19 夜明け前の職員室
登校前の時間、突然カーター先生から呼び出しをされて、職員室に向かう。
他の教師はまだ誰も来ていない早朝ともいえる時間。分厚いカーテンの隙間から、冬の薄い光が一筋だけ差し込んでいた。
アイリスが扉を開けると、カーター先生はすでに机の前に座っていた。いつもと同じ、生真面目な顔で。
ただ——目の下に、うっすらと隈があった。
「座りなさい」
アイリスは向かいの椅子に座った。ヴェルドが隣に立った。
カーター先生はヴェルドを一瞥し、それから視線をアイリスに戻した。
「昨夜、演習場で何かあったな」
「はい」
「詳しく話してくれるか」
アイリスは簡潔に話した。深夜の演習場。解呪の儀式。翡翠色の光。そしてヴェルドが人型になったこと。
カーター先生は途中で一度も口を挟まなかった。アイリスが話し終えると、机の上で手を組んで、少し考えた。
「そうか。とうとう、解けたのか」
「先生は——知っていたんですか」
「薄々、な」
カーター先生が立ち上がった。部屋の奥の棚から、古びた書類の束を取り出した。机の上に置いた。表紙に、見慣れない紋様が刻まれていた。
「冥紋会、という組織を知っているか」
「名前だけ。あの黒い外套の人たちが関係していると思っています」
「そうだ」
カーター先生は椅子に戻り、書類の束を開いた。
「正式名称は『冥紋結社』。百年以上前から存在する、闇呪術の研究集団だ。表向きは存在しない。国が非合法としている組織だ」
「何をしている組織ですか」
「不老を追い求めている」
静かな言葉だった。
「不老」
「ああ。人間は老いる。どれだけ魔力があっても、どれだけ優秀なセイレンでも、老いることからは逃げられない。冥紋会はそれを、精霊の力で解決しようとしている」
カーター先生が書類の一枚をアイリスの方へ向けた。精霊の核の構造図だった。見慣れた図だったが、その周囲に見たことのない術式が書き込まれていた。
「精霊の核には、膨大な生命力が宿っている。特に高位精霊の生命力は人間の比ではない規模になる。冥紋会はその生命力を抽出し、凝縮して石にする。それを『不老石』と呼んでいる」
「精霊の核から、抽出する……」
「そうだ。当然、精霊は死ぬ」
アイリスは黙った。
「……それが、私を狙った理由か」
ヴェルドが静かに言った。
「そうだ」
カーター先生はヴェルドを見た。
「風竜は、精霊の中でも特に強大な生命力を持つ。お前の核から抽出できる不老石は——おそらく、人間一人が数百年生き延びられるほどの力があると、奴らは考えていた」
「だから封印した?」
「逃げられないように。弱体化させて、いつでも捕らえられる状態にしておくために。ただ——」
カーター先生が、わずかに口元を緩めた。初めて見る表情だった。
「シェリルがお前を召喚し、アイリスがお前を拾った。それで計画が狂ったのだろう」
「……そうか」
「冥紋会はしばらく様子を見ていたようだ。お前がただのトカゲとして弱いままでいれば、学院を卒業した後で改めて狙えばいいと思っていたのだろう。だが——」
カーター先生の視線が、アイリスに移った。
「お前が育てた。お前の育成方法は的確で、人型になる手前まで成長した。このままでは封印が解けると気づいた奴らが、動き始めた。それが、先日の魔域での襲撃だ」
アイリスは静かに、その話を聞いていた。
「先生はいつから知っていたんですか。冥紋会がヴェルドを狙っていることを」
「学院の周辺で不審な動きがあったあたりだ。外部からの侵入の痕跡もあった。学院内には高位精霊もたくさんいるからな——だが、特定の精霊を狙っているとわかったのは、お前のトカゲのランクが異常な速さで上がり始めた頃だ」
「だからあのとき——」
「外部からの接触に気をつけろ、と言った。詳しく話せなかったのは、確証がなかったからだ。余計な不安を与えたくなかったというのもある。それに忠告したあと、あちらも動きを止めた。恐らくこちらの動向を見守りつつ、ヴェルドそのものを奪おうとしていたのかもしれない……」
アイリスは少し間を置いた。
「先生は、ヴェルドが最初から風竜だと気づいていましたか」
「可能性として、考えてはいた。ただ確信はなかった。精霊のランク測定で異例の数値が出たとき、初めて本格的に疑い始めた」
「では、冥紋会は今後も動くと思うか?」
ヴェルドが言った。
カーター先生は少し考えてから、答えた。
「動くだろう。ただ——状況が変わった」
「どう変わったんですか」
「お前の精霊は、封印が解けた。力を取り戻した風竜を、奴らが正面から捕らえるのは難しい。それに——」
カーター先生が書類の束をまとめた。
「昨夜の解呪の際、学院の魔力感知陣が反応した。私はそれで目が覚めた。あの規模の魔力放出は、冥紋会にも感知されたはずだ。封印が完全に解けたことは、奴らにもわかっている」
「それは——まずいのでは」
「逆だ」
カーター先生が、アイリスをまっすぐに見た。
「封印されたまま捕らえれば確実に不老石が手に入る。だが力を取り戻した風竜を相手にすれば、自分たちが危険だ。奴らは慎重だ。リスクの高い賭けには出ない。他にも高位精霊はいるからな」
「例えばライガルドとか……」
「そうだ。とにかく今は、王立セイレン騎士団に冥紋会の存在と活動を正式に報告する。実はここ数日で証拠が集まってきている。学院に侵入した際の呪術の痕跡、魔域での襲撃の記録、それから——」
カーター先生が書類の最後の一枚を取り出した。
「先月、別の学院でも同様の事件があった。精霊が不審な弱体化を示し、外部からの接触があった。こちらと合わせて報告すれば、騎士団も動かざるを得ない」
アイリスは書類を見た。確かに、学院の紋章が違った。
「先生は、ずっとこれを調べていたんですか」
「私の仕事は生徒を守ることだ」
短い答えだった。
アイリスは少し間を置いてから、言った。
「……ありがとうございます」
カーター先生は何も言わなかった。ただ、わずかに目を細めた。
「一つ聞いていいか」
ヴェルドが口を開いた。
「なんだ」
「先生は、冥紋会について私に話さなかった。アイリスに対しても、はっきりとは言わなかった。なぜか」
カーター先生は少し考えた。
「お前たちに余計な重荷を負わせたくなかった。特に——」
視線が、アイリスに向いた。
「アイリスは、自分を犠牲にする癖がある」
アイリスは何も言えなかった。
「はっきり言えば、お前はすぐに冥紋会を追おうとしただろう。精霊を守るために、一人で何かしようとしただろう。私にはそう見えていた」
「……」
アイリスはしばらく黙っていた。
「結果的に、魔域で危険な目に遭わせてしまった。それは私の判断ミスだったかもしれない」
「いいえ」
アイリスは首を振った。
「あの夜があったから、ヴェルドと話せたことがある。危なかったのは確かだけど——あれはあれで、必要だったと思っています」
カーター先生は少し、意外そうな顔をした。それからまた、いつもの生真面目な表情に戻った。
「そうか」
「先生」
ヴェルドが言った。
「なんだ」
「アイリスを守ってくれていたことに、礼を言う」
カーター先生は少し間を置いた。
「精霊に礼を言われるとは思わなかった」
「私も先生に礼を言う日が来るとは思わなかった」
カーター先生が、かすかに口元を動かした。笑ったのかもしれなかった。ほんの一瞬だけ。
「卒業試験、頑張りなさい」
それだけ言って、書類に目を落とした。
アイリスは立ち上がり、一礼した。
◇ ◇ ◇
職員室を出ると、廊下はまだ薄暗かった。
早朝の学院は静かで、どこかで小鳥が鳴く声が聞こえる。石畳の向こうに、冬の朝の光が差し始めていた。
「ヴェルド、一つ聞いていい?」
「なんでも」
「先生が言っていた。私は自分を犠牲にする癖があるって」
「……ある」
「そう思う?」
「ただ——今のお前は、昔とは違うと思う」
「昔?」
「お前の言う、前の運命だ。聞く限り、そのときのお前は誰かのために犠牲になっていた。私と出会った頃もその傾向があったと思う。だが、今は——」
ヴェルドが少し考えた。
「自分が大切だと思うものを、自分で守ろうとしている。それは犠牲とは違う」
アイリスは少し間を置いた。
「……そうかしら」
「そうだ」
「私が言うのだから、間違いない」
アイリスは小さく息をついた。
「自信家ね」
「お前が教えてくれたことだ」
「私が?」
「封印が解けなくても一緒にいると言った。卒業できなくても構わないと言った。そういうお前を見ていたから——私も、自分が大切だと思うものを守る、ということを学んだ」
廊下の先に、朝の光が広がっていた。
アイリスは少しだけ、立ち止まった。
「……ヴェルド」
「なんだ」
「ありがとう」
「何に対して」
「全部に」
ヴェルドは少しの間、黙っていた。
それから、静かに言った。
「こちらこそ」
二人は並んで、朝の廊下を歩いていった。




