第五話「待遇が良すぎる契約には、理由がある」
依頼をこなす日々が続く中でも、頭の隅に残った引っかかりは消えなかった。
専属ガイドとしての破格の待遇。講習を頼まれた時の、妙に早い対応。そして、グレイスが何かを話そうとして、結局口を閉じた、あの一瞬。
一つ一つは小さな違和感だが、積み重なると、無視できない重さになっていく。
情報が足りないまま動くのは、もっとも危険なことだ。山で教わった原則は、ここでも変わらない。
焦って誰かを問い詰めても、得られる答えは少ない。むしろ、相手を警戒させて、口を閉ざさせるだけだ。
なら、まずやるべきことは一つしかなかった。自分で調べられる範囲を、自分で調べる。
「グレイス、頼みがある。ギルドの記録室を見せてもらえないか」
「記録室? 何を探してる」
「枯れ谷の歴史と、俺みたいな『迷い人』の記録。今までどういう人間が、いつ、どこに現れたか」
グレイスは、しばらく涼介の顔を見つめていた。
「……構わない。見たいなら見ろ。隠す気はない。ただ、古い記録ほど、欠けている部分が多いと思っておいてくれ」
記録室は、ギルドの奥にある、小さな部屋だった。
案内してくれたのは、オーウェンという名の老齢の記録係だった。
「迷い人の記録、ですか。久しぶりに頼まれましたな」
オーウェンは、棚の奥から色褪せた帳簿を何冊か取り出し、机に並べた。
涼介は一冊ずつ、丁寧に目を通していく。文字は読めないはずだったが、なぜか意味が頭に流れ込んでくる。
この世界に来た時から、言葉や文字には不思議と困っていなかった。そのこと自体も、まだ説明がついていない違和感の一つだった。
「迷い人の記録は、確かに古くからあります。ただ、見てお分かりの通り、数十年単位で見ると、出現の頻度に差があります」
帳簿に並んだ年代と件数を、涼介は順に確認していった。
ある時期までは、数十年に一人程度の、稀な出来事として記録されている。しかし、ある年代を境に、明らかに頻度が増えていた。
「この時期から、何かあったのか」
「ちょうど、枯れ谷の拡大が初めて報告された時期と、おおむね一致しますな」
涼介は、もう一冊の帳簿――枯れ谷の発生・拡大記録を手元に引き寄せた。
年代を見比べると、確かに重なりが見える。枯れ谷が増えるのと、迷い人が増えるのが、同じ時期から始まっている。
「偶然、ということもあるだろう」
「もちろん、その可能性もあります。ただ……もう一つ、気になる点がありまして」
オーウェンは、別の帳簿の一部を指した。
「過去に記録された迷い人は、ほとんどの場合、何らかの『魔力に頼らない技能』を持っていたようです。狩人、職人、戦の経験者……あなたのような」
涼介は、その一文を、もう一度読み直した。
偶然が積み重なっているだけなのか、それとも、何かが意図的に、自分のような人間を選んで、この世界に引き込んでいるのか。今の段階では、判断する材料が足りない。
「一番最近の記録は、いつだ」
オーウェンは、帳簿の最後のページをめくった。
「これですな。今から十数年前。名前は記録に残っていますが、その後の足取りは途絶えています。当時のギルド職員が書き残した一文では、『枯れ谷の奥地調査に向かい、戻らなかった』とだけ」
「死んだのか」
「分かりません。遺体も見つかっていませんし、生きているという話も聞きません。ただ消えた、というだけです」
涼介は、その曖昧な記述を、しばらく見つめていた。
自分がこの世界に来た理由がまだ分からない以上、自分の行き先がどうなるのかも、誰にも保証できない。それは、想像していたよりも重い事実だった。
「この資料、しばらく借りておけるか」
「構いませんよ。ただ、ギルド長には、一度報告だけしておいた方がいいでしょう」
部屋を出ると、グレイスが、何も言わずに涼介を見ていた。
「何か見つかったか」
「まだ、何とも言えない。だが、引っかかる点はいくつか出てきた」
「……そうか」
グレイスの返事は短かった。
だが、その表情には、隠し事をしている人間特有の、わずかな硬さがあった。それでも、涼介は今、それを問い詰めるつもりはなかった。証拠も理屈も、まだ揃っていない状態で動けば、得られるはずの情報すら失う可能性がある。
「一つだけ聞きたい。十数年前に消えた迷い人のことを、お前は知っていたか」
グレイスの視線が、わずかに揺れた。
「……記録にあることは、知っている。だが、それ以上のことは、私も知らない。当時の私は、まだギルド長ではなかった」
「分かった。今は、依頼を続ける。だが、この記録のことは、頭に入れておく」
「それでいい。お前のそういう慎重さは、買っている」
グレイスは、それだけ言うと、踵を返して仕事に戻っていった。
その背中を見ながら、涼介は、彼女が嘘をついているとは思わなかった。だが、すべてを話していないことも、確かだった。
涼介は、借りた帳簿を腕に抱え、宿への道を歩き出した。
窓に差し込む夕方の光を眺めながら、涼介はふと、元の世界での自分を思い出した。
あの世界でも、何の前触れもなく崩れる山がある。原因が分かっていても、すべてを防げるわけではない。
ここでも、同じことなのかもしれない。分からないことを恐れるより、分かることを一つずつ増やしていく方が、結局は前に進める。
帰れるかどうかも分からない世界で、自分がここに呼ばれた理由が、単なる偶然ではないかもしれない――その可能性は、思っていたより、ずっと近くまで来ていた。
―― 第六話「行方不明の調査隊を追え」へ続く ――
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