12 不調
八月になると、ヴェルドはアイリスと言葉を交わすことが増えた。
最初は短い言葉だった。
『寒い』とか、『腹が減った』とか、『その本は面白いか』とか。
精霊が上位ランクに達したとはいえ、言語というものに慣れていないのか、長い文を組み立てることがまだ難しそうだった。
アイリスは急かさなかった。ヴェルドが言葉を探している間、黙って待つのは嫌いじゃなかったから。
そのうちヴェルドは、アイリスが黙って待ってくれることを理解したようだった。それからは少しずつ、言葉が長くなっていった。
ある夜のこと。
アイリスが記録帳に今日の観察をまとめていると、窓際に座っていたヴェルドが静かに言った。
『アイリス。一つ、聞いていいか』
「どうぞ」
『君は……なぜ、私を選んだ』
アイリスは筆を止めた。
『召喚試験の日、君はライガルドを召喚した。誰もがそちらと契約すると思っていたはずだ。なのに君は私を選んだ。その理由を、ずっと聞けずにいた』
アイリスは記録帳を閉じた。少し考えた。
「あなたが、震えていたから」
『……震えていた?』
「召喚されて、シェリルに酷いことを言われたとき。小さな体で、びくりと震えていた」
ヴェルドは何も言わなかった。
「放っておけなかった。それだけよ」
『それだけ、か』
「それだけ」
窓の外で夜風が鳴った。ヴェルドはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと言った。
『……そうか』
それきり、その話はしなかった。でもその夜、ヴェルドはいつもより深く、アイリスの枕の横で眠った。
◇ ◇ ◇
十月の初めに、ヴェルドが体調を崩した。
朝、起き上がろうとしないのに気づいた。触れると熱かった。目の光が鈍く、いつもは立てている頭がだらりと下がっていた。
「ヴェルド」
『……大丈夫だ』
「大丈夫に見えない」
『少し、重い。それだけだ』
アイリスはすぐに学院の医務室へ向かった。精霊専門の治癒師を連れてきて、ヴェルドを診てもらう。
治癒師は首を傾げながら検査を進めた。
「精霊的な疲労でしょうね」
「疲労……」
「急激に成長したため、体がついていけていない可能性があります。しっかり食べさせて、休ませてあげれば問題ありませんよ」
それだけ言って、治癒師は帰って行った。
三日間、アイリスはほとんど部屋から出なかった。
授業には出た。でも空き時間はすべてヴェルドのそばにいた。餌を食べやすい大きさにして与えた。水を換えた。部屋の温度が下がらないように気をつけた。
三日目の夕方、ヴェルドが起き上がった。
『……心配をかけた』
「次からはすぐに言って」
『君が慌てるから、言いにくかった』
「慌てて当然でしょう」
『……そうか』
ヴェルドが、かすかに尻尾を振った。まだ弱々しかったが。
アイリスは息をついた。安堵なのか疲労なのか、自分でもよくわからない息だった。
◇ ◇ ◇
十一月になった。
ヴェルドは体調を取り戻し、またすくすくと大きくなった。
今では抱えるというより、並んで歩くという方が正確な大きさになっていた。廊下を一緒に歩いていると、周囲の生徒が振り返るのがわかる。そのたびにアイリスは少し面倒な気持ちになったが、ヴェルドは気にする様子もなかった。
ある午後、中庭のベンチに二人で座っていたとき、ヴェルドが話しかけてきた。
『アイリス。私のことで、少し話したいことがある』
「なに?」
『気付けば召喚されて、この学院にいた。召喚される前の記憶がない。それは前にも話した』
「ええ」
『ただ……最近、断片的なものが見える』
アイリスは静かに続きを待った。
『夢なのか、記憶なのかわからない。暗い場所にいる。体がひどく重くて、動けない。何かが、私の中から力を抜いていく感覚がある。じわじわと、時間をかけて』
ヴェルドの声は静かだったが、その言葉の端に、何か深く沈んだものがあった。
「それが続いて、召喚されたの?」
『そう思う。気づいたらここにいた。体はひどく傷ついていて、力もほとんど残っていなかった。あの状態で召喚されなければ……このまま消えていたかもしれない』
アイリスは何かを言おうとして、やめた。軽い言葉をかけるべき場面ではないと思ったから。
『君のおかげで力が戻ってきている。それははっきりとわかる。でも』
ヴェルドが少し間を置いた。
『全部は戻っていない。何かが、まだ私の中に残っている。詰まっている、という感じだ』
「詰まっている?」
『うまく言えないが……扉に鍵がかかっているような。力が戻ろうとするたびに、何かに阻まれる感じがする』
アイリスは中庭の石畳を見た。秋の光が薄く差していた。
『アイリス。卒業試験は、パートナー精霊が人型を取ることが条件だと聞いた』
「ええ」
『私には、おそらく無理だ。このまま何も変わらなければ。力は戻ってきているが……人型になれるほどではない。何かが、まだ私を阻んでいる』
秋風が吹いた。枯れ葉が一枚、ベンチの前を転がっていった。
『だから、契約を解消してほしい』
アイリスは、ヴェルドを見た。
『君はもっと高位の精霊と契約すべきだ。私のせいで君の未来を——』
「嫌よ」
自分でも驚くほど、即座に出た言葉だった。
ヴェルドが黙った。
「卒業できなかったら退学して、田舎で薬草でも育てる。それでいい」
『……そんなことを言っている場合では——』
「あなたを捨てるくらいなら、そっちの方がよっぽどいい」
きっぱりと言った。ヴェルドがまた黙った。
「あなたがどれだけ弱っていたかを私は見ていた。あの状態から、ここまで回復した。それはあなたが頑張ったからよ。その途中で契約を切るなんて、できない」
『……でも、君の未来が——』
「田舎の薬草農家が未来じゃないとでも?」
少し間があって、ヴェルドがかすかに、鼻から息を抜いた。笑ったのかもしれなかった。
『……なぜ』
今度は違う質問だった。さっきより、ずっと小さな声だった。
『なぜ、そこまで』
アイリスは少し考えた。
前の運命の記憶があるからと答えても、ヴェルドには理解できないだろう。むしろ誰も理解できないと思う。自分ですら、どうして時が戻ったのか理解できないままなのだから。
だから――。
「……あなたが傷ついているのに放っておけないから。それだけよ」
『……そうか』
長い沈黙があった。秋風がまた吹いた。
『私も』
ヴェルドが、静かに言った。
『あなたのそばにいたい』
アイリスは何も言わなかった。
ただ、ヴェルドの頭にそっと手を乗せた。ヴェルドは避けなかった。目を細めて、それを受け入れた。
中庭には二人だけだった。
秋の光の中で、翡翠色の鱗がかすかに輝いていた。




