15 異変
気づけば、一年が過ぎていた。
最初の半年、驚きの早さで成長したヴェルドだったが、そこからの成長はぴたりと止まってしまった。
(あの日、穏やかな日々が続いてほしいと願ったからかしら?)
まるでアイリスの心の声が聞こえていたかのように、成長を止めたヴェルド。
おかげで、周囲はヴェルドに注目しなくなり、静かにこのまま卒業を迎えられるかもしれない。人型になれずともこのまま……。
そう考えていたある日――。
◇ ◇ ◇
異変に気づいたのは、二年目の九月の末。最初は小さなことだった。
魔法薬学の授業で使う薬草が、アイリスの引き出しの中だけ腐っていた。採取したばかりで、保存状態も問題なかったはずのものが、翌朝には黒ずんで使い物にならなくなっていたのだ。だけど、偶然だと思った。
次の週、魔域への単独調査の許可証が、提出した記録にないと言われた。確かに出した。受付の教師も首を傾げるだけで、結局原因はわからなかった。
さらに数週間後のある日、ヴェルドが朝から落ち着かなかった。
『何かいる』
部屋の中を歩き回りながら、ヴェルドが言った。
「何かって、何が」
『わからない。でも……外に、何かいる』
アイリスは窓から中庭を見下ろした。朝の光の中、生徒たちが授業へ向かっているだけで、何もおかしくなかった。
本格的に何かがおかしいと確信したのは、二か月後だった。
夜間の自主練習のために演習場へ向かっていたとき、廊下の角で人影を見た。黒い外套をまとった人影で、アイリスに気づくと素早く角の向こうへ消えた。学院の制服ではなかった。
アイリスは立ち止まった。
追うべきか。
判断する間もなく、ヴェルドが肩の上で低く唸った。普段は声を上げないヴェルドが。
『……気をつけて』
その夜の自主練習は切り上げた。
◇ ◇ ◇
翌日、マリアと昼食をとっていたときのこと。
「ねえアイリス、最近、見慣れない人が学院の近くをウロウロしてる話、聞いた?」
アイリスは顔を上げた。
「知らない。学院の近く?」
「東門の外とか。黒い外套の人が二人、学院の方をじっと見ていたって。門番が話しかけたら逃げたらしくて」
マリアが声を落として続ける。
「……なんか、不気味じゃない?」
「そうね……」
昨夜廊下で見た人影が、頭の中をよぎった。
◇ ◇ ◇
確信が恐怖に変わったのは、その三日後だった。
冬の魔域演習。
二年生が初めて本格的な魔域に入る実習で、班ごとに分かれて指定区域を調査する。アイリスの班は四人で、担当区域は森の北側だった。
実習は順調だった。少なくとも、最初の二時間は。
森の奥へ進んだとき、ヴェルドが突然止まった。
『アイリス』
「わかってる」
気配があった。魔物ではない。もっと人間に近い、しかし人間ではない何かの気配。アイリスは班の三人に目で合図した。
「先に戻っていて。私は少し確認してから——」
「え、でも一人は——」
「大丈夫。すぐ追いつくから」
三人が森を引き返していくのを確認してから、アイリスは気配の方へ向き直った。
木々の間から、黒い外套の人影が三つ、現れた。
顔が見えなかった。外套の深いフードが、顔全体を隠していた。ただ、その手に握られているものが見えた。呪術式の刻まれた短杖。学院では使用が禁じられている、闇呪術の道具だった。
「アイリス・ヴェルナー」
低い声が言った。
「その精霊を、渡してもらおうか」
アイリスは答えなかった。
代わりに、静かに魔力を手のひらに集め始めた。
「渡さないというなら——」
呪術が飛んできた。
アイリスは横に跳んだ。紫黒の光の帯が、さっきまでアイリスがいた場所の木の幹を焦がした。焦げた匂いが鼻を突く。
(速い)
前の運命では、こういった戦闘に慣れていた。単独で魔域に潜ることを三年間続けていたから。
今の自分は——それよりは戦い慣れていない。
障壁を張りながら、反撃の呪文を組む。一人なら対処できる。二人でも、なんとか。でも三人は——。
二発目が来た。障壁で受けた。衝撃で体が後退して、足が根の間に引っかかって、転んだ。
体勢を立て直せないまま、三発目が迫る。
受けられない、と思った瞬間——
風が吹いた。
するどい、刃のような風。
三発目の呪術が、弾き飛ばされた。
アイリスは顔を上げた。ヴェルドが、自分の前に立っていた。いつもより大きな体。翡翠色の鱗が冬の光の中で輝いていた。
『下がっていろ』
低い声。アイリスが今まで聞いたことのない声だった。
三人の人影が後退した。ヴェルドの気配に押されるように。
『この者は、私の契約者だ』
ヴェルドの声が静かに、しかし森の奥まで届くように響いた。
『触れることは許さない』
人影たちが顔を見合わせた。それから——
霧のように、消えた。
森が静かになった。
アイリスはしばらく、地面に手をついたままでいた。呼吸を整えた。膝が、かすかに震えていた。
ヴェルドが振り返った。
『怪我は』
「ないわ」
『……本当か』
「本当よ」
ヴェルドがゆっくりとアイリスに近づき、その顔をじっと見た。嘘をついていないか確かめるような目だった。
「助かった。ありがとう」
『……当然のことだ』
前にも聞いた言葉だった。でも今日は、その言葉の重さが違うように感じた。




