【tp29】風雲急告げる正直なほどツミな三日目の帰路仕舞いは禁じられし名前と、そして⋯⋯
父さんと変わらないくらい、上背のある青年の姿を、レベッカの瞳越しに、俺は仰ぎ見、さらに彼の視線を追う。その先には、傘を斜めに背負ったペギーがいるはずだったけれど、雨の向こうに隠されている彼女の表情の判別なんて、全く以て出来ようもなかった。
でも、崖の上から寄越されたペギーの声音は、少しどころでなく、引っかかるのも確かだった。下手をすれば、目の前のデイビッドにも負けないくらいに。
ペギーのやつ。癇癪もいい加減にしろとしか思えない、レベッカ様の振る舞いを唯の「悪戯」で済ませようなんて、どういう心積もりだ? 本当にさ。
……はあ。どんな魂胆かなんて、考えても仕方ねえか。
レベッカ様、ポーリャがお話しをするから、少しだけ黙っててくれよな?
俺は、どんどん酷くなっている頭痛に、半ば身を任せた。お嬢様のような年頃の女の子が浮かべるのには、まるで似つかわしくない、やつれ切った笑みを表情筋に着込ませる。整った童女の造形が、いかにも不穏げに見えるよう、片目を眇め、口角も歪ませてやる。
半分は本当に、今の心持ち通りだ。寒くて痛くて、とにかくしんどくて仕方ない五歳児の身体そのままの。
けれど、残り半分はそうじゃない。俺が少しでも、有利に立ち回る為の計算ずくの装いだった。
「ねえ、ペギーのおにいさま?」
不調を悟らせないよう、努めて明晰な口振りで語りかけてやる。興味を引かれたのか、おや、とばかりに、デイビッドの水色の目が、再び俺の方へ向く。
「俺のことを、ミクス・スヴェトラーナだなんて如何にも他人行儀じゃないか? もっと面白い話をしてやるから、聞いて驚かないでくれよ?
実はさ、俺、スバル・ミヤシロなんだけど?」
空気と頬骨を伝って鼓膜に届くのは、金色の鈴を転がしたような、愛くるしさだけで構成された、どこまでも澄んだ声音。口調と馴染まなすぎて、なおさら呼び起こされた吐き気を飲み込むために、俺は一息に言葉を畳み掛ける。
「デイビッド・アデリーほどの御仁が、俺を誰だか分からないとでも? ハハ、そんなこと、あるわけないか? だって、弟子を帰せば構わないと、知恵先生から聞かされて来たって、あんた、そう言ったもんな? 笙真だけじゃなく、俺だって、出水知恵の弟子に変わりないんだから、帰らせないわけにはいかないんだぜ? あんた、兄貴のくせに、マーゴットから、宮代の統がレベッカ嬢とともに戻ったことを、知らされていないのかい? よもやよもや、さあ?」
気力を総動員して、どうにか終わりまで張り続けた声とは裏腹に、視界は馬鹿正直だった。あれよあれよとばかりに、遠慮なく狭まってくる。敢えて目を見開くが、滑稽なくらい追いつかない。
俺、どこまで、統を真似て言い切ることができてたかな。
レベッカお嬢様の身体に、宮代統が戻ったかもしれない。そんな懸念を、デイビッドに少しでも植え付けられれば、きっと。
その先の思考を、体を成した言葉として取りまとめられないまま、俺は沈黙を強いられた。
すっかり輪郭が朧ろになった認識のもとへ、俺よりはだいぶまともな、レベッカの話し声が滑り込んでくる。
「ポーリャが言ったとおりよ。ポーリャはほんとは、スバルって名前なのが、なによりのぜったいてきな、しょーこなんだから」
われちゃいそうなくらい、頭がいたかったから、なるべく動かないようぺたんとすわったまま、おかあさまゆびで、笙真君のせなかを「いいこいいこ」と「いたいのいたいのとんでけ」してあげながら、あたしは言った。ポーリャが思っていることを、そのままおしゃべりしているだけだから、あっているかなんて、わかんないけど。
だまったら、間違えてる気がして、とにかくポーリャが思っているのと同じように、おはなししなきゃ。
「うそじゃないわ。ほんとうなのよ。笙真君が昨日、リベに教えてくれたんだから。ポーリャも、『明かし』だよって」
デイビッドにつれていかれて、大好きな笙真君といっしょにいられないなんて、リベは、ぜえったいにガマンできないから、とにかく、ポーリャの思ってるとおりにする。
それがあたしにできる、全部のことだった。
あたしをつかまえている、デイビッドの魔法は、シャボン玉みたいな、ふわふわ。なのに、われるかんじがなんにもなくて、すごくくやしい。
鋏の魔法ができないくらい、つかれてるの、あたしがわるいから、くやしくてくやしくて、しかたない。でも、それは、リベがいけないんだ。だって、鋏の魔法をおおあばれさせたのは、ポーリャじゃなくて、リベなんだもん。
だからあたしは、ポーリャのおもっていることをちゃあんときいて、なんとかねちゃわないように、どろんこの笙真君をぎゅうってはなさないで、気をつけるしかできなかった。
肩をぜえぜえさせて、あたしは、デイビッドの顔をじいっとにらみつける。
目をしめちゃ、だめ――!
「強がる子供ほど痛々しいものもないな。そうだろう、リトル・レディ?」
言葉とともに、デイビッドがリベのほうに手をのばしてきた。
ポーリャ。リベ、どうしたらいい?
こわくなって、思わずきいたあたしに、ポーリャはもうお返事をしてくれなかった。
シャボン玉がはじけて、デイビッドの大きな手が、リベの肩をつかまえてきた。背中があったかくなる。口をもごもごさせたポーリャといっしょに、いやだなって、リベはおもった。
「兄様!」
上のほうから、ペギーの声がした。
「案ずるな。年端のいかぬ子供に無理強いする私ではないからね。嗜みの足りない、不出来な妹殿と一緒にするものではないよ、マーゴット。出水殿の元へ、顔を出し直す必要があるらしいな。早く降りて来るといい」
むずかしい言いかたすぎて、リベにはよく、わかんない。
そう思いながら、あたしはもう目を開けていられなかった。
ねたくない。でも、あたしを抱っこしてるデイビッドがあったかい。おきてるの、むり……。むりだけど……、………………。
◇
項垂れてしまったレベッカ様のお体を抱えて、路面に立っている兄様のぺールブルーの瞳が、穏やかさだけではない光を浮かべながら、私の方を見上げていた。私の心持ちとしては、見下されているのと大差はなかったけれども。
今朝からの騒動で、髪も服も、とっくにぼろぼろになった私の姿は、さぞ、はしたなく映っているのだろう。
「彼」がいつも褒めてくれていた、私の自慢である金糸の髪は特に最悪だった。解けて泥に浸かり、有り体に言って、とかく無残な姿を晒さざるを得なくなっている。
ううん、泥だらけなのは、それだけじゃない。そうでしょう、マーゴット・アデリー。
塞がらずに疼き放しだった、二日続きの手足の傷も、兄様から届いたばかりの上等なレースのスカートだって、全てが泥にまみれてしまっていた。成人を祝われたばかりのアデリー家の娘としてだけでなく、レベッカ様の侍女としても、けして許容できない、スキャンダラスさにも程がある、とんだ痴態。
酷く惨めな有様のまま、主を突き落としたのを、よりによって兄様に見られたなんて、私はなんてついていないんだろう。
私とおなじ、魔法から感情を逆算可能な、優れた目の持ち主である、私のデイビッドお兄様。
そんなアデリー家の当主の前で、魔法を使うなんて、本当は真っ平御免だった。急げと求められたからには、従うしかないけれど。
「わかりましたわ。マーゴットは、今すぐ、そちらに。準備のために、一分だけお目溢しをくださいまし」
短く告げると、私は数歩、落ち葉の下に穿たれた足跡をなぞるように後退った。
魔法以外をなるべく兄の目に入れないために、身を屈めたまま「最低限の身支度」を括り付けた、ドット柄の傘を、雨に叩かれる両腕で力一杯、崖下へと投げ入れる。その行く方を見守ることなく、私は、すぐさま自らの《二つ身》を呼び付けた。羽毛に包まれたもう一つの身体のまま、不器用に助走し、全力で地表を蹴る。
僅かな時間差をおいて、私の魔法による風を纏った傘が、思惑通り、崖下へとゆっくりと舞い落ちた。
よかった。あの傾きなら、着替えも無事そうね。
あとは、ヒトの身に戻る機会の確保だけだわ。
兄様の目に留まらないチャンスがなるべく早く、廻って来るといいけど……。
年若い娘として、最もクリティカルな瞬間だけは兄にだって、曝すわけにはいかないのだ。あの淡青な眼差しをやり過ごすための計画を、幾つか頭に浮かべ始めた私は、正真正銘の身一つで、直線的な短距離飛行をすぐに完了させた。
色だけはツバクロに近いモノトーンの翼を忙しなく駆って、傘のすぐ隣の濡れた路上へと、何とかまっすぐに降り立つ。
音を立てずに着地を済ませることができなかった私に向かって、兄様が肩を竦め、大仰に鼻を鳴らしてみせた。
畳んだ風切羽根の上で、弾かれて滴になっていた雨粒が、私の身震いと同時に四方八方へ勝手気儘に飛び散る。
「……」
ぬかるみに足を取られて、よろめきたくなんてなかったから、私は終始無言で集中しながら、広がって落ちたままの傘の下へ身を隠した。
私の一挙一動をつぶさに追いかけてきていた兄様の射線が生地に遮られて、最悪すぎる焦燥がほんの少しだけ、和らいだ気がした。




