三月
「持田君! これ来て!」
期末試験も終わり、明日明後日の週末を挟んだら、あと何日か補習に登校すれば短い春休みか、といった時期の天気が良いある日。
補習とはいっても僕が赤点だとかいうわけではなく、一応進学校なので全員補習なのだ。
その日の授業が終って、囲碁将棋部の部室に向かおうとしている僕に、同じく補習を受けていた畑中が駆け寄ってくる。
突き出された右手には、紙切れ、もといライブハウスのチケットだった。
思わず受け取ってしまった僕はそれをまじまじと見てみる。
三つのバンドの名前が書いてあり、僕らの家の路線の側……畑中がこの間演奏していた駅の近くにあるライブハウスの名前が書いてある。
名前を聞いたことがないわけではないライブハウスだ。
駅のすぐ近くのドラッグストアの隣に、地下に降りていく階段があって、そこがライブハウスだということは以前から知っていた。
とは言っても、実際に踏み入ったことはない。
僕はこれまでは、音楽をCDで聴く人間であって、生演奏をライブで聴こうとはしなかった。
生演奏に興味がないわけではないのだけれど、ライブハウスというのは、誘われたとか、きっかけというか、そういうものがないと最初に行くのはなんとなく気が引ける場所ではある。
「これ、畑中が出るのか?」
「そうでなきゃ、来てとは言わないよ?」
「いや、主催者とかありえるじゃないか……プロモータとか」
「そういうのって、想像をつまらなくするだけだから止めた方が良いんじゃない?」
呆れ顔の畑中だけど、
「そういうわけだから。二つめの『農耕士コンバイン』ってバンドだよ」
それだけ言うと振り返って走って行ってしまう。
ま、いいか、と思い、チケットを見返す……いや、よくない。
だってこれ、日付が今日の夜なのだ。
僕の予定は全然関係ないらしい。
まぁタダなんだし、この間の畑中の心地よい演奏をもう一度聴けるならば、悪くはないと思っておこう。
……タダだよね?
幸い、時間は割と遅い。
部活の後でも、充分に余裕のある時間設定だ。
教科書の入ったカバンを、よっこいしょとオッサンの掛け声で背負い直し、僕はそのまま囲碁将棋部へ向かった。
まだ時間は十分にある。日課の一局対戦をやってから向かうのでも、遅くはないだろう。
「僕もオッサンなのか……」
一つ目のバンドが終わった時、思わず口から漏れてしまった呻きだ。
畑中のバンドの名前もそうなのだが、何かおかしいイベントだ。
まず、客が少ない。
ライブハウスというものはさぞかし混み合ってて、押し合いへし合い立ち見をするものと思ってたのだけれど、このライブハウスは席・テーブルありだったのだ。
スタッフにどこに座ればいいのかを尋ねた時についでに、ここではいつもこうなのかと訊いてみたところ、昼間のライブとか、夜でもあまりにも客が少ないイベント時にはこうするんだとか。
通常ライブハウスでは、チケットノルマ制と言って、バンドが客を集めれば儲かる、バンドが集めた客数がノルマに達しなかったら、バンドがそれを負担するという形なのだそうだ。
だけど、今日は仲間うちの貸し切り&飲食は持ち寄りのイベントで、つまり最初からチケットは招待券としてしか出していないとのこと。
一つ目のバンド、確かに演奏は七十年代の色々なバンドやソロ歌手の古典ロックを取り混ぜたものだった。
やっぱり、客はオッサンばかり。今日のイベントは身内だけというんだから、多分友人の集まりなんだろう。
客だけではない、出演者もオッサンばかり。
若い人間は僕一人だった。
さすが古典ロック。
若い人は見向きもしない、オッサンの心の拠り所なのである。
自分の趣味がオッサンであることに落胆してしまう。
とは言え、人が多いライブハウスで揉み潰されることを覚悟してきた僕にとっては、背の高い椅子とテーブルとは言えゆっくり座って音楽を聴けることは嬉しいことだった。
演奏だって円熟味があって悪くない。
そう思えたことがオッサン趣味そのものだということに気がついて、落ち込んでしまう僕だった。
転換と短い休憩をはさんで二つめのバンド。
畑中達のバンドだ。
バンドの名前からして何となく嫌な予想はしていたが、MCが始まってみれば、その予想が正しいことに気づく。
畑中を除くメンバーが全員農家。しかもこれが解散、いや活動休止ライブなのだという。
時は春。
これから農家は忙しい時期だ。このニュータウンにちょこちょこ残された里山には、露地栽培の畑もたくさんある。
天候に左右される仕事のため、練習もまともに出来なくなる事もある。
というわけで、冬の間だけこのニュータウン近くの農家が集まって活動する、農家バンドとして結成された農耕士コンバインなるバンドは、今夜のライブを境に冬眠ならぬ「夏眠」に入るのだそうだ。
僕が解散ライブに招待されるなんて感激!とはならなかったけど、それでも農家のオジサンたちの熱いパッションで演奏された好きな曲を聴くのは心地よいものである。
客席から「アキラちゃーん」というおっさんの笑い声まじりの声があがった。
なるほど、この場では畑中はアイドルなのだ。
オジサンたちの中に若い女の子がいれば、それはアイドルになるのは確実。
おまけに自分たちの趣味の古典ロックを好んで演奏するのだから、人気が出ないわけがない。
畑中はこの間路上で弾いていたのとは違う、メイプル指板にボディが赤いストラトキャスターを楽しそうに弾いている。
まだ寒いというのに、上半身は完全に肩を出した薄いピンクのキャミソール、ボトムスはこの間と同じボーイフレンドジーンズ。
それでもキャミソールはゆったりめの大きなフリルがついている。
メガネはいつもの細くて赤いメタルフレーム。髪はアップのポニーテールにしていて、女の子っぽらしさも感じさせる春の装いだ。
ステージ上なのに化粧もしていないのが畑中っぽい。
だけど、すっぴんは、決してエレキギターを格好良く弾きこなす畑中の魅力を損なっていないどころか、引き立てているようにも感じる。
七十年代初期のプログレを中心に四曲と、それほど多く演奏しなかったけれど、畑中のバンドはすごくがつくほど上手かった。
いや、上手いというのとは少し違う。味があるのだ……音楽は聴くだけの僕は、具体的にどこが違うのかを言えないから、その程度だ。
なるほど、畑中はこの人達と一緒にやっているからこそ、オッサン臭いともいえるような深みのある演奏が出来たのかと、感心する。
もちろんプログレをやるぐらいなのだから技術だって伴っている……んだろう。
演奏しない僕には詳しいことはわからないけど、色んなロック系の文章には、そんなことが書いてあったのを思い出した。
でも、畑中のギターはその中でもはっきり分かるほど上手い。
上手いというかクッキリしている。音が一音一音変わる。音を伸ばしてる間も変わる。
単に変わるだけじゃなく、フレーズの中全てで、畑中は何を聴かせたいのか、それをはっきり感じられる演奏だった。
もちろん、そんな畑中のギターを目立たせるベースやドラム、キーボードの人達の演奏も上手いんだろう。
とあくまで素人の僕は考えながら、それでも畑中のギターが作り出す、複雑だけど心地よいノリに身を任せていた。
演奏が終わったバンドは、袖に引っ込まず、ステージから客席側につけられた階段を降りてきた。
先頭は畑中。
赤いストラトを肩から外しながら僕に向かって叫ぶ。
「やっほー。来てくれてありがとー!」
上機嫌である。
「あー、いけないんだー!ビールなんか飲んで。私もビール!」
……上機嫌である。
そのままギターを抱えたまま俺の隣の椅子に腰かける。
「こっちの路線側に教師がくることはないだろうけど……大丈夫?」
僕が、他人事のように心配すると、
「今日は貸し切りだよ? 部外者入れないもん」
とあっけらかんとしている畑中である。
バーカウンターの中にいたスタッフが「お疲れ様」と持ってきたビールをごくごくと飲み干すと、
「はああああぁぁああ!」
と声を上げた。
……もうオッサンそのままである。ギターを片付けるより先にビールに手が出るのだ。
不良でもない僕がビールを飲むのは、不良に憧れているからである。
とはいっても、先月畑中に絡んでいたああいう不良ではない。
六十年代から七十年代の、古き良きロック華やかりしころの不良、つまり、ロックスターだ。
畑中も普通にビールを飲むのは、たぶん僕らはそういうロックスターへの憧れを共有しているからだ……と、さして親しくもないのに、僕は何か嬉しくなった。
次のバンドは転換のみで休憩なしで始まった。
今度は農耕士コンバインとは一転し、英国流ブルースロックの曲……つまりクラプトンのゆっくり目の曲を演奏し始めた。
ギターボーカルのオジサンは、ちょっと見クラプトンに似ていて、期待に違わずねちっこく素晴らしいシャウト交じりの歌を聴かせてくれている。
しかし、その格好がおかしい。なぜ着流しでクラプトンなのか。
そしてベースは、何故かバンカラ風学ランにランドセルを背負っている。
どういう趣味だ。ベースを吊るすストラップがランドセルの肩をどう通っているのかも分からない。
そこだけ気になっていた僕に、「あれは呉服屋と制服屋が集まったバンドなんだ」とヒソヒソ教えてくれる畑中。
畑中はいつの間にか、この間と同じ黒いコーデュロイのスリムジャケットを羽織っている。
そのシックなジャケットは、中のふわふわフリルのキャミソールに合っていて、畑中のセンスの良さは感じさせる。
でもやっぱり、女子高生にしてはワードローブはあまり豊富じゃなさそうだ。
「ちなみに、最初のバンドは酒屋連盟。このビールも、グラスとサーバ込みで最初のバンドの持ち込み。振る舞ってるんだってさ」
と、大きくて優雅な形をしたおしゃれなグラスを軽く振って見せる。
絶句する僕だ。道理でエビス。
ライブハウスのドリンクは飲食店営業の許可を取るためのおまけ、というのは聴いたことがある。
販売価格がワンコインなら、仕入れ値が十分の一を越えるわけがない。
そんな場所でエビスを普段から取り扱っているわけがないのに、飲んでみたらそうだったのだから、
今日は貸切で振る舞いだからタダだとはバーカウンターで聴いたけど、そういう特殊な状況だったのか。
「……じゃあ、これは駅前商店街イベントなのか?」
「違うよ。私達は農家じゃん」
と、否定する畑中だけど、
「まぁ酒屋バンドのドラムと呉服屋制服屋バンドの制服屋ベースは、この駅の近くだから、駅前商店街とも言えるかも」
否定してなかった。
よくわからないが、この、東京のはずれのニュータウンで、商売を営んでいる人達の繋がりが強いことはわかった。
日本で一番古いニュータウンと言われるここら辺には、団地の住民向けに作られた小さな商店街がまだ残っている。
そういう場所で、都内へ出ていくのではなく、日中も地元にいて商売をしてきた人たちの繋がりは、自然に強くなるのかもしれない。
その会話に、農家バンドでドラムを叩いていたねじり鉢巻のオジサンが話しかけてきた。
「おお、なんだい、アキラちゃんの彼氏かい?」
オジサンも見た目からして癖が強かったけど、その声はオヤジに良くあるいやらしい風ではなく、気のいい農家のオヤジ、だった。
まさかライブハウスで『気のいい農家のオヤジ」なんて言葉を使うことになるなんて想像もしてなかった。
「マサさん、そうなのよぉ、この子すごく熱烈で、ついに負けちゃって夜を共にしちゃって!」
眼鏡を下げて上目遣いになりながらクネクネとしなを作り、畑中はそのオジサンに答える。
僕は軽くため息をついて、ニヤリとしながら肩をすくめた。
つまり、ロックスターがやるように、クールに否定して見せた、つもり。
でも、そのマサさんも呆れ笑いしてくれたので、おそらく通じたんだろう。
これがロックという音楽趣味を共通する者同士のすばらしさなのだ。
既にステージ上の演奏が、激しい曲……レイラに変わり、クライマックスを向かえていた。
畑中は、僕とオジサンの決まったそのやり取りを見ることなくそちらに集中してしまっていた。
もちろん僕だっていい演奏を不意にするのももったいないと感じるわけで、畑中への文句は出さずに、演奏を聴くことに集中する。
「あー、やっぱりクラプトンはいいねー」
素晴らしい演奏が終わった余韻で、グラスに残っていたビールをあおりプハーとやる畑中。
その言葉とその仕草は、間違いなくおっさんである。
よかった、自分以外にもおっさん趣味の高校生がいたと安心する僕である。
「で、なんでこんなイベントに僕を?」
問いかけた僕だったが、
「さて、帰るべ」
と彼女のバンドの影響だろうか訛ってしまう畑中が、僕の問いかけを無視する。
片方の手で脇に置いておいたギターの樹脂製ハードケースを持ち上げ、そして反対の手で僕の手をムンズと掴んだ。
「!?」
そのまま当然引っ張られる僕である。
荷物も持っていなかったので、別にこのまま帰ることは問題ないのだが、いいのだろうか?
「いいのか? 打ち上げとか」
と訊くと、
「このライブハウスでそのまま打ち上げなんだけど」
と一言置いてから、
「さすがに私がいると、オッサン達が気を遣っちゃって楽しく飲めないだろうから。高校生はおとなしく引き下がっておく」
とぽつんと言った。
畑中も、ああいうバンドにいるものだから、実は結構周りの人達に気を遣っているのだろう。
お互いに気を遣う関係も悪くはないだろうが、せっかくだからイベントの打ち上げぐらいは、オッサン仲間でやってもらったほうが、といった感じかもしれない。
畑中は僕の手を引っ張ったまま、入り口にいたスタッフらしい人に手を上げると、入り口の階段を上り、そのままこのライブハウスがある駅前から、北側へ向かって歩き出す。
野猿街道を渡って、さらに北側、畑がしっかり残っている一帯に向かって歩き出した。
捕まれた手はそのままなので、当然僕の体もそっちへ向かうことになってしまう。
「おい、どこ行くんだ?」
隣駅の僕としては、駅に行かなきゃいけないわけで、当然畑中の暴挙を止めようと声をかけたのだけれど。
「ダイジョブ」
今日の畑中は、ギターケースをこの間のようにストラップをつけて背負っているのではなく、片手に持っている。
僕に比べれば当然小さい畑中の、片手にギターケースを持って歩くバランスは、当然悪そうに見える。
全然「ダイジョブ」そうには見えない。
高々、グラスビール二杯。たいして飲んだわけでもないので、実はこいつ酒に弱いんじゃないだろうかと心配する。
「あのさ、帰るんだったら、駅に行かなきゃいけないんだけど」
僕の自宅は一駅西側である。歩けない距離ではないけれど、歩きたくはない。
そう言ったらいきなり畑中が立ち止まってしまったものだから、僕は制動が追いつかなくてちょっと畑中にぶつかってしまった。
「あ、すまん」
「でもさ、持田君」
畑中はそれには答えず、僕の方を振り返った。
「高校生が酒の匂いさせたまま、電車に乗るのは、いくらなんでもまずいんじゃない?」
酔って上気した顔で、ニンマリと僕の方を見てくる。
「学校から離れた場所とは言えさ」
確かにそりゃそうである。僕はこの程度なら顔に出ないので、よほど近寄らない限り匂いもしないだろうし、あまり気にはしないけど、まずいことはまずい。
「酔醒ましできる場所があるのか?」
ニンマリしたのだから、多分畑中には当てがあるのだろうと思う。
「うん、音楽も聴ける場所だよ」
「そりゃいいな」
思わず答えてしまった。
さっきの演奏が素晴らしすぎたのだ。
まだ心が余韻で揺さぶられている。
もっと音楽に身を任せていたい時間だ。
「じゃあ着いてきてよ」
そのまま体を翻し、畑中は再び歩き出す。
でも僕の方は、着いていくというより引っ張られているのだ。
「ここだよ」
駅前にあったライブハウスから、酔った畑中のペースで歩いて10分ほど北側、畑が始まる手前。
普段僕が、学校に行くのにバスに乗って通っている道。
最近できた巨大なマンション脇の短いトンネル。そこをくぐった先の、大き目のスーパー。その駐車場。
そこにスーパー本体の建物ほどではもちろんないけれど、そこそこ大きな四角い建物がある。
スーパーでさえ営業を終了している時刻に、まだ明かりが灯った店舗。
「このスーパーの脇は毎日通ってるけど、そう言えばこの建物が何なのか知らなかったな。何なの?」
畑中は僕の質問には答えず、
「やっほー」
ドアを自分で開けて僕の手を引っ張ったまま店の中に突入した。
「あれどうしたの、アキラちゃん」
そうにこやかに声を返してくれた、カウンターに知的そうなお兄さんが一人。
棚にはCDがいくつか陳列されているのはわかるけど……他は本棚みたいになっていて。
「それ、クラシックの楽譜」
思わずキョロキョロしてしまった僕に、畑中の解説が入る。
店に入って手は放してくれたから、僕は思わず、そっちの楽譜の方に吸い寄せられてしまう。
薄っぺらい楽譜をいくつか取ってみたけど、日本語が記されているものがない。
どうやらその棚にあるのはほとんど輸入ものの楽譜らしい。
隣の本棚には同じ装丁の楽譜がやはり大量に並んでいて、そっちの背表紙には日本語が書いてある。ちょっとだけ安心した。
キョロキョロしてみれば、さっきは気づかなかったけど、大量の楽譜棚の奥には、楽器の消耗品らしい物品が置いてある棚もあった。
へぇと感心しながら、その棚を見る。これは管楽器のリードだろうか?
青い箱を一つ手に取ってみたらクラリネットと書いてあった。
「このお店って楽器屋なの?」
知り合いなのだろう、カウンターのお兄さんと話している畑中に声をかけてみる。
邪魔かなと思ったのだけれど、目的地も知らされず連れてこられたのだから、質問する権利はあるはずだ。
ところが早く帰って来た声はお兄さんのものだった。
「楽器屋とはちょっと違うかな。一応音楽練習スタジオだよ」
「ここが練習スタジオ?」
ちょっと驚いてしまう。
練習スタジオというと、暗い地下にある落書きだらけの場所を想像していた。
でもここは地上にあるし、下品になりすぎないぐらいの明るさで、白熱灯系の色で調光され、陳列棚のも品がいい。
全体的に感じのいい店舗である。
練習スタジオをよく使う人には申し訳ないけど、イメージが違いすぎる。
「お父さんがね、ピアニスト崩れなんだ」
自分の父親を崩れ呼ばわりするとはけしからんとも思うけど、そこは突っ込まないでおく。
畑中の解説によると、ここはこの土地を持ってる会社……ニュータウンや団地の住民向けに営業しているスーパーの経営者でもある畑中の父親が、片手間に経営している練習スタジオらしい。
ただ普通の練習スタジオと違うところは、ここがクラシック向けのものであること。
若い人がクラシックなんてほとんど聞かない現代でも、何だかんだ言ってもピアノはクラシックメイン。
学校の吹奏楽の指導者だってクラシック出身なんだから、教わっている生徒もクラシックの曲のバリエーションが増えるだろう。
そういう人達は、ロックな格好をしている兄ちゃん達がたくさんいるような普通の練習スタジオには入りにくい。
そこでそういう需要を狙ってこのスタジオを作ったらしい。
大人になってからピアノを再開した人や、学校の外でパート練習をしたい吹奏楽部の生徒たちには、こういう場所の方が入りやすいのだろう。
少なくとも、僕が想像していた落書きだらけの地下スタジオよりは、保護者受けがよさそうだった。
さらに、地域の住民向けのクラシック系の音楽教室を開いたり、この近辺の交通事情に合わせてスーパーと共用の駐車場を用意した上で、輸入楽譜を大量に取り扱うことで、素人のみならずプロが使う練習スタジオとしても利用されているのだそうだ。
「当然輸入楽譜のネット販売にも手を染めているし、ピアノ教室のコンサートの録音や録画、なんならここからネットライブ配信もできるように設備は整えてあるよ!」
畑中が解説してくれる。
クラシックの楽器は当たり前だけど生音が大きく響くようにできている。
つまり、エロ要素抜きのちゃんとした演奏動画で再生数を稼ぐためには「ちゃんと生音が響くクラシック音楽のための配信スタジオ」みたいなものが必要になる。
そこに目をつけた、ということらしい。
「私は配信全然わかんないんだけどね、お父さんはしっかり勉強したんだって」
畑中のお父さんはピアノの才能は無かったかもしれないけど、商才はあるようだ。
「アキラちゃん、その子を紹介してくれないのかい?」
畑中に声がかかる。
カウンターのお兄さんが酔醒まし用と思われる水をコップに入れて持ってきてくれたのだった。
「あ、ありがとうございます」
恐縮して受け取って、紹介してくれるように畑中を見る。
「クラスメートの持田君」
「あ、はじめまして」
会釈をしようと思ったところで、
「もう趣味がドンピシャで合って、一気に関係が進んじゃって」
と畑中が言う。
軽く頭を振って否定してみせてから、お兄さんに向かって会釈をする。
「持田です。よろしくお願いします」
お兄さんは、僕のその仕草をみて、ちょっと割らないながら、自己紹介してくれた。
「僕は富樫といいます。見ての通りここのバイトです」
本当に人当たりのよい人だと思う。
なんでも富樫さんは音大で打楽器を専攻しているのだそうだけど、家で練習できない曲をここで練習する目的もあって、バイトに入っているらしい。
「それで富樫さん、ピアノがない部屋空いてます?」
畑中が富樫さんに訊いている。
「僕がここにいるってことは空いてるんじゃない?」
富樫さんが微笑みながらカウンターからでて、6つほどあった奥の扉のうちの一つを開けてくれた。
畑中はまた僕の手を掴んで、その部屋に入る。当然僕も手を引っ張られて入るわけだ。
「うわっ、おしゃれ」
なんともバカ女の言いそうな台詞が自分の口から出てきたことに、自分自身で驚く。
そこは想像していた『練習スタジオ』ではなく、綺麗でおしゃれな小部屋だった。
床はすべて板張りになっているし、壁もパステルカラーの布地と板が交互に張られている。
その板も薄く塗装が施されたような上品な色合いで仕上げられている。
後で聞いたところによると、クラシックの演奏家にとって「部屋鳴り」は重要で、ただ響けばいいわけではなく、気持ちいい反響を作ってやる必要があるのだそうだ。
反響させすぎると練習にならなくなるため、ほんのちょっと反響がある程度に抑える必要がある。
そんな微妙な調整を施すため、吸音の布地と板を交互に張り付けて調整しているのだとか。
ロックなんかの練習スタジオは、音を吸収させて外に出さないだけでいいから、壁全てが吸音材でもいいのだろうけど、逆にクラシックだからこそのおしゃれさを板張りで演出できるのかもしれない。
テーブルがいくつか置いてあったら、自称おしゃれな女の子達が喜びそうなカフェになりそうな感じだけど、今のところは大きなソファとガラス製のローテーブルが置いてあるだけだ。
なるほど、クラシックを習いたい、もしくは子供に習わせたいと考えている人達にはこういうのが受けるんだろうなぁと感心する。
見事なマーケティングだ。
ただ、おしゃれな空間にしては窓がなく、ドラムセットを含めた打楽器がいくつか置いてある。
「ここ、ピアノ置いてない唯一の部屋なんだ。吹奏楽のパート練習や打楽器向け」
畑中が説明する。
打楽器や管楽器のパート練習となれば、ピアノよりも人がどれだけ入るかの方が重要になるだろう。
クラシックではあまり想像できない「ピアノを置かない部屋」には、意味がちゃんとあったのだ。
「へぇー……それで?」
感心して、本題に移ろうとする僕なのだが。
「それでって何?」
「ここで音楽聴くのか?」
「そうだよ」
でも、オーディオのセットが見あたらない。それにここは一応クラシックのスタジオである。ロックのCDなんてあるのだろうか?
「どこにCDが?」
「え?」
え?ってなんだ。
「持田君が演奏するんだよ?」
で、なぜかスティックを持たされドラムセットに座っている僕であった。
騙されたとか感じる前に、呆然としている。なぜ音楽を聴くはずが、その音楽を自分で演奏することになっているんだろう。
というか、僕は今まで自分で演奏するなんてことを考えたことがなかった。
僕にとっては、音楽は他人が演奏するのを楽しむものであるはずだった。
畑中に簡単な説明を受ける。
「エイトビートの基本的なパターンがいいね。左足踏みっぱなしで、その上で右手を刻んで……左手は右手五回目に叩く、みたいなイメージかな。右足はまだ動かさなくていいよ」
まぁ動きとしてはわかる。
ドラムなんて両手足が自由に動き回るものだと思っていたけど、実際は右手左手は連動しているから独立に動いているわけではないってことなんだろう。
だけど、それが言うほど簡単に出来たら、ドラムの講師は失業するんじゃないの?
「じゃあまず右手やってみて、左足踏んだまま……そうだねテンポ六十のゆっくり目で……」
そう言って、猫が鳥に対して発するような「カッカッカッカ」と歌い出す畑中。
その速さで右手でハイハットを叩いてみるも、なかなか上手く動かない。
早く動かそうとすると力んでしまって、かえって動かしづらくなる。
「こんなの無理だろう。世の中のドラマーは一体どうやってあんな速さで叩いているんだ?」
一発目から泣きが入る僕なんだけど、畑中は首を傾げる。
「うーん……持田くん、スプーン曲げできる?」
「僕は超能力者じゃないぞ」
「知ってる。もし持田君が超能力者だったら、私とっくに催眠術でメロメロにされて、貞操奪われてるはずだもん」
「超能力と催眠術は違うんじゃないか?」
「同じだよ。そうじゃなくて、スプーンの首を持って上下に揺らすと曲がって見えるやつ」
「ああ!」
なるほど、それなら遊びでやったことは何度もある。
畑中は続ける。
「アレをさ、手首中心にやるの。スティックと手首の力を抜いて手首を中心に肘の方を動かす」
と、畑中は自分の手首をふらふらさせて見せた。
「スティックは人差し指と親指だけで保持して、他の指には触れてない状態」
空中で試してみる僕。
「それならできる。でもこれじゃ動き大きすぎないか?」
「肘の動きを少しずつ小さくして、その分を薬指と小指でちょっとだけ押してあげる感じ。左の貸して」
と畑中は左手で僕の左手を握って右手でスティックを取り上げた。
ギターを弾いているんだから、てっきりゴツいものだと思っていた畑中の手は、実は柔らかい女の子の手だった。
「肘の動きを少しずつ小さくして、その分を薬指と小指でちょっとだけ押してあげる感じ。左の貸して」
畑中は左手で僕の左手を取って、右手でスティックを取り上げた。
ギターを弾いているんだから、もっと硬い手をしているのかと思っていた。
でも、触れた畑中の手は普通に柔らかかった。普通に、というのも変だけど、そこで一瞬だけ、僕の頭からドラムが消えた。
「こう。肘は大きく動かさない。手首は柔らかいまま。スティックも握り込まないで、手の中で柔らかく遊ばせる」
畑中は柔らかい、という言葉を連発した。
実際、その手の動きも柔らかかった。
僕は一度だけ頭を振って、余計な方向へ行きかけた意識を戻す。
それから、畑中の動きを真似してみた。
ん?
おおおお?
「できる、叩けるぞ。普通に叩けるぞ! これはすごい!」
我ながら感動してしまう。こんな一つのコツで、全然体の負担が違う。
負担というよりは、僕自身の体の力が抜けたからだろうか。
しばらく動いてみて、感覚を掴みかけた僕だったけど、
「で、一回揺らすのに二回叩く」
「は?」
突如要求が増えたものだから、畑中が何を言っているか、僕にはさっぱり分からなかった。
「手首側が落ちる時に一回、上がる時に一回」
「……ごめん、何を言ってるのか分からない」
「あー、そうだよね……もっかい貸して」
畑中は再び僕の左のスティックを欲しがったので、今度は僕から渡した。
「えーと、肘と手首はスプーン曲げなんだけど、実際にスティックを動かしていてアタックを出しているのは薬指と小指だよね?」
右手で握って薬指で動かしている手のひら側を見せてくる。
「持田君は私より手が大きいはずだから、薬指だけかもしれないけど」
「いや、そんなことないぞ」
スティックを持っていない左手を広げて見せたら、畑中がそのまま自分の手を重ねてきた。
柔らかさだけじゃなく、今度は体温まで分かった。
「ホントだ。持田君の手、思ったより女の子の手だ」
畑中の方がよほどそうだろ、と思った。
畑中はたぶん、自分が何をしているのか半分くらい分かっていない。
分かっていないくせに、妙に堂々としている。
だからこっちも、分かっていないふりをしてやるしかない。
そう思いながら、僕は取られた手を引っ込めなかった。
畑中はもうスティックの話に戻っていた。
「まいいや、薬指と小指でスティックを動かして、上がる時にはこう……叩いた反動で手首が上がる……」
「おおお!」
ゆっくり動いて見せた畑中の女の子の手を見て、でも女の子の部分は吹き飛ばしてしまう納得感に、思わず膝を叩いてしまう僕だ。
再び面白い驚きだ。思わず自分でも動き始めてしまう。
「うん、そうそう。まずゆっくり始めるのも、持田君の筋がいい証拠だよ」
僕がまず確認のようにゆっくり動作を始めたのを見て、畑中がニンマリ微笑んだようだったけど、僕は自分の動きに集中している。
「それでずっと叩いてみて……少しずつテンポ早くしていこう」
「理想はバスドラに合わせてハイハット四回叩く間に肘が一往復するイメージを持つのが重要。もちろん今はさっきの通り二回で一往復でいいんだけど」
試しに「四回に一回」を意識しながら叩いてみたけど、崩れるだけだった。
「うん今は大丈夫。次はスネア。左手。同じように手首を中心にスプーン曲げ。でもこっちは上げなくていいよ、一回振り下ろすだけ」
試しに左手を落としてみたら、スパーンととてもいい音がした。
いや、本当にいい音かどうかは僕にはまだわからないんだけど、部屋の中に響いたのだ、とても綺麗に。
畑中はニコッとして、
「いい感じ、あとはハイハットに合わせて、カカカカタン!でスネアを入れればいいよ。ハーフタイムって言うんだけど」
本当か?と疑った僕だったけど、でも畑中の説明で「カカカカタン」はできるようになってしまっていた。
「あとは、タンを叩いた後も右手が同じリズムで動き続ければいいんだよ。もう持田くんはできるよ多分」
いやできないだろうと思いつつ、左足はペダルを踏んだまま、右足は動かないまま、右手と左手だけを動かしてみる。
「あれ?」
自分で驚く。出来ているのだ。
普通にCDで聴くような、だけどひねりのないリズムが部屋に流れている。
「なんで?」
本当に何でだろう。さっぱりわからない。
「別に驚くことじゃないよ。持田君、器用で運動神経も悪くないから出来ないわけがないんだよ」
畑中はあっさりと言ってのける。
「初心者って、だいたい跳ね返りでつまずくんだけどさ。今のやつなら、そこ雑でも壊滅しないんだよ」
「ホントかよ?」
でも、自分がドラムを叩けていることが、本当に嘘のように感じられるから、そうするように指導してくれた畑中の言うことを認めざるを得ない。
「それに、ドラム叩くだけならコードの知識とか響きの実感とかは要らないし」
コード進行という言葉は知ってても、それが何を意味するのか、聴くだけの僕には分からなかった。
「そんで、お酒入って却って余計なこと考えないから、素直に体が動いちゃう」
普通逆じゃないかと思うのだが、確かに余計なことを考えると体は動かなくなるという話はよく聞く。
そういう意味では、何も考えずにやってみたら出来ちゃったというのは納得できるかもしれない。
「で、右足はカカカカタカカカの頭に入る」
やってみたが、畑中の説明ならスネアが入らないはず最初の部分も、右足右手左手が全部動いてしまう。
畑中は意地悪げにニヤリとした。
「うん、できないのわかるよ。できないよねぇ?」
「くっ……」
悔しいのでもうちょっと続けてみたら……あっけなくできるようになってしまった。そしてそれを続けられている。
畑中のニヤリとした顔がすぐ驚きの顔に変わったのは、面白かった。
「すごいね……」
畑中は一回、言葉を探すように瞬きをした。
「持田君、できちゃったスピード婚だね」
そうなのである、僕がCDでよく聞くエイトビートのフレーズを演奏できてしまったのである。
驚いたのは畑中だけでなく、僕もそうである。
まさか自分の手足から、CDみたいな演奏が出るなんて。
「そのまましばらく叩き続けて感覚掴むといいんじゃない?」
畑中は満面の笑みになると、後ろのソファに腰掛けた。
僕がそのままずっと繰り返しを続けていたら、後ろから変な声が飛んでくる。
「後ろから眺める持田君の背中、セクシーだよね。微妙に猫背なのがまた可愛いの」
指導的コメントをしてほしい、と思った。
いや、思っただけ偉い。
畑中の言葉は、適当に肩をすくめて流すと決めたところだ。
でも今は、流すための余裕すらなかった。
右手、左手、右足。
それぞれが別のことをしているようで、どれか一つでも意識しすぎると全部が崩れる。
僕の脳みそは、今、畑中の変な感想よりも、自分の手足がまだ音楽を続けているという事実の方でいっぱいだった。
たっぷり十分ほども繰り返しただろうか。
後ろの畑中が立ち上がって、前に歩いてくる。
「でさ、他のも叩いてみてよ」
えー。無理だろ。
叩いてみようとしたら当然リズムが崩れて、僕の初めての演奏は止まってしまった。
「うーんとね、つんたんつんたんつんたん、うつかか」って感じ」
声と身振りで説明してくれる畑中である。
「う」は休み、「つ」右手と左手を両方同時にスネアを叩く、「かか」は右手で上に並んでいるタムを叩く、という感じのようだ。
畑中の説明はこんな場所じゃなきゃ明らかにおかしい人なのだけれど、せっかくなのでそれをやってみる。
「え……」
できた。
できてしまった僕である。
「うんうん、お酒の力は偉大だ」
したり顔で頷く畑中である。
たぶん酒だけの力ではない。畑中の説明が変なのに妙に的確なのと、僕が意外と素直にその変な説明へ乗ってしまっているせいだ。
畑中が言っていた「跳ね返り」というやつが、少しだけ分かった気がした。
力を入れると、スティックが変なところで暴れてダダッと二回鳴る。
逆に、小指と薬指で軽く落として、跳ね返ってくるのを待つと、スネアは素直にタァンと鳴った。
楽器のくせに、こっちが力むと嫌がるらしい。
右手と左手のタイミングが合っていないこともあったけど、徐々に慣れてくる。
「んじゃ次は、カカタカカカタカってリズム。スネアが二拍目と四拍目にはいるの」
「こう?」
「そそ、できるじゃん」
「むしろこっちの方が簡単に思えるな」
というのが僕の感想。
「で、いつまで叩けばいいんだ?」
「気が済むまで」
ちょっと気になったので、訊いてみる。
「気が済むって誰の?」
「え? もちろん聴いてる私の気が済むまでだよ」
平然と答えやがった畑中である。
どうやら僕は、音楽を聴きに来たはずなのに、畑中に聴かれる側へ回ってしまったらしい。
「テンポはとりあえずこのぐらいでいいよ。慣れたら早くできるけど、その前にまず綺麗に音鳴らす方が優先だから」
「綺麗な音って言われても、わからないな」
憎まれ口を叩こうとしたが、実際おもしろいのである。
楽器の演奏なんてできないと自分は当然のように思っていた。
だけど実際やってみたらできるのである。
CDから出ていた音を、今自分が出している。
これがおもしろくないわけがない。僕は熱中してしまう。
しばらくやってみると、先ほどから頻発していた、左手で二回不規則に叩いてしまうことは無くなって、徐々に右手との差がなくなってきた。
心の中でガッツポーズの僕だけど、
「慣れてきたら二拍目の裏で右足踏んでみるのもいいかも」
畑中がどんどん課題を追加してくるので、喜ぶ暇もない。
一音一音を綺麗に叩けるようになってきたところで、フレーズの切れ目ごとに他のタイコやシンバルを別のリズムを入れて叩いてみる。
難しい……他のタイコを入れられなくはないが、今度はこれまで綺麗に叩けていた左手の音が汚くなる。
僕は今、こんなおもしろいことが世の中にあったのかと感動している。
将棋を指す時にフル回転させる頭から出てくる快感とは、また違ったおもしろさが自分を満たしているのを感じた。
どのぐらい経っただろう、熱中していてわからなかったが、気がついたらジャケットを脱いで、さっきのピンクのキャミソール姿に戻った畑中が、入り口を開けてでかいスピーカのようなものを入れようとしていた。
僕は演奏を止めて苦笑してみせた。
「おいおい、ここクラシック向けのスタジオじゃないのか?」
ドラムがあるのはまだわかる。
一応アコースティック楽器だし、クラシックや吹奏楽でドラムセットを使う曲があることも知ってる。
たしか中学校の音楽の授業で聴かされた。
なぜかピアノがドラム演奏の伴奏しているというシュールな曲だったので、インパクトが強かったのである。
多分富樫さんも使っているのだろう。
で、ドラムはいいとしても、畑中が入り口から引っ張って来たのは、エレキギターかベース用のアンプだと思える。
全然クラシックの楽器じゃないじゃないか。
「吹奏楽はエレキベースも使うんだよ……まぁここにくるのはほとんど管楽器の子たちだけど」
「どういう時にエレキベースなんだ?」
「宝島とか知らない? ラテンリズムの曲の時は多いよ」
「へぇ」
「でもそのエレキベースは家で練習できるんだよな?」
「まぁ、いいじゃん。クラシックを諦めた父の娘は、古典ロックオタクだったんだから、娘のための福利厚生でもあるよね」
つまり、これは畑中の趣味の備品って事じゃないか。
そんなことをつぶやきながら畑中はまた外に出て、こんどは赤の本体にピックガードが白のベース……ムスタングベースタイプのものを抱えてきた。
「弾けるのか?」
「うん」
「なんでギターじゃないんだ?」
「ドラムと合わせるならベースの方が面白いから」
どうやら畑中は聴いてるだけではなく、自分でも演奏しようということらしい。
しかも僕と合わせるという。
「合わせるっつっても、僕は曲なんか知らないぞ」
「曲は知ってるじゃん」
「叩ける曲なんかないって言ってるんだよ」
確かに知っている曲は多いだろうが、自分が演奏できるかというとそれはまた別の話である。
「いいの、今の普通のストレートのエイトビートと、ハーフタイムのエイトビートのパターンとオカズができてれば、たいていの曲に対応できるから」
オカズ? なんだそりゃという僕の顔を見て、
「フィルインのこと」
と補足してくれる。
なるほど、音楽雑誌や本とかでは使われない演奏者同士のスラングということか。
「持田君の夜のオカズじゃないよ。あ、私のオカズは持田君だから」
さっきの手もそうだけど、今日はちょいちょい男女関係ネタとか下ネタを挟んでくる畑中である。
多分、これも僕らが共有している、古いロックスターへの憧れなのだと思う。
酒を飲むのも、危ない言葉を平気で使うのも、本物の不良になりたいからではない。
そういうふうに喋るのが、ロックっぽくて格好いいと思っているだけだ。
それに、畑中がそういう行為や言葉の中身を、本当に実感を伴って理解しているようにも見えなかった。
手を握ることも、手を合わせることも、「夜のオカズ」なんて言葉も、意味としては分かっている。
でも、それが自分の身体や、誰かとの距離に影響するかなんてことは、まだ知らない。
分かっていないくせに、堂々と言う。
その堂々とした分からなさが、畑中らしいと言えば畑中らしい。
だから僕は、いちいち突っ込まないことにした。
畑中がまだ知らないまま投げてくるものを、僕は受け取って、流す。
そういうことにしてしまった僕である。
「とりあえずさっきのパターンの繰り返しでいいから叩いててよ。こっちで勝手に合わせるから」
「わかった」
まだ畑中のセッティングも済んでないだろうけど、勝手に合わせると言っているのだから、こっちも勝手に始めておく。
しばらくさっきのフィルインへのつなぎを確かめながら叩いていると、畑中が立ち上がった。どうやら準備が完了したらしい。
「よし、んじゃ始めるか」
ストラップを頭から被りベースを肩にかけ、畑中は気合いを入れる。
そして僕が習いたてのエイトビートに、音をぶつけてきた。
「おおおお……」
思わず感嘆の声が出てしまう。
ドラムだけの演奏とは全然違う。自分が叩いた音の粒の間をベースの音が水のように満たしていく。
しかも注ぎ込まれるだけじゃなく、まるで洗濯機のように揺らしてくるのだ。
これは面白い。自分一人で叩くのとはまた全然違った面白さだ。
思わずニンマリしてしまったらしく、畑中から、
「どう、楽しいでしょ?」
畑中が、ベースを弾いたまま笑った。
さっきまでのニヤニヤとは少し違っていた。
からかっているというより、自分の見つけた何かを、僕に見せびらかしているみたいな顔だった。
「ああ、悔しいけど正直面白い。将棋指すのと同じくらい」
「んじゃもっと楽しくしよう」
畑中はそう言うと、一度音を止めたと思ったら今度は短いパターンを繰り返し弾き始める。
ベースが奏でるそのリフには聞き覚えがあった。本来ならギターが演奏しているリフだ。
「Dancing Days?」
畑中が顔を上げた。
「Zeppelinの?」
僕が訊いてみれば、
「なんでこのリフだけでわかるの? やっぱり持田君もロックオタクだ」
畑中はニヤリとしながら、演奏を続けてた。
んじゃ、こうすりゃいいんだろ。
畑中が歌メロを鼻歌で歌い始めてから、四回パターンを繰り返すごとにフィルイン……畑中が言うところのオカズを入れる。
それに、『食う』って表現するんだったか……次のパターンに入るよりちょっと早めに、クラッシュシンバルを鳴らしてみた。
もちろん素人の僕がやるのだからZeppelinのCDのような格好いいフィルインじゃないけど、とりあえずそれっぽく演奏すれば雰囲気だけでもでるかなと思ったからだ。
僕のフィルインとシンバルに気がついた畑中が、楽しそうに顔を上げた。
受験勉強を通じて自分の耳に染み付いた音楽が、ベースとドラムと鼻歌だけとは言え、今自分たちの手から流れている。
自分にこんなことができるなんて、全然考えたこともなかった。
もちろん、ちゃんとバンド活動をしている人が聴いたら鼻で笑われてしまうような、ドラム演奏だと思う。
でも、自分でちゃんと音楽を作り出せているということが、僕にはものすごく面白かった。
曲も終わりで、畑中が僕をチラッっとみてきたけど、
「んっ…… わからん!!」
終わりのフレーズが分からず、適当なタイミングでクラッシュシンバルとライドシンバルを叩いてしまう。
「ふはー」
僕は思わず大きく声を上げてしまう。
「ほら、できたでしょ?」
こっちを見て、畑中がメガネを上げた。
「終わりはさ、だんだん分かるようになるよ」
言葉はそっけなかったけど、でも顔は、ニコニコというより、少し火照って見えた。
酒のせいなのか、今の演奏のせいなのか、僕には判断がつかなかった。
「ああ、出来てしまったよ」
それは僕の正直な感想なんだけど、
「しまった、ってなんだよー」
畑中には笑われてしまった。
さっき「できちゃった婚」って自分で言っていたのを忘れたのか。
僕はドラムセットから立ち上がって、ソファの所へ向かう。
「これ、なかなかいい運動だな。アルコールが汗になって出て行ったみたいだ」
服がびしょびしょというわけではないが、結構汗ばんでしまっていた。
「今の持田君のドラミングは、持久力じゃなくて筋肉酷使タイプの肉体労働だからねー、まぁ慣れてくればほとんど筋力使わなくなるとは言うけれど」
そんなことを言うと畑中はドアを開けて出て行った。
どこへ行ったのかなと思ったら、すぐ帰ってくる。ただ、僕はその様子にちょっと呆れてしまった。
その両手には缶ビールが数本抱えられていたからだ。
「おい、酔いを醒ますんじゃなかったのか?」
「いいじゃん、汗かいたらビールが一番でしょ」
「そりゃ確かに」
認めるしかない。
僕の反応に笑いながら畑中は僕に缶ビールを一本手渡してきた。
お互いに缶を空けると、プシュという缶ビールでしか味わえない、あのいい音が、二つ響く。
「かんぱーい」
「乾杯」
そのまま僕らは地獄行き宴会に突入してしまった。
お互いにビールを一本飲んだら、畑中が別のエイトビートのパターン……スネアが二回に一回鳴る「カカタカカカタカ」を教えてくれて、それを演奏して合わせて、またビールを飲んで、その繰り返し。
350ml缶の三本目ぐらいまでは、酒はいい方に働いていただろう。
でもそれ以降はドラム演奏という肉体労働のために酒が回り過ぎ、グロッキーにならざるをえない。
気がついた時には、僕はソファに半分横になって毛布をかけられていた。
目を開けてみると、スタジオの景色がゆらゆら揺れる。
「持田君、大丈夫?」
顔ははっきりとわからないが、多分畑中だろう、心配そうな声を出しながら覗き込んでくれた。
「ああ、酔ってるのがはっきりわかるけど、ヤバいことにはなってないみたいだ」
「そか、よかった」
「ドラムやりながら酒はまずいということは勉強したよ。畑中は大丈夫なのか? 酒弱そうだったけど」
「うん、私も相当酔ってる。寝るところ」
ソファが揺れたので、畑中が隣に座ったのだということがわかった。
「私多分、持田君で興奮してるから酔いが回りやすいんだよ……」
ボソボソという畑中。
直後、ソファが少し沈んで。
畑中が僕の後ろに回り込んで、半分横になっていた僕の腰のあたりに手を回してきた。
「畑中?」
びっくりして声を出したのだけれど、体は動かない。
酒のせいもあるし、たぶん、それだけでもなかった。
「いいじゃん」
畑中の声は、眠そうなのに、妙に満足そうだった。
さっきまでベースを弾いていた手が、僕の服の上から、逃げられないように引っかかっている。
抱きしめられている、というほど大げさなものではない。
でも、ただ寄りかかっているだけでもなかった。
畑中はたぶん、自分が何をしているのか半分くらい分かっていない。
分かっていないくせに、離す気だけはなさそうだった。
「持田君、ドラム楽しいでしょ?」
再び意識が落ちてしまう前に、畑中の声が聞こえた。
僕は返事をしたと記憶している。
たぶん、うなずいたのだと思う。
「また一緒にやろうよ」
眠そうなのに、そこだけ妙にはっきりした声だった。
肝心の返事の内容は覚えていない。
でも酔った頭だから、多分拒否は出来なかったんだと思う。
それに、腰に回された畑中の腕をほどかなかった時点で、僕はもうだいぶ負けていたのかもしれない。
ただ、その時の僕には、何に負けたのかまでは分からなかった。




