【tp30】違える夢の主従ふたりと、兄上さまのノン・マアベラスで憂鬱な貝合わせ
サンド・グリーンを滲ませたような色合いを経て、コーラルへと変じた仄かな輝きは、灼光に届く手前で、忽然とその姿を消した。
それもその筈だ。思った私の眼前で、レディ・レベッカの瞳が、大きく見開かれるや否や、一気に反転する。最後まで抵抗を維持したがっていた指先まで、糸が切れたように力を失った。
……誰がどう断じようとも、ペトロフ家の御令嬢と、彼女に憑いた少年は、発熱に負け、完膚なきまでに目を回していた。
何一つ、マアベラスではない。
私は人知れず、ため息を吐く。
つい今ほどまでクラムシェルのようにマーゴットの背の上に重ね合わせられていた小さな体躯。力を失い、途端にずり落ちかけた蛤の上半分を、鋏から解放された私の妹が、両腕を回してすかさず背負い直した。
潤みきって、薄皮一枚分の意識だけをどうにか留めている令嬢の瞳が、少年の意図によるものだろうか。なおも渇望するような意地だけを、私に投げ掛け続けている。
縋り付くのではなく、いっそ可笑しく思えるほどに滑稽で物狂しげな経緯を見定めるため、私は妹へと視線を転じることを決めた。
「マーゴット」
「答えたく、ありませんわ。ならぬと仰られてもです」
「ならば、妹殿の主殿を起こして、直接問い質すとし」「なりません! ――お嬢様は答えられるお加減ではありませんもの」
「なる、ならぬを決めるのは私だ、マーゴット。私は、アデリー家の当主として、君に尋ねているのだけど?」
私は、氷みたいな兄の視線が背中に突き刺さるのを感じながら、レベッカお嬢様の身体を寝台へと横たえる。
ひどく汗をかかれた、お嬢様のお召し替えを理由に、退出を促してやろうかしら。
背後から投げかけられている兄様のペールブルーの眼差しはもちろんのこと、熱と一緒に、ポーリャ殿の意識がぼんやりと浮かんでいるかもしれない、黄とも緑ともつかない、お嬢様の瞳とも目を合わせたくない気持ちのまま、私は考えを巡らせた。
やめるべきよ、マーゴット。兄様のことだもの。父様そっくりの朴念仁を装って、子供の着替えだから立ち会うとでも、言い出しかねないわ。
内心で首を振って、自分自身と、減らず口を叩いた想像の中の兄の両方に、即座に「却下よ」と告げる。
てきぱきと動かしている手がもどかしく思えるくらい、ゆるゆるとした思考を必死に働かせながら、どうしたらいいか。そんな模索を私は続けていた。
ケフケフ……カハッ! 寝台に寝かされていたお嬢様が、苦しそうに咳をするくぐもりが、私の目線をつき動かした。
さっき私にすごんでみせた、ポーリャ殿の振る舞いが嘘のように、お嬢様の肌には、色が見当たらなかった。
艶の失われた、紅いお髪の上に臥せる小さなレベッカ様。
あまりに、おいたわし過ぎる。
彼女に嫉妬を覚えたばかりの、今しがたの自分に、ここ数日でいっとうに嘆かわしい、情けなさを覚えて、私は両手をぎゅっと握り締めた。
出水先生の御同伴に与って、昨夜、少しだけ嗜ませてもらったシャルトリューズ。それによく似た淡い色合いが、沈黙に飲まれそうになりながら、私を追視してきた。かわらけ色に褪せた唇が、微かにうごめく。
「ペギー……」
ポーリャ殿と、レベッカ様。どちらの声かもはっきりしない、精彩の欠けた呟き。
はっとした私に合わせるように、お嬢様の丸みを帯びた瞳が、少しだけシャープな光を孕む。
レベッカ様であって欲しかった。そんな願いを見透かすわけのない、翠掛かったカナリーイエローの双眸が、気遣わしげに私を見つめている。
そこにいるのは、いずれにしたって、元のレベッカ様でない。私は落胆しかけながら、お嬢様の胸元に掛けられていた毛布の端を、ぐいと引き上げる。
「⋯⋯悪ぃ⋯⋯おまえの、スバルの振りで傷つけて⋯⋯⋯⋯」
その刹那。掠れて途切れ途切れになった声が、やけにはっきりと私の鼓膜を穿ってきた。
ポーリャ殿が口にしているに違いない、刻み込むような言葉を最後に、レベッカ様の呼気がすとんと穏やかになる。
「眠ったのか」
「ええ、そのようで」「ミクス・スヴェトラーナは何を謝ったのだろうな。なあ、妹殿?」
統はもちろん、ポーリャ殿とも全然異なっている、心を掻き乱すだけの、相当に悪質な口調。兄様が被せるように嘯いてきたのは正にそんな一言だった。
私の脇をすり抜けて、レベッカ様のお髪を掬おうとした兄の手を、半ば反射的に、魔法で撃ち払う。
普段とはまるで別な、半眼に研がれきった私の魔力で、間違いなく指先を弾かれたはずのデイビッド兄様が、私への返事のつもりなのか、隣に腰を下ろしながら、思い切り肩を窄めてみせた。
平然を装いきれなくなった私は、包帯を巻かれた右手で、目尻を粗く拭って、俯くことしかできなかった。
◇
アデリー家の当主たる長兄として、背中を丸めてすっかり悄気返ってしまった妹を、放置する謂れなど、私に存在するべくもなかった。
彼女の隣へ並べた、華奢で質素な丸椅子に腰を据えたばかりの私は、ひりつく指の先を、手の甲とともに、ひらひらと振ってみせる。
「鎌鼬でなくても、痛いものは痛いのだよ、マーゴット。私が体面を失わずに済んでいるのは、君との加減いうより、この革手のお陰だけれどもね」
マーゴットにしては、珍しくも荒々しい、魔法が巻き起こした小さな旋風を引き合いに、婉曲な不満を伝えて遣る。
とはいえ――当の本人がこれではな。
音が聞こえそうなほど、強かに擦った所為だろう。アカネ色が差している目元が、ようやく視線を戻してくる。
平素と変わらぬ眼差しをどうにか取り繕ろう。終始そう腐心しているのを別にすれば、全く芳しくない妹のありさまに、私は、心の裡で盛大にクリック音を打ち鳴らした。
◇
天蓋のように涙膜を覆う、レベッカの瞼。
その手前に設えられた、ささやか過ぎる踊り場に、俺は、立たされていた。
幽かに緋く、けれども決して明るいとは云えない光が、辺りへ、じんわりと降り注いでいる。
開く気配のない眼裏の向こうが、ひときわ陰影を帯びた。
眠っているこの体の両目なのか、顔ごとなのか、わからないけれど、誰かに手を翳されたみたいな揺らぎ。
⋯⋯参ったな。今は、表に出ることも、叶わないらしい。
悟らされた俺は、殊更に外を窺おうと頑張っていた目線を下げ、ゆっくりと「後ろ」を振り返った。
俺が立ち尽くしている踊り場から、下方に向かって、緩やかな階段が延びている。
心の最奥へと繋がる、きざはしの一番先には、俺の秘密を丸抱えにした石造りの小さな祠が――「あったはずなのに、水浸しじゃねえか」
レベッカの眉間をひたすらに苛み続けている、頭痛を伴った熱。
お嬢様の体にへばりついている、もう一人の特権よろしく、重苦しい温度を、存分に味わわせてもらい中の俺は、短くぼやきながら、足元を浚うように、視線を走らせた。
ほんの少し前に、俺を押し退けてまで大号泣を披露した、お嬢様の心象に依るものなのだろう。
見通しなんて、一向に利かない、真っ黒な淵が、ずっと先のほうまで続いている。
遥か彼方に向けた目線を、あらためて傍らへと転じ直せば、薄い瞼越しに、差すように落ちている燃えさし色の暗がりの中、金と銀の尾を引いた光がひっきりなしに水面の上を錯綜っていた。
二〇五〇年の宮代家で、最標準式とされる、EAPを用いた走査型の「読み」の手法。
スマホとの連系図に、なんだかよく似てる――。
静まり返りながら、広がる景色に、そんな印象を抱きかけた、次の瞬間。カチャリ。俺の足元に硬く、生温い感触が唐突に現れた。
思わず目をやれば、バーントシエナの煌めきが一束。足首に、がっちりと、食い込んでいた。
「⋯⋯⋯⋯!」
反駁が許されるより早く、強い力で、水底へ引き摺り込まれる。




