五月
というわけで、その後一月半は、渉君が作曲した合計三曲のアレンジと練習で、瞬く間に過ぎていった。
授業が終わるのがだいたい十五時。そこから十六時までは将棋の時間。
杉宮と僕による将棋教室。その後、杉宮と僕が一番いい将棋盤で日課の対局をしている間に、その脇で将棋初心者勢が復習しながら対局する。
京子ちゃんは、最初の頃こそ駒の動きで混乱していたけれど、渉君に「そこは銀じゃなくて金」とぼそぼそ直されながら、意外と真面目に盤に向かっている。
畑中は畑中で、将棋の駒をロックのパートにたとえようとして杉宮に止められていた。
渉君はそこそこ指せるので、たまに僕や杉宮との練習対局もやる。
負けそうになると盤面ではなく譜面の余白にコードを書き始めることがあって、ちょっと驚いた。
負け惜しみなのか本当に思いついたのか、いまだに分からない。
将棋の後は、畑中のスタジオが空いていれば、みんなで豊田駅まで色々話しながら歩いて、そこからバスに乗って畑中の練習スタジオに移動して、二時間ぐらいペアで練習。
空いていなければそのまま部室で練習というのが、最近の囲碁将棋部の基本のスケジュールである。
スタジオに行く日は、結局、僕と畑中は渉君たちが帰った後にオッサンロックのセッションを始めるから、帰りは二十時過ぎになるのだけれど。
中央線と南武線に挟まれる場所に住んでいて、バスの定期がない京子ちゃんのバス代と、スタジオから家に帰る電車賃は、全員で割ることにした。
正確には、僕が高校に入った時に通学定期用の記名式ICカードを作ったせいで一年ちょっとも余らせていた、無記名式カードがあったので、それにみんなで少しずつチャージして、京子ちゃんが使う形にした。
「毎回現金を渡すと、貸した借りたみたいになるからダメ」
と畑中が強硬に主張したのだった。
まさか引き出しの奥に放り込んでいたICカードが、バンドの経費管理に使われる日が来るとは思わなかった僕である。
最初京子ちゃんは恐縮していたのだけれど、
「こういうのは、バンド全体で経費として扱わなきゃいけないんだよ」
と、畑中が強硬に主張し、渉君がしきりに頷いていた。
おそらく畑中たちバンド経験者が、自分の経験だけじゃなくて、オッサンロックの人達からも言い含められていることなんだろう。
なんというか……放課後、杉宮と二人でだらだらと将棋を指しているだけだった僕は、これが青春の部活!という妙な喜びと感慨を持っていた。
もちろん、今までの囲碁将棋部の活動だって立派な部活動だ。
でも二人だけじゃなく多くの人数で部活をするというのは、中学から人気のない囲碁将棋部だった僕にとっては新鮮で面白い。
囲碁将棋部が半分帰宅部になるような提案を杉宮にしたのは僕だったけれど、それでも今は「部活」感が強い。
ついでに言えば、畑中と二人でやってた時にはなかった「青春!」って感じがする。
それを畑中に言ったら、「私と二人だと青春じゃないの?」と、妙に本気でむくれられた。
まぁそれはともかくとして、疲れはするものの結構こんな生活も楽しいもんである。
バンドだけではなく、杉宮と二人で初心者向けの将棋の解説をするのも面白いのだ。
高校生活二年目にして、やっと青春に突入したと思える僕の人生である。
時は五月下旬、土曜日の昼下がり。
そろそろ夏を意識し始めた太陽が、準備とばかりに強い日差しをアスファルトに叩き付けている。
新宿集合で、中央線に乗って十分ちょっと。僕らは御茶ノ水にいた。
「うわぁすごい! 楽器屋だらけですね!」
興奮する京子ちゃんの声がとても元気だ。
京子ちゃんは可愛らしい水色と白のストライプのシャツワンピースにスニーカーという恰好。
うんうん若いね。僕みたいなオッサンにはまぶしくて、ついつい孫娘を見るようにニコニコしてしまうよ。
「今だと池袋とか渋谷も楽器屋が多いんだけど、ここは中古がたくさん集まっているからね。いい感じでしょ?」
キャッキャとはしゃぐ畑中もなぜかお揃いの、こちらはグレーと白のストライプシャツワンピース。
京子ちゃんのが膝丈なのに対して、畑中のシャツはミニスカ気味……とはいっても下にはいつものボーイフレンドジーンズを履いている。
シャツワンピースは元々そういうデザインなのだろう。それに合わせるジーンズは、常に使いまわしであることを考えると、やはり畑中のワードローブは貧弱らしい。
でも、こうやって紺のセーラー服ではない……可愛らしいシャツワンピと合わせて見ると、普段は地味に感じる畑中の眼鏡の赤のメタルフレームは実に映えている。
普段は学生定番のひっつめ髪で一見地味そうで、貧弱なワードローブを抱えている畑中も、実はオシャレポイントを押さえている、見た目も気を使わないわけではないタイプの女子高生なのだろう。
それまで女子の服装に対する解像度が凄く低かった僕は、畑中と毎日過ごすことで、その変化を認識できるようになっていた。
そんな二人を眺めながら後ろを歩く僕の更に後ろを、渉君が無表情かつ周りに気を配りながら歩いている.
今日は京子ちゃんのギターを買いに、我々囲碁将棋部はこの街へ出てきたのだ。
今週、京子ちゃんはローコードで三曲分の弾き語りをマスターした。
そして昨日の金曜日、初めてバンド全体で曲を合わせてみた。
僕のほうは一月半かけてエイトビートのフィルのパターンがちょっと増えただけだったので、京子ちゃんの上達は著しい。
バンドで合わせてみて、京子ちゃんは本当にバンドで歌えることに感動したらしい。
そこで自分のギターを、と言い出したのだった。
まだ初心者の京子ちゃんでは、どのギターがいいのかわからないので見た目で決めるしかないのだけれど、畑中曰く「見た目も大事だけど、それだけでは危険」だそうである。
そこで畑中と渉君がアドバイスをしについてきたのだ。
当然というか何というか、僕も畑中によって強制徴用である。
「これ! ピンクの! 可愛い!」
「いいねいいねーラブいねー。どれ、弾いてみようか」
お前は何語をしゃべっているのかと突っ込む僕を尻目に、女の子二人はさっさと店に入ってしまっていた。
「こういう女の子達って微笑ましくていいけど、ちょいと疲れるな」
店の入り口で後ろにいた渉君を待ちながら一つため息をついてみる僕に、
「俺は姉貴と妹で慣れてますから」
こともなげにいう渉君.
「えーとそれは、服とかじゃなくて?」
「楽器の話です」
えーとつまり、渉君には楽器をやってる姉と妹がいるらしい。
もう池田電機じゃなくて池田楽器に商売替えしたほうがいいんじゃないだろうか?
「なるほど……慣れって偉大だなぁ」
と、感慨深くなる僕である。
京子ちゃんが、見た目と価格で選んだギターを、畑中と渉君が試奏して候補を絞っていく。
楽器選ぶ作業って大変なんだなぁと端から見てて思った。
僕はドラム担当で自分の楽器は持ってないし,スティックも畑中が選んでくれたものを使っているだけだ。
というか練習場所、置き場所の問題で、楽器を買えるわけでもない初心者ドラマーには選ぶ余地がないのである。
一応畑中からは、部室のスネアとシンバル、バスペダルだけの練習パッドとは別に、自宅用に練習パッドを押し付けられた。
スネア用の大きいパッドとハイハット用の小さいパッドの一セットと、ハンマー部がなくて本当に踏むだけのバスドラペダルっぽい何かと、やはりペダルだけのハイハットという、シンプルな構成。
練習用にかなり気を遣って作られたものらしく、ドラムの音ではないけれど良い動作悪い動作がはっきりわかるような音の出方をする。
休日の朝なんかは自宅でこのセットで練習してみたりもするのだけれど、やっぱりドラムは本物の方がいいよね、鞭的なペダルの動きとか大事だよね、体への響き方が全然違うし……みたいなことを考えるようになってしまった僕である。
それにしても、ビジュアル面も考慮しなきゃいけないギター選びは大変のようだ。ドラムにはビジュアル面なんてないのだ。
何軒目かに入った中古ギターの専門店で、京子ちゃんが声を上げた。
「あ、これいい! あ、ちょっと……」
叫びかけた京子ちゃんの声が曇る。
「どうしたの? へぇ、いいね」
京子ちゃんの脇に行って、彼女が眺めているギターを見る。
黒地に赤のギンガムチェックがあしらわれた可愛いテレキャスタータイプだ。
こういう模様がプリントされているギターって珍しいな。中古にしちゃ全然綺麗だし。
頭の中で京子ちゃんに持たせてみる……うん、可愛くて似合ってる。
「いいじゃない、これ弾いてもらったら?」
「それが、ちょっと予算オーバーなんです」
「……なるほど」
値段を見て納得。今まで三人が試してきたギターとは値段が倍ぐらい違う。
京子ちゃんは、小さい頃から貯めてきたお年玉なんかを持って今日に臨んだ。
畑中と渉君曰く、初心者向けギターは弾き心地が良くなくて上達しづらいから、最低でも中古で5万ぐらいからのがおすすめなんだそうだ。
「それなら全然余裕です! 八万円ぐらいなら使えます」
ちゃんと貯めてきたお金をそんなに沢山使っていいのだろうかとも思ったのだけれど、
「ギター弾いて歌うのがこんなに楽しいなんて!」と毎日楽しそうにしている京子ちゃんが「多分神様がこのために私に貯金をさせてくれたんです」と嬉しそうに言うのを見たら,それはそれでいいのだろう、という気分にはなった。
で、目の前にあるテレキャスターは税抜き九万八千円の札がついている。
「ううう……これ可愛いのに」
恨めしそうにしている京子ちゃん。
「とりあえずさ、畑中に弾いてもらおうよ」
提案してみるも、
「えー、でも音聴いちゃうともっとあきらめられなくなるかも」
京子ちゃんはためらっている。それがあまりにもかわいそうに見えてきたので助け舟。
「もしかしたら値引きしてもらえるかもしれないじゃん?」
京子ちゃんの顔がぱっと明るくなる.
「そうですよね!!」
「そうと決まれば,畑中,畑中」
「なに、持田君? いいのあった?」
畑中を呼び寄せて試奏を頼んだ。
「うー」
「むー」
「んー」
京子ちゃん、畑中、渉君の順でうなり声である。
普段クールな渉君は、ギター選びに関しては結構わくわくしているようで、真剣に取り組んでいた。
その三人が声を上げるまで悩んでいるのである。
畑中と渉君曰く、音色も京子ちゃんの声の音域にすごくあってるし、おまけにものすごく弾きやすい。
なにせ京子ちゃんが「うわーFが押さえやすい!」と感動したほどだ。
元からルックスに惚れたギターが、音も弾き心地もよければ、そりゃ買いたくもなるだろう。
三拍子そろった黒地に、赤ギンガムチェックのテレキャスターの購入は、しかし単に予算という壁に阻まれていた。
店員さんからスマホの会員アプリを教えてもらい、新規会員登録者向けのクーポンを適用した結果、税抜き九万五千円。
京子ちゃんの予算は、無理して八万五千円プラス税。
だけどこうまで気に入ったギターを買わないという選択はない。
だから僕は、
「何を悩んでいるのさ? 僕が一万貸すからそれでいいんじゃない?」
と提案したのだけれど,
「それはダメです。お金の貸し借りは清い男女交際の邪魔になります」
なんか良く分からない理由で、でもそれで一致した畑中と京子ちゃんの反対で却下された。
僕は値札の下に貼られている小さな札を見た。
新入生応援セット。
ストラップ、シールド、チューナー、予備弦、初回調整込み。
なるほど、と思った。
ギター本体だけでこの値段というより、軽音部に入りたての高校生や大学生が、買ったその日から使えるように、必要なものを全部まとめてあるらしい。
だからこそ、京子ちゃんには少し高い。
でも、逆に言えば、分けられるものがある。
「すみません、ちょっと相談なんですけど」
僕は、若い店員さんを呼び止めた。
「はい、なんでしょう?」
「この新入生応援セットって、本体と、付属品、初回調整を、会計上分けることはできますか?」
店員さんは一瞬、困ったような顔をした。
「ええと……ちょっと僕だけだと判断できないので、店長に確認してきます」
そう言って、店員さんは奥へ引っ込んだ。
しばらくして戻ってきた時には、少し年上の、たぶん店長らしい男の人も一緒だった。
「部活動で使うんですか?」
店長さんが訊いてきた。
「はい。高校の部活です。本人がギター本体を買って、ストラップとかシールドとかチューナーとか、部活で使う備品と初回調整の分だけ、部費で処理できないかと思って」
「なるほど」
店長さんは、京子ちゃんの方をちらっと見た。
京子ちゃんはまだ、黒地に赤ギンガムチェックのテレキャスターを名残惜しそうに見ている。
「このセット、もともと軽音部に入りたての子とか、大学でバンド始める子向けの企画なんですよ。必要なものが分からなくて困らないように、最初からまとめてある」
「はい」
「だから、本体と付属品・調整分を分けること自体はできます。部活で使うなら、備品代と調整費で領収書を切っても問題ありません」
店長さんはそう言って、若い店員さんに目配せした。
「ただし、本体の方は本人さんの購入。備品と調整費の方は部活動用。そこはちゃんと分けてください」
「もちろんです」
僕は即答した。
ギターそのものを買ってあげるわけではない。
京子ちゃんのギターは、京子ちゃんが自分のお金で買う。
部が買うのは、練習と文化祭に必要なストラップ、シールド、チューナー、予備弦、そして初回調整。
つまり、部活動用の付属品とメンテナンス費である。
畑中はともかくとしても、渉君と京子ちゃんの二人は将棋もしっかり勉強していて、ちゃんと囲碁将棋部員としての活動をしていると言える。
そして取り潰し寸前だった昨年度に比べて、今年は部員も増えた。
杉宮は、部長会議で予算を三倍にすることに成功している。
将棋の勉強も、実は資料代が結構かかるものなんだけど、部員二人が将棋に真剣に取り組めるぐらいの部費は、もともと確保できていた。
今年度はそれが三倍になったのだから、とりあえず一万円ぐらいなら余分に出せることは間違いない。
去年の文化祭では、生徒会執行部から細切れの中途半端な空き時間をどうにかしてほしいと依頼されて、僕らは部員集めも兼ねてステージに上がった。
一回一回の空き時間は大して長くない。
だから二日間で細切れに六回オンステージという、囲碁将棋部にあるまじき高校文化祭の花形ステージでのパフォーマンス回数である。
囲碁将棋部なので、有名な対局の棋譜を題材にして、それをコントに仕立て上げた。
当然、在校生や若い来客層には全く受けなかった。
来場していた保護者には受けた。
まぁそれはともかく、その際に「漫才のための貸衣装代」や「漫才のための大型ディスプレイレンタル代」という題目で立て替えた領収書は、ちゃんと生徒会執行部に認められて、部費から精算されている。
そういう実例があるのだから、これだって同じだ。
新入部員の部活に必要な物品の購入に対し、部の備品として購入する。
実にまっとうな大人のやり方を思いついてしまった僕である。
「付属品と調整費で、一万円くらいにできますか?」
「できます。もともとそのくらい見込んでいるセットなので」
店長さんはあっさり頷いた。
若い店員さんも、どこかほっとした顔をしている。
お店としても、若い子が気に入った一本を買ってくれる。
京子ちゃんは、自分の予算でギター本体を買える。
部としても、文化祭に必要な備品を買うだけだ。
僕も嬉しい。
杉宮も、たぶん文句は言わないだろう。
みんな幸せになって問題あるか?
いや、たぶんない。
少なくとも、僕が京子ちゃんに一万円貸すよりは、ずっと筋が通っている。
奥から戻ってきた店員さんに話しかけられた京子ちゃんだけでなく、畑中と渉君の顔もぱっと明るくなった。
うんうん、いいことだ。
京子ちゃんより、眉間にしわを寄せて真剣に悩んでいた渉君の顔が明るくなった方が、なぜか僕には効いた。
後輩が報われるのを見るのは、意外と悪くない。
ルンルン顔でギターを抱えて店を出て行く三人を横目で見ながら、僕は店員さんから一万円分の領収書を受け取った。
「お買い上げありがとうございました」
「いえいえ、こちらも助かりました」
見送ってくれる店員さんに、こちらも頭を下げる。
気持ちいい買い物になって、両方とも良かったと思う。
店を出たら、畑中が口を尖らせて立っていた。
「さっき何を受け取ったの?」
「うわぉ!」
本気で驚く僕である。
「……いきなり出てくるなよ。まぁ気にするな。ちょっとした会計処理だ」
「高校生が楽器屋で言う言葉じゃないよ、それ」
畑中はまだ口を尖らせている。
「なんかおかしいんだよねー。中古品とはいえ、一万円も値引きってあり得ないんだよ。まさか持田君、一万円出したんじゃないよね? ダメだって言ったのに」
「違う。誓って自腹は切ってない。不正もしてない」
とりあえず嘘はない。
今日、自分の財布から出したものはあくまで一時的なもので、来週には戻ってくる。
僕の自腹ではない。
「さぁ行こう。とりあえずギターも決まったことだし、お茶でもして、CD屋でも覗こう」
この店の近くの中古CD屋は、そのマニアックな品ぞろえでとても有名だ。
せっかくだから、ちょっと古典ロックを二人に布教してもいいかもしれない。
上手く行ってちょっと上機嫌な僕は、そんなことを思いついて、京子ちゃんと渉君を追って歩き出す。
「ふーん……」
まだ口を尖らせ続けて不満そうな畑中である。
今年度から急に囲碁将棋部員になった畑中には、去年から地味に積み上げてきた部費処理の知恵までは、まだ想像がつかないはずである。
月曜日、午前の授業が終り、さて弁当を……と鞄を開けた僕を呼ぶ声。
「おい持田、女子が来てるぞ」
去年から引き続きクラスメートの戸田が、僕の机によってきてクイクイと親指で教室の後ろ側の入り口を指す。
振り返ってみれば、確かにそこには口を尖らせた畑中が腕組みをして立っていた。
「畑中がお前を訪ねてくるとはね、何お前らつきあってるの? 去年同じクラスだった時は地味だと思ってたけど、こうやって見ると結構可愛いよな」
戸田は、ニヤニヤしながらこっちをつついてくる。
「違う。昼寝してたら、座布団が蟻地獄に改造されていた感じだ」
適当に答えながら席を立って畑中の方へ向かった。
「どうした?」
僕の声に、いっそう口を尖らせて鼻から息を吸い込む畑中。
畑中は怒る前に鼻から大きく息を吸う癖がある。
そのせいで、少し上を向いた鼻が、いつも以上に自己主張する。
可愛いか可愛くないかで言えば、たぶん可愛いのだろう。
ただ、文句を言われる直前にそれを見る僕としては、もう少し控えめにしてほしい癖である。
「どうしたもこうしたも、土曜日のからくりが解けたから文句言いにきたんじゃないか」
畑中は怒るというよりも拗ねているという感じである。
おそらく、朝に杉宮と話した土曜日の支払いのことが、杉宮経由で伝わったのだろう。
僕としては杉宮に口止めをしたわけではなくバレるだろうことは最初から予想していたので、何も驚くことはない。
というか、畑中も2年生ということで囲碁将棋部の執行部的立場にいるのだから、知っておいてもらった方がいい。
「まぁそういうことだ。なるべく京子ちゃんと渉君には今年のうちは言わないように頼むよ」
と意に介さず手を振って背を向けようとしたのだけれど。
「もう言った」
間髪を入れず畑中から返ってきたので、僕はちょっとあっけにとられる。
「そういうの、清い男女交際の妨げになるからやめてよ!」
続いて発せられた畑中の声が教室や廊下の響き渡る。何とも恥ずかしい。
頭を抱えている僕の周り,教室と廊下がざわめき始める。
痴話げんかかなにかと思われているに違いない.
「んー、畑中の言ってることがいまいち分からないけど……」
「おい、なにやってんだ?」
なんと言っていいかわからず言いよどんでいる僕に、にょっと現れた杉宮の助けが入った。
「杉宮君、さっきのことで持田くんに文句言ってるの」
「あぁなるほど……。ほいほい。囲碁将棋部の問題なので関係ない奴らは散った散った」
杉宮が手を振ると、できかけていた人垣がしぶしぶ散っていく。
体がでかいと、こういう時に便利である。
三人で、部室に移動して、弁当を広げる。
つまり、たった今結成された、囲碁将棋部幹部会のミーティングだ。
「で、畑中。何に引っかかってるんだ?」
畑中に訊く。
「持田君が、京子ちゃんのために一万円出した」
「出してない」
僕は即座に否定した。
「出したでしょ。お店で領収書受け取ってた」
「立て替えたんだ。出したんじゃない」
「同じじゃん」
「同じじゃない」
そこはきっぱり言う。
ここを曖昧にすると、話がややこしくなる。
僕らの言い合いを聴いていた杉宮が、腕を組んだ。
「畑中。持田が買ったのは美土里のギターじゃない。部活で使う備品だ」
「備品?」
まだ分からない畑中に、僕が説明する。
「ストラップ、シールド、チューナー、予備弦、初回調整。部員が練習するために必要なもの、だよな?」
「でも、京子ちゃんのギターにつけるやつでしょ?」
「京子ちゃんが使う。だが、部活動に必要なものでもある」
杉宮はそこで、妙に部長らしい顔になった。
「たとえば、将棋の本を買ったとする」
「うん」
「持田が読む」
「うん」
「だが、持田個人へのプレゼントではない。部の資料だ」
畑中が少し黙った。
「去年の文化祭で、棋譜コントをやるために使った物品レンタルもそうだ。あれは俺と持田が使ったが、俺と持田へのプレゼントではない。部の活動に必要だったから、部費で処理された」
「……なるほど」
畑中の口の尖り方が、少しだけ弱くなる。
僕も横から続けた。
「京子ちゃんのギター本体は、京子ちゃんが自分のお金で買った。そこは大事だ。ギター本体まで部費で買ったら、さすがに京子ちゃんの私物を部が買ったことになる。でも、備品と調整費は違う」
「違うの?」
「違う。部として練習するなら、最低限必要なものがある。シールドがなきゃアンプに繋げない。チューナーがなきゃ合わせられない。予備弦がなきゃ切れた時に練習が止まる。初回調整をしないと、初心者の京子ちゃんが弾きにくい」
「……うん」
「だから、部がその分を買った。持田個人が京子ちゃんに一万円貸したわけじゃない。もちろん、あげたわけでもない」
杉宮がうなずいた。
「会計上も筋は通る。あとで俺が執行部に出す。必要なら、部長会議でも説明する」
「杉宮君が?」
「部長だからな」
杉宮は当然のように言った。
畑中はしばらく黙っていた。
それから、僕を見る。
「じゃあ、持田君と京子ちゃんの間に貸し借りはない?」
「ない」
断言する。
「持田君が京子ちゃんに、かっこいいところ見せるために一万円出したんじゃない?」
「違う」
「ほんとに?」
「ほんとに」
何度も畑中は確認してくる。
だけど、それに続いて、
「じゃあ、清い?」
相変わらず分からないことを訊いてきた。
「少なくとも会計上は清い」
「変な言い方しないで」
畑中はまだ少し不満そうだったけれど、さっきよりはだいぶ落ち着いていた。
杉宮が、そこで少しだけ笑った。
「畑中。音楽のことはお前と渉に任せる。俺と持田には分からん。だが、部室を使うこと、部費を使うこと、文化祭の枠を取ることは、部長と会計が考える仕事だ」
「持田君、会計なの?」
「去年からそういうことになっている」
初耳のような顔をされた。
そういえば言っていなかったかもしれない。
「……持田君、そういうことできるんだ」
「できるというか、やらされているんだよ」
「私、そういうの全然分かんない」
畑中は、少しだけ悔しそうに言った。
それは、珍しい顔だった。
ギターのことも、ベースのことも、ドラムのことも、ロックのことも、だいたい畑中が僕を引っ張っていく。
でも、部費や生徒会執行部や文化祭の申請となると、畑中は全然分からない。でも、そろそろ勉強してほしい。
杉宮が、畑中に紙を差し出すような仕草をした。
「分からないなら覚えればいい。畑中も二年だ。来年も部が残るなら、お前もこういうことを知っていた方がいい」
「来年……」
「俺たちは来年は三年だ。受験勉強もあるから三人で分担した方が良い。美土里や渉にも徐々に分かってもらう。そのためにもお前が分かっていた方が、部は強い」
畑中は、少しだけ目を丸くした。
それから、僕を見る。
「持田君」
「何?」
「今度、教えて」
「何を?」
「部費のこと。執行部のこと」
そう言われるとは思っていなかった。
「……いいけど」
「じゃあ今回は、清い男女交際の妨げじゃないことにしてあげる」
「そもそも男女交際じゃない」
「そこは別に今決めなくていい」
なぜか一段偉そうな畑中である。
杉宮は苦笑しながら、僕の肩を叩いた。
「よかったな、持田。清い判定が下りたぞ」
「そもそも訳がわからないんだけどさ」
と言ったものの、少しだけほっとしてしまった僕である。




