プロローグ
夕暮れは一日の終わりではない。
少なくとも、この町では。
昼の熱を残したアスファルトはまだ白く光り、潮風は海の匂いを運びながら坂道をゆっくりと上ってくる。遠くで鳴くヒグラシの声は、夏が終わることを惜しむように長く響きその余韻だけが町に残っていた。
誰もが家路を急ぐ時間。
世界が昼から夜へ静かに溶けていく、そのわずかな隙間。
この町には不思議な音が聴こえる。
いつからそう呼ばれていたのかは誰も知らない。
大人は笑って昔話だと言う。
子どもは怖い話として囁き合う。
けれど、その音を本当に聴いた人は決して誰にも語ろうとしない。
たった一音。
透き通るようなピアノの音。
それだけで十分。
胸の奥に沈んでいた記憶が水面へ浮かび上がるように揺れ始める。
——逢いたい人がいる。
——もう一度だけ声を聞きたい人がいる。
そんな願いを、音は知っているかのようだ。
少女は夕日に染まる旧音楽室の窓辺に立っていた。開け放たれた窓から吹く風が黒く長い髪をそっと揺らす。
その横顔はどこか寂しそうでそれでいて誰かを待ち続けているようにも見えた。
「今年も、来なかったね」
小さく零れた言葉は風にさらわれる。少女は静かにピアノへ歩み寄ると、一つの鍵盤に指を置いた。
——トーン。
世界が息を止めた。
遠くで飛んでいた鳥が羽ばたきをやめたような錯覚。
波の音さえほんの一瞬だけ遠ざかった気がした。
少女は目を閉じ、微かに笑う。
「——でも」
その笑顔は泣きそうだった。
「今年はあなたが来る」
青く染まり始めた空を見上げる。その瞳には懐かしさ、諦め、ほんの少しの希望が映っていた。やがて夕日は沈み少女の輪郭は夕闇へ溶けていく。
最後に残ったのは潮風に揺れるカーテン、誰もいない音楽室に響く一音だけだった。




