【tp35】カエルの手のひらと、ミエルテの魔法使い 其の二十四時またぐ絶叫
星月夜の静寂を引き裂くように、前触れもなく大音声が駆け抜けた。
声変わり前の少しばかり高めの声音は、血を吐きそうな罅割れに塗れた、紛うことなき笙真の、つんざかんばかりの絶叫だった。
すっかり耳に馴染んだそれとは全然違う、獣じみた音へ、いち早く反応してみせたのは無論、レベッカにほかならない。
怯えと竦みが相半ばする気配が、俺と持ち合う羽目になって日の浅い、小さな令嬢の身体を震え上がらせる。
それでも引き寄せられてしまうのだろう。ふらつくことすら厭わずに、レベッカが椅子を離れる。彼女に追従する以外、本質的な自由を持ちえていない俺も同じだ。
けれども、身体のほうは残酷なほどに、本当に、正直だった。
駆け出そうとした右足が、みるみる縺れ、つんのめるように転ぶしかない。
満足に手を突くことすら叶わず、したたかに身体を打ちつけるに違いなかった俺たちが、怪我をせずにすんだのは、ただただそこにペギーがいてくれたからこその僥倖。
自覚した瞬間に、「お嬢様に魔法を使わせてはなりません」耳元で囁きが踊る。
ペギーの小声に、心中の深い場所で頷きながら、俺は、挫けずに済んだ両手で握りこぶしを作りつつ、既にいくつかの展開を頭に思い浮かべ始めている。
そんな俺の思考。それそのものが、レベッカにとって、どれほど惨たらしい毒であったか。一拍遅れで気づく。
笙真が危険(な可能性大)。それだけを過剰に感じ取った心の臓が、縮こまるのを放棄。初歩からギャロップを越えて、高いビートを叩き込まれる。
乾き切らない染色液の飛沫ごと髪を振り乱した彼女が、状況打破のために、魔力を練り始めたのを、根本で一つに結わえつけられた心を通じて最速で感知させられた俺が、《鋏》の型を通過しかけた魔法を無理矢理に「読み」の側に手繰り寄せて即座に相殺させる。
フルの魔法使いの身体がそもそも想定していない、バグギリギリの乱暴すぎる魔力運用。
急変動に巻き込まれて、ほとんど空っぽに近い五歳児の胃が、捩じ切れそうになる。
ひど過ぎる悪心。撥ねた魔力に打ちのめされて、再び膝が総崩れになる。
こうなることを分かっていながら半魔法使いの発作を再現する、論理上可能な大やらかし。
倫理的に大それた行為の重さに耐えきれず、ペギーに半ば抱えられた姿勢で、粘り気の強いあぶくまみれの口元を拭う俺に、立ち上がり直すだけの気力なんてほとんど圧し折れそうな一欠分しか、残されていなかった。
でも、心理面では――レベッカお嬢様にとっては、未だなお、別らしかった。
俺たちを閉じ込めている女の子の体調の悪さを理由に、へたり込みたがっている俺から行動を力尽くでむしり取るや否や、鬼気迫る勢いで、
「しょうまくん」
断続する叫び声の主の名を呟く。雨垂れのようなノイズで、儚く霞みかけていた視界が前を向いた。
理屈にかまけながら抗ってくる別の魔法使いのことなど、もはや構ってなどいられやしないのだろう。
御乱心寸前の醜態を晒したまま、
「行かなきゃ」
再び呟きを零した彼女が、一足跳びに姿を変えた。
《二つ身》の魔法で、ペギーの手を物理的にすり抜け可能なサイズの仔狐の姿を取りながら、彼女は、引きずるような足取りで、一歩を踏み出だし、駆け始めようとする。睨まされるドア。
まずいぞ。
この子、《鋏》で扉を突破するつもりでいる――!?
再びうなりを上げる魔力。とめないと。でも、もう、「読み」の型で魔法を撥ねさせたら、だめだ。だって、そんなことをしたら。
腕を伸ばして仔狐姿の俺たちを、再び捕らえようとしてくれているペギー。
彼女に向かって、俺は、半ば縋り付くような気持ちで、懇願していた。
「ペギー! 俺たちをとめて! もう一度俺がおさえたらこわしちゃうっるさあいかもしれない! ポーリャはじゃましないで! はなして、はなせ、はなすか――!!」 「⋯⋯狼藉を働く事、どうかお赦しを」
ペギーの声とともに、首筋にいやな衝撃が走った。
雪崩込むように、前のめりになりかけていた俺たちの意識が、形成されつつあった魔法の《鋏》が床に跳ねた反響音と入れ違いに、生暖かい闇の中へ溶け落ち、遠くなってゆく。
「ポーリャ殿の言う通りですわよ。レベッカ様」
⋯⋯自分は、なにをしているのだろう。
私の風に撃たれて、赤毛の仔狐の姿のまま昏倒なさって間もない、お嬢様の酷く熱を帯びた御身。
灰黒の乾いた鼻先で浅く苦しそうな呼吸をしている、主の小さな肢体を、レベッカ様とともに乗り上げてしまった寝台の上で、少しでも安らいで頂けるようそっと丸めて差し上げながら、私は思った。
視線だけを後ろにをやれば、床の上に散らばる、夥しい数のお嬢様とポーリャ殿の魔法の残滓――心をざわつかせるような、禍々しい鈍色の艶を帯びた刃の、小さな赤い鋏ども――が、嫌でも視野に入り込んでくる。
床中にばら撒かれている、鋏の刃だけにはけして触れないよう、慎重に足を運んだことを、苦々しく思いだす。
もう一度、あんな身捌きをさせられるのは、ちょっと勘弁してほしいものだわ。
ようやく降ろすことが叶った、獣姿のお嬢様の赤い毛皮に包まれた体を、両肘の間に見つめ、呟く。
「わたしこそ、休むべき?」
べきだろ。マーゴがそういう時って本当に疲れてるときだけだしさ。
「彼」なら、即座にそう返してくれるに違いない。
⋯⋯⋯⋯。
耳を澄ませても、叫び声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
おそらく、宮代笙真の容態が落ち着いたのだろう。
宮代笙真よりは、かなりましなコンディションとはいえ、こっちだって朝五時前から、動き通しだったんだけどな。
少しでもいい。
今のうちに、私も眠っておきたい。
でも、さすがにお嬢様と同衾するわけにはいかない、かな。いくらなんでも、弁えが足りなすぎるもの。
もっとも、まかり間違えたって、レベッカ様やポーリャ殿を押し潰すような間抜けな真似(宮代笙真が口にしそうな、少し腹立たしい表現!)はしないと思うけれど。
そんな風に、ぐずぐずと考えを巡らせた末、私は、お嬢様とおなじく、姿のほうを変えることを選んだ。
気怠い上半身を引き起こす。
膿んで痛む軸足を、再び床に降ろすのは相当億劫だったから、レベッカお嬢様たちを見下ろせる、文机の上を即席の寝床にしようと決める。
アデリー家の当主の妹にしては、我ながら本当に行儀が悪いや⋯⋯。
はしたなく這いつくばっていた姿勢を改めるために、いそいそと天板の上に腰掛け直しながら、私は思う。
でも、誰に見られているわけでなし。
もう、ここで休ませてもらおう。
たったの足掛け三日で、いくつもの傷を拵える羽目になった、ヒトとしての身。
倦むほどの疲労を抱え込んでいたソレが解けると同時に、濡れたような燕尾色の羽毛に飾られた《鳥》としての全身を膨らませ切った私は、今のいままで身に纏っていたお仕着せの臙脂に嘴を擦り寄せながら、スゥ⋯⋯。目を閉じた。
一頻りを終え、再び静まり返っている閉め切られた暗室。
他家の少女たちが眠る部屋とは、一室を隔てたその場所で、ほとんど壁に張り付くように、遠巻きに教え子の少年を見守ることしか出来なかった。
にもかかわらず、出水は、水を浴びせ掛けられたように汗塗れでいる。
煮え滾るような絶叫を伴って、大暴れした笙真の魔力。
魘されている。
そう形容することすら、生温く感じるほどに、尋常とは言い難い魔法の圧を、存分に網膜に打ち込まれた出水は、まるで生きた心地などしなかったわ。
そう言いたげに、噛み締めた唇の奥でごくりとつばを飲んだ。
続けざまに零す。
「私相手に啖呵を切る度胸はあるくせして、どうやったらここまで拗らせられるのかしらね。全く⋯⋯」
思い出すのは、つい昨晩の、少しばかり「烈しすぎた」弟子の少年との師弟喧嘩だった。




