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七月・中旬

一週間後、畑中の実家のスタジオで練習があった。


七月に入ってから、部室での練習は急に細かくなった。

ただ細かくなったというより、これまで感覚で掴んでいた音楽を、具体的なものに直しているのだと思う。

つまり数字に直せる部分をちゃんと意識しよう、ということ。

京子ちゃんは母音の数を数えているし、僕は左耳のクリックと右手の小指薬指の移動量を数えているし、畑中だけは数えたくない顔をしている。


ただ、音楽は、思っていたよりずっと数字だったのには驚いた。

もしかしたら、渉君がこれまでアレンジなんかで見てきた具体的な部分が、数字なのかもしれない。

この間も「シンセ打ち込みだと、ここの値変えるだけで、ドラムとの間に生まれるグルーヴが全然違うでしょ」という感じで、僕らの曲のシンセ部分を例に聴かせてくれた。




その日のスタジオで最初に褒められたのは、京子ちゃんだった。

「これ、いいと思う」

最初の一曲の合わせの後で、渉君が、譜面台に置いた京子ちゃんの歌詞ノートを見ながら言った。


渉君の仮詞を、京子ちゃんが自分の言葉に置き換えている曲。

それがある程度できて、今日が合わせでの披露だった。


「ほんと?」

京子ちゃんの声が、少し高くなる。

その日の京子ちゃんの言葉は、前よりずっと歌いやすそうだった。


紙に書いてある時点で、少し、京子ちゃんの声になっている……なんて詩的なことは分からないけど、少なくとも前よりも声が出てるのは分かる。

「ここの、二番の頭」

渉君が指でノートを示した。


「前の仮詞だと、ちょっと説明っぽかったのは分かってた。でも美土里さんのにすると、最初の母音が明るいから入りやすい。あと、この言葉なら、最後を伸ばしても変じゃない」

渉君が話しているのは、本当に具体的な話だった。

「それは、考えたよ」

京子ちゃんが、少しだけ誇らしそうに言った。

「うん、すごい」

渉君は、褒める時も淡々と、でも事実をちゃんと伝えている。


けれど、淡々としているからこそ、本当に褒めているのが分かる。

渉君は適当に「いいじゃん」と言うことはないことは、この三カ月ちょっとの付き合いで分かった。ダメな時は、ちゃんとダメと言う。辛辣なぐらい。


その渉君が「いい」と言ったので、京子ちゃんは本当に嬉しそうだった。

「京子ちゃん、すごいじゃん」

畑中も言った。

畑中はベースを肩にかけたまま、アンプの前でしゃがんでつまみを触っていた。


「前より、歌詞が京子ちゃんっぽいと思うよ。かわいい」

「かわいい?」

「かわいい。ちゃんと、女の子が歌ってる感じする」

「えーと、私褒められてる……んですよね?」

「超褒めてる」

畑中がにっと笑う。


京子ちゃんは、ちょっと照れた顔をして、ノートを両手で持ち直した。


まだ、京子ちゃんの歌詞には、ラブソングっぽい言葉は少ない。

春とか、制服とか、帰り道とか、見上げる空とか、そういう、どこかの青春ソングで聴いたことがあるような言葉が多い。

だけど、それでいいのだと思う。


いきなり自分の中の一番奥にあるものを、こんな短い……渉君が言う所の『八小節で母音十二ぐらい』にまとめられる人間は、たぶんあまりいない。

僕だって、自分が畑中の何に引っ張られてドラムを叩いているのか、八小節で説明しろと言われたら無理である。

「じゃあ、もう一度頭からやってみましょう」

渉君が言った。

京子ちゃんは、マイクスタンドの前に立つ。


七月に入ってから、京子ちゃんは自分のマイクを持ってくるようになった。

銀色の網目のついた、ちゃんとしたマイクだ。

訊けばそんなに高いものではないらしいけど、女性ボーカル向けの特性、そしてとにかくハウリングしないマイクだそうだ。


畑中はそれを見て、最初に「京子ちゃん、ボーカリストじゃん」と言った。

京子ちゃんは「まだです」と言った。

渉君は「マイク持ってるなら、もう半分ボーカリスト」と言った。


その時の京子ちゃんの顔を、僕はわりと覚えている。

今日も京子ちゃんは、自分のマイクの前で少し背筋を伸ばした。


「今度は例の二番のオケ入れるんで、二番入る前のブレイクから、クリックも入ります」

僕に向かって言う。僕は渉君の脇にある小さなノートパソコンから出ているケーブルを伸ばしたイヤフォンを、左耳に押し込んだ。


左耳にクリックが来る覚悟。

もう片方の耳には、畑中のベースと、京子ちゃんの息。


始まった。

京子ちゃんの歌は、前よりずっと前に出ていた。

大声になったわけではない。

むしろ、無理に張り上げなくなった分だけ、言葉が聞こえるようになった。


渉君が作った仮の言葉を歌っていた時より、『どう歌おうか』を自分で試行錯誤している感じはする。

自分の言葉は、自分の口から出しやすい。

当たり前のことかもしれないけれど、多分畑中の演奏に触れていることが原因のように思う。

ベースでもギターでも、畑中の演奏は本当にいつも試行錯誤だ。固まることがない。

難しいフレーズを完璧に弾くんじゃなく、シンプルなフレーズを豊かに聴かせる方の試行錯誤。

それはとても歌に近いんじゃないだろうか……なんてことを、僕は考える。


多分そういう試行錯誤が僕らにも見えることが、僕らが京子ちゃんのカラオケバックバンドではないことの証明なような気がした。


畑中も、僕と同じことを京子ちゃんの歌に感じたのか、満足げな表情を見せた。

それに合わせて気持ちよさそうにベースを入れていた。

この辺までは、良かった。


問題は、その後、だ。

二番に入る前のブレイクから、シンセのパートが入る想定の場所で鳴るように、渉君がパソコンから出した音を同期させる。

クリックが左耳に飛び込んできた。

本番では杉宮がPCDJだかグルーヴボックスだか……バークォンタイズだっけ? よく分からない何だかでやるらしいけれど、今は渉君が仮で鳴らしている。


そこから先は、クリックに対して、僕のドラムがよれることが合ってはいけない。

僕は、部室で渉君に教わった右手を意識した。


手のひらを上にして胸の下につける、あの変な練習。

小指と薬指でハイハットを刻む感覚。

全部の八分を、同じ間隔で、ジャストタイミングのほんのちょっと前に前に置く感じ。


もちろん、今日叩いてる実際のハイハットは、部室や家で使っているような練習パッドとは違う。

特にスティックの跳ね返りとか、そういうのが全然違う。

でも少なくとも音に関しては、畑中が前に言った通り、練習パッドでちゃんと鳴らせれば、生ドラムもちゃんと鳴らせるはずだった。


自分がそれをできていることを確認しつつ。

意識して、クリックが鳴る前に動き出し、叩き終わった瞬間にクリックが鳴るように……それをひたすら繰り返す。


問題は、畑中の方。

畑中のベースは、格好いい。それは間違いない。


低いところから入ってきて、少しだけ遅れて、次の小節の頭でぐっと戻ってくる。

僕と畑中だけで合わせている時なら、その戻ってくる感じがものすごく気持ちいい。


渉君が僕のエイトビートを分析するには、バスドラが起点で揺れているらしい。

一拍目はジャスト。その後畑中のベースに引っ張られて、僕の二拍目裏のバスドラがもう少しだけ後ろにスライドする。なのに、三拍目がちょっと早い。

もちろんフレーズによって違うけれど、全体的にはそういう揺れがあって、僕と畑中の間では音楽になっていた。


けれど、こういう練習を始めてからは、畑中のベースと同じぐらい従わせようとするクリックが、耳の中で鳴っている。


クリックは、待ってくれない。

畑中が気持ちよく沈んだ場所に、クリックは無表情で次の拍を置く。


僕はクリックにしたがって、前のめりになる。

畑中は僕を聴いて戻ろうとする。

でも、畑中の身体は、戻る前に一度、気持ちいい場所を通りたがる。


そこで、少し、絡まる。

崩壊はしなかった。


京子ちゃんは最後まで歌った。

渉君も最後までギターを弾いた。

僕も止まらなかった。

畑中も、止まらなかった。


曲としては、終わった。

けれど、音が消えた後、渉君の顔は、あまり晴れていなかった。


「……悪くはないです」

渉君が言った。


悪くはない。つまり、良くもないということだ。


「二番入ってから、ちょっと重くなります」

「私?」

畑中が訊いた。

渉君は、少し迷った。

その迷い方で、答えは分かった。

「ベースだけじゃないです。ドラムも引っ張られてます。ただ、持田先輩はクリックには戻ろうとしてるので」

「私が引っ張ってる?」

「うん」

渉君は、そこはごまかさなかった。


畑中は、アンプの前でしゃがんだまま、つまみを少し触った。

別に音量の問題ではないのに、つまみを触ってしまう畑中だった。


「うーん」

畑中は、笑おうとした。

「ムズいね、これ」

「ムズいよ」

渉君が言った。

「でも、できないと本番でシンセと噛み合わないです」

「だよねえ」

畑中は、もう一度笑った。

今度は、さっきより少しだけ、ちゃんと笑えていなかった。


京子ちゃんが、マイクの前で不安そうな顔をした。

「私の歌、変だった?」

「美土里さんは良かった」

渉君が即答した。

「言葉も、前よりかなり良い。そこは大丈夫」

「ほんと?」

「本当。美土里さんが歌で試行錯誤してるのは、演奏で全部分かるから、あと二か月でちゃんとそれなりの答えが出ると思う」

割とベタ褒めに近いことを言ってる渉君が、畑中の方も見る。

「アキラさんも、良かったって言ってくれた」

京子ちゃんが畑中を見る。

畑中は、すぐに顔を上げた。

「うん。京子ちゃんはめちゃくちゃ良かった。ほんとに。自分の言葉で自分の歌になってきてる」

「よかった。あの……畑中さんがたまに部室で弾くギター……あまり聴く機会ないけど、表情豊かで、私もああいう風にしたいな、って」

京子ちゃんは、ほっとしたように笑った。

畑中も笑った。

人を褒める畑中の笑顔は、本物だった。


だからこそ、自分のベースに考えを戻した時の畑中の顔が、僕には刺さる。

畑中の今のベースは、本来の持ち味であるはずの、演奏中にころころ変わる、その『豊かな表情』を封じられている。

クリック通りにずっと前のめりを続ける僕のドラムを、揺らすことができない。


その後、何度か同じ場所を繰り返し練習した。


渉君は、ベースの入りを少し前にする案、音を短く切る案、二番頭のフレーズを簡単にする案を出した。

畑中は全部試した。

試したけれど、全部が畑中の中で納得したわけではなさそうだった。


弾けないわけではない。畑中は、弾ける。

ただ、弾ける畑中と、気持ちよく弾いている畑中は違う。

僕にはそれが分かってしまった。


「今日はここまでにしましょう」

渉君が言った頃には、時計はかなり進んでいた。

もう一時間半も練習していて、そろそろスタジオを出ないと、京子ちゃんが自宅に着くのが遅くなってしまう。


京子ちゃんは、最後にもう一度、歌詞のノートを渉君に見せていた。

「ここ、帰ってから直してみる」

「好きなように、色々、試してみて」

それは決して放り出すのではなく、試行錯誤が重要なのだ、と、渉君も言っているような感じだった。

それが分かってるからか、京子ちゃんは真剣にうなずく。


京子ちゃんは京子ちゃんで、受け入れ始めている。

それは少し、強いことのように見えた。


渉君はギターをケースにしまい、ケーブルを巻いた。

京子ちゃんもマイクをケースに戻す。

畑中の実家のスタジオなので、片付ける手順は畑中が一番分かっている。だけど、その日の畑中はいつもより少しだけ動きが遅かった。


京子ちゃんと渉君がスタジオを出る時、畑中はいつも通り明るく手を振った。

「気をつけて帰んなよー」

「はい」

「京子ちゃん、テスト明け、歌詞楽しみにしてる」

「うん。がんばります」

扉が閉まった。


そう、明日からは期末テスト前の部活禁止期間だった。

嫌なことを、思い出させてくれる。


若い二人が居なくなると、スタジオの中に、僕と畑中だけが残った。


ベースアンプの電源は落としていない。

ドラムセットも、まだそのままだ。

ベースは、畑中の横のスタンドにきちんと立っている。


畑中はしばらく、スタンドに立てた赤のムスタングベースを見ていた。

「持田君」

「何」

「ちょっとだけ」

ちょっとだけ。

畑中のちょっとだけは、信用してはいけないのは、これまでも散々痛感している。

そんな考えが顔に出てしまったのか、

「明日から部活出来ないんだから、今日ぐらい、いいじゃん……」

畑中の声が、少し弱かった。


だから、僕は声を明るくして返した。

「何演るの」

「ロック」

畑中はそう言って、スタンドからベースを手に取った。

ストラップを頭に回し、ふぅ、と一つ息をつく。


「イーブンでいいの?」

僕が訊くと、

「……シャッフル」

ちょっと拗ねたような声が返ってきた。


つまり、ストレートなエイトビートを刻むさっきまでの曲じゃない。全部の拍を同じにして整える必要がある曲じゃない。

ポップでキッチュでキュートなラブソングでもない。

シンセもクリックもいない。


これから演るのは、完全に僕らの領域の音楽だ。


もう渉君のノートパソコンにはつながっていないのに、左耳に入ったままのイヤフォンの存在を思い出した。

掴んでピッっと外す。

畑中とロックを演るなら、これは要らない。両耳で畑中の音を聴くべきだ。


畑中がアンプの前で軽く弦を鳴らした。

その一音で、畑中の顔が戻った。

毎回同じ間隔で刻まなければならないわけじゃない。そういう即興的なものだ。


僕が、ゆっくり目にカウントを出して、カウントの途中から、畑中がグリスダウンで最初の音に向かった。


畑中がウォーキングを始める。何度も一緒に演っている古典的なブルース進行。

僕はハイハットを中抜き三連のシャッフルのリズムで刻む。


つんのめって、全部の感覚を同じにするノリではなく、

シャッフルの裏拍が、畑中のノリを探しながら、揺れる。

スネアが鳴った後に、その裏拍で畑中のベースが腰のあたりを持っていく。


こっちの方が、やっぱり気持ちいい。

そう思ってしまった僕である。


畑中は、笑っていた。


アンプ直結のベースの音が、スタジオの空気を太くする。

僕のスネアがそこに乗る。

ハイハットが少し荒くなる。

バスドラが畑中の低い音に寄っていく。


畑中が揺らす。

僕が乗る。

乗ったまま、少し戻す。


ブルース進行の十二小節の終わりに、今まで思いもつかなかった、シャッフルをさらに十六分まで刻んでスネアを連打するフィルがとっさに出た。

そして自分で驚く。

全く崩れない。

クリックに合わせる練習をした後だからなのか、身体がちゃんと動く。拍を見失わない。


畑中が振り向く。

その顔は、さっきよりずっと楽しそうだった。

「イイじゃん!」

畑中が叫んだ。

「持田君、今のイイ!」

僕はドラム叩いている間にそんなに喋れるわけじゃないから、

「どれ」

短く返す。

「今の!」

「今のって言われても」

「今のやつ!」

説明になっていない畑中だ。




また十二小節目、今度は畑中が動く。

どうせ畑中のことだから、さっき僕のフィルのリズムにピッチを付けて、上から被せてこようとするんだろう。

だから今度は、スネアではなくバスドラの連打で、フィルに入った畑中を追いかけた。


畑中が目を見開いてこっちを見た。

さすがにシャッフルの三連が限度だったけど、それでも今まで聴いたことがないような低音連打の圧迫感。

三連の最後に、次のコーラスに食う感じで、クラッシュシンバルをかます。


「……持田君」

なに?

「突き上げ、激しすぎるよ……私壊れちゃう……」

畑中の調子は、だいぶ戻ってきたようだ。


それにしても、スネアやバスドラの連打。

こんなこと考えもつかなかった。

タイトに叩く練習を積み重ねたから、思いついたんじゃないかな。

だから、渉君に教えられたタイトな八分は、古典ロックの中でも、完全に消えたわけではなかったんだ、と思った。


おまけに、こういう風に、畑中の揺れに合わせながら、どこかで拍の芯を見ることができるようになった。

その芯が、こうやって自由に演奏している時に実感できてしまう。

畑中は嫌がっているけど、少なくとも僕には悪くなかった。




畑中が延々とブルース進行で、好きに動く。

ベースっぽいウォーキングからはもう外れていて、何曲かのブルースロックのリフを、次々出してきて。

それが一通りネタ切れになったら、ハイポジションで思いっきりビブラートをかけたアドリブソロを始めた。


ベースなのにチョーキングまでし始めている。


「おいベース」

「なに?」

「いいけどさ」

「持田君のも、イイよ、すっごく」

畑中の調子は、すっかり戻っていた。


もう本番の練習ではなかった。

文化祭のためでもない。

京子ちゃんの歌詞のためでもない。

渉君のシンセのためでもない。


畑中と僕が、畑中と僕のために音を出していた。それは、ものすごく正しいことのように思えた。




けれど、終わりは来る。

時計を見た畑中が、少しだけ顔をしかめた。

そこで、音が急に途切れる。


「やば。テスト勉強。そろそろ片付けないと」

「ほら見ろ。ちょっとだけじゃない」

「持田君が叩くから悪い」

「僕のせいなのか」

「持田君のせい」

畑中は笑いながら、ベースのボリュームを絞った。


アンプのゲインとマスターボリュームを絞ってから、電源を落とす。

ケーブルを抜く。

ベースを一度スタンドに置いてから、ギグバッグを開ける。

ストラップを外して、弦を軽く拭いて、ギグバッグにしまう。


そういう手順の畑中は、妙に丁寧だ。

音を出している時はあんなに乱暴そうなのに、楽器を片付ける時だけは、ちゃんと静かになる。


僕もスティックをケースに戻した。

その時だった。

「でもさ」

畑中が言った。

声が、少しだけ下に落ちていた。

「持田君、浮気性だから」

「何が」

「渉君にちょっと言われたら、すぐ今時のチャラいストレートの八分とか叩けるようになるし」

「チャラい八分って何だよ」

「私がまだ知らない、持田君の右手」

ああ、ハイハットのことか。


畑中は、ギグバッグのファスナーを途中まで閉めたまま、唇を尖らせていた。

怒っている顔ではない。

怒れない顔だった。


「右手だけじゃなくて、さっき足も浮気性だったよね」

「だから何が浮気なんだよ」

「ロック以外の女の子に、すぐいい顔する」

「音楽ジャンルを女の子扱いするな」

僕は少し笑った。

でも、畑中はあまり笑っていなかった。


さっきまであんなに生き生きしていたのに、音が消えると、また少しだけ沈む。

たぶん、畑中は怒っているわけではない。

解決してほしいわけでもない。

ただ、文句を言いたいのだと思った。

それも、僕に。


だから、もっと文句を言えるようにしようと思った。


「でもさ、さっき畑中がイイ!って言ってたフィル」

「なに?」

「あれ多分、タイトな前ノリをずっと叩いてたから、できるようになった……と思う」

「外から別の女の匂いを持ち込んだの?」

畑中は、僕を睨みつける。


「畑中」

「何」

「僕が最初にドラムを叩けた気になったのは、畑中のベースがあったからでさ」

畑中は、返事をしなかった。

ギグバッグのファスナーを閉める手だけが、少し遅くなった。

「それは変わらない」

「……浮気男って、甘い言葉吐けば、許されると思ってるよね」

「許されないの?」

「許すけど」


畑中は、最後までファスナーを閉めて、ギグバッグの取っ手を握った。


それから、僕の方に顔をあげて、


「でも、たまには私の方だけ見て」


そして僕の方を、切なげな眼で見上げてきた。

畑中が、そういう顔を僕に向けるのは、たぶん初めてだった。


その言葉は、冗談みたいな声だった。

でも、その目は冗談じゃなかった。

僕は、すぐには返事ができなかった。


ポップでキッチュでキュートなラブソングをやろうと言い出したのは畑中だ。

京子ちゃんを歌わせようと言ったのも畑中だ。

渉君の曲を面白がったのも畑中だ。


だから畑中は、僕に「そっちを見るな」とは言えない。

言えないから、こういう言い方になる。


たまには。

私の方だけ。


僕は、その二つの言葉を、少し遅れて理解した。

「見てるよ」

僕は言った。

畑中は、少しだけ眉を寄せた。

「今?」

「今も」

「ほんとに?」

「ほんとに。ドラム聴けばわかるよね?」

「……じゃあいい」

畑中はそう言って、ギグバッグを持ち上げた。


それから、いつもの調子に戻ったみたいに、スタジオの扉の方へ歩き出す。

「帰ろ、持田君。私、今日がんばったからアイス食べたい」

まだギリギリ閉店になっていないスーパーで、買って食べよう、という事なんだろう。

「また実家の商品を僕に買わせる気か」

「清い男女交際の範囲内で」

「アイスは清いのか」

「清い。夏だし」


夏だし。

それは理由になるのだろうか。

でも、畑中が少し元気になったので、十分に理由になる……そう考える僕である。


この後も予約が入っていないというから、僕らが出る時にスタジオの照明を落とした。

扉を閉める直前、僕は一度だけ中を見た。

誰もいなくなったスタジオには、さっきまでの音の気配だけが残っている。

クリックも、シンセも、京子ちゃんの歌も、渉君のギターも、畑中のベースも、僕のドラムも。

全部、同じ部屋にあった。


たぶん、それがバンドなのだと思う。

けれど、その中で、畑中と僕だけの音も、まだちゃんと残っていて、僕たちは何度もそれを確かめられる。

僕はそれを、少し安心して確認してしまった。

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