第二章 千春さんの引き出し
ある土曜日、美咲は千春さんの家を訪ねた。
千春さんは六十代の短歌愛好家で、美咲にとって大切な師であり友人でもある。
小さな庭には季節の花が咲き、縁側には古い本が積まれていた。
「海外で短歌を紹介してもらえるんですって?」
千春さんは嬉しそうに笑った。
「はい。でも、翻訳って難しいですね」
「そうね。短歌は日本語の音や余白も大切だから」
千春さんは本棚から一冊の古いノートを取り出した。
表紙は少し色あせている。
「これは、若い頃に書いたものよ」
中には、若い千春さんの短歌がたくさん記されていた。
ページの隅には、海外の街並みや見知らぬ言葉のメモもあった。
「千春さん、海外に行きたかったんですか?」
「ええ。若い頃、外国の文学や詩に夢中だったの。いつか日本の短歌を外国の人に紹介したいと思っていたのよ」
千春さんは窓の外を見つめた。
「でも、仕事や家族のことがあってね。いつの間にか、その夢を引き出しにしまってしまった」
美咲はノートをそっと閉じた。
「まだ遅くないですよ」
千春さんは笑った。
「そうね。あなたが海を渡るなら、私も一緒に行ってみようかしら」
「一緒に?」
「オンラインでもいいし、いつか実際にね。私も、もう一度歌を届けてみたくなったの」
その日、千春さんは一首を読み上げた。
遠い日の
夢をしまった
引き出しに
春の光が
また差し込めり
美咲は胸が熱くなった。
人は何歳になっても、新しい夢を持っていい。
三十六歳の美咲は、六十代の千春さんから、そんな大切なことを教わった。




