【tp34】カエルの手のひらと、ミエルテの魔法使い 其の一
僕は、ずっと待っていたんだ。 君の魔法に似た、花束を手に。
君の名前の種類じゃなくて、同じ淡い紅の――。
小さな拳を握りしめたまま、俯いたレベッカ。二度三度と続く、彼女の嘆息。そいつが酷く湿り気を帯びた吐息に変わり、拳がぎゅっと握り直されるまでに、時間なんて殆ど必要じゃなかった。
毛布の上で小さく丸められた俺たちの両手に、熱くて仕方ない、涙が落ちた。にじんだ視界から、思いがけず溢れた、雫だった。
もちろん。俺、そう即答しちゃったけど、本当に大丈夫だったんだろうか。
確たる自信もないまま、レベッカに付き合うことを選んだ俺。そんな、「ポーリャとしての俺」のことを見逃すつもりでいるのか、ペギーは、何も言わなかった。と思いきや。
「……レベッカ様。そんなに、お嫌なら、どうして受けられたのですか?」
喉といわず背といわず、全身を震わせているレベッカに、突然、声がかかる。
言葉の意味であれば、どうにか理解が追いついた。
けれども、ペギーが、あえてそう口にしたことの意図だけは、すぐに察することなど、到底不可能だった。
悔しすぎる。⋯⋯せめて。せめてさ、俺の「読み」が、ちゃんとしてりゃあ、別なのに。
もはや何度目なのか分からない、渇き切った望みに、俺の方の心も少しどころではなく、軋みを上げる。
じくじくと訴えかけてくる、辛みを感じ取りながら、俺は思い直す。
それよりも、笙真のことだけを想って、嗚咽を止められずにいる、お嬢様のほうが、今は先決――。
感情と魔法、あるいは気持ちと心の全て、が入り乱れすぎて、顔すら晒せないでいる俺たちに、侍女の醒めた嘆息が届き、レベッカと一緒に、ますます下を向くほかない。
「統様の――統の婚約者になる。本心を捨ててまで、私に、謝られたツケでございますわよ。レベッカお嬢様」
伏せることしかできなかった、小さな、俺たちの背中。その表面を這うようにして、恐ろしく通りのいい、ペギーの声が、次の瞬間、耳朶に入り込んできた。ゾっとなるくらい、易々と。
「だから、私、あなたに差し上げたんです。五歳になるほうの、“鳥の秘薬“を。それこそ、お相子ですもの。ね、そうでしょう、|可愛らしいレベッカお嬢様《My little Lady Rebecca》?」
………………。
ねえ、ペギー? 今、なんて――――!?
ぎゅっと閉じていたはずの鶸の瞳。そいつを見開いて、咄嗟に顔を跳ね上げた俺に、小首をかしげたマーゴット・アデリーが、《鸚鵡》の粉とブラシを手に、嫣然と微笑んでみせた。
蛇睨みに遭った蛙よろしく、ぽかんとした泣き顔のまま、凍りついた俺とレベッカに、いくらかは、溜飲が下がったらしい。
こともなげに、声音を改めると、彼女は続けてくる。
「さあさあ、染め粉で御髪を整えますわよ。このままですと、ポーリャ殿の魔力だけでなくって、お嬢様の髪色まで抜け落ちてしまいますからね」
◇
「……ぃつッ……!」
「痛みましたか?」
この一月の間、ろくに食えなかった俺のせいで、思いのほか傷んでいたレベッカの毛先が引っかかったせいだろう。
走った痛みに、顔を顰めたペトロフ家の一人娘の姿を、鏡越しに認めたペギーが、うんと心配そうな口振りで尋ねてきた。
「べつにへいき」
俺とも、レベッカとも判別しがたい、魔法が観えないくらいに、押し殺した小声のみで応じてやると、ペギーは、あからさまに鼻白んだ表情を一瞬だけ浮かべてきやがる。
レベッカだったとしたら、絶対に、見落としてしまうくらい、本当に一瞬だけ。
「…………」
お嬢様と俺が、寝起きと立ち代わりを繰り返す、この身の大きな特徴であり、自慢の一つに違いない、見事な銅色の髪。
殆ど綿菓子みたい。そう言い表して差し支えないかった先月ほどではなくても、未だにたっぷりなボリュームのある赤毛を、普段よりも、相当な時間をかけて、やっと染め切ろうとしている、ペギーの指先は、随分と個性的な、七色の色彩の包帯に覆われていた。
時刻はといえば、つい今ほど、日を跨いだところだった。
これ以上ないほどに、唐突だった、ペギーの先の告白。憮然とする以外の十分な反応は、四時間近く経った、この瞬間に至るまで、未だ、返せては、いない。
……とはいえ、このまま忘れ去って、無に帰させることだなんて、土台無理な話。それは間違いなかった。
だって、だってだよ?
熱が高かろうと、身体が五歳の女の子であろうと、俺は、「明かし」の宮代昴なんだから。
額の汗を拭って、無言のまま、次の毛束を手にしかけている、生真面目そうでいて、どこまでも底知れない、ペギーの菫色の瞳。
それから、言い訳じみた俺の意思を宿す、レベッカの、柔らかな鶸色の瞳。
その両方を、鏡面の手前側に掛けさせられたまま、見つめるでもなく、見返して、俺は思う。
笙真君なら――、ううん、俺の先生なら。
最初に頭に浮かんだ、少年の顔貌を、強く打ち消すように、随分と曖昧になってしまった師の像を、殊更に意識して、脳裏へと結ぶ。
この手の告白事に対してだって、きっと即断即決で、きちんとした手を打てるんだろうけど。
半分ちょっとしか完成しなかった、先生に向かって、借り物の胸の裡で苦笑気味に、独り言ちた。
俺、まだまだ、だな――。
◇
唇を引き結んだ、マーゴット・アデリーが、異界の少年との二重写しとなったレベッカ・ルキーニシュナ・ペトロワの髪染めに勤しむ客間の、更に二つ隣の扉。
昼日中から、ずっとカーテンを引かれていた、二間続きのこの部屋は、日暮れから、疾うに数時間を経た今では、目張りの隙間から入り込んでくる、本当にわずかな星明かりを別にすれば、漆黒の闇に沈んでいた。
尤も、成熟した「明かし」である出水知恵の、双眸にしてみれば、十二分すぎるほどの光量であったが。
宮代家の魔法使いとして、光を取り込むのに特化している「読み」の魔法を、泣き黒子に彩られた眼球に貼り付けた出水が、無言で見つめる先には、薄い掛布に守られたまま、昏々と眠り続ける一人の少年の姿。
(……傷、残るかもしれないわね)
小柄とは言い難くなりつつある弟子の、その頬から耳へと抜けるように走る、真新しい切創に目を止め、苦々しげな表情を出水は浮かべた。
(笙真の親御さんに、なんて説明しよう。統さんのことだけで、家中動揺してるのに。その上、この子まで、こんなことになりましたなんて)
忸怩たる思いで、わずかに一往復分だけ首を巡らせた彼女は、伏せた視線を、力なく投げ出された弟子の手のひらに据え、胸中でだけ吼え声を上げた。
(言えるわけ、ないじゃない――!)
とはいえ、出水が、そう荒らぶらざるを得ないのも、また無理らしからぬこと。
本家筋ほどの正統な血筋とは言えないにしても、笙真という少年は、そう滅多には現れないような五感すべてに長けている「読み」に違いないのだ。
甲南湖に暮らす分家からすれば、秘蔵っ子と言い換えても、申し分ないほどの。
出水の弟子である、そんな少年に、目に見える手傷を負わせたのが、よりにもよって、宮代統の失踪にも強くかかわっている、「あのレベッカ嬢たち」と知られたら。
(本家の連中から、どんな横槍を入れられるものか)
膨れ上がった、暗澹たる予見とともに、出水は、尽く灯りを落とした部屋の中で、人知れず頭を抱え、煩悶するのだった。
――そんな彼女の傍らにて。
ピンと張られていた、シーツの上。暗闇の中で、無造作に拡げられたままでいた、笙真の指先が、ぴくり。
ほんの微かではあるが、明確に、震えはじめ、次の瞬間。
瘧を起こしたように、虹色の光を纏って、激しく打ち戦慄いた。
「読み」の隣接路経由で、鈍い燐きを瞼に捩じ込まれた出水が、弾かれたように、さっと両目を見開いた。




