21 私のものであるはずの話(シェリルの話)
召喚試験の日から、シェリルの世界は変わった——と、本人は思っていた。
双頭の雷狼。伝説の高位精霊。学院の歴史に三度しか召喚されたことのない存在が、自分のパートナーになった。お姉様が召喚したのに、契約は自分のところに来た。
それは当然のことだ、とシェリルは思っていた。
だってライガルドは最初から、シェリルを見ていた。
あの黄金の目が、お姉様を素通りして自分を見た瞬間を、シェリルは今でも覚えている。美しい、と言ってくれた。他の誰でもなく、自分に。
だから、ライガルドはシェリルのものだ。最初から、ずっと。
◇ ◇ ◇
最初の半年は、夢のようだった。
ライガルドはシェリルの呼びかけに応じた。授業には出なかったが、シェリルが一人でいるときにはそばに来た。森の外れで二人でいると、銀色の毛並みに触れることができた。それだけで、シェリルは満足だった。
ライガルドは口数が少なかった。でも時々、意識に声が届いた。
『今日も美しい』
それだけで十分だった。
友人たちに羨ましがられた。
「ライガルドって格好いいよね」
「シェリルはすごいね、あんな精霊と契約して」
それらの声が心地よかった。
お姉様はトカゲと契約して可哀想に、とシェリルは思った。あんな小さな、傷だらけのトカゲ。お姉様はいつもそうだ。自分が損な役回りを引き受けて、誰かのために頑張って——でも報われない。
そういう人なのだ、お姉様は。
自分とは違う。
◇ ◇ ◇
秋頃から、お姉様のトカゲの話が学院中で広まり始めた。
ランクが上がっている、成長が異常に速い、もしかして高ランクの精霊なのではないか——そういう話が、食堂でも廊下でも聞こえてきた。
シェリルは最初、気にしなかった。
トカゲはトカゲだ。どれだけ成長しても、ライガルドには敵わない。そう思っていた。
でも、ある日の昼食後、友人のひとりが言った。
「ねえ、シェリル。アイリスさんのトカゲって、シェリルが召喚したやつだよね?」
「そうよ」
「へえ……なんか、もったいなかったね」
何がもったいないのか、シェリルには最初わからなかった。
「ライガルドはすごいけど、なんか最近アイリスさんの方が注目されてるじゃない。あのトカゲのせいで。シェリルがそっちを育てていたら、どうなってたかなーって」
「……別に」
「ライガルドとうまくいってるならいいんだけど。なんか最近、一緒にいるとこ見ないし」
シェリルは笑った。「うまくいってるわよ」と言った。
家に帰って、一人になってから、少しだけ考えた。
(もったいなかった?)
違う。あのトカゲは汚くて弱くて、どうしようもない精霊だった。ライガルドの方がずっといい。今でもそう思っている。
思っている。
◇ ◇ ◇
ある日の昼食のとき、お姉様が近くのテーブルに座っていた。
シェリルは友人と話しながら、つい本音を言ってしまった。
「ライガルドって、本当に難しいよね。最近むすっとしてて」
「シェリルのことは好きなんじゃないの?」
「好きなのはわかるんだけど——」
好きなのはわかる。
本当に、わかるのだろうか。
シェリルはその言葉を言いながら、自分でも気づいていた。最近、ライガルドが自分を好きだという確信が、薄れてきていることに。
「正直に言っていい? 最近、お姉様のトカゲの方が羨ましくて」
「えっ、なんで」
「なんか……お姉様のトカゲって、ちゃんとお姉様のそばにいるじゃない。言うこと聞くし、一緒に戦うし」
友人が頷いて「確かにね」と言った。
「なんで私、あんなのと交換しちゃったんだろうって、ちょっと思ってる」
言葉にしてから、シェリルは気づいた。
(交換した?)
違う。交換したのではない。お姉様が勝手にそうしたのだ。シェリルは何も悪くない。ライガルドは最初から自分のものだった。お姉様が勝手に——
視線を感じた。
テーブルの向こうで、お姉様がこちらを見ていなかった。でも確かに、聞こえていた気がした。
だから話題を変えた。
◇ ◇ ◇
二年目に入ると、少し違和感が出てきた。
演習の授業で、ライガルドが動かなくなった。
最初の頃は、気が向いたときだけ動く、ということは知っていた。高位精霊とはそういうものだと聞いていた。でも一年目は、それでもたまに一緒に戦ってくれていた。
二年目からは、まったく動かなくなった。
「ライガルド、お願い。今日の演習、一緒に戦って」
『嫌だ』
「なんで? あなたが動いてくれれば、私の成績が上がるのに」
『成績のために動くつもりはない』
「じゃあ何のために動くの」
『……』
答えなかった。
シェリルは不満だったが、友人たちの前では笑った。「ライガルドって気まぐれなの、高位精霊だから」と言って笑った。みんなも笑った。それでよかった。
演習の成績は下がった。
でも、まだ大丈夫だと思っていた。卒業試験まで時間はある。そのうちライガルドも本気を出してくれる。自分が困っていれば、助けてくれるはずだ。
だって——ライガルドは、自分のことが好きなのだから。
◇ ◇ ◇
お姉様のヴェルドが人型になった、という噂が学院中に広まった日、シェリルは教室でその話を聞いた。
翡翠色の髪の長身の男。金色の目。絶世の美貌——そういう言葉が、噂の中にあった。
シェリルは窓の外を見た。
(お姉様が)
(お姉様が、また)
また、先を越された。また、自分より先に。
召喚試験でも、成績でも、いつもお姉様は先にいた。でもお姉様はトカゲと契約していた。ライガルドは自分のところにいた。それだけが——それだけが、自分の方が良かった部分だったのに。
「シェリル、見に行かない? ヴェルナー先輩のドラゴン」
「……行かない」
「なんで? すごく格好いいって話で——」
「行かないって言ったの」
友人が黙った。
シェリルは窓の外を見続けた。
(お姉様のトカゲが、ドラゴンになった)
(私のライガルドは、人型にもなれていない)
(なんで)
(なんで、いつもそうなるの)
夜、シェリルはライガルドを呼んだ。
「お姉様のトカゲが人型になったって、聞いた?」
『聞いた』
「あなたも、そろそろ人型になれるでしょう。ライガルドの方が強いんだから」
『……』
「お願い。卒業試験まで、もう時間がないの。人型になってくれれば、私が卒業できるのよ?」
『知っている、だが』
ライガルドが、シェリルを見た。黄金の目が、静かにシェリルを見た。
『お前のために人型になりたいとは、思えない』
「なんで——」
『お前は俺を育てたか』
シェリルは黙った。
『育てていない。俺がそばにいることを求めただけで、俺を育てようとしたことはない。お前にとって俺は、格好いい精霊でいてくれれば、それでよかったのだろう』
「……だって、あなたは高位精霊で、強くて、私が何かしなくても——」
『お前の姉は、弱いトカゲを育てた』
シェリルが息を呑んだ。
『傷だらけで、力もなかったトカゲを。それが今、風竜になった。俺はそれを——』
ライガルドが少し、黙った。
『羨ましいと思った」
「……羨ましい?」
『ああ。あのドラゴンが、ではない。あのドラゴンが得たものが、だ』
シェリルには、その意味がよくわからなかった。
ただ——ライガルドの目が、もう自分を見ていないことだけはわかった。
(奪われた)
(お姉様に、また奪われた)
違う、とどこかでわかっていた。奪ったのではない。ただ——
そう思わなければ、やっていられなかった。
◇ ◇ ◇
卒業試験の前日の夜、シェリルは鏡の前に座った。
金色の髪、碧い目、整った顔。それは変わっていなかった。変わっていないのに——鏡の中の自分が、ひどく頼りなく見えた。
(ライガルドは、明日、人型になってくれるだろうか)
わからなかった。
初めて、わからなかった。
召喚試験の日、ライガルドが自分を見てくれたとき、すべては決まったと思っていた。自分のものになったと。これからも、ずっとそうだと。
でも違った。
何が違ったのか、シェリルにはまだはっきりわからなかった。ただ——何かが、ずっと前から間違っていた気がした。
鏡の中の自分が、黙って見返してきた。
シェリルは鏡から目を逸らした。
明日になれば、きっと大丈夫だ。
そう思うことにした。
そう思うしかなかった。




