第一章 夕暮れは音になる
蝉の声は、不思議と去年より少しだけ遠く聞こえた気がした。夏が始まったばかりだというのに町はもう季節の終わりを知っているようだった。
坂道の途中で、自転車のペダルを止めてみる。潮の匂いを含んだ風が頬を撫で制服の裾を揺らしていく。視界の先には朝日に照らされた海が静かにキラキラと光っている。
——なぜだろうな。
毎日見ている景色なのに今日だけ少し違って見える。そんな日は決まって——何かが起きる。理由なんてない。ただ、昔からそうだった。
「朝霧ー!遅れるぞー!」
後ろから聞こえた声に振り返る。と、陽斗が立ち漕ぎのまま坂を駆け上がってくる。ネクタイは少し曲がり鞄の口は半分開いたまま、その姿は朝の光によく似合っていた。
「また寝坊?」
「またってなんだよ」
「昨日もその前も」
「覚えてない」
「都合いいね」
笑い声が風に溶け、踏切が鳴り、遮断機が降りる。電車がゆっくりと町を横切り窓ガラスに朝日が流れた。
「もうすぐ夏祭りだな」
澪は返事の代わりに電車の最後尾を見送る。
「——そうだね」
それだけで会話は終わるけれど、終わっても気まずくならないのは長い付き合いだからだろう。学校へ着くと昇降口には朝練帰りの吹奏楽部の音が漏れている。
誰かが音を外し、誰かが笑う。そんな何気ない朝の景色がこの町にはよく似合う。澪は靴を履き替えながら校舎の窓越しに旧校舎へ目を向ける。
夏草に囲まれた木造校舎は新しい校舎とは違う時間を生きているようだった。
——ふと風が吹く。
誰もいないはずの二階の窓で白いカーテンがゆっくりと揺れた。その瞬間だけ吹奏楽部の音が遠くなった気がした。澪は目を細め、
『今日だけ少し違って見える』
その感覚は、まだ言葉にならなかった。




