13 噂
噂というのは、静かに始まる。
最初は廊下ですれ違いざまの囁きだった。次に食堂での視線になり、それから授業中の横目になった。アイリスはそれに気づいていたが、特に気にしなかった。気にしても仕方がない、と思っていた。
発端は、魔法生物学の授業だった。
十一月の半ば、エリクソン先生が学期ごとに行う「精霊ランク測定」の時間があった。
生徒が順番に精霊を連れて測定陣の前に立ち、精霊の現在ランクを計測する。入学から半年、各自の精霊がどれほど成長したかを記録する授業だ。
大半の生徒の精霊は、予想の範囲内だった。下位から下位の上、あるいは中位の入り口。一年生の精霊としては標準的な数値が並んでいく。
シェリルの番になった。
ライガルドが測定陣の前に立った。陣が白く光り、数値が示された。
教師が頷いた。「高位精霊、現時点では封印状態に近い低出力。しかしポテンシャルは最高位。問題なし」——そういう評価だった。
シェリルが誇らしげに胸を張った。周囲が羨望の目でライガルドを見た。アイリスは視線をノートに落とした。
そしてアイリスの番になった。
ヴェルドが測定陣の前に立つ。
最初、陣の反応は薄かった。下位精霊として処理しようとしているようだった。
ところが——陣の光が、ゆっくりと色を変えた。白から、薄い緑へ。それからもっと濃い緑へ。
エリクソン先生の手が止まった。
記録用の羽ペンが、宙に浮いたままになった。
陣の光はさらに広がった。測定陣の外枠まで、じわりと翡翠色に染まっていった。教室がざわつき始めた。
「……アイリス・ヴェルナー」
エリクソン先生の声が、いつもより低かった。
「この精霊は、あの時契約したトカゲか?」
「はい」
教師は測定陣の数値をもう一度確認した。それから眼鏡を外し、もう一度確認した。
「現在ランク……上位、上位ランクの中位相当。召喚から半年で、これは」
辺りが静まり返った。
上位ランクとは、言葉による意思疎通が可能になるランクだ。精霊が上位に達するのは、通常であれば数年の時間と、相応の修練が必要とされる。それが半年で——しかも、召喚時に下位だった精霊が。
「先生」
後ろの席から声が上がった。
「上位ランクということは、もしかして……あのトカゲ、実はもともと高いランクの精霊だったんじゃないですか? 何かで弱っていた、とか」
エリクソン先生は答えなかった。答えられなかったのだろうと、アイリスは思った。
教室のざわめきが、波のように広がっていった。
◇ ◇ ◇
その日の午後から、視線の質が変わった。
廊下を歩くと、すれ違う生徒が振り返った。食堂でヴェルドと並んで座っていると、隣のテーブルから「あれがそのトカゲ?」という声が聞こえた。上級生が近づいてきて、「少し話を聞かせてほしい」と言った。アイリスは「特に話すことはありません」と答えて、足を止めなかった。
ヴェルドはそれらを、静かに受け流していた。視線を浴びても動じず、ただアイリスのそばにいた。
『気になるか』
夕方、寮の部屋に戻ってからヴェルドが言った。
「何が」
『周囲の目が。騒がしくなった』
「別に」
『……嘘をつくのが下手だな』
アイリスは少し間を置いた。
「うるさいとは思う。でも、どうにかなるわ」
『そうか』
ヴェルドはそれ以上聞かなかった。アイリスも、それ以上は言わなかった。
三日後、シェリルが部屋を訪ねてきた。
夕食後の時間だった。扉をノックする音がして、開けるとシェリルが立っていた。碧い目を輝かせて、にこにこと笑っていた。
「お姉様! 少しいい?」
アイリスは扉を半分だけ開けたまま、答えた。
「何?」
「そのトカゲのこと、聞きたくて」
シェリルが可愛らしく首を傾けた。
「ねえ、あれって本当は高いランクの精霊なんでしょ? みんなそう言ってて。もしかして、すごく強い精霊なんじゃないかって」
「さあ」
「さあって……」
シェリルが笑みを崩さないまま、少し眉を寄せた。
「お姉様、そのトカゲ、私に譲ってもらえないかな。だって私が召喚した子でしょう?」
「……断るわ」
シェリルの笑みが、わずかに固まった。
「え?」
「断る、と言った。あなたにはライガルドがいるでしょう」
「でも、ライガルドってちょっと難しくて——」
「それはあなたとライガルドの問題よ」
アイリスは扉を閉めた。
廊下からシェリルの声がした。「お姉様?」と、少し高くなった声が。アイリスはそれを聞きながら、扉の前から離れた。
ヴェルドが、アイリスの足元をじっと見上げていた。
「なに」
『……何でもない』
「本当に?」
『……少し、怒っているように見えた』
「怒っていない」
『そうか』
「ただ——」
アイリスは窓の外に目をやった。夜の中庭は暗く、静かだった。
「面倒なことになってきたと思っている。それだけ」
『私のせいか』
「違う。あなたのせいじゃないわ。あなたが成長したのは、あなたが頑張ったからよ」
ヴェルドは何も言わなかった。
少しの間があって、アイリスの足元に静かに寄り添った。




