18 解呪と覚醒
翌朝、アイリスは図書室へ向かった。呪術の解体に関する文献を片端から調べるためだ。
一日かけて、必要な知識を頭に叩き込んだ。精霊の核への干渉方法。呪術紋様の構造。解体の順序と、失敗した場合のリスク――。
夜、部屋に戻ってからヴェルドと確認し合った。
『紋様は三重になっている。外側から順に解いていく。内側の紋様が一番強く、一番危険だ』
「外側二つを解いたら、一度止まる。内側に入る前に状態を確認するわ」
『そうしてくれ』
「時間はどのくらい?」
『わからない。早ければ一時間、長ければ——もっとかかるかもしれない』
「わかった」
『アイリス』
「なに」
『……ありがとう』
「終わってから言ってよ」
『それでも今、言いたかった』
アイリスは何も言わなかった。
ただ、小さく微笑んで頷いた。
◇ ◇ ◇
解呪は、翌日の夜明け前に行った。
人気のない演習場の隅を選んだ。
石畳の上に、アイリスは精霊との契約干渉に必要な魔法陣を描いた。細かく、丁寧に。一本の線も間違えないように。
ヴェルドが陣の中心に座る。
アイリスは向かいに膝をついた。
「始めるわ」
『ああ』
アイリスは目を閉じて、魔力を意識の奥へと沈めた。契約の糸を手繰る感覚。ヴェルドとの間に張られた見えない絆を、指先で確かめるように辿っていく。
深く、深く。
ヴェルドの核が見えてきた。
温かい光だった。翡翠色の、穏やかな光。でもその周囲を——黒い紋様が取り巻いていた。三重に。まるで茨のように、核に絡みついていた。
(これが、呪い)
アイリスは最も外側の紋様に手を伸ばした。
触れた瞬間、焼けるような感覚が走った。呪力が逆流してくる。歯を食いしばりながら、紋様の構造を解析した。どこから解けばいいか。どこが結び目か。
一本。
また一本。
時間の感覚がなかった。ただ、紋様を解くことだけを考えた。体の外では何も感じなかった。寒いとも、疲れたとも。
外側の紋様が、ほどけた。
次の層へ。
二重目は、一重目より太く、深く刻まれていた。触れると、頭の奥に何かが響いた。頭痛に近い、鋭い痛み。それでも手を止めなかった。
一本、また一本。
どのくらい経ったかわからない頃、二重目もほどけた。
アイリスは一度、意識を浮上させた。約束通り、内側に入る前に止まるために。
「ヴェルド、聞こえる?」
『……聞こえる。大丈夫か』
「大丈夫。あなたは」
『……私も。ただ』
「ただ?」
『内側の紋様が……揺れている。君が外の二つを解いたせいで、不安定になっている。早く解かないと、逆に締まってくるかもしれない』
「わかった。続ける」
『アイリス。無理なら——』
「手を離さないって、言ったでしょう」
アイリスは再び目を閉じた。
三重目は、違った。
触れた瞬間、視界が暗くなった。呪力の奔流が、意識に直接流れ込んできたからだ。
暗い場所。狭い場所。石の壁。力が抜けていく感覚。誰かの声。聞き取れない言葉。でも、その意図だけは伝わってくる。消えろ。弱くなれ。二度と力を取り戻すな。
(これがヴェルドが見ていた記憶)
アイリスは歯を食いしばった。
呪力が腕を伝って上ってくる。魔力回路が、熱を持ち始めた。焼き切れる手前の、あの感覚。
でも——ヴェルドの核の光が見えていた。
呪いの紋様の向こうに、翡翠色の光が見えていた。今まで閉じ込められていた光が、揺れていた。震えるように、揺れていた。
(あとすこし)
一本。
痛みが増した。
また一本。
頭の奥で何かが軋んだ。
最後の一本。
アイリスは全ての魔力を、指先に集め、断ち切った――。
その瞬間、光が、爆ぜた。
翡翠色の光が、演習場全体を包んだ。アイリスは意識が飛びそうになるのを、床に手をついてこらえた。光が強くなる。
それから——静かになった。
アイリスは顔を上げる。
演習場に、光の粒子が舞っていた。
翡翠色の、細かい粒子が。朝の光の中で、それはゆっくりと、ゆっくりと降り積もるように消えていき――
光の中から、影が現れた。
人の形をした、影が。
アイリスは動けなかった。
影を見つめていると、輪郭を持ち始めた。
背が高く、均整の取れた体。髪が——翡翠色だった。朝の光を受けて、緑と金の間で揺れる色だった。
やがて男が、ゆっくりと目を開けた。
金色の瞳だった。
アイリスを見た。まっすぐに、迷いなく。
「……アイリス」
声が、震えていた。
アイリスはその声を聞いた瞬間、わかった。言葉の響きが、意識に届く感触が——ヴェルドだった。
「……待たせたね」
アイリスは何も言えなかった。
翡翠色の髪の男が、一歩踏み出した。そして——
アイリスの前に膝をついた。
ヴェルドがいつもそうしていたように。小さなトカゲのころ、アイリスの目線に合わせていたように。
「ずっと、見ていた」
男が言った。
「君が眠れない夜も。傷を負って帰った夜も。泣かなかった夜も。全部、そばで見ていた」
「ヴェルド——」
「今度は私が、君を守る番だ」
アイリスの目に、熱いものが込み上げてきた。
こらえた。
こらえようとした。
でも——ヴェルドが、アイリスの手を両手で包んだ。温かかった。トカゲのころと同じ、あの温かさだった。
それで、だめだった。
一粒だけ、こぼれた。
「……馬鹿」
「ああ」
「ずっと、待たせてしまった」
ヴェルドが静かに笑った。穏やかな、静かな笑みだった。
演習場に、朝の光が差し込んでいた。




