10 ヴェルドの成長
転機は、五月の終わりだった。
魔法生物学の授業で、精霊の成長記録を提出する課題が出た。
アイリスはヴェルドの記録——体長、鱗の色、食事量、行動パターン——を丁寧にまとめていたので、それほど手間ではなかった。
問題は、授業担当のエリクソン先生がその記録を見て、妙な顔をしたことだった。
「アイリス・ヴェルナー」
「はい」
「この成長速度……本当にこの通りか?」
「はい。毎日記録していますので」
エリクソン先生は眼鏡の奥で目を細めた。それから何かを確かめるように、ヴェルドをじっと見た。ヴェルドはアイリスの肩の上でその視線を受け、首を傾ける。
「……精霊の成長には個体差がある。しかしこれは、少し異例だ」
「成長が速すぎるということですか?」
「速すぎる、というより……成長の質が違う。ランクの上がり方が、下位精霊のそれではない」
「……」
エリクソン先生は結局、「引き続き記録を続けなさい」とだけ言って課題を返した。
アイリスは肩に乗っているヴェルドを見る。ヴェルドはアイリスを見返した。大きな目が、静かにこちらを見ていた。
改めて観察すると、ただのトカゲの精霊にしては大きすぎるのはたしかだ。
「あなた、一体何者なのかしら」
ヴェルドは答えなかった。答えられないのだから、当然だったけど。
◇ ◇ ◇
六月になった。
学院の外の森で採取実習がある。薬草や鉱石を集める、さほど危険ではない実習だ。
それでもアイリスは、森に入る前にヴェルドを寮に置いてくるかどうか少し迷った。最初の頃のようなか弱さはすっかり無くなったものの、実践向きかどうかはまだわからなかった。
だがヴェルドはアイリスの肩に乗ってきて、尻尾をぱたぱたさせた。
「重い……。フフッ、わかった、連れていくから」
そうしてヴェルドも一緒に行くことになった。
森は深かった。班ごとに分かれて採取を進めることにした。アイリスの班は四人で、目標の薬草を集めながら奥へ進んでいった。
そのとき、茂みの向こうから魔物の気配がした。
熊に似た形をしているが、体が半透明で、内側に赤い光を灯している。「紅晶熊」と呼ばれる中級の魔物で、一人では手に負えない相手だった。
「逃げろ!来た道を——」
班の一人が叫んだ瞬間、魔物が突進してきた。
アイリスは咄嗟に魔力障壁を張った。間に合った。衝撃で数歩後退したが、障壁は保った。
「走って! 私が引きつけるわ!」
三人が逃げる。アイリスは障壁を維持しながら、もう一方の手で攻撃呪文を組んだ。前の運命なら、このくらいの相手は問題なかった。今も、一対一なら——。
魔物の後ろの茂みが、また揺れた。
(二体いた)
アイリスが気を取られた一瞬、最初の魔物が障壁を押し破ってきた。バランスを崩し、地面に手をつく。
魔物の爪が迫るが、恐怖で動くことができない——
風が吹く。
するどい、鋭い風だった。まるで刃のような。
魔物の爪が弾かれる音がして、アイリスは顔を上げた。
ヴェルドが、アイリスの目の前にいた。小さな体で、二体の魔物に向かって正面から向き合っていた。
鱗が、今まで見たことのない光を帯びていた。緑色の、澄んだ光を。
魔物たちが、後退した。
二体とも。
アイリスは息を呑んだ。中級の魔物が、小さなトカゲの気配に押されて後退している。
ヴェルドがゆっくりと振り返った。大きな目が、アイリスを見た。怪我はないか、と言っているように見えた。
「……ありがとう」
アイリスはそう呟きながら、魔力弾を打ち、魔物を追い払った。
ヴェルドが、ぱたぱたと尻尾を振った。
実習から帰った夜、アイリスは記録帳を開き、今日の出来事を書き留めながら、考えていた。
中級の魔物を退けるほどの気配。風の刃のような一撃。
あれは下位精霊の力ではない。中位でもない。
ヴェルドのランクが上がっているのは知っていた。エリクソン先生にも指摘された。
しかしあれほどとは思っていなかった。
膝の上で眠るヴェルドを見る。実習の疲れが出たのか、珍しくぐっすりと寝ていた。静かな寝息を立てながら、鱗をかすかに輝かせていた。
アイリスはその頭に、そっと指を乗せた。
「あなた、本当は何なのかしら」
答えはなかった。
でも、いつか教えてくれるだろうと思った。
それまで待てばいい。焦らなくていい。今はただ、この穏やかな夜が続けばそれでいい。
そう思いながら、記録帳を閉じた。




