17 ヴェルドの封印
二月になった。
魔域での襲撃から一月が経っていた。
あの夜以来、黒い外套の人影は姿を現していなかった。学院の警備が強化され、外部からの不審者の目撃情報も途絶えた。表面上は、静かだった。
ただ、アイリスには気になることがあった。
ヴェルドの様子が、少し変わっていたからだ。
変化は、緩やかだった。
食欲が落ちたわけでも、体調を崩したわけでもない。むしろ体は以前より大きくなり、鱗の光沢もいっそう増していた。
ただ——ふとした瞬間に、ヴェルドが遠くを見るような目をすることがあった。アイリスが声をかけると、すぐに戻ってくる。でも確かに、そういう瞬間があった。
「どこか痛い?」
『いや』
「眠れてる?」
『眠れている』
「なにか調子が悪いところでも?」
『……何でもない』
明らかに何かあるときの「何でもない」だった。
だけどアイリスは追及しなかった。ヴェルドが話す準備ができたとき、話してくれるだろうと思っていた。
待つことは、得意になっていたから。
◇ ◇ ◇
それが変わったのは、二月の半ば、深夜のことだった。
アイリスが眠りに落ちかけていたとき、ヴェルドが起き上がった気配がした。
目を開けると、ヴェルドが窓際に座って外を見ていた。月明かりの中で、その鱗が静かに輝いていた。
でも——その光が、いつもと違った。安定していなかった。揺れるように、明滅していた。
「ヴェルド」
『……起こしたか』
「起きてた。どうしたの」
『……見えるんだ』
ヴェルドの声が、いつもより低かった。
「何が」
『夢なのか、記憶なのか、わからない。でも最近、眠るたびに見える。同じものが』
アイリスは体を起こした。
『暗い場所。石でできた、狭い場所。私はそこに閉じ込められていて、体が動かない。力が出ない。ただ、外から何かが入ってくる。黒い、ねばついた何かが。それが私の中に刻まれていく』
「刻まれる……」
『紋様のようなものだ。一本、また一本と。刻まれるたびに、力が遠くなる。体が重くなる。そうして——気づいたら、小さくなっていた』
アイリスは息を呑んだ。
『トカゲになっていた、ということだと思う。あれは夢ではない。記憶だ。私はあの場所で、誰かに何かをされた』
「誰かって?」
『顔は見えない。でも——手が見える。その手が持っていた道具が、あの黒い外套の者たちの短杖と、同じ形をしていた』
アイリスは静かに立ち上がり、ヴェルドの隣に座った。
窓の外を一緒に見た。冬の夜は澄んでいて、星が多かった。
「あの人たちが、あなたに呪いをかけたということ?」
『おそらく。そして今も、その呪いが私の中に残っている』
「だから人型になれない」
『ああ。力は戻ってきている。でも、核の奥に何かが張り付いている感じが、ずっとあった。それが何なのか、ようやくわかってきた』
ヴェルドが窓の外から、アイリスへ視線を移した。
『呪いの紋様が、どこに刻まれているかも。薄らとだが、見えるようになってきた』
「つまり、それを消せれば」
『力が戻る。完全に』
アイリスは少し間を置いた。
「方法は?」
『……呪いの核に、直接触れる必要がある』
「触れるって、どうやって」
『精霊の核は、通常は外から触れられない。でも——契約者なら、できる。魔力を通じて、内側から干渉できる』
「私が、あなたの核に触れる」
『ただし』
ヴェルドの声が、少し固くなった。
『危険だ。呪いの紋様に触れるということは、その呪力を直接受けるということだ。術式の解体に失敗すれば、君の魔力回路が焼き切れる可能性がある』
「焼き切れると?」
『最悪、二度と魔法が使えなくなるかもしれない。セイレンとしての力を失って……』
沈黙が下りる。
アイリスは窓の外を見た。冬の星が、静かに光っていた。その輝きに勇気づけられるように――。
「やる」
『アイリス……!』
「止めても無駄だから」
『聞いてくれ。君はセイレンとして優秀だ。その力を失うことになれば——』
「ヴェルド」
アイリスはヴェルドの目を見た。
「あなたが三年間、傷ついた私のそばにいてくれた。体調を崩した私を心配して、魔域で私の前に立ってくれた。それを、ここで終わらせたくない」
『それは私が望んでやったことだ。君が危険を冒す理由にはならない』
「じゃあ私だって同じよ」
『……』
「私がやりたいからやる。それだけ。反論は聞かないわ」
ヴェルドが黙った。長い沈黙だった。
それから、静かに言った。
『……わかった』
『ただし、一つだけ条件がある』
「なに」
『途中で何があっても、手を離さないでくれ』
アイリスは少し間を置いた。
「当然でしょう」




