイトA〟の存在も暗示される。つまり、ストロエフが五年前に携わり、雪崩で全滅した過去の近傍の発掘現場が〝サイトA〟だと。
〝サイトB〟に関する続きの記事は、縮刷版には掲載がなかった。恐らく、次の情報としては、今年の六月二十七日の落盤事故だろう。
ところが、縮刷版に至っては、その記事も現れない。先史人類の化石発見の報だったならば、扱いは変わっていたかも知れないが。
天城は次に、旅行パンフレット裏面に押印された中野駅前の旅行代理店に行こうとした。パンフレットに〝ノアークのアロヤン〟と書き込まれていた事実は、見逃し難い。
携帯で調べてみると、《中野グローバル社》は、中野駅北口すぐの、雑居ビルの一階にあった。国内・海外の各種ツアーを扱う、地元密着型の中堅旅行代理店らしい。中央図書館からは十分ほどの距離だ。
自動ドアを潜ると、「いらっしゃいませ!」と元気な声が上がった。掛け声を無視して辺りを見渡す。壁一面に、各社の旅行パンフレットが、国内と海外に分かれて、所狭しと並ぶ。幸か不幸か、天城以外の来店客は、いなかった。
ふらりと立ち寄った態を装い、アジア方面のパンフレット棚の前へ歩を進める。そのまま、富樫が入手したのと同じ、〝中国 香港・澳門〟のパンフレットを手に取った。
マカオのホテルからのメールや〝ノアークのアロヤン〟と記されたマカオのパンフレットから、富樫の向かった先がマカオなのは、疑いがない。問題は、マカオで何が起こっているか、だ。そこで、富樫は、何に巻き込まれたのだろう? そこには、例の艶ある魅惑的な女性が、どんな形で絡んでいるのだろうか?
マカオのページを探していると、近付いてきた女性店員が、明るく声を掛けた。髪の短い三十前後で、店の制服を身に着けている。
「中国旅行をお探しですか?」
この際、この店で探れるものは探っておこうと、天城は、「マカオに行きたいんですけど」と、店員に向き合った。
「マカオですね。最近、人気なんですよね」
店員は、いくつかのパンフレットを手に取ると、愛想よく天城をカウンター席に誘った。席に着くと、出発予定日や滞在日数などを矢継ぎ早に訊ねられた。適当に答えてから、話の端を掴もうと訊き返す。
「最近は人気みたいですけど、皆さん、何か特別なお目当てでも、あるんですか?」
「もちろん、世界遺産がマカオ半島集中していますから、一目でも見ようと計画される人たちが多いんですよ。特に、中国本土からはね」
最近のニュースとして、マカオの主要観光地は、混み過ぎだと批判が出ているらしい。所謂、オーバー・ツーリズムの問題だ。そもそも狭いマカオの土地に、群れを成して中国本土を中心とした観光客が、ハゲタカのように押し寄せていると聞く。
メインの世界遺産観光に加え、夜のカジノでも金を落とさせようとする計略が、本土の中国人の需要と、想像以上に一致した結果だ。
「それと、大規模な国際大会の開催が多くなりましたからねえ」
店員によると、マカオ政府の戦略からか、外貨を一気に稼げる国際会議や国際競技大会が、多く開かれるようになったという。
最近では、国際環境フォーラムや、世界電気電子学会、アジアの陸上選手権や、eスポーツの国際大会などといった幅広い分野の大会が、激増の傾向らしい。
「もうすぐ、国際短水路選手権があるみたいですよ」
店員は、手許のコンピュータを操作して、天城のマカオ旅行を受注させようと懸命だった。だが天城は、富樫が水泳大会を見学しに、わざわざマカオまで行かないと、確信を持っていた。
あまり、油を売っている時間もなかったので、天城は、富樫に関する情報を、店員から聞き出す方針に転換した。
「実は、友人が既にマカオに出掛けているんですよ。向こうでいきなり会って、驚かせてやろうと思ってるんです。友人がこちらでチケットを購入したかも知れないので、今日、お伺いしたんです」
店員は、具体的な話が進み始めたと、身を乗り出してきた。
「ご友人は、いつ、マカオに?」
「先週の十八日です。予定では、今月いっぱいだと聞いてます。富樫三郎って人で、《ホテル・エレガンティア・マカオ》に滞在してるはずですが」
女性店員は、すぐに腑に落ちた顔付きになり、笑みを返した。
「富樫様なら、うちでマカオまでのオープン・チケットだけを購入されましたよ」
〝チケットだけ〟という言葉に、天城は戸惑った。しかも、復路の日程が決まっていなくても購入できるオープン・チケットと聞いて、昏い気持ちになった。
富樫は、帰りの便を特定できないほどの、複雑な事件に関わったのか……?。
それに、通常なら、便利な香港行きのチケットを買って、フェリーか直通バスでマカオに向かうルートを採るはずだ。しかし、直行便でマカオに入ったからには、裏があると考えていい。
更に、〝ノアークのアロヤン〟の書き込みについても訊いてみよう。もしかしたら、現地ガイドの所属と名前だと信じて。
「向こうでガイドは、手配しませんでしたか?」
「うちでは、航空チケット二枚だけですね。私が対応したので、間違いありません。チケットを購入したら、これからすぐ空港に行くと仰ってましたし」
店員は、コンピュータの申込記録を確認した上で、慇懃な笑みを重ねた。
ガイドだけを富樫が自身で頼むわけもない。これで、〝ノアークのアロヤン〟が現地ガイドだという仮説は、崩れ去った。
それでは、〝ノアークのアロヤン〟が、富樫がマクラウドの研究を知り得た切っ掛けの人物なのか、巨人の偽造写真を持ち込んだ下郎か、それとも、あの写真の女性の名前なのか。今の天城には、全く測りようがなくなった。
ただ、チケットは、二枚購入していたから、例の女性と二人分だ。ここで、女性の名前まで訊ねても、これ以上は守秘義務だとか言って、教えてくれるとは思えない。
ともかく、天城は、マカオに向かう必要性を強く感じた。富樫は、確実に危ない事件に巻き込まれたと思われた。例の魅惑的な女性に助けを求められて、性格上、断り切れなかったのかも知れない。
急がなければ、富樫と再び相見えられなくなるような、嫌な予感がする。天城自身に何ができるかと問われれば、即答できない。
しかし、もう、猶予はない気がした。〝巨人〟や〝有名化学者の死〟という文言、それに天城への不可思議メールや髭面の男たちの存在が、天城の心を急かしていた。
天城は、「妻にもう一度、相談する」と誤魔化して席を立った。心の中の不安の雲が嵐を呼んで、居ても立ってもいられなくなった。
すぐにでもデスクに戻って、上司に休暇の申請を上げねばならない。許可は、すぐにでも下りると楽観していた。
ここまでの真実を正直に述べ立てる愚は冒さない。バディの特権で、富樫が取材の延長で天城を必要としているとでも説けば、富樫の休暇の追加も含めて、許可されるはずだ。
《中野グローバル社》を出た天城は、とにかく、前だけを見るようにして、後ろ向きな考えを封じた。どんな苦労と苦痛が待ち受けていようと、富樫を救い、無事に帰国しようと心に決めた。
天城の好奇心と富樫を救おうという気持ちだけが、天城を駆り立てていた。かつて天城をパパラッチの身から救ってくれた富樫を、今度は自分が救う番だと、意気込んで已まなかった。
②へ続く




