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教室の窓が小さく鳴る。風だ。夏にはまだ少し早い湿り気の少ない風が校舎を通り抜け窓枠をかすかに揺らしただけだった。
澪は視線を旧校舎から外す。
白く塗られた壁。廊下を行き交う制服。昇降口から聞こえる運動靴の擦れる音。どれもいつもと変わらない。
「朝霧」
背中を軽く叩かれ、肩が少しだけ揺れ、陽斗は問うてくる。
「何見てた?」
澪はもう一度だけ旧校舎へ目を向けそれから首を横に振る。
「別に」
「嘘だー」
「どうして?」
「今の顔なんかいつもの感じじゃあないような」
「どんな顔よ」
「なんつーか、ぼーっとしてた?的な?」
言われてみれば、そうだったのかもしれない。自分でも何を見ていたのか説明できない。
——ただ、目を離したくなかった。
そんな感覚だけが残っている。
「ま!行こうぜ」
陽斗は何も気にしていない様子で歩き始め、澪もその後を追った。
廊下には朝日が斜めに差し込み床へ長い光の帯を作っている。床はまだ少し冷たく、上履き越しにも朝の空気が伝わってくる。
二年二組の教室は階段を上がってすぐだった。扉は開け放たれ窓も全部開いている。教室へ入る、とまだ半分ほどしか席は埋まっていなかった。窓際では新聞を読んでいる男子がいて、その隣では二人の女子が昨日放送されたドラマの話で笑っている。
教室の後ろでは誰かが机を寄せてトランプを始めようとしていた。陽斗は笑いながら、
「朝からやるなよ」
「先生来るまでだから」
「絶対片付ける気ないだろ」
そんなやり取りに教室のあちこちから笑い声が混じる。澪は自分の席へ鞄を置き、椅子を引いた。
窓際、一番後ろ。ここからは校庭とその向こうの海が少しだけ見える。椅子へ腰を下ろすと机の表面へ指先を滑らせてみる。細かな傷がいくつもあり、前の学年の誰かが付けたものなのか自分たちが一年かけて増やしたものなのかは分からない。けれど、それもこの教室の時間だった。
「おはよう」
柔らかな声がして顔を上げる。と、優しい微笑みを浮かべながら紬が教室へ入ってくる。肩から提げた黒い楽器ケースが歩くたびに制服へ触れ小さく音を立てる。
「朝練?」
「うん」
短く笑ってから、少しだけ肩を落とした。
「今日は全然吹けなかった。」
「珍しいね」
「自分でもそう思う」
そう言って笑うがその笑顔はどこか落ち着かないように見えた。
「——音がね」
紬は窓の外を見たまま、小さく続ける。
「なんだか今日はちゃんと返ってこなかった気がするの」
澪は聞き返そうとした、その瞬間、始業を知らせる予鈴が校舎いっぱいに鳴り響く。教室の空気が一斉に動き出し、廊下を走っていた足音が止まり、誰かが慌てて席へ戻る。担任が来る。いつも通りの朝が始まる。
それでも澪は紬が最後にこぼした一言だけが胸に残っていた。
「音が、返ってこなかった、か」




